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岩の砦/ロック・オブ・カシェル

 アイルランド南東部に“ロック・オブ・カシェル”と呼ばれる遺跡がある。
 “カシェルの岩”というように、岩山の上に“ある”というより岩塊そのものに“化した”ような廃墟である。
 なお、カシェルとは“岩の砦”を意味する

 下から見上げると、廃墟が乗っているのは確かに自然の岩山だが、その上には城塞・聖堂・円塔といった石像建造物が、ガッチリと肩を組みあった大きな塊をなして乗っている(右写真)

 今、カシェルに残る最古の建造物は10世記頃といわれる円塔(ラウンドタワー)で、主体をなす大聖堂などは12世紀以降の建造という。

 カシェルの歴史は4世記後半にはじまる。その頃、この辺りを支配していた王が造った石造の砦が前身という。

 当初のカシェルは、城塞であるとともに聖堂でもあるという聖俗二つの面を兼ね備えていたというが、それには、現地入手の絵葉書にst Patrik Rockとあるように、聖パトリック(389--461、アイルランドにキリスト教を伝えたアイルランドの守護聖人)が絡んでいる。
 448年、この地にやってきたパトリックが当時の王をキリスト教に改宗させたことから、カシェルは城塞というよりキリスト教の聖地としての性格を強くしていったという。

 その後、城主オブライエンが城塞を教会へ寄付したことから(1101)、教会として一本化するとともに聖地としての重要度を増し、12世記に入ると、アイルランドの4っの大司教座の一つとしてローマ教皇から公認され、その頃から今に見られるような建造物の造営が進んだという(コーマック礼拝堂1127、大聖堂1169など)

 これ以降、カシェルは大司教座が置かれた聖堂として繁栄したが、12世記後半から激しくなるアイルランド系教会(ケルト系)と英国国教会との確執のなか、アングロサクソン支配への抵抗拠点化するなど時代の波に巻き込まれ、その挙句、当時の大司教の政敵であったギルデァ伯によって焼かれてしまったという(1494)

 その後も、清教徒革命時(17世記中葉頃)の混乱に紛れての焼き打ち・破壊(カシェルの大虐殺・1647)などが繰りかえされ、それらの災難を乗り越えたカシェルは、英国国教会に忠実な大聖堂として一旦は復活するが、1749年には完全放棄され、その後は荒廃に任されたという。
 現在の観光地化したカシェルは、1874年以降史蹟として保存されたものという。

 今、黒々とした石の塊として残り観光客を引きよせているカシェルは、アイルランド・キリスト教の発祥の頃からカトリック対プロテスタントという兄弟喧嘩を経て、英国国教会による聖俗両面にわたる支配、といった時代のうねりを見とどけてきた歴史的証人とみることもできるし、見方を変えれば、清教徒革命児に起こった大虐殺などによって流された修道士や一般の人たちの血が、この廃墟一面に染みこんでいるともいえよう。

※大聖堂
 カシェル全体は、幾つかの建物が密集した大きな塊をなしているが、大聖堂は、一部を除いて屋根がすべて落ちてしまい、外構の石壁だけがかろうじて往古の規模を偲ばせている完全な廃墟となっている。

 ガイドに従って中に入ると、周りは粗石積みの壁と骨組だけが残り、屋根の落ちた内陣から見上げる空には、折から、暗灰色の雲が去った空に、隣接する円塔が異様な姿を見せている。
 (訪れた時は、晴れたり曇ったり驟雨が走ったりと、天候の急変が繰りかえされていた)

 
大聖堂全景(背面)
   
大聖堂外観と円塔

大聖堂内部
落ちた屋根の隙間から円塔がみえる 
   
同 左

 大聖堂の横は墓地となっていて、数多くのケルト十字架が林立している(ケルト十字架-別稿・ケルト十字架参照)

  
墓地に立つケルト十字架
(空は晴れているが日は差さず、驟雨が降り注いでいた)
 

※コーマック礼拝堂と人頭装飾
 大聖堂から離れた処に、現存する最古の建物といわれる“コーマック礼拝堂”(1127造という)がある。
 礼拝堂は、奇跡的に屋根も両脇の塔も残る建物で、暗い堂内をこれまた薄暗い電灯が照らしている。
 この礼拝堂は一般の観光ルートには入っていないようで、当日も、ガイドに場所を聞いて走って行き、目的の人頭装飾のみを一瞥しただけ。

 ここには普通の教会には見られない面白いもの、堂内奥の祭壇と礼拝室との間仕切りを飾る多重アーチに、“人頭”のレリーフがずらりと彫りこまれている。
 
 間仕切り部に31首、祭壇部に6首(5首+1首)あるが、前者は風化がひどく殆どが単なる突起物としか見えないが、後者は人の首だと視認できる。といっても、ここにこのようなレリーフがあることを知らない人が堂内を見回しても、これらは単なる装飾突起としか見えないかもしれない。

 
多重アーチ(外側)を飾る人頭装飾
(奥に祭壇がみえる)
 
祭壇前のアーチを飾る
人頭装飾
 
(参考)クロンファード教会
(資料転写)

 聖なる礼拝堂を人の首で飾るということは通常のキリスト教では考えられないことだが、その人頭が堂々と堂内を飾っている。そして、それが許されている。
 そこには、キリスト教といっても、大陸のローマ化されたキリスト教とは異なるアイルランド独特の異教性、それを生みだした母胎であるケルト的精神をみることができる。

 周りを見回すと、多重アーチ・それを支える柱・入口近くに置かれている壊れかかったコーマック王の石棺にも、通常の聖堂ではみられない複雑な線刻文様や動物文を組みこんだ組紐文様といったケルト文様が細かく彫りこまれている。

 この礼拝堂は、英国カンタベリー大聖堂を模したロマネスク様式が基本というが、建設に当たったアイルランドの職人たちは、大陸のロマネスク様式から逸脱して、自分らが慣れ親しんだケルト様式を随所に持ちこんだのかもしれない。

◎人頭崇拝
 ケルト人は、
 「敵を倒すと、その首を切り落として愛馬の首にくくりつける。血まみれになった敵の武具を従者に手渡し、勝利の歌を唄いながら凱旋し、戦いの成果・人頭を、狩りの獲物と同じように門口に釘で打ち付け、とりわけ高名な敵の首は、レバノン杉の樹脂に浸して防腐処理をして注意深く仕舞っておき、それを客人に誇らしげに披露する」(ギリシャ時代の古文書)
という。
 この風習は、ケルト人の野蛮性・残虐性を示すものとして、古くから取りあげられてきたものだが、それが野蛮か・残虐かは別として、彼らにこのような風習があったのは確かのようで、
 「イタリア北部でボイン族の待ち伏せにあって殺された執政官ルキウスの遺体は、丸裸にされ首が切り落とされ、戦利品として神殿に運ばれた。
 彼らは習慣どおりに首を洗い、頭蓋骨に金箔を貼った。やがて、それは献酒を注ぐ神聖な器として、また祭司や神殿奉仕者たちのコップとして用いられるようになった」(BC3世記頃の話、ケルト文化誌1998)
というように、
 頭蓋骨を以て聖所を飾り、護符として身近羅持ち歩くなどの習慣があったという。

 神殿・教会を人頭彫刻で飾った例として、アイルランドのディザート・オーディ教会では入口のアーチに19首の人頭装飾が並び、同じくクロンフォード教会正面の三角破風には、三角文様と交互に並んだ10首の人頭装飾がピラミット状に整然と彫りこまれ、その下のアーチ部にも人頭が彫られているという。

 このほか、アイルランドを含めてケルト人が居住していたとされる各地からは、人頭を象った遺物が多数発見されているし、神話・伝説にも多々登場している。 
 これらの事例は、単に流血を好む性行あるいは力の誇示といった、単純な嗜虐性・残虐性のあらわれというより、ケルト人がもっていた精神的・宗教的な何かによるものとみるべきであろう。

 昔、「男一匹、一歩家を出れば7人の敵あり」といわれたように、門口から一歩外に出れば、そこは魑魅魍魎が跋扈する異界(他界)だという観念があった。
 ここでの門口は自己の領域と異界を結ぶ接点、所謂“境界”であり、そこは、聖なるモノ・邪なるモノ、生者と死者といった凡てのモノが往き来する場として認識され、その境界に強力な呪力をもつモノ(人頭・神像・怪物像など)を置くことで、異界から侵入しようとする者なるモノを排除しようとする風習、これは、ケルト人のみならず多くの古代人がもつ共通観念といえる。
 それが、ディサート・オーディ教会やクロンファード教会で、聖俗の境界である正面入口を人頭を以て飾った一つの答えかもしれない。

 ここコーマック礼拝堂の人頭装飾が何だったかは不明だが、人頭て゜装飾されている場所、奥の聖なる祭壇と人々が集う俗なる礼拝室との間仕切りを一つの境界と理解すれば、同じ意味をもつものだったのかもしれない。

※円塔
 外に出ると、大聖堂の北側に接して“円塔”と呼ばれる高い塔が聳えている。
 煉瓦状の粗石を積みあげただけの高い塔で、高さ約27m、直径は基部で約5m・先端で約4m、頭頂には円錐形の帽子をかぶっている。地上から3mほどの高さに出入口が、その上には縦長の小さな窓が幾つか開いている。
 スマートといいたいところだが、一見、大きな丸太ん棒を立てたような無骨さで、わが国の五重塔、例えば薬師寺のそれからうける飛翔するような軽やかさも、中世のゴシック聖堂の尖塔からうける天空に向かう伸びやかさ、神の国へ近づこうとするエネルギーといったものは感じられず、ただ、大きな円い筒が突っ立ったいるというものである。

 円塔は、ケルト十字架とともにアイルランドを代表するシンボルの一つで、教会や修道院の殆どに立っている。
 人の背の届かない高書に開けられた出入口から梯子をつかって出入りしたようで、塔内には4層から7層の床が張られ、ほとんど垂直の梯子で結ばれているから、人が出入りできるようにはなっているらしい。

 円塔の用途についてははっきりしないが、一般には、人が登れるということから“外敵来襲時の人・物の避難所”と理解されている。
 円塔が造られた8世記末から11世記にかけてのアイルランドは、北からのバイキング(北の人と呼ばれていたという)の襲来に悩まされていた。
 バイキングは、一般住民の人的・物的文物はもとより、特に修道院が保有する財宝を目当てに繰りかえし来襲し、殺戮と略奪を欲しいままにしたといわれている。
  「紺屋は 風がひどく吹き
   海の波を白い鬚のように まくし上げている
   情け知らずの男たちを 怖がらなくてもいいようだ
   月明かりの海をみて ノルウェイからやってくる男たちを」
 これは、ある修道士が写本の余白に書き付けた、ある夜の心情だが、“今夜は海が荒れているから、荒くれ男たちは来ないだろう”と安心して、静かな夜をおくれることを喜んでいる様が目にみえるよにおもえる。

 そんな殺伐とした時代だから、何時襲ってくるかもしれない外敵から我が身と教会の財宝を守る、そして万一の場合には、塔内に財宝を運び込み自分らも避難する、あるいは外敵の襲来をいち早く見つける、そのために造られたのが円塔だという説である。

 しかし、この狭い塔のなかにどれだけの財宝が運び込め、何人が避難できたのか、ましてや何らの反撃手段をもたない修道士のことだから、包囲されて焼き打ちにあったら持ちこたえなかったのではないかとの疑問もある。

 他に、
 「なぜ塔が築かれたかについては、結局のところ答えは一つしかない。それは、紛れもない形で天に届くシンボルとして、新しい信仰の砦として、アイルランド文明の新しい中心として、神の栄光を讃えんがために建てられたものである」
という解釈もあるが(愛蘭土歴史紀行・1991)、神の栄光を讃えるにしては無骨すぎる。

 しかし、無骨だとはいえ、新しい信仰としてキリスト教を受けいれたケルト人にとって、自分らに建設可能な天に至るシンボルとしてはこれが精一杯だったかもしれず、そういう見方は、数百年経っても壊れない石造建造物を造る技術を持っていたケルト人への侮辱かもしれない。

[追記]
 この円塔について、ピーター・トンプキンなる人が
  「8世記から13世記の間に教会のそばに建てられたこれらの円塔は、上方にある窓から空を観測できるようになっていた。修道僧たちは、窓を通して壁や床に落ちる影で、月・日・年の移動を記録していた。それらは季節や毎日の時間によって動く太陽の影を観測する役割を果たしていた」
と書いているというが、否定はできないものの、あまりに即物的すぎる。

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