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 アイルランドとキリスト教
                                                       2002.05訪問

 アイルランドのキリスト教は、大陸のそれとはひと味違った独特の性格を持つというが、それがよりきたった一端を記してみた。

※来寇の書
 アイルランドには数多くの神話・伝承が残っているが、何故か天地創造神話はない。その代わりとも目されるのが、キリスト教伝来後に文字化されたという『来寇の書』(ライコウノショ、侵略の書ともいう)である(10世記後半頃にまとめられたという)

 それによれば、
 最初にアイルランドにやってきたのは、あの大洪水のなか、ただ独り生き残ったノアの子孫・フィンタンという男であったが、彼は魔法の力をもっていたので、鮭に姿を変え大洪水の中を泳ぎ回り、為に生き残ることができたのだ。
 彼は、水が退くと鷲に姿を変え、次いで鷹になって空高く飛び回り、水が退いて見えてきた山や草原を眺めていた。

 次ぎにやってきたのはパルトローン族で、西の海から上陸した。
 彼らは、それまであった三つの湖、九つの川、一つの平野に加えて、森を切り開いて三つの平原と三つの湖を造った。

 時が始まって以来、この地にはフォウォレ族という邪悪で目にみえぬ妖精たちが空に漂い、人々を苦しめていた。

 パルトローンたちは、来る日も来る日も、このフォウォレ族と勇猛果敢に戦ったが、最後には、戦いではなく、疫病によって、一人の男・トゥアンを除いて死に絶えてしまった。
 トゥアンは、200年間も岩場の洞窟に隠れて過ごしていたが、ある日、ネウェドという男が4人と女4人を率いて、一艘の船に乗ってやってくるのをみた

 9人のネウェド族は、この島に住みついて数を増やし、森や藪を切り開いて新しい平野を12ヶ所、新たな湖を4っ造った。
 何世紀も過ぎたが、フォウォレ族の悪さは相変わらず続き、ネウェド族の子孫たちは幾たびも彼らと戦わねばならなかった。激しい戦いが4回おこり、3度はネウェド族が勝ったが、4度目には負けて皆殺しにあい、生き残った30人は東に逃れていった。

 何百年か経って、また新たな者たちがやってきた。
 彼らは、かつて東に逃れたネウェド族の子孫たちで、フィル・ヴォルグ族、フィル・ドウナン族、ガリオイン族といった。
 彼らは、アイルランドを五つに別けて住みついた。南部のマンスター、東部のレンスター、北部のアルスター、西部のコナハト、そして中央のミースである。

 彼らは、平原や渓谷を耕し、誰にも邪魔されずに豊かに暮らしていたが、そこへ、かってない強力な魔法を使うトゥアタ・デ・ダナン族がやってきた。彼らは女神ダヌの息子たちで、ダヌ族ともいう。

 彼らも又、かつて全滅したネウェド族の子孫で、北の島から舟も使わず地上も歩かず、まるで霊魂のように空中を漂ってきて、五月の最初の日に静かに草原に降り立った。
 ダヌ族は、驚くべき魔法の呪具を4っもっていた。
 まず、王に相応しい者が触れると祝福の叫び声を上げる『魔法の石』(これが今、聖地ダラの丘にあるメンヒル-立石だという)
 次いで、それを持つ者は決して負けることがない『軍神ルグの槍』
 3っ目に、どんな敵でも捜し出して皆殺しにする『ヌアザの剣』
 最後に、いくら食べてもなくならない『全能の神ダグザの大釜』
である。

 先住のフィル・ヴォルグ族は、この国の平和を保とうとしてダグ族に和平を申し入れたが、最初から衝突し、戦いが始まった。西の海に近いマグ・トゥレドで激戦が繰り広げられ、フィル・ウォルグ族は大敗を喫し、西部のコナハト地方に押し込められてしまった。

 しかし、ダヌ族も又悪の妖精フォウェレ族と戦わなければならなかったが、万能の若き勇者ルーグが登場し、マグ・トゥレドの第二の戦いで邪悪な目をもつ巨人バロルを倒すことで、フォウェレ族の悪の支配を終わらせた。
 この偉大な日のことは詩人たちのテーマとなり、永遠に語り継がれた。詩はものがたっている。
 敵の盾がバラバラに砕け散り、戦場が雷鳴のように轟くありさまを。槍や矢が飛び交い、、風が唸るありさまを。神々が投げ下ろす稲妻が炸裂するありさまを。

 その後、女神ダヌの息子たちが、何百年もの間この島を平和のうちに支配していたが、ある五月の最初の日、背の高い美しい男たちが南西の海岸に上陸した。
 スペインからやってきたミール王の戦士たちで、彼らはダヌ族の攻撃をことごとく打ち破った。ついに双方は和平を結び、国を二分して、地下の世界はすべてダヌ族に与えられた。
 彼ら・女神ダヌの息子たちは地下の霊になって、今も魔法を使ったり、太古の記憶を思い起こして物語っている。

 それ以降、アイルランドの地上世界は、スペインからやってきた背の高い戦士たち・ミール族に支配されることになった。
 これが我々が知るケルト人である。
という。

 アイルランドにケルト人がやってきたのは、紀元前5世記とも前4世記ともいうが、はっきりしたことはわからない。
 考古学の発掘資料によれば、そのはるか前、紀元前7000年頃には、簡単な石器を使う中石器人が、次いで前3000年頃までには、高塚墳・戦斧・鐘形土器・巨石文化などをもち農耕に従事する新石器人が渡来していたらしいという。
 今、アイルランド各地に残る巨石遺構が、ケルト人渡来以前の所謂新石器人によって造られたのは確かであろう。


※ケルト人到来
 古代アイルランドに最も大きな影響を及ぼしたのはケルト人だという。

 ケルト人とは、一つの民族というより、インド・ヨーロッパ語に属する言葉(ケルト語)を話す人々の総称で、紀元前3000年紀末頃に中央アジアからヨーロッパに現れ、前1000年紀初頭には現フランス(ガリア地方)を中心に、イベリア半島(現スペイン)・ブリテン諸島(現イギリス)・東欧地方といったヨーロッパの略全域に広く展開しいていたという。

 前4~3世記には、北イタリアに侵入した部族がローマを一時占拠(BC385)、バルカンへのそれはギリシャのデルフィを侵略 (BC279)、小アジアへ渡った部族はアナトリア(現トルコ)にガラティア王国を建国する(BC275)など最盛期を迎えるが、その後は南からのローマ人、北から南下するゲルマン人に圧迫されて衰退し、紀元前後以降はローマ人・ゲルマン人のなかに埋没したという。(最終段階のケルトを描いたのがカエザルの「ガリア戦記」)

 そんな興亡のなかにあって、西方へ追い詰められた部族が定着したのがブリテン諸島からアイルランドだが、特にアイルランドのケルト人はローマの支配を受けなかった唯一の人々だったという。

 ケルト人かアイルランドに姿を見せたのは、前5世記とも前4世記ともいわれるが定説はない。
 いずれにせよ前1000年紀後半も早い頃とみるのが妥当だろうといわれ、それはわが国でいえば、1万年以上も続いた縄文時代の末期ころ、あるいは水田稲作を携えて九州にやってきた弥生人たちが東方へ展開しはじめた頃にあたり、そんな頃、高度な鉄器文化をもってヨーロッパ全域を席巻したケルト人の一部がアイルランドに姿を現したといえる。

 ケルト人たちは、各地に家父長制大家族を単位とした小王国を形成していくが(氏族集団で、その首長を“小王”トゥ-ハと呼んだ)、やがて、幾つかが連合した大部族連合へとまとまり、紀元後1世記始め頃のアイルランドは、5つの大部族連合によって分割統治されていたという。

 当時の統治形態の一つに“上王”(ハイ・キング)というのがあったという。
 上王は、大部族連合のうちで最も有力な首長に与えられた尊称だが、その上王にあっても強い力をもって君臨する絶対君主ではなく、連合体を精神的に統治する象徴的な君主に過ぎなかったという。
 ケルト人々は、大陸でのケルト人がそうであったように、一人の権力者の下にまとまって国を造ることが苦手で(必要がなかったともいう)、氏族あるいは部族単位での行動を良しとしたという(これがローマ人の圧迫に抵抗できなかった原因の一つともいう)

 当時の上王の居住地跡といわれるのが、首都ダブリンの北西約38kmにある“タラの丘”と呼ばれるアイルランド最大の聖地で、緩やかに起伏する広々とした草原のあちこちに、上王の住居・宗教会議場・穀物広場・宴会場といわれる跡が点在している。
 現地で確認される唯一の施設・宴会場跡とは、コの字形の土塁に囲まれた約200×30mほどの巨大な窪地で、伝承では、上王が3年ごとに開く大集会かこの地でおこなわれ、そこに招かれたドルイド僧や小王から農民までの多くの人々は、6日間にわたる大宴会を楽しんだという。、
 また、タラの丘への入口近くに、右手にシャムロット(三つ葉のクローバー)をもつ聖パトリック(下紀)の像が立っているが、伝承では、彼はこの地で、上王たちをキリスト教に改宗させたという。

 ケルト人は集まって村・町を造ることをせず、単純な牧畜・農耕を主たる生産手段としながら散在し、そこでは金銭の代わりに所有する牛の頭数が富の象徴であり交易の単位だったようで、それは、最古の民話集といわれる「赤牛の書」のなかに多数載っている、そこには所有する牛の大きさと数を比べたり、より強い牛を求めて争奪戦が起こる、といった牛にかかわる伝承から窺われるという。


※キリスト教の伝来
 ケルト人の宗教は、ドルイドと呼ばれる祭司階級によって指導される自然崇拝の多神教であって、ドルイドたちは、霊魂不滅を柱とするアニミズム的教義をもって、信仰はもとより社会生活全般にわたって絶大な権力を振るっていたという。

 そんな多神教のケルト世界に、AD432年、キリスト教という唯一神を掲げてやってきたのが聖パトリックである。
 勿論、聖パトリック以前にもキリスト教は伝わっていたのだろうが、アイルランドで最初に教会制度を確立し、司教を任命したのが聖パトリックということは、わが国への仏教公伝が538年というように、アイルランドへのキリスト教公伝が432年だという意味である。

 聖パトリックは、今でもアイルランド第一の守護聖人として敬愛され、各地に彼の名を冠する教会あるいは彼が開いたという伝承をもつ修道院が幾つも残っている。
 また、彼の命日3月17日は“聖パトリック・ディ”としてアイルランド最大の祝日であり、海外でもアイルランド移民の多いアメリカでの祝賀パレードは有名である。

◎聖パトリック(st Patrizk AD389頃~471頃)
 5世記のヨーロッパは、410年のヴィシ・ゴート族によるローマ略奪、476年の西ローマ帝国滅亡に示されるように、それまでのパスク・ローマによる安定期が終わりを告げ、乱入するゲルマン民族に振り回される混乱の時代だったという。

 伝記によれば、そんな殺伐とした時代、ブリテン島に住む少年パトリック(16歳だったという)は隣のアイルランド島からきた海賊にさらわれ、奴隷として売られ、牧畜に従事するなど辛苦な毎日を送っていたが、6年経ったある日、神の啓示により救われて大陸に脱出したという。
 大陸に渡ったパトリックは、キリスト者としての勉学と修行に励み、フランス西部の修道院で司祭の任じられ、自らの意志でアイルランドに帰りキリスト教の布教に専念したという。

 主の啓示による異邦人(ユダヤ人以外の異教徒)へのキリスト教の布教は聖パウロにはじまるとされるが(使徒言行録)、それから400年、啓示によってキリスト教布教にに突き進んだ二人目のキリスト者が聖パトリックだという。
 ただ、パウロがローマによる支配地域の外には出なかったのに対して、彼は、ローマ法の届かない辺境に住む人々に対してキリストの教えを説いた最初の伝道者だったという。

 聖パトリックは、ヨーロッパのなかで唯一ローマの支配を受けず、ローマ的な風習に染まらなかったアイルランドで、彼らがもつ異教的信仰・風習を一方的に破壊するのではなく(大陸ではこの手法が主流だったという)、異教と共生・共存しながら、その中身をキリスト教的なものに改変していったといわれ、それがアイルランドにおけるキリスト教が大陸のそれ(ローマン・カソリック)とは違って、嘗てのケルト的色彩を強く残すケルティク・カトリックと呼ばれる一因だという。

 この聖パトリックの布教に対して、後世の宗教史家は、
  「アイルランドは、唯一、キリスト教が一滴の血を流すことなく導入されたユニークな国であり、アイルランドは一人の殉教者も出さなかった」
と評価しているという(ただアイルランドは、16世紀以降、プロテスタント教義を掲げて侵入してきた英国国教会との抗争に際しては多くの殉教者を出している)

 聖パトリックの布教について、
  「パトリックは三つ葉のクローバーを手に持って、その三枚の葉と茎を指し示しながら、キリスト教の神髄である“三位一体”の教えを説いた」
という伝承がある。

 それが事実かどうかは別として、それはキリスト教の教義を高邁な神学理論として説くのではなく、身近にある慣れ親しんだものを媒介として、聞く者の感情に訴えながらその真髄を説くという、パトリックならではの工夫があったことを示唆しているという。

 聖パトリックは、キリスト教のもつ明るい面を体現する聖者であって、彼にとっては、神が創造するするものはすべてが善であり、地上の万物すべてが神の被造物として賛美されるべきものだったという。

 一方のケルト人たちも、元々世界は聖なるものであるという自然信仰に包まれた人たちであり、彼らの宗教ドルイド教も神秘的自然観をもつものだったという(ヨーロッパ精神史序説・1999)
 その一つが、ケルト人がもつ“常若(トコワカ)の国信仰”で、彼らは、何処にあるかはわからないが、何処かに若々しい生を永遠に満喫できる場が存在することを信じることによって、何時襲ってくるかもしれない死の恐怖に打ち勝ってきたともいう。

 そこに持ち込まれたのが、神を信じ、神にすべてを預けることによって“永遠の王国”を勝ち取ることができると説く信仰だったわけで、キリスト教を受けいれる土壌は整っていたといえるのかもしれない。

◎修道院
 ロ-マン・カトリックの教会制度は、使徒パウロの後継者とされる教皇のもと、枢機卿・司教・司祭・助祭とつづくヒラルギーからなり、世俗的権力との間に抗争・妥協・癒着を図りながら、全土を幾つもの教区にわけ、司教をもって各教区を統括させ、司教はその教区内の中心となる町に常住して精神生活の指導者として重きをなしてきた。

 ところが、当時のアイルランドには町というものはなく、人々は血縁的な部族集団に属し、農業・牧畜を生業としながら散在していたという。
 そこに入り込んだ司教たちは、ケルト人が慣れ親しんだドルイド教の聖地・泉の畔あるいは森の中といった処に小さな庵室を建て、自らの修行の様を見せることによって部族民の教化・改宗、特に首長の改宗を目指したといわれ、最初の聖堂は、町の教会というより、聖職者個々人の修行の場即ち修道院的色彩が強いものだったという。

 修道士たちは、人間社会の心地よさと楽しみをあとにして、森の中や山中あるいは孤島に隠れ住むという孤独の道をあえて選び、わが身に断食や苦行といった難行を課し、聖書を学び、瞑想し、少しでも神に近づこうと辛苦したといわれ、このような修道士が住む庵室を中心として心ある求道者たちが集まり、所謂修道院を中心とする集落が形成されていったという。

 そこには、アイルランドはもとより戦乱が続く大陸からの求道者・学究者たちが多く集まり、それを統べる修道院長は、次第に、その地方の精神的な指導者としての司祭の役目を兼ねるようになり、集まって住むことを苦手としたケルト人たちの間に、人々が集まる拠点を形作っていったという。

 通常、修道士がおこなうべきことは、まず聖書を読むことであり、次いで聖人の伝記・注釈書・説教書といったキリスト教的文書であって、それ以外の古典的教養などは必要とはされなかった。

 しかしアイルランドの修道院には様々な人々が集まっていたようで、真摯に神を求める人は勿論、ただ心静かに学問・古典的教養を身につけようと願う人々も加わっていたという。
 またそこには、人だけでなく、大陸を含めて各地から聖書や使徒伝といったキリスト教文書はもちろん、古いギリシャ・ローマの古典といわれる多くの書物が持ち込まれ、それが修道士の手で書写されて各地へと送り出されていったという。 
 それは、口承によって伝承されていた古いアイルランドの神話・伝承の文字化・記録化であり、イェイツやジョイツなどに代表される現代アイルランド文学の母体となったという。

 ローマ帝国崩壊後、ローマの平和からゲルマンの混乱へと推移するヨーロッパにあって、聖パトリックがもたらしたキリスト教を受けいれたアイルランドは、教養のかけらもなく読み書きできる人もなく、ただ力のみが支配する野蛮な島から、修道院を中心に福音書がひもとかれる秩序ある島へと変化し、豊かな学問の花が咲き誇るパラダイスとして、多くの心ある人々を引きつけたといわれ、そこで学ばれたギリシャ語・ラテン語の教養が、修道士たちによって大陸へと再伝播することによって、その後のヨーロッパ文明復興の大きな基盤をたかちづくったという。

◎海を渡る修道士
 アイルランド西南部、イベリア半島南岸沿いのケリー周遊路を走ってといるとき、海添いの道路脇に“十字架を立てた三日月形の小舟に、4人の修道士が乗っている”モニュメントがあった。

 これが何なのか、何故ここにあるのか、何らの資料もなく不明だが、これを船出とみれば二つのことが考えられる。

 ひとつは、伝承のなかでの船出で、
  「賢者のなかの賢者、義人のなかの義人であるブランダン大修道院長は、ある特別の願いを胸に懐くようになった。
 それは、人祖アダムがはじめに住んでいた地上の楽園、神によって追放された我々人類の故地を是非見たいという願望で、この願望を叶えてくれるよう熱心に神に祈っていた。・・・」
にはじまる“聖ブランタンの航行譚”、即ち聖ブランタンにに率いられた17人の修道士たちが、旧約聖書にいう地上の楽園を求めて船出したという伝承である。

 彼らは、7年をかけて天使たちの島・修道士の島・サタンの島・イエスを売ったユダが終わりなき責め苦にあっている島などをめぐり、最後に、目指す地上の楽園・エデンの園に到着し、その証拠として島に実っていた果物と様々な宝物をもって無事帰還したという物語だが(ケルト神話と中世騎士物語・1995)、これは、西方海上にあるという若者の国・ティール・ナ・ノグを目指して旅立ったというアイルランドの古い伝承をキリスト教的に焼き直したものという。

 ただ夢物語とはいえ、船出というモニュメントが立つこの辺りは、すぐ近くに“Leprochun crossing”(妖精レプラコーンに注意)との標識が立っているような夢のある土地柄であり、修道士たちが、何処にあるかわからない地上の楽園を求めて船出するという童話的な伝承も相応しいかもしれない。

 もう一つは、現実あった船出で、
  アイルランドの修道士たちには放浪癖があったようだが、それは、無目的に各地を経巡る放浪者・落伍者のそれではなく、主がアブラハムに云われた『貴方は生まれた故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい』(創世記)という言葉に導かれて国を離れ、異郷にあって完全な孤独のなかで真の修道者となることであり、その性行は、人里離れた僻地を求めたアイルランドでの修道生活の延長上にあるともいえる。

 そんな放浪癖に導かれた多くの修道士たちは、彼らが手にしたキリストの福音を異教徒に伝えるために、近くはブリテン島から遠くはヨーロッパ大陸まで旅立ったという。

 その代表的な修道士が聖コルンパーヌス(543--615)で、彼は590年、12人の同志とともに大陸に渡り、その後25年にも亘ってガリアはもとより東はライン川左岸、南は北イタリアにまたがる広い地域を転々としながら、各地にケルト式の修道院を建て、異教徒たちに神の愛を説いたといわれている。

 ヨーロッパに創建されたアイルランド系修道院は約200に達したとあるように、多くのアイルランド系修道士たちが大陸で活躍したが、彼らは自ら書き写した聖書を手に、粗末な小屋に住んで布教・強化に務めたといわれ、彼らの活躍は6・7世記のキリスト社会にあっては唯一のものであり、その成果は極めて大きいものだったという。

 ケリー周遊路でみた船出のモニュメントは、この地が西海岸であることから北方の島々へ向けての船出だったのかもしれないが、目的地はともあれ、異教徒への伝道という使命感に燃えて船出した修道士たちを顕彰するのが、このモニュメントかもしれない。

◎ローマ教会との確執
 アイルランド修道院と修道士たちの活躍は、7世紀をもって盛りを過ぎたらしい。

 597年、ローマ教皇グレゴリウス一世(在位590--604)によってブリテン島に送り込まれたローマン・カトリックは、国王を改宗させるなどその教勢を次第に拡大し、ローマとは違った独自性をもち自由闊達な教風をもつアイリッシュ・カトリックと衝突していったという。
 その衝突は、ウィットビー宗教会議(664)で頂点に達し、そこでアイルランド的キリスト教は異端として退けられ、以後、アイルランド教会は厳格且つ教条的なローマ教会の下風に立たざるを得なくなったという。

 一方、大陸に渡った修道士たちは、やっと安定に向かいつつあったヨーロッパにあって、故郷アイルランドで書き写された聖書を唯一の武器として、神の教えはもとより読み書きを修得するという風潮を広めていったが、彼らが遂行した聖パトリック譲りの穏やかな布教法は、異教的色彩の強い土着の農民たちの心をとらえ、キリスト教文化の円滑な浸透に大きく貢献したという。

 そんなアイルランド修道士たちの活躍も8世紀に入ると、ローマ教皇の権威と支援を受け、組織力を武器としたベネディクト系修道士などに押され、次第に終息していったという。

 加えて、彼らの故郷アイルランドにおいても、8来期後半からはじまったバイキングの襲来は沿岸部を荒らし回り、特に島に設けられていた修道院は、宗教的財宝・聖遺物を飾る黄金・宝石などを目的とする度重なる略奪によって破壊され、多くの修道士が殺されたという。

◎アイリッシュ・カトリックの終焉
 ウイルランドのキリスト教は、聖パトリックによる伝道から修道院を中心とする特異な教風のもと順調に展開し、ローマ帝国崩壊後のヨーロッパにあって“聖人の島”の名をほしいままにし、その教風を大陸にまで推し進めたといったが、
 それは嘗て武力によって大陸から追われたケルト人が、信仰という新しい力、精神的な力をもって先祖の地へ凱旋したことを意味するともいえる。

 しかし、8世記以降は、立ち直ったローマ教会の権威と組織力に押され、大陸での活動は次第に衰微し、次第に、その活動範囲を狭めていったという。

 ただ、そんななかにあっても、アイルランド的・ケルト的な色彩は色あせず、その特異性が維持されていったことを示すのが、今に残るケルト十字架であり、教会における人頭装飾であり、ダロウの書・ケルズの書にみられる聖書の装飾写本などだといえよう。

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