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アイルランド/巨大古墳(ニューグレンジ)

 アイルランドの首都・ダブリンの北西約60km、蛇行しながら東流するボイン川流域一帯は、幾つかの先史時代の遺跡群が点在する地域で、周りに拡がる集落ろ牧場・畑といった牧歌的風景とともに、世界遺産『ブルー・ナ・ボーニャ』(ボイン集落地)として指定を受け(1993)、その2~3km下流には、アイルランド版関ヶ原ともいうべき“ボイン川の戦い”(1690)の古戦場が拡がっている。

 それら世界遺産の中心をなすのが、小高い丘の上に残る先史時代の遺跡【ニューグレンジの巨大古墳】で、付近にはナウス・ダウスという同じような二つの古墳の他、未調査の群小古墳が点在する(いずれも非公開)

 この古墳は、その外苑部を白い玉石積みの石壁(前方部のみ)と古墳裾部を97個の巨石で囲う、土と石とで造った直径79~85m、高さ11mのほどの巨大な扁平円墳(ホットケーキ状)で、資料によれば、ここで使われている土・石は20万トンにも及ぶとある。
 ただ、同じ古墳でも、あまりにきれいに復元されているため、鬱蒼たる樹木に覆われたわが国の古墳を見慣れた目には、やや違和感を感じる。

 
全景(絵葉書転写)
 
遠 景 

 1993年当時の説明文には、
 「ニューグレンジは墓である。紀元前3000年頃・新石器時代後期に造られた。建造者については、農業に従事し繁栄したこと以外は殆ど知られていない。
 ここを訪れる人は、通路に入る前に二つのことに気づくはずだ。
 一つは見事に刻まれた入口の石で、これはヨーロッパ先史時代至高の美術作品の一つとみなされている。この石や他の石に刻まれたシンボルの意味を、今では知るよしもないが、宗教的・呪術的な意味があったと思われている。

 二つめに気づくことは、入口の上方にみえる隙間である。“屋根の箱枠”と呼ばれているが、ここからは一年のうちで最も昼が短い冬至の朝日が、日の出とともに古墳内に差し込むのである。

 5000年前の人々は、おそらく此処ニューグレンジに集まって、冬至の日の出を見たであろう。人々は新しい年を祝うのみならず、死後の再生を信じ祝ったのかもしれない」(1995・十字架と渦巻・大和岩雄著)
とあったというが、今回入手した説明書には、古墳の規模・構造および冬至の日に太陽光線が差し込むという説明につづいて、
 「新石器時代の農耕民にとって、この現称は、命の再生を意味するものだったのかもしれない。新しい年が、農作物や家畜に新しい生命を与える、と考えたのでしょう」
とある。

※線刻文様のある巨石
 上記説明で最初に挙げている“見事に刻まれた入口の石”とは、古墳の入口を塞ぐかのようにドッカと座っている巨石(約5㌧)で、背後の入口の上に、説明にいう“屋根の箱枠”がみえる。

 
入口付近全景
 
巨石拡大 

 巨石そのものはただの自然石だが、その表面中央部には大小5個の連続渦巻文が刻まれ、周囲の余白は波形文・菱形文・鱗文といった文様で埋めつくされている。

 巨石背後の入口を入ると、人一人通れるほどの狭い通路(羨道・センドウ)がほぼ一直線に奥の玄室(墓室)まで伸びている(幅約1m・高さ約1.5m・延長約19m)

 玄室は3っに別れ、突き当たりとその左右、ややいびつな十字形で、正面玄室は幅約6m強・奥行き5m前後で、高さ6mほどの天井は石を四方から少しずつ迫り出して積みあげている。

  この玄室を飾る特異な遺物として、各室に円球を二つに切ったような石(以下「盆石」という)が目につく。
 盆石の外周面には渦巻文や線条痕がみられ、切断面は椀状に窪んでいる。

 正面玄室と左玄室に1個、右玄室に2個置かれた盆石からは、発掘当時(1967)、人骨らしい破片が残っていたというから墳墓であることは確かだが、それは、遺体をそのまま安置したというより、他所に埋葬され白骨化した人骨を改めて浄めて葬った所謂“二次葬礼”の跡ではないかという。

 と同時に、古墳内のあちこちで、石の表面に刻まれた渦巻文をみることができる。
 一見しただけでも、中央玄室奥の巨石に彫られた連続渦巻文、脇立石にみる3っの渦巻文、右玄室奥の三角文(鱗文あるいは菱形文)と天井の渦巻文、左玄室奥に並ぶ2個の多重渦巻文(同心円のようにもみえる)などが視認される


(参考)ナウス古墳の玄室

 渦巻文を主とする線刻文様(幾何学紋様)は、入口の巨石や玄室内だけでなく、古墳外縁裾部にも幾つかの巨石にも渦巻文・鱗文・菱形文などを見ることができるが、摩耗が激しく、一巡したかぎりでは2個の巨石に見ることができるのみ。
 なお、入口の真反対に位置する巨石(下写真:左)は、冬至の夕日が赤々と照らすという。

◎古墳裾部で見た巨石(右の明るい写真は、ビジターセンター展示のパネル)
       

 これらの線刻文様が何を意味するのかは不詳だが、単なる装飾としての文様というより、何らかの呪的意味をもつとみるのが妥当で、自然石にこのような文様を彫りこむことによって、人智の及びがたい不可思議な呪力をもった“聖なる文様”へと転換させたとみるべきであろう。

 渦巻文は旧石器時代から連綿と 受け継がれてきた文様で、生命のシンボルとして多用されてきた。
 ギリシャのマルタ島にあるアル・タルクシェン神殿の入口を扼する巨大切石にも渦巻文が彫りこまれているという。
 この渦巻文について、大和氏は
  「聖なる内部に入るために、渦巻で飾られた障壁を通過することは、聖域に入るために必要な道程であった。
 不滅を約束するこの領域へ達するためには、無常なる物質の世界から離れて、象徴的な死を遂げなければならないのであって、そこに刻まれている渦巻は、死への旅が再生への旅であることを示すシンボルであり、この神殿は、大地母神の身体として建てられ、迷宮・冥界としての神殿に入ることは、再生を願って大母神の子宮へ回帰することであり、そこで聖婚がおこなわれた」
という。

 渦巻文の原点としては幾つか想定されるが、その有力な一つが“蛇・トグロを巻く蛇”である。
 蛇は二つの生態をもっている。一撃で相手を倒す蛇は殺し屋として怖れられ、脱皮する蛇は生命の蘇り=不死なる生き物として畏敬されてきた。
 蛇は、あらゆる生き物の生と死という原点を、目にみえる形で見せてくれる生き物であり、ある意味ではカミである。
 わが国の縄文土偶に、頭上にトグロを巻く蛇を頂いている女性像があり、それを頂く女性はカミに仕える巫女である。
 この蛇の両義性、生と死、善と悪、叡智と情念、治癒と毒といった相反するものの統合という生態を見にみえる形で訴えるのが蛇であり、蛇のとぐろであるといえる。

 渦巻文は又“水の渦巻”がらもきている。水の渦巻は、あらゆるものを飲みこむブラックホールであり、カオス(混沌)なる原始の海であるが、反面、すべての生き物が生まれ出た母胎でもある。
 そこでの渦巻は、カオスからコスモス(秩序)へ、形なきものから形あるものへの移行する境界であって、両者を内蔵しながら且つそれを繋ぐものともいえる。それは、蛇と同じく生と死という二つのものを内蔵しているといえる。

 蛇と水の渦巻、いずれも、そこに見られるのは生と死という人生の一大事であり、それをシンボル化したのが渦巻文といえる。

 説明書にあるように、この巨大円墳は墓だが、単なる墓というより、大母神を象った聖地ともみられ、とすれば、奥の玄室は女神の子宮であり、そこに至る羨道は産道であって、墳墓に入ることは、大地母神の胎内に帰り、新たな生命として再生するための準備といえる。

 その入口=境界を扼する巨石に刻まれた渦巻文は、永遠に循環する死と再生(蘇り)を象徴する文様である。
 また、聖なる墳墓と俗界の境界は、聖と邪がせめぎあう場であり、その境界を強力な呪力をもつ渦巻をもって守り、侵入しようとする邪霊を跳ね返すもの、それが唯一の開口部である入口に据えられた巨石に彫りこまれた渦巻文といえる。

※冬至の朝日
 この渦巻文が彫りこまれた巨石とともに、この古墳の特徴とされるのは、冬至(12月22日)前後数日間の日の出直後、入口の上に開けられてた四角い小窓から射しこむ太陽光線が、羨道を通って最奥の玄室まで照らしだすという現象を指す。
 その時、いつもは漆黒の闇につつまれている墓室内部が真っ赤に輝き、その神秘的なページェントは約17分間つづくという。
 加えて、その日の夕日は、外縁部を巡っている巨石群のうち入口の真反対側にある巨石(渦巻文と菱形文が彫られている)が、冬至の夕日を真っ向にあびて輝くという。

 資料によれば、近傍のナウス・ダウスという二つの古墳でも、玄室内あるいは外周の石に線刻文様が彫りこまれ、特にナウス古墳の西の羨道には冬至の夕日が射しこむという。

 
冬至の朝、羨道に射しこむ太陽光線(資料転写) 

冬至の朝日投影、模式図
(資料転写) 

 北半球の多くの古代文化では、太陽が最も低くなり昼間が最も短い冬至の日は、太陽が復活再生する日として祀られてきた。その日は、冬の間衰えつづけてきた太陽が息を吹きかえし、日一日と蘇っていく境の日であり、と同時に、人間を含む自然界で草木が芽吹き見られるように、新しい生命が誕生する日、死から再生する日でもあった。
 古代にあっての冬至は、巡りくる一年のはじまりという節目の日でもあり、世界の各地で、太陽の蘇りを祝う祀り(火祭り)がおこなわれたという。

 年に一度巡ってくる特異日の朝日がまず入口前の巨石を照らし、次いで古墳の奥深くまで射しこんで、古墳の内外を真っ赤に燃え上がるとき、人々は大母神の子宮に入って太陽の死を悼み、羨道を通って地上に再帰することで太陽の復活・再生を祝うとともに、我が身もまた新しい生命をもって蘇ったことを祝い、且つその年の豊穣を祈ったのであろう。

 二至(冬至・夏至)二分(春分・秋分)の太陽を意識した古代遺跡は、当地だけでなくスコットランドのバリアリヌアリン遺跡(BC2500頃)では冬至の夕日が、ヴゥールズのアングルシー遺跡(BC1800頃)でやフランスのカルナック遺跡(BC2800頃)では春分・秋分の朝日が、それぞれ玄室まで射しこむという。
 また、イギリスのストーンヘンジの円形遺跡では、中央立石と外周部立石を結ぶ線が冬至の日の出に合致し、天体観測所であり神殿であったろうという。

 わが国でも、秋田県の大湯環状列石遺構(万座・野中堂遺跡の総称)では、両遺跡それぞれに立つ日時計と呼ばれる立石を結ぶと夏至の日の出線に合致するといわれ、同種の遺構を青森の小牧野遺跡でも見ることができる。

 経験の積み重ねだけで生きてきた数千年も前の人々が、洋の東西を問わず、万物に恵みを与えてくれる太陽の動きのなかで、冬至・夏至あるいは春分・秋分といった特異日があることを知り、その時々の太陽の位置を的確に観測し、その光をとらえる知能と技術を持っていたことは驚きである。

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