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アイルランド/修道院3題

 今回の旅では教会はほとんど見ていないが、地方に行くと、教会より修道院(廃墟を含む)が多いように感じられた。
 そんななかから、実見した修道院を3っほど。

※アイルランドの修道院
 ローマン・カトリックの教会制度は、使徒パウロの後継者とされる教皇のもと、枢機卿・司教・司祭・助祭とつづくヒラルギーからなり、世俗的権力との間に抗争・妥協・癒着を図りながら、ヨーロッパ全域を幾つもの教区に別け、司教を以て統括させ、司教はその教区内の中心となる町に常在して精神社会の指導者として重きをなしていた。

 これに対して、古いアイルランドには人々が集まって住む町が少なく、人々は血縁的な部族集団に属し、農業・牧畜を生業としながら散住していたといわれる。

 そんななかに入っていった司教たちは、ケルト人が慣れ親しんだドルイド教の聖地、泉の畔あるいは森の中iに小屋を建て、自らの修行の様を人々に見せることによって教化・改宗、特に首長を改宗させることを目指したといわれ、彼らが建てた小屋は、教会というより聖職者個々人の修行の場すなわち修道院的色合いが強かったという。

 そんななか、キリスト教信者が増えていくにつれて、より強く神を求めんがために、人里離れた僻地や厳しい自然のなかで、ただ一人、神と向きあおうとする修道士たちも増えていったという。

 「神の御子なる優しいキリストよ、どうか私を見つけてください
  人気のない 寂しいところで 私の住むことができる 小さい小屋を」
 これは、孤独のなかで神を求める修道士の心境を語る一つの詩だが(聖者と学僧の島・1997)、このように修道士たちは、人間社会の心地よさと楽しみを後にして森の中や山中あるいは孤島に住むという孤独の道をあえて選び、わが身に断食や難行苦行を課し、聖書を学び、瞑想することで、少しでも神に近づこうと努力したという。

 修道院活動には二つの流れがあったという。
 ひとつは、人里離れた砂漠あるいは山地に住み、貧しい食事と切り詰めた睡眠のなかでひたすら神に祈り、そのなかで襲ってくる悪霊との戦いに苦行という武器のみをもって望み、自己の救済と魂の浄化を求めるというもので、修道院発祥の地エジプトから発したものという
 も一つは、統制のとれた規則正しい共同生活のなかで、より積極的に礼拝と勉学そして労働に励みながら、周りの住民たちとともにおこなう修行、それこそがイエスが説いた隣人愛の日々の実践であり、キリスト者としての真の生き方だとするもので、
 アイルランドの修道院は前者に近かったといわれ、修道士たちはただ一人でおこなう苦行のなかで自己を磨き神に近づこうとしたという。

 そのような修道士たちが住む小屋には、次第に、同じ志をもつ求道者たちが集まり、師のそばに小屋を建てて住むようになって集落が造られ、そこには、アイルランド内はもとより、戦乱がつづく大陸からの求道者・学究者たちが多く集まって修道院村がつくられ、それらを統べる修道院長は、その地方の精神的指導者としての司祭の役目を兼ねるようになり、集まって住むことを苦手とするケルト人の間に、人々が集まる拠点を形成していったという。

 アイルランドの修道院には、いろんな人々が集まったようで、真摯に神を求める人は勿論、心静かに学問・固定的教養を身につけようとする人たちも加わっていったという。
 また、そこには人だけでなく、大陸を含めて各地から聖書や使徒伝といったキリスト教関連文書はもとより、古いギリシャ・ローマの古典といった多くの書物が持ちこまれ、それらが修道士の手で書き移され各地へと送り出されたという。

 ローマ帝国崩壊後、ローマの平和からゲルマンの混乱へと推移したヨーロッパのなかで、聖パトリックがもたらしてキリスト教を売れ入れたアイルランドは、教養のかけらもなく読み書きもできる人もいない、ただ力のみが支配する未開の島から、修道院を中心に福音書がひもとかれる秩序ある平和の島へと変貌し、豊かな学問の花が咲き誇るパラダイスとして多くの人々を引きつけたという。
 そこで学ばれたギリシャ語・ラテン語による教養が修道士たちによって大陸へと再伝播することによって、その後のヨーロッパ文明の復興の大きな基盤を形づくり、そしてそれは、口承によってのみ伝承されてきたアイルランド神話・伝承の文字化・記録化へと連なり、イェイツやジョイスなどに代表される現代アイルランド文学の母胎となっていったという。


※バリンタバー修道院--キャッスルバー近傍
 アイルランドの西北部、人口6000人ほどの小さな町はずれにある修道院で、羊がのんびりと草を食む広々とした田園地帯の一画にポツンと建っている。
 441年、聖パトリックが創建した小屋が前身といわれるが、それが17世記、クロムウェルの侵攻によって完全に破壊され、その後に再建されたという。

 どっしりとしたロマネスク様式の粗石造聖堂で、三角形破風をもつ妻壁屋上に十字架を掲げる身廊と横に張り出した袖廊をもつ聖堂は、遠目には倉庫然としている。

 聖堂の裏手一画に、崩れた粗石積みの壁とかアーチで連なった柱列の一部が残っている。
 崩れた建物跡いわゆる廃墟で、きれいに整備されてはいるものの、これらから嘗ての修道院全体を想像することは難しく、整備されすぎていて何となくしらけた印象をうける。
 古い遺跡を訪れたとき、そこが石塊だけの散乱だと、こうなる前に何か手立てはなかったかと思い、かといって“廃墟でござる”と済ましこまれるとしらけてしまう、古蹟を訪れる旅人とは勝手なものである。

 現地での説明では、この聖堂は、クロムウェルに破壊されたというが、別の資料によれば、当修道院は1216年に創建され、一度焼けて1265年に再建されたとあり、とすればクロムウェルによる破壊とは、再建されたものかもしれない。

 この辺りは、聖パトリックが40日間断食して神の祈ったという聖地・グロック山に近いことから、カトリック信仰の濃い処だそうで、正面祭壇のみをもって過剰な装飾のない清楚そのものといった雰囲気を漂わせる聖堂内部のただずまいに、ここに集う人たちの信仰心の篤さが窺われる修道院(今は町の教会という方が似つかわしい)であった。

 
遠 景
(左手に修道院が見える)
 
内 陣
 
廃墟となった修道院跡

 敷地の一画は墓地となっている。新旧沢山の墓標のなかに背の高いケルト十字架が一基、モニュメント然として立っている(下左写真)。背面・側面が苔むしたところなど一見古そうだが、文様の形とかその摩耗状態からみると、そう古いものではないらしい。
 他にも新しいケルト十字架がみられるが、これらは背が低く、その文様は組紐文様、それもパターン化した文様が主流となっている(十字架中央のihsの文字はギリシャ語によるイエス・キリストの頭文字、また I fave suffered-私は受難者-との意ともいう)

   
現代版ケルト十字架 


※フランシスカン修道院跡--ドネゴール
 ドネゴールの町は、5世記頃のケルト人集落に発するというが、ヴァイキングの襲来(8~9世記)、英国国教会軍の侵攻(1595)など幾多の戦乱を潜りぬけてきた小さい町で(人口約2300人ほど)、大西洋に流れこむエスケ川の河口に位置する。

 町の西のはずれ、海に突き出した小さい岬に残るのが廃墟化したフランシスカン修道会に属する修道院で(1474年創建、宿の窓から正面に見えた)、15世記、当地に進出したケルと系豪族オドンネルー家の庇護のもと、修道士だけでなく、優れた学者・詩人たちをも集め、当地方における信仰・学問の中心だったというが、詳しいことは不明。
 その後、侵攻してきた英国国教会軍への抵抗勢力の拠点となり、その敗北によって破壊され、以後放棄されたという。

 境内は荒廃そのもので、一見して、数棟の建物はあったらしいが、壊れた三角形の妻壁と側壁、アーチで連なる何本かの柱、ただの石塊となった建物跡などに、かつての面影をかろうじて伺われるのみ。

 聖堂内の床面には古い板石墓標が何枚か残っている。この地で命を終えた修道士たちの墓だろうが、ほとんどが摩耗していて判読不能だが、読み取れたなかでは17世記のものが最古で、放棄後も墓地として使用されたらしい。

 また、境内の一画は現役の墓地となっているが、ほとんどが20世記のもので、小さい十字架を戴く板石墓標のもの、低いケルト十字架が立つものなど雑多で、その幾つかには花が捧げられていた。
 その中に数基、背の高いケルト十字架(ハイクロス)が屹立している。摩耗の程度、文様(主に組紐文)からみてそう古いものではないらしい。


遠 望 

朝日をうけた廃墟全貌
 
同左・部分拡大

壊れた側壁の残骸 

同 左 
 

 朝早く、朝食前の時間を割いて訪れたが、小一時間の間に晴れ・曇り・驟雨とめまぐるしく変わる空模様の下、それぞれ表情を変える廃墟は、この修道院がみてきた有為転変を表しているように感じられた。

※聖キーラン修道院跡--アラン島
 アラン島の北岸側、緩やかに起伏しながら高まっていく海のみえる丘の中腹に残る修道院跡で、屋根の落ちた粗石積みの小さな建物跡と、隣接する矩形の石積み(何の跡かは不明)だけが残っている。

 6世紀頃、聖キーランという修道士が建てたというが、詳細不明。
 5~6世記頃、修道士の多くが人里離れた自然のなかで粗末な小屋を建て、神に祈つたというから、この廃墟も、聖キーランが修行した小屋を中心に、彼を慕う修道士たちが集まって神を求めた修道院だったと思われる。

  

聖キーラン修道院跡

 廃墟となった建物は、アラン島特有の石垣に囲まれた草地のなか、遠く海を隔ててアイルランド本島を望む寂しい処に建っているが、三角形の妻壁(反対方の上部は崩れ落ちている)と側壁が残るだけで、ガイドの案内がなければ、これが修道院跡とは見えない。

 その当時、アラン島にどれだけの人が住んでいたのか、どのような自然環境だったかは不明だが、近くに小川らしき跡が残ることから、厳しいながらも生きていくだけはできたと思われる。

 なお管見した限りでは、ガイドブックにも現地の観光案内にも乗っておらず、現地でも人々から忘れられた遺跡かもしれない。

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