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アイルランド点描

 イギリスの西に接して、ややいびつな菱形をしているアイルランド島は、総面積約84000㎡(北海道よりやや大きい)・総人口約640万の島だが、今、独立国【アイルランド共和国】(面積で約83%・人口で約70‰、以下アイルランドと記す)と、島の北東部にあってイギリス連邦に属する【北アイルランド】に別れている。

 旅では、北アイルランドの首都ベルファストに入り、ほぼ全島を一周した後アイルランドの首都ダブリンから出国したが、その途上で見聞した幾つかを記す。
 

※ベルファスト
 北アイルランドの首都・ベルファストは、ラーガ河口にあった小さな村に、1177年、アルスター地方の支配者ノルマン貴族コーシー家が築いた町に発し、17世記後半、ウイリアム三世庇護のもとリネン繊維産業が興り、18~19世紀の産業革命期に造船業(有名なタイタニック号は当地で建造・1912、博物館あり)・繊維業などが発展するなど、大英帝国の大工業都市として隆盛を極めたという。
 しかし、第二次世界大戦後の産業構造改革で造船業などの重工業部門が衰退し、さらに1969年からの北アイルラド紛争によって町は荒廃したという。
 なお、ベルファストとは“(ラーガン川の)砂州の渡し場”を意味するゲール語に由来するという。

 ベルファストは所謂“北アイルランド紛争”の主たる舞台として知られるが、町の中心部を見るかぎりその痕跡は見えない。

シティ・ホール(市庁舎)
 
1902年建造
正面にヴィクトリア女王像あり
クイーンズ・カレッジ(大学)
 
1908年創設
ヴィクトリア女王を顕彰した大学
アルバート記念時計塔
 
1865年建造
ヴィクトリア女王の夫君
アルバート公の記念時計塔
オペラハウス
 
聖アン大聖堂
 
 大通り風景

正面がシティー・ホール

◎北アイルランド紛争
 北アイルランド紛争とは、アイルランド共和国成立(1937)後、英国連邦に残った北アイルランドでは、英国からの分離とアイルランドへの併合を求める少数派のカトリック系住民と、英国の統治を望むプロテスタント系住民との間で、1960年代後半頃から起こった一連の紛争をいう。

 今のベルファスト中心部では紛争の痕跡は見かけないが、住宅地に入ると(バス車中からの見学)、カトリック系(フォール街区)とプロテスタント系(シャンカー街区)とに別れ、道路の中央分離帯に築かれた2~3mほどの連続した壁で分断されている処まであった。

 両地区ともに政治的スローガンを描いた壁画が多見されるが、プロテスタント系のそれが過激であり(下写真)、そこには、
 建物屋上の至る所に英国国旗と並んで北アイルランド旗(白地に赤十字、十字の交点に“赤い手”が描かれている)や強硬派UVFの旗がはためき(右写真)
 歩車道境界石までが赤・青・白で塗り分けられている処などがみられた。
  

左から、UVF旗・北アイルランド旗・英国国旗

 北アイルランド紛争は、16世紀以降の英国による植民地支配とプロテスタント優位政策に発するといわれる歴史的遺物ともいえ、一般には、カトリック系住民とプロテスタント系住民間による宗教紛争ととらえられているが、その根底には両者間の経済闘争というのが本音かもしれない。
 両系ともに幾つかの組織かあるようだが、その中で強硬派とされるのがカトリック系のIRAと、プロテスタント系のUVFとよばれる組織だが、現地ガイド(日本人)の話では、これらは日本のヤクザみたいなもので、両国政府とも手を焼いているという。

     
   プロテスタント系住区でみられる壁画(銃を持つ人物など過激なものが多く、いずれも中央には「赤い手」が描かれている)

*赤い手
  中世、ヴァイキングの首領がアルスター上陸の先陣争いに際して「一番最初に土地に手を突いた者が、その土地を所有できる」と宣言し、己の手首を切り落として前方の陸地に投げ、土地の所有権を得た」という伝承にもとづくもので、その後、アルスター地方の雄・オニール家の紋章となり、20世紀、北アイルランド旗にも採りいれられたもので、プロテスタント系住区では至るところでみられる。

※ロンドン・デリー
 北アイルランドの西部、アイルランドとの国境近くにあり、546年、聖コロンバンが丘の上に建てた修道院から発し、17世紀以降、イングランドからのプロテスタント系住民の移住によって発展した環状要塞都市。

 1689年、ジェイムス二世(カトリック系)とオレンジ公ウィリアム三世(プロテスタント系)との英国王位継承戦争時にウィリアム三世に荷担し、ジェイムス公軍の包囲攻撃に対して105日間もの籠城戦を勝ち抜き、アイルランドにおけるプロテスタント勝利の象徴となった都市。

 
ロンドン・デリー城内案内図
  
城門脇に立つ案内図

 アイルランド島では唯一建造当時の城壁が巡り(1618建造、H=8m・W=9m・L=1.5km)、幅広い城壁上には古い大砲が外を睨み大木が茂るなど、ちよっとした散歩道となっている。


城壁上の散歩道 
 
城壁に置かれた古い大砲

聖コラムズ大聖堂 

長老派教会 

 聖コラムズ大聖堂
 576年、聖コロンバンが創建した修道院に発したプロテスタント系教会
 城壁のすく内側に隣接し、籠城時には籠城軍の指揮所となるとともに、住民の精神的な支えともなったという。

◎血の日曜日事件(ブラッディ・サンデー)
 18世記末頃から城外の低湿地にカトリック系住民が住みつくようになり、プロテスタント系住民との確執が潜在化するなか、1977年1月30日の日曜日、カトリック系住民の公民権要求デモに対してイギリス軍が無差別に発砲、13人死亡、14人負傷という事件が起こり、北アイルランド全土における反政府・反英運動が激化する契機となった。

 事件発生の3ヶ月後、イギリス高等法院は全責任はデモを計画した公民会協会にあると一方的に断罪したが、
 1998年、ブレア首相が再調査を約束、
 2010年の報告でイギリス側に全面的な非があるとされ、キャメロン首相がイギリス下院において公式に謝罪し、デモ隊側の冤罪が晴れたという。

 
血の日曜日事件・記念公園(城壁のすぐ下)
右手:慰霊碑、中央壁画:糾弾する活動家像、左壁画:犠牲となった少女像

◎ロンドン・デリーの歌

 ロンドン・デリーを冠する歌に「ロンドン・デリーの歌」がある。
 昔から当地一帯に伝わる旋律だが定まった歌詞はなく、古来から幾つかの歌詞が付けられているが、中でも、ハリーベラホンテが歌った「ダニー・ボーイ」がよく知られている。
 この歌は、父親の意志を継いで独立戦争に身を投じた息子を見送る母親の感情を歌ったもので、祖国愛と息子への愛との狭間に揺れうごく母親の愛を歌ったものという(ネット資料・津川主一訳詞より)

※アルスター民俗博物館
 19世紀から20世紀前半頃の町村の民家などを復元した野外博物館。ベルファスト郊外にある。
 教会・郵便局・学校・労働者用長屋・雑貨屋・駄菓子屋・農家などの復元だけでなく、当時の服装をまとった人たちが籠を作ったりお菓子を売ったり、当時の生活を再現しているのが面白い。

  
駄菓子屋と店内
  
牧師宅と居間
  
労働者用長屋と居間
 
家内工業長屋(裁縫店という)
 
教 会

小学校 

田舎道 
 
店先風景
 
同 左

※古城3題
◎ダンスール城
 北アイルランド北端、大西洋に突きでた岬の先端、高さ30mほどの玄武岩の上に建つ城塞の廃墟。
 10世紀頃の砦を16世紀マッキラン家が、16世紀に当地方を支配したマクドネル家が増改築して居城としたという。
 17世紀の対イングランド抗争時には地元勢力の拠点となるが、1660年の王政復古後のマクドネル家の撤退により放棄されたという。

 海に沿った城壁で繋がれた東西二つの城塞から成り、アイルランドでは最も美しい古城という。
 大西洋を背景として建つ廃墟化した姿は、雲低く驟雨が去来する天候とともに被写体としては抜群だったが、凹凸激しい岩場だらけで足場の確保が難しかった。
 「強者(ツワモノ)どもが 夢のあと」のアイルラド版というところか。


東側城塞 
   
ダンスール城全景(絵葉書転写)
 
ダンスール城全景(城は城壁に囲まれた東西二つの城塞から成る)

◎ドネゴール城
 アイルランド北西部の都市ドネゴールの中心広場近くにある砦兼領主の館。
 15世紀の砦をもとに、16世紀になって、当地一帯の反英国勢力の中心であったオドンネル家が城塞として改造して居住していたが、1598年、英国軍の攻撃をうけて廃棄され、その後、当地一帯を支配した英国貴族ブルック家により本城が4層に改装され、居住部分となる建物が増築されたという。
 城内は、中世アイルランド様式の城としてちょっとした博物館になっている。

 
ドネゴール城全景
(左:城門のある砦、右:本城)
 
同・本城
 
復元模型・オドンネル時代
(3層の本城のみ)
 
復元模型・ブルック時代
(本城を4層に改築、住居部増設)

◎ブラーニー城
 アイルランド南部、アイルランド第二の都市コーク近傍の交通の要衝に残る城塞。
 10世紀の木造砦に発し、1446年に石造に改修されて以降改築を重ね、領主マッカーシー家の居城として当地方統治の中心だったという。

 城は、中庭を囲む四角形で居住性は悪そうだが、狭い階段を登った屋上(H=26m)は狭い回廊が巡るだけだが見晴らしはよく、城塞としての役割は充分に果たしている。
 屋上外壁の一画に、仰向きになって外壁の石にキスすれば雄弁になるとの伝承がある『ブラーニー・ストーン』があり、神父プラウトの誌集には『雄弁になって、恋しい婦人の寝室に忍びこんで恋人と語るもよし、政治家になるもよし』とあるという。

 
ブラーニー城

同 左 
 
屋上風景(絵葉書転写)
 
ブラーニー・ストーンに
キスしようとする人々(絵葉書転写)

※アデア村
 リムリックからキラーニに向かう街道筋に位置し、1976年の“可愛い村コンテスト”に優勝したという小さな村。
 当地は、13世紀にはキルデア伯爵領、19世紀にはダンレンブン伯爵領だったといわれ、1820年頃から今のように綺麗に整備されたという。

 修道院や城址なども残っているが、村の売りは街道筋に並ぶ6軒の【小さな藁葺きの家】で、分厚い藁屋根に覆われた昔ながらの家々の庭には花壇が設けられ、ちょっとしたテーブルと椅子が並べられた姿は、古い豊かな農家といった面影を残している。
 土産物店などもあり、道ばたでは大道芸人がアコーディオンを掻き鳴らし、今は観光を主とした生活が営まれているらしい。

     
     
教 会
(結婚式があったようで、
新郎新婦・家族らが写真を撮っていた)
 
大道芸人

※タラの丘
 『「そうだ、明日、タラへ帰ろう。そう思うと、いくらか元気が出た。
 かつて彼女は、恐怖と敗北のなか、タラへ帰ることがあった。その防壁から、勝利を目指して武装して力強く出てきたのであった。一度やったことなら、なんとかして・・・。
 タラのことを考えると、優しいひんやりとした手で、心をそっと撫でられるようだった。快く迎えてくれる真っ白な家が、紅葉した秋の木の葉の間に輝いているのが見えるようだった。
 祝福を授けるかのように漂っている田園のひっそりとした静けさ、点々と星をちりばめたように、ふんわりとした白い花が咲いている。広々とした緑の藪の上に落ちている霧が感じられるようだった。そんな景色を想い浮かべると、微かながらも慰められ力づけられるように思えた。
 たとえ敗北に直面しようと、敗北を認めようとしない先祖の血をうけた彼女は、きっと顔をあげた。レットを取りもどすことができる。必ずできる。一旦、こうと決めたら、自分のものにできない男なんて、今まで決してなかったではないか。
 「みんな、明日、タラで考えることにしよう。明日はまた明日の日が照るのだ」』
 
 各国語に翻訳され、映画にもなった名作“風とともに去りぬ”(マーガレット・ミッチェル)最後の一節である。
 南北戦争の最中、家屋敷も、愛する夫も、すべて失った主人公スカーレット・オハラは、再起のために心の聖地タラへ戻ることを決めるが、その時の台詞である。
 勿論、ここでいうタラとはアイルランドのタラではなく、移民として渡米し成功した祖父が、故郷アイルランドを偲んで復元したアメリカのタラである。

 アイルランドの血をひくスカーレットにとつてのタラは、それが祖国アイルランドであろうとアメリカであろうと、それは温かく迎えてくれる揺籃(ユリカゴ)の地であり、再起する力を与えてくれる聖地であった。

 “風と共に去りぬ”の掉尾(チョウビ)を飾る【タラの丘】は、首都ダブリンの北西38kmの草原地帯に拡がり、“アイルランドのハート”と呼ばれる最大の聖地である。

 といっても、目の前に拡がるタラの丘は、緩やかに起伏する広々とした草原が拡がっているだけで、よく見ると、モコモコと盛りあがっている処が幾つか見えるだけ。

 偶々手に入った簡単な見取り図を片手に歩きまわったが、まず目につくのが【人質の丘】とよばれる小丘で、2世紀中頃、アイルランドに君臨した上王(ハイ・キング)コーマック・マクアートが連れてきた人質に由来するというが、その実は、ケルト以前に造られた直径20mほどの古墳という。

 丘南のすぐに近接して拡がる楕円形の平らな高まりが【コーマック広場】と呼ばれる環状遺跡で、その中央に盛りあがる二つの円形台地が上王の居城跡という。

 その円形台地の一つに、タラの丘に残る唯一の古代遺構といわれる一本の立石(メンヒル)が立っている。
 伝承では、この石は、トゥアダ・デ・ダナン族が持っていた秘宝の一つで、王者たるべき者が触れば“”叫び声”をあげて祝福するという。
 石が咆吼するとは、神が、その者が王として相応しいと承認した標ともいわれ、英国の王の戴冠式で、ウェストミンスター寺院で座る玉座の下にある“戴冠石”(スターンの石)にも同じ伝承があるという(この伝承は、旧約聖書でヤコブが油を注いで立てたという石までつづいている)

 人質の丘の北には、【宗教会議場】【穀物広場】【北の塹壕】【宴会場】といった遺構があるというが、現地でほぼ確認できるのは宴会場だけである。
 宴会場は、コの字形の土塁に囲まれた長さ約200m・幅30mほどの大きな窪地で、ここで何がおこなわれたかは不明。
 伝承では、上王が3年ごとに大集会を開き6日間の大宴会を開いた場所で、その宴には、ドルイド僧・諸王・貴族・吟遊詩人・農民などあらゆる人々が招かれ、飲み食い歌い踊りながら心ゆくまで楽しんだという。

 ケルトの上王とは絶対君主ではなく精神的象徴としての君主だったようで、その上王がタラで開く3年ごとの招宴は、王の選出・宗教祭祀・抗争の調停・裁判などがおこなわれる神聖なマツリゴトの場であって、その期間、一切の争いはすべて休戦、これを破った者は厳罰に処せられたという。

 簡素な柵で区切られたタラの丘の簡単な入口を入ってすぐに小さな教会があり、傍らに、右手にシャムロット(三つ葉のクローバー)をもった聖パトリックの像が立っている。
 ケルトの聖地にキリスト教の聖人像とは異様な組みあわせだが、432年、伝道のためにやってきた聖パトリックが、この丘で、シャムロットの茎と三つ葉を指し示しながら、時の上王にキリスト教の教義“三位一体”を説き、ケルトの祭司ドルイド僧を論破することによって、上王以下の人々をキリスト教に改宗させたという伝承によるという。

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