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富士山本宮浅間大社
静岡県富士宮市宮町
主祭神--木花佐久夜毘売命
相殿神--大山祇神・瓊々杵尊
                                                             2017.01.17参詣

 延喜式神名帳に、「駿河国富士郡 浅間神社 名神大」とある式内社で、駿河国一宮

 富士山の南西方、JR身延線・西富士宮駅の東約700m、市街地のなかに残る鎮守の森に鎮座する。

※由緒
 社務所で頂いた参詣の栞には
  「古来より富士山は神の鎮まる山として、多くの人々の信仰を集めてきた。
 社伝によれば、第7代孝霊天皇の御代に富士山が噴火し、国中が荒れ果てたため、第11代天皇垂仁天皇3年(BC27)浅間大神を山足の地にお祀りし、富士山の神霊を鎮めた。 
 第12代景行天皇40年(110)日本武尊は浅間大神を山宮(現山宮浅間神社社地 )に遷し、更に第51代平城天皇の大同元年(806)坂上田村麻呂が、現在の大宮の地に遷し、壮大な社殿を営んだ。
 以降、朝廷及び武将より篤い崇敬を受け、また全国千三百余社ある浅間神社の総本社として称えられている」
とある。

 また、富士本宮浅間社記(江戸中期、以下、社記という)には、
 ・駿河国富士本宮浅間は、木華開耶姫命を祭る。大宮郷に有り、同国二十二社の首座也。
 ・人皇11代垂仁帝甲午(3年)8月始めて之を祭る[中略]
 ・夫れ富士は三国無双の霊山にして、神代より之有り。嶺上常に火有りて余煙綿々として絶えず。

 ・人皇7代孝霊帝の御宇、嶺上を掩って焼出、猛煙天を焦がす。・・・地雷震動、闐々として間断無し。州俗四方に逃散して国中の荒廃数年に亘る
 ・11代垂仁帝御宇に至り、深く万民の憂窮を哀れみ、3年8月、此の大神を山足(山麓)の地に祭り、以て之を鎮祭す
 ・此の姫命(木華開耶姫命)は水徳の神なる故、火災消滅、而して後生安静也

 ・12代景行帝の御宇、東の夷辺境を侵し悉く叛し、屡々人民を略す
 ・日本武尊 命を奉じ 兵を挙げて之を討つ。初め駿河国に至る。衆俗偽って従い遊猟に奉奠。尊野に入る。賊之を殺さんと欲し、火を放って野を焼く。
  尊、富士大神を拝し、燧石を鑽りて火を取り、迎え火を放ち、剣を揮って空を払う。猛風逆さに起こって還って賊徒を焚く。衆俗愕然として遂に服す。以て難を免れることを得
 ・故に霊威を奉斎して之を祭る。今の山宮社是也

 ・51代平成帝大同元年、坂上田村麿 勅を奉じて東の夷を征す。此の大神に誠を寄せ(加護を祈願して)、東国を平定す
 ・帰陣の後、始めて壮大なる神社を建て之を経営す(当社では、これを以て現本宮の創建という)
 ・60代醍醐帝の延暦年中、新宮浅間を駿河国府に建つ。是より大宮浅間と号し、本宮と称す
とある(漢文意訳、式内社調査報告・1988)

 当社は富士山の噴火を鎮めるために創建された神社だが、正史上での富士山噴火記録は、光仁天皇・天応元年(781)
 ・7月6日 駿河国が『富士山麓に灰が降って、灰のかかった処の木の葉が萎え萎れた』と言上した
を初見とするが、
 それ以前について、富士山歴史噴火総解説(2007・小山真人)との資料には
 ・富士大縁起など3っの史料を引用して、孝安天皇3年(?)・44年(?)・92年(?)、孝霊天皇3年(?)、清寧天皇3年(5世紀末頃)、宣化天皇(6世紀前半頃)の合計6回の噴火記事があるという
 ・しかし、これらの記事は具体性に乏しく、且つ富士山が“湧出した”・“出現した”等の神話的な内容がほとんどである
 ・唯一の現実的な記述は、走湯山縁起の
  『清寧天皇3年3・4月 富士浅間山焼崩 黒煙聳天 熱灰頻降 三農営絶 五穀不熟 依之帝臣驚騒 人民愁歎』
との記録だが、降灰の激しい噴火であったということ以外の具体的事実は不明である
 ・これらの史料はすべて後世に成立したものであり、何らかの噴火伝承を反映していた可能性はあろうが、神話や伝説とみなしてよいものであろう
とある。

 社記がいう孝霊天皇の御代というのは上記・孝霊天皇3年を指すかと思われるが、小山氏もいうように、孝霊天皇の御代(神武即位を紀元前660年とする書紀年紀によれば紀元前290--215頃というが、天皇の実在そのものが欠史8代として疑問視されている)に噴火があったことを証する史料はなく、当社の創建を垂仁天皇の御代(書紀年紀では紀元前後というが、4世紀中頃であろう)とすることも含めて、伝承の域を超えないと思われる。

 ただ、中世以降、特に江戸時代人々にとっては、、富士山は近江の琵琶湖が陥没したとき、同時に一夜にして隆起したという話が常識だったようで、
 ・職原鈔(1340・南北朝時代)--孝霊帝5年6月 近江湖水(琵琶湖)始湛、駿河富士山始湧出
 ・和漢三才図会(1711・江戸中期)--孝霊天皇5年6月に富士山初めて見申す。蓋し近江の湖一夜に湧出して、その土 富士山と為る
 ・孝安天皇(孝霊の一代前)92年(庚申年)、富士山始めて湧出
ほか幾つかの伝承がある(私の一宮巡詣記・2001)という。
 なお、富士山の歴史年表(ネット資料)によれば、富士山は数十万年前(旧石器時代)から噴火を繰り返し、現在の姿になったのは紀元前1000年頃(縄文時代後期)というが、それが如何なる資料によるかは不明。

 参詣の栞がいう日本武尊東征時の話は、記紀によれば駿河国・焼津(現静岡県焼津市)での出来事で、当社鎮座の富士宮市とは離れすぎていて(約50km)、神話上での話とはいえ、焼津での話を当社祭祀に結びつけるには疑問がある。
 また記紀では、日本武尊が難を逃れたのは、出立にあたって伊勢斎宮で叔母にあたる倭姫命から頂いた燧石と剣(後の草薙剣)によるものとあり、そこに浅間の神は出てこない。
 よしんば、この時、尊が神助を乞うたとしても、その神は、古事記に、「命をうけて出立する時、伊勢の大御神宮に詣りて神の朝庭を拝みて・・・」とあることから、伊勢の大神とみるのが順当かと思われる(但し、景行朝での伊勢神宮の実在は疑問)

 社伝は、平城朝・大同元年、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に際しての神助を感謝して本宮社殿を造営したという。
 田村麻呂は桓武天皇・延暦16年・同20年・同23年と3度に亘って征夷大将軍に任じられ蝦夷征伐に向かっているが、日本後記(869)の当該条に浅間の神の名はみえず、平城天皇・大同元年条にも浅間神社に関係する記事は見えない(同年4月1日、桓武天皇崩御に際して田村麻呂も誄を奉ったとあるのみ)

 これらからみて、これらの話はいずれも伝承であって、これらを証するものはない。

 正史上での噴火記録としては、上記の天応元年(781)以降、延暦19年(800)・延暦21年(802)・貞観6年(864)などが残っているが、
 延暦年間の噴火について、日本後記(869)には
 ・延暦19年6月6日  駿河国が次のように言上してきた。
    去る3月14日から4月18日まで、富士山頂が噴火し、昼は噴煙であたりが暗く、夜は火光が天を照らすようになった。      噴火の爆発音は雷鳴のようで、灰が雨のように振り、山麓の川の水はみな紅色になった。
 ・延暦21年1月8日  天皇が次のように勅した。
    駿河・相模両国が、駿河国の富士山が昼夜を分かたず赫々と焼け、霰のような砂礫を降らしている、といってきた。
    是を占ってみると、日照りと疫病の兆しだという。両国に、神の怒りを宥めて読経を行い、災いを払うようにせよ、と命じた
とあり(大意)、相当大きな噴火だったことが推測される。

 古代人にとって、噴火・地震といった天変地異は神の怒りによって起こるとされ、それを鎮めるために神籬(ヒモロギ・仮設祭場)などを設けての神マツリがおこなわれたのはありうることで、当社も延暦年間の大噴火をうけて、神の怒りを鎮めるために富士山山腹に山宮が創建されたと思われるが、その確たる年次は不明。

 ただ、文徳天皇・仁寿3年(853)条に、
 ・秋7月甲子 駿河国浅間神を以て名神に預かる、
 ・ 同  壬寅 特に駿河国浅間大神に従三位を加える
とあることから(文徳実録)、9世紀初頭の大同元年(806)創建というのも一概に否定はできない。

◎山宮浅間神社
  祭神  木花之佐久夜毘売命
 本宮浅間大社は山腹にある山宮(山宮浅間神社)と山麓の本宮の2社から成っている。
 山宮は本宮の北約6kmにあり(富士宮市山宮)、社伝にいう、日本武尊が駿河国で難を免れた時、神助を感謝して神霊を祀った処という。

 今の山宮は、瑞垣に囲まれたなか、榊の木の根元に溶岩塊からなる石組み(磐境があるのみで社殿はないが、その参詣軸は富士山を拝する方向を向いていて、古代の神マツリの形態を今に残すという(不参詣)
 この祭祀形態からみて、山宮とは、富士山を神が鎮まる山として遙拝する古代人が設けた神マツリの場(神籬)に始まるもので、日本武尊云々とは後になっての付会であろう。

◎富知神社(フクチ・フチ)
  祭神  大山津見神(オオヤマツミ、大山祇神とも記す)

 現本宮浅間大社の鎮座地について、大社社記には
 「大宮社地、古へよりの福地明神の社地に、浅間神社を遷す。福地明神は延喜式神名帳に載る所の神社で、大山祇命也。
 此時に当り、浅間社を以て三神合殿と為す」
とあり、社伝にいう大同元年の本宮遷座までは、当地には福地神社との社があったという。

 福地神社とは、今、富士宮市朝日町に鎮座する富知神社のことで(本宮の北西約700m、ネット地図には三峯神社とあるが、これは摂社の社名らしい)、本宮社務所で頂いた由緒略記には
  「古くは富知(フチ)と読んだようであるが、不二・福地・福士・福寿とも表記されたところから現代語のフジであると思われる。
 富士山本宮大社の第41代大宮司・富士民済が江戸時代の寛政年間(1789--1801)に記したとされる『富士本宮浅間社記』には、現在浅間大社が鎮座している大宮(富士宮市宮町)の社地は、元は福地明神の社地であったと伝えられる。
 浅間大社が大同元年(806)坂上田村麻呂により山宮よ遷座されたと伝えられることから、それ以前に鎮座されていた富知神社は、当地の地主神であったと思われる」
とある。

 当社の創建年次は不明。
 本宮大社と同じく7代・孝霊天皇2年との伝承があるというが、上記したように、この伝承は信用できない(孝霊天皇の実在は疑問視されている-欠史八代)

 当社は、延喜式神名帳に「駿河国富士郡 富知神社(フチとのルビあり)」とある式内社で(論社・富知六所浅間神社あり)、富知の神は当地一帯の地主神ともいわれ、今は本宮浅間神社の摂社とされている。

 この富知神社について、加太宏郞氏は
 ・フチ神社は、フチと名付けられた地域(富士郡)の地主神を祀る産土社で、水にかかわる神社とも解釈され、
 ・後に、火の山と意味づけられた富士山の鎮火の神に一時利用され、徐々に、山そのものが火山という意識に専一され、
 ・この要望に応えるアサマ信仰の勢力が大きくなって、これに駆逐される形で、浅間大社の摂社として従属的位置に組み込まれ、
 ・それとともに、フチの鎮守の産土神だったことが忘れられたという経過を見ることができはしないか
という(富士山考試論・2010)

※富士と浅間
 本宮浅間社を含め富士山周辺の浅間神社は、富士山に坐す神を祀るにかかわらず“浅間神社”と称し、祀る神も“浅間大神・浅間明神”という(富士を名乗る神社は皆無)

 この富士山と浅間神社との関係については諸説があるようだが、管見したものとして
 富士山について、折口信夫は
 ・富士には、“フジ”に先行して“フチ”という音があった
 ・フチという言葉は、日本古代の神聖な水の信仰と深い関係があり
 ・フチは、水の神の称号の語尾であり、同時に水の神に奉仕する人の称号であり、
 ・また転じて聖水を以て禊ぎを行う場所の名となって、それが地形を表す“淵”(フチ)という言葉になったのである
 ・かく考えてみれば、アイヌ語をまつまでもなく(富士の語源をアイヌ語に求める説は多い)、フチは古代の地名として説明もできる
 ・而して、そのフチとフシとの間の音韻的説明がつけば、若干の末梢的疑問以外には略解決がついたと想像できる
として(富士山と女性神の俤と・1935)、解決すべき問題点ありとしながらも、富士山のフジ(フシ)はフチであって、それは水信仰に関係するという。

 この問題点について、野本寛一は、
 ・古代ヤマト地方の表記による“チ”は、萬葉集の東歌(アズマウタ)では“シ”となるケースが多いことから
 ・“チ”と“シ”、“ヂ”と“ジ”の区分は、古代東国の方言では流用関係があったのではないか
といい、これをうけて加太宏郞は、“ヂ”と“シ゛”について
 ・父(チチ)=シシ(2例)、徒歩(カチ)=カシ、持ち=モシ(2例)、立ち=タシ、天地(アメツチ)=アメツシ(2例)、洲(ヒヂ)=ヒジ
など多くの事例があるように
 ・チ(ヂ)はシ(ジ)と発音される場合があった
という(富士山考試論)

 一方の浅間(アサマ)について、地名語源辞典(1989)によれば、
 ・浅間山  アサマ・アサミ・アサムシ・アソなどの火山や温泉の字は、asoasopという語と関係があると思われる
 ・阿蘇山  アソという語は、火山や温泉の名のアサミ(浅見)・アサマ(浅間)・アサムシ(浅虫)などとともに、
        火山や温泉に関係した語で、ともに“煙・湯気”を意味する南洋方面のasoasopなどと関係があるらしい
とされ、アサ(アサマ)とは火山や温泉など火に関係する語だろうという。

 これらによれば、
 ・富士の神は元々は山の神であって、その裾野に数多くの伏流水を湧き出すことから、フチ(フジ)の神即ち水の神として崇められていたが(その象徴が、富知神社の祭神・大山祇命)
 ・8世紀後半以降頻発する噴火によって、恐るべき噴火の神即ち火の神との神格が加上され、
 ・その火の神信仰が水神信仰を圧倒するに従って、祭神が火の神である浅間神へ、社名が浅間社へと改変されたと思われ
 ・その時期は、社記にいう天応元年(781)の噴火から大同元年(806)の本宮浅間社の富知社跡への遷座までの間であろう
となる。

※祭神
  主祭神  木華開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)
  相殿神  大山祇命(オオヤマツミ) ・瓊々杵尊(ニニギ)

 コノハナサクヤヒメとは、記紀神代段の終わり近くに登場する女神で、古事記には、
 「天孫・ニニギ尊は笠沙(カササ)の御前(ミサキ)で美しい乙女にお逢いになった。
 尊が『誰の娘か』と尋ねると、『私はオオヤマツミ神の娘で、名は神阿田津比売(カムアタツヒメ)、亦の名は木花佐久夜比売(コノハナサクヤヒメ)と申します』と答えられた。
 そこで尊が『私は貴女と結婚したいが、如何に』と仰せられると、乙女は『私はお返事いたしかねます。私の父のオオヤマツミがお答えするでしょう』とお答えした。
 尊は父神・オオヤマツミ命の許しを得て姫と結ばれ、姫は一夜の契りで3皇子を生んだ」(大意)
とあり、当社は女神・コノハナサクヤヒメを主祭神とし、相殿神としてその父神と夫神を祀っているとなる。

 オオヤマツミ命とは、
 ・古事記--イザナギ・イザナミの神生みの時、「次に山の神・名は大山津見神を生み・・・」
 ・書紀5段・一書7--イザナギが剣を抜いてカグツチを斬って三つに断たれた。その一つは大山祇神となった
 ・  同  ・一書8--イザナギがカグツチを斬って五つに断たれた。それぞれ山祇となった。第一の頭は大山祇となった
とある神で、山を司る神・山の神という。
 ただ、山の神は生活・農耕に欠くことができない水の神でもあることから、それは農耕の神・豊穣の神との神格を兼ね備えているといえる

 その山の神・オオヤマツミの娘がコノハナサクヤヒメであるから、姫もまた一義的には山の神とみるべきだが、
 書紀・9段一書3には、
  「ときにカムアタツヒメは、卜定田(ウラヘタ・占いによって定めた神饌用の田)を狭名田(サナタ)と名付け、その田の稲を以て天甜酒(アメノタムサケ)を噛んでつくりお供えした。また沼田の稲をとって飯に炊いてお供えした」
とあり、姫もまた父神・オオヤマツミと同じく、単なる山の神ではなく、水の神・農耕神としての神格をもつといえる。

 これらからみて、ほとんどの浅間神社がコノハナサクヤヒメを祭神とするのは、社記に「此の姫命(木華開耶姫命)は水徳の神なる故、火災消滅」というように、火を鎮める力をもつ水神であることから、とみるのが本義であろう。

 それは、現本宮浅間社境内に“湧玉池”(ワクタマイケ)と称する池があることからもいえることで、日本の神々10(1988)は、
  「湧玉とは“湧く霊(タマ)”の意であり、その水口・神立山(カミタチ)の神立は“神顕ち”(カンタチ)、即ち神の顕現を意味する。ここに顕現する神はまさに“水神”である」
という。

 この湧玉池は本宮遷座以前の旧富知神社当時からあった池で、その頃の池は、山の神で水神でもあるオオヤマツミが顕現した聖地として崇められていたといわれ、
 本宮がこの地に遷座したのは、単に神社が山から里に降りたというより、そこに神が顕現する神池があることが大きな要因たったと思われる。

 ただ、今の主祭神・コノハナサクヤヒメは、水の神というより、浅間大神即ち噴火の神・火の神としての神格が強い。
 これは、姫がニニギの御子の出産にあたって、
 ・『一夜のちぎりで身ごもったというが、それはわが子ではなく、国つ神の子であろう』と疑うニニギに対して、
 ・姫が『国つ神の子ならば無事には生まれないでしょう。天つ神の子ならば無事に生まれるでしょう』と申して、
 ・産屋に火をつけ、燃えさかる火の中で3人の御子を生んだ」(古事記・大意)
との神話(火中出産神話)からくるものだろうが(これを以て、浅間社の祭神・コノハナサクヤヒメの根拠とする資料は多い)
 ・コノハナサクヤヒメは元々水神であることから、水を以て火を鎮め、無事に3皇子を生んだとも解され、
 この火中出産神話を以て、コノハナサクヤヒメを火の神とするのは、なんとなくしっくりこない。

 コノハナサクヤヒメが浅間神社の祭神となっていることについて、式内社調査報告は、「父なる山の神を鎮め祀る神として迎えられたのであろう」という。
 富士山噴火という現象が、山の神・オオヤマツミの怒りと解すれば、その怒りを和らげるために、その娘・コノハナサクヤヒメを祀ったというのは、火中出産神話によるよりもマシな解釈ともいえよう。

 この富士山の神・コノハナサクヤヒメについて、9世紀の古書・富士山記(都良香・875)には
  「貞観17年11月5日、吏民旧きによりて祭を致す。日午に加わりて天甚だしく晴る。仰いで山嶺を観るに、白衣の美女二人有りて、山の峰上に雙び舞ふ。嶺を去ること一尺余、土人共に見る。・・・山に神有り、浅間の大神と名く」
とあり、これにかかわって、大林太良氏は
  「この山嶺に舞う美女はシャーマンの幻視の所産ではなかったろうか。甲斐の側の平安時代の記録にもシャーマンの幻視らしい箇所がある。初期の富士信仰の担い手を考える上で無視できない点である。
 後世の富士の神として女神が一般的になるが、平安初期には、まだ祭神ではない山嶺の美女だったのである」
という(私の一宮巡詣記)

 また、このコノハナサクヤヒメ祭神説について、柳田国男は
  「浅間の大神がコノハナサクヤヒメをお祭り申すということは誰が決めたか。
 古くは物にも見えず、神の啓示によったということも聞えず、ただ吉田家の人たちが勝手にそんなことをいったのが始まりであろうのに、これだけは神社でも強く主張し、官府の方でもそれを公認している。
 祭神を是非とも明らかにしなければならぬということは、まことにわけもない不自然な制度であって、役にも立たぬことに、力瘤を入れているのである」
として、祭神をコノハナサクヤヒメと限定する要はないとの見解を呈している(山宮考・1947)

 なお、社記によれば、富知神社跡へ遷座した本宮の祭神は
  「左:大元尊命(ダイゲンソン)・中:木花開耶姫命・右:大山祇命」
の三座であったが、明治以降になってダイゲンソン命がニニギ尊に変わったという(式内社調査報告)

 ダイゲンソン命とは記紀等に見えない神だが、吉田神道では宇宙根源の神であって国常立神(クニノトコタチ)を指すという。
 吉田神道とは、室町時代の神学者・吉田兼倶(1435--1511)によって提唱された反本地垂迹説(神本仏迹説)に基づく神道の一流派で、朝廷や幕府に取り入ることで勢力を広め、江戸時代には地方の神社への神階綬叙権・神職への位階綬叙権などを掌握して神道界を支配していたが、明治の神仏分離及び神祇官制の復活(新政府による神道界支配)などによって衰微したという。
 江戸時代の当社がダイゲンソンを祀っていたことは、吉田神道の影響の大きさを示している。

※社殿等

 
富士山本宮浅間大社・社殿配置図
 
鳥居前からみた富士山
(左に西鳥居がみえる)

 朱塗りの西鳥居から入り、桜馬場を東進した左側(北側)に朱塗り重層の楼門が聳え、前の石段上に鉾立石が鎮まる。

 楼門は間口4間・奥行2間半、高さ6間の2階建て入母屋造。
 鉾立石は石段上に位置する自然石で、明治初年までおこなわれていた山宮御神幸に際して、神が宿る鉾を一時休め奉った処という(当社公式HPより、以下同じ)


富士山本宮浅間大社・西鳥居 
 
同・楼門
 
鉾立石
(表面に鉾を立てた凹みがある)

 御神幸に際して神鉾が奉祀されたことに関して、浅間神社記録(1873)には
 「山宮御幸の時、仮に神体と崇むる御鉾のみにて、他に御神体坐ざる趣、旧神官より相答候由。
 然るに本日内陣洒掃の際、三階の梁上に一筥あるを見出しに因り、神官一同打寄拝見するに・・・」
とあり、
 筥の表には「祭神 富士浅間神社 木花開耶姫命」、裏には「是は太古より伝る所の浅間大神の御衣で、乃ち神体と崇め奉るもの也」とあり(原漢文・大略)、凡そ500年来のものと推測されることから、室町時代以降、神鉾以外に、この御衣が御神体とされていたらしいという(日本の神々10・1987)


 楼門から入った境内正面に、朱塗りの拝殿が建ち、左右に廻廊が伸びる。
 拝殿は間口5間・奥行5間、正面入母屋造・背面切妻造の複合建物で、正面に向拝一間が付く。

 拝殿から弊殿を隔てて続く朱塗りの本殿(国指定重要文化財)は、2階建て楼閣造で棟高45尺。
 1階は5間4間の宝殿造で、2階は間口3間奥行き2間の流造、屋根は共に桧皮葺き。
 駿河志料(1861)には
 「当社の拝殿(本殿)は内陣の上に楼閣あり。楼に水縁高欄ありて、階段屋根の上に出でたり。他社に無き製作なり」
とあるという。

 この宝殿造の社殿の上に、三間社流造の別の社殿が乗るという二重の楼閣構造をした建物様式は、“浅間造”(センゲンヅクリ)と呼ばれる様式で、各地の浅間神社の中でこの浅間造社殿をもつのは当社以外に3社あるという(Wikiprdia)

 現在の本殿・弊殿・拝殿はいずれも徳川家康の寄進によるもので(慶長年間・1596--1615)、寛文・寛保・寛政・文化・安政年間に修理が加えられたという。


同・拝殿 
 
同・本殿
 本殿の左右に小社2社が鎮座する。
  ・本殿左(西側)--三之宮浅間神社
  ・本殿右(東側)--七之宮浅間神社
  社殿脇の立札に社名・祭神名が記されているが、墨色が薄れ、かろうじて社名が判読できるだけ。



 

三之宮浅間神社 

七之宮浅間神社 

 伝によれば、当社は家康の「富士山が正面に見える位置てお供えしたい」との意向によって造営されたといわれ、それを受けてか、当社参詣軸は富士山の方角に向いている。
 それを証するように、本殿背後に扉が設置され、その前の塀にも扉と石段が設けられている。
 この扉を開ければ富士山が直接拝されるというのだろうが、上記写真にみるように、実際の富士山の位置は参詣軸より東へ振っている。

 
本殿背後の扉
(後ろの社殿は本殿)
   
透塀に設けられた扉と石段

※湧玉池
 境内右手の東門の外に、嘗て当地にあった富知神社の原点ともいえる湧玉池が広がる。
 社域東方を半円形に大きく囲むように広がる池で(上記社殿配置図)、透き通った水底に水藻が揺らぎ、水面には廻りの樹木が映し込んでいる。

 傍らに立つ案内には
  「国指定特別天然記念物
 この池は霊峰富士の雪解けの水が溶岩の間から湧き出したもので、水温は摂氏13度、揚水量は一秒間に3.6kl(約20石)、年中殆ど増減はありません。
 昔から富士導者は、この水で身を清め、六根清浄を唱えながら登山する習わしとなっております。
  つかふべき教えにをらむと 浅間なる 御手洗川のそこにわくたま  平兼盛 」
とある。


東 門 
 
湧玉池(上の社は水屋社)
 
湧玉池

 湧玉池の西北隅に水屋社(御井神・鳴雷神)が、その後ろに天神社(菅原道真)が鎮座するが、鎮座由緒等は不明。

 
水屋社
 
天神社

 湧玉池南側の小道を東へ進んだ先、湧玉池傍に稲荷社が、そのさき朱塗りの神路橋を渡った先に厳島社が鎮座する。


稲荷社 
 
厳島社

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