トップページへ戻る

冨士浅間神社
静岡県駿東郡小山町須走
主祭神--木花咲耶姫命
相殿神--大己貴命・彦火火出見命
                                                               2017.01.17参詣

 静岡県の東北部・富士山須走登山口の起点となる小山町須走地区に鎮座し、その位置から東口本宮冨士浅間神社とも、地名をとって須走浅間神社ともいう。世界文化遺産・富士山構成要素のひとつ。

※由緒
 頂いた参詣の栞には、
  「平安時代初期の桓武天皇・延暦21年(802)富士山東麓が噴火。
 時の国司・郡司は逃げ惑う住民のために鎮火の祈願を行うため、富士山東面・須走の地に斎場を設け、鎮火祭を斎行した。すると同年の初申の日に噴火が収まった。
 この御神徳を畏み、報賽するために大同2年(807)に鎮火祭の跡地、現在の社殿の地に神を祀り、同年4月初申の日を例祭日に定めたと伝えられる。
 江戸時代には富士山東口(須走口)登山道本宮として須走の宿場町と共に、江戸庶民の信仰・富士講の登拝者たちで栄え賑わった。(以下略)
とあり、
 境内に掲げる案内には
  「第50代桓武天皇時代の延暦21年正月、富士山東側が噴火し、爆発によって吹き上げられた火山岩や砂礫が四周に飛び散り、しばらく噴火が続いた。
 特に東麓の御殿場地方の被害が大きく、時の国司・郡司が庶民の憂情を憐れみ、鎮火の祈願をなさんが為、東面須走の地に来たり斎場を設け祭事を執行せらる。
 即ち現在の社地・字日向と呼称する所にして、同年4月初申の日に噴火が治まったので、この神助を報賽せんが為、当社を創建せらる」
とある。

 延暦21年の噴火について、日本後紀(869)・延暦21年春正月8日条に
 「天皇が次のように勅した。
 駿河・相模両国が、駿河国の富士山が昼夜を分かたず赫々と焼け、霰のような砂礫を降らしている、と言ってきた。これを卜してみると、日照りと疫病の兆しだという。
 両国に、神の怒りを宥めて読経を行い、災いを払うようにせよと命じた」
とあり、この勅によって行われたのが栞等にいう鎮火祭であろう。

 また、同年4月19日条に
 「相模国の足柄路(アシガジ、足柄峠越)を廃止して、篋荷路(ハコニジ・箱根街道)を開削した。富士山の噴火による噴石が道を塞いだ為である」
とあり、噴石によって足柄山越の道が塞がったというから、相当激しい噴火だったと思われる。

 案内は、当社の創建を噴火5年後の大同2年というが、傍証なく、確かなことは不明。
 理由は不詳だが、大同2年を以て創建年次とする社寺が多く(特に東北地方)、当社もその一つだが、大同2年の真偽は別としても、当社が延暦21年の富士山噴火を契機として創建されたのは認めてもいいだろう。

※祭神
  主祭神  木花咲耶姫命 
  相殿神  大己貴命(オオナムチ)  彦火火出見尊(ヒコホホデミ)

  木花咲耶姫--別稿・富士山本宮浅間大社参照
  大己貴命--出雲神話の国造りし大神である大国主命の別名。当社に祀られる由縁は不明。
  彦火火出見命--木花咲耶姫の御子で、神武天皇の祖父。別名・火遠理命(ホオリ)、なくした兄・海幸彦の釣り針を求めて海神の宮を訪れた山幸彦の名で知られる。

※社殿等
 国道138号線脇の一の鳥居を入り、参道を進んだ先に二の鳥居が立つ。
 一の鳥居の反対側(西側)やや右手(北)に富士山が聳えている。

 
西側に見える富士山
 
富士浅間神社・一の鳥居
 
同・二ノ鳥居

 二の鳥居を入り参道を進んだ先に朱塗りの重層の朱塗りの楼門(随神門・神門)が、
 更に参道を進み境内に入った正面に、千鳥破風付向拝を有する朱塗り入母屋造の社殿が鎮座する。

 傍らの案内には、次のようにある
*楼門(ご神門)
  「二階建ての随神門を特に楼門と呼び、上層の周囲に高欄付の縁を回らせている。
  御門の神様である櫛磐窓神(右)・豊磐窓神(左)が随神として配祀されている。
  貞享2年(1685)、小田原城主の稲葉丹後守が鳥居と共に楼門を修理したと伝えられている。
  しかし、宝永の大噴火(1707)により社殿と共に大破し、幕府へ再建が願い出されている。
  現在の楼門は、明和4年(1767)随神が寄進された当時のものと考えられている」

 祀られている櫛磐窓神(クシイワマド)・豊磐窓神(トヨイワマド)とは宮廷の四方の門を守る神で、
 古事記・天孫降臨の段に、天児屋根命ら五伴緒(イツトモノオ)の神々に従って天降った随神の一柱・天石門別神(アメノイワトワケ)の名で出ている。

*社殿(小山町有形文化財・平成18年指定)
  「宝永4年の宝永噴火で、当社は3m以上の降砂に埋もれ大被害を受けました。
  その後、享保3年(1718)に再建された社殿が現在まで一部残存しています。

  通常、神社の社殿は本殿・弊殿・拝殿の三棟に分けられますが、本社では、これらが一体化した権現造様式となっています。社殿の手前が拝殿・奥が本殿で、この二つを弊殿が繋いで一つの社殿を形成しています」
  奥行:20.2m  間口:14.6m  高さ:9.5m

 楼門前の左右に狛犬があるが、通常の狛犬とは異なり、獅子と岩場を組み合わせたもので、特に右側のそれは、岩上にいる母獅子に向かって、下から子獅子が岩場をよじ登っている。
 「獅子は、わが子を深い谷底に突き落として、這い上がってくるもののみを育てる」という俗信を表したものであろう。


同・楼門 

同・社殿 
 
同・狛犬

 境内右手、社殿右前に2社宇があり。
*境内末社殿
 社殿寄りに鎮座する白い祠で、傍らの案内には
 「境内社として次の神社(神様)が祀られている。
  ・日枝神社 大山咋命・金山彦命・素戔鳴命・奥津彦命・奥津姫命
  ・山神社   大山祇命・火産霊命
  ・琴平神社 大物主命・水分命・水速売命・市杵島姫命
  ・霧島神社 邇々杵命
  ・高尾神社 穂見命
  ・社護神社 大己貴命・月読命
 (由緒)
  古い時代より当社境内地には、日枝神社を始め多くの神社がそれぞれ祀られてきた。
  そして何度かの合併がなされ、昭和33年、現在のように6社に合併された。
  その中で、社護神社が最も古く、古く本社の鬼門除とされていた。また、氏子崇敬者の信仰厚く『オシャゴツァン』と称えられ、親しまれていた」
とある。

*恵比須・大国社
 末社殿の右に鎮座し、福の神である恵比須・大国を祀る祠。

 
同・境内末社殿
 
同・恵比須・大国社

◎富士講
 境内の各所に富士講関連の石碑・板碑が多数立っている。
 参詣の栞には、
  「江戸時代から昭和初期にかけて、関東を中心に流行した庶民信仰で、開祖・長谷川角行(ハセガワカクギョウ・1541--1646)、中興・食行身禄(ジキギョウミロク・1671-1733)による教義を元に、富士山を信仰する宗教団体である。
 富士講の富士山登拝により、東口(須走口)本宮である当社や須走宿も栄え賑わった。
 特徴として、月拝み・七富士巡り等の行事のほか、神社等の境内に人工の山や丘『富士塚』を築き、富士山に見立てて登ることで、当時は大変困難であった富士登山を誰もが行えるようにしたり、富士山の開山に合わせて『お山開き』等の祭礼を行うことなどが上げられる」
とある。

 また、Wikipediaによれば、
  「富士講は、江戸時代初期(1610頃)に富士山麓の人穴で修行した角行という行者によって提唱された富士信仰に由来するもので、享保(1716--36)以来、村上光晴や食行身禄らの布教活動によって発展した。
 一般に地域社会や村落共同体の代参講としての性格をもっており、富士山の各登山口には御師の集落がつくられ(須走集落もその一つ)、関東を中心に布教活動を行い多くの参詣者を引きつけたが、明治以降、特に戦後、富士山や周辺が観光化し、気軽に登山できるようになると次第に衰微した。
 平成18年現在十数講が活動し、御師の家(宿坊)が3軒ある」
というが、10年経った現在、活動がどうなっているかは不明。
 当社境内に林立する石碑・板碑は、元々は江戸・麻生の富士塚に富士登山を記念して建てられたものを、講解散後当社に移されたものという。


富士講・板碑 
 
富士講・石碑

トップページへ戻る