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河口浅間神社
山梨県南都留郡冨士河口湖町河口
祭神--木花咲耶姫
                                                    20167.01.17参詣

 延喜式神名帳に、「甲斐国八代郡 浅間神社 名神大社」とある式内社の論社(候補社)
 甲斐国の式内・浅間神社の論社としては、当河口浅間神社の他に、一宮浅間神社(笛吹市一宮町、笛吹浅間神社ともいう)・一宮浅間神社(西八代郡市川大門町)・青沼浅間神社(甲府市青沼)があり、笛吹市の一宮浅間神社が有力とする資料が多い。

 富士山頂の北北東、河口湖の北東約1.2km に鎮座する。

※由緒
 頂いた参詣の栞には、
  「人皇第56代清和天皇の御宇、貞観6年(864)5月、富士山西北峰大噴火の事あり。富士山北面にあった大湖・剗ノ海(セノウミ・現青木ヶ原流域)埋没す。
 この様な大噴火の為、時の住民は甚大な災害を被く。
 この事、甲斐の国司・橘ノ末松公より朝廷に奏上、翌貞観7年12月9日の勅命により、鎮火の神・浅間明神を此の地に奉斎、擬ノ大領・無位・伴直眞貞(トモノアタイマサダ)を祝(ハフリ)に、伴秋吉を禰宜に任じ、冨士山噴火の鎮祭を執行す。これ当社の御創祀である。
 延喜の制により名神大社に列せらる」
とある。

 上記・貞観6年(864)の富士山の噴火について、三代実録(901)には
 貞観6年5月25日条に
  「駿河国言へらく、『富士郡の正三位浅間大神の大山に火あり。其の勢甚だ盛んにして山を焼くこと方一・二里許り、光炎の高さ二十丈許り、雷有り、地震(ナイフ)ること三度、十日余りを歴れども火猶滅(キ)えず。
 巌を焦し峰を崩し、沙石雨ふるが如し。大山の西北に本栖水海(モトスノウミ)あり、焼けし巌石、流れて海の中に埋れ、遠さ三十里許り、広さ三・四里許り、高さ二・三丈許りにして、火焔遂に甲斐国の堺に属(ツ)く』と」
とあり、富士山が大噴火し、その溶岩が甲斐国にまで達したという。

 続けて7月17日条に、
  「甲斐国言へらく、『駿河国冨士大山に忽ちに暴火あり。崗巒(カウラン・峰々)を焼砕し、草木を焦殺し(焼き尽くし)、土を溶かし石を流し、八代郡の本栖(モトス)并びに剗(セ)の両(フタツ)の水海(ウミ)を埋む。水熱くして湯の如し、魚龜皆死に、百姓の居宅(イエ)、海と共に埋もれ、或は宅有りて人無きもの、其の数記し難し。
 両の海より東にも亦水海有り、名付けて河口海(カワグチノウミ)と曰ふ。火焔(ホノホ)赴きて河口海に向ひき。
 本栖・剗等の海の未だ焼け埋れざる前、地大いに振動して雷電暴雨あり。雲霧晦冥(クワイメイ、暗闇に包まれ)して山野辨(ワカ)ち難く、然る後に此の災異有りき』と」
と、その災害の状況を報告し、

 更に、8月5日条に、
  「甲斐国司に下知して云ひけらく、
 『駿河国富士山に火ありて彼の国言上す。之を蓍龜(シキ・亀卜)に決するに云はく、「浅間名神の禰宜祝等、斎敬を勤めざるの致しし所なり」と。よりて鎮謝すべき状、国に告げ訖(オワ)んぬ。宜しく亦弊を奉りて解謝すべきなり』と」
とあり、富士山が噴火したので占ったところ、駿河国浅間神社の禰宜等が勤めを怠ったためと出た、よって甲斐国でも浅間名神を祀って神の怒りを解けと命じている。

 また、翌7年12月9日条には
  「詔して、甲斐国八代郡に浅間明神の祠を立てて官社に列ね、即ち祝・禰宜を置き、時に随ひて祭を致さしめ給ひき。
 是より先、彼の国司言へらく、
 『先の年、八代郡に暴風大雨雷電地震あり、雲霧杳冥して(暗くして)山野辨へ難し。駿河国富士山の西の峰、忽ちに熾火有りて巌谷を焼き砕きき。
 今年、八代郡の擬大領(大領=郡司、擬大領=大領候補者)無位・伴直眞貞託宣して云はく、
 「吾は浅間明神なり。此の国に斎き祭らるるを得んと欲し、この頃国吏の為に凶咎(祟り)を成し、百姓の病死を為す。然るに曾て悟らず。よりて此の恠(シルマシ・噴火)を成せり。早く神社を定め、兼ねて祝禰宜(ハフリ・ネギ)を任じ、宜しく潔め奉祭るべし」と。

 その時、眞貞の身、或いは伸びて八尺可り、或いは屈みて二尺可り、躰を替へて長短をなし、件の詞を吐きき。
 国司之を卜筮(ボクゼイ・占い)に求むるに、告ぐる所託宣と同じかりき。是に於て明神の願いにより、眞貞を以て祝と為し、同郡の人・伴秋吉を禰宜と為し、郡家以南(郡家の南)に神宮を造り建て、且つ鎮謝せしめき。

 然りと雖も異火の変今に止まず。使者を遣りて検察せしむるに、剗海を埋むること千町許り、仰ぎて之を見るに、正中の頂きに社宮を飾り造り、垣四隅に有り、丹青の石を以て其の四面に立つ、石の高さ一丈許り。石の門を相去ること一尺にして、中に一重の高閣有り。石を以て構(ツク)り営み、彩色の美麗言ふに勝(タ)ふべからず。
 願わくは斎き祭り、兼ねて官社に預かん』
との報告があったので、之を許した」
とある。

 これら一連の記録をまとめたのが上記案内で、清和天皇・貞観6年の富士大噴火を承けて、貞観7年、神の怒りを鎮めるために甲斐国にも浅間明神を祀る社を建て、官社に列せしめたのが当社と思われる。

 ただ、当社と同じく貞観6年の大噴火を承けて創建されたとの由緒をもついう神社として、笛吹市一宮町に鎮座する一宮浅間神社(笛吹浅間ともいう)があり、両社ともに、延喜式にいう「甲斐国八代郡在の浅間神社」(式内社)と称しているが、そのがどちらが式内社かについては諸説があり、確かなことは分からない。

 当社最初の祝・伴直眞貞の生没年など詳細は不明だが、伴直氏は秦氏系氏族ともいわれ、当社参道の途中にあって眞貞を祀るという「波多志社」(ハタシ)とは“秦氏社”を意味するという。

 貞観6年の大噴火は、後世“貞観の大噴火”と呼ばれ、山頂から北西約10km離れた斜面に発生した大規模な割れ目噴火で、その跡に形成されたのが側火山・長尾山(H=1424m)という(貞観大噴火は、江戸中期・1707の宝永大噴火とともに記録に残る2大噴火)
 この大噴火で噴出されたは溶岩の総量は約14億mともいわれ、溶岩流は北西山麓を広く覆い尽くし、北麓にあった最大水深100mといわれた広大な湖・剗の海(セノウミ)の大半を埋没させたという(その残欠が富士五湖のうちの西湖と精進湖)
 また溶岩流は、北麓の森林地帯を焼き払いつつ流れ下る際に、多くの溶岩洞(西湖蝙蝠穴など)や溶岩樹形(樹木が溶岩に包まれて焼け、溶岩の中に空洞となって残ったもの、鳴沢溶岩樹形など)を形作り、長い年月を経て冷えた溶岩流の上に形成されたのが原生林・青木ヶ原樹海という。

※祭神
  浅間大神(木花開耶姫命)
   (祭神については別稿・富士山本宮浅間大社参照)

※社殿等


河口浅間神社・社殿配置図
   
河口浅間神社からの富士山

 道路脇の〆鳥居から、民家に挟まれた参道を進むと、正面に朱塗りの大鳥居が立ち、境内に入る。
 大鳥居を入り、杉の大木に挟まれた参道を進むと随神門が建つ。
 なお、参道の中程に“波多志社”と称する小祠が鎮座する(下記)

 
河口浅間神社・〆鳥居
 
同・大鳥居
 
同・参道

 随神門を過ぎ、低い石段(2ヶ所)を上った先の境内中央に横に長い拝殿(切妻造平入)が、
 その奥、透塀に囲まれた中に朱塗りの本殿(一間社流造)が鎮座する。
 本殿について、参詣の栞には、
 「貞観7年(865)に富士の噴火の怒りを静めるために勅令によって建てられたが、慶長11年(1606)焼失、翌年領主鳥居土佐守成次が再建する。
 この本殿は、一間社流造で唐破風付の向拝を備えた折衷様の建物で、宮大工関善左衛門尉藤原家継らの手で完成した。
 昭和40年、鎮座百年祭記念事業として解体修理し、元の状態に復した」
とある。

   

◎末社

*波多志社(ハタシ)
  参道中程の真ん中に鎮座する小祠

  浅間大神からの「吾を当地に祀れ」との神宣を受け、朝廷に上奏して当社を造営し、
  当社初代祝(ハフリ)となった伴直真貞(トモノアタイマサダ)を祀るという(三代実録)

  伴直真貞の出自は不詳だが、説によれば渡来氏族・秦氏に連なる人物で、
  社名の波多志とは秦氏を意味するともいう。



 

 境内右奥に
  ・諏訪神社  ・山の神社   ・出雲社 
 境内左奥に、
  ・山宮社(写真なし)
 拝殿左前に
  ・合祀殿(明治後期の神社整理令によって合祀された近傍小社13社を合祀する)  ・社名不明小祠
が鎮座するが、いずれも祭神名等の表示はない。

 
末社・諏訪神社
 
同・山神社
 
同・出雲社
 
左:社名不明・右:合祀殿 

 参詣の栞によれば、上記末社以外に
 ・白滝神社(万幡豊秋津師姫) ・産屋ケ崎神社(彦火火出見尊・豊玉姫命)があるというが、境外末社のため不参詣

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