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北口本宮冨士浅間神社
山梨県富士吉田市上吉田
主祭神--木花開耶姫命
相殿神--天孫彦火瓊々杵命・大山祇神
                                                            2017.01.17参詣

 富士山頂の北北東、河口湖の南南東に鎮座する。

※由緒
 頂いた参詣の栞には
 「人皇12代・景行天皇40年(110)、日本武尊ご東征の砌、箱根足柄の坂本(相模国)より甲斐国酒折宮へ向かう途次、当地御通過、大塚山にお立ちになられ、親しく富士山の神霊を御遙拝され、大鳥居を建てしめ、『富士の神山の北方より登拝せよ』と勅され、祠を建てて祀ったのが始まりとされている。

 延暦7年(788)、甲斐国主・紀豊庭朝臣(キノトヨヒロ)が占し、現在の位置に神殿を建て浅間の大神を奉り、大塚山には日本武尊の神霊を祀った」
とある。

 当社は、その創建を日本武尊に求めているが、記紀に尊と当地との直接的な関係は見えない。
 ただ古事記によれば、尊は、東征の帰路、
 「その国(相模国)より(足利峠を)越えて甲斐に出でまして、酒折宮(サカオリノミヤ)に坐しし時、
   『新治(ニイバリ)・筑波を過ぎて 幾夜か寝つる』
とう歌ひたまひき、ここに御火焼(ミヒタキ)の老人(オキナ)、御歌に続ぎて歌ひて曰く、
   『日々並べて 夜には九夜 日には十日を』
と歌ひき、・・・」
とある。

 日本武尊は帰路、当地付近を通ったといわれ、酒折宮は甲府市酒折の酒折神社(祭神:日本武尊)に比定されているが、神話上での話でありその真偽は不明。

 当社創建の地・大塚山とは、当社の南西約400mにある山(H=887m、頂きに日本武尊を祀る祠あり)で、その案内(富士吉田市教育委員会)には
 「大塚山
  日本武尊東征の折、相模国・足利坂本から越えて甲斐国に入り、酒折宮に行かれる途中、この丘に登って富士の霊峰を遙拝したと伝えられている。
 このことを知る里人は、丘の上に社殿を建て、浅間大神を祀り日本武尊を合祀した。
 その後延暦7年(788)、甲斐守・紀豊が丘の北東に社殿を創立し浅間大神を遷座させたのが、今の北口本宮浅間神社のはじめであり、丘上には日本武尊が祀られている」
とあり、上記の当社創建由緒と略同意文が続いている。

 いずれも当社創建を日本武尊に付会したものだが、山梨県一帯には日本武尊に関わる種々の伝承があり、当社由緒もその一つといえる。

 ただ、ネット資料(Wikipedia)には、当社の歴史として
 「延暦7年に甲斐守である紀豊庭が現在地に社殿を造営したと伝わる。中世には当地の領主・小山田氏の庇護を受けた。
 社号について、地誌・甲斐国志(1814)には次のように記される。
  『往古より、此の社中を“諏訪ノ森”と称するは、浅間明神勧請せざる以前より、諏訪明神鎮座ある故なりと云う・・・』
 このように古来より社中に“諏訪ノ森”が位置し、諏訪神社の鎮座地に浅間神社を勧請したと伝わる。当初は諏訪神社であったと考えられている。・・・(中略)・・・
 甲斐国志(1814)によると、永禄4年(1561)武田信玄は吉田の諏訪の森の木を伐ることを禁止し、同年に富士権現を造営したとあり、これらの事柄から、永禄4年の武田信玄による富士権現造営が、現在の北口本宮富士浅間神社の元になるものであるとし、それ以前は諏訪社のみが鎮座していたとする」
とあり、
 延暦7年の紀豊庭による社殿造営は同じながら、現鎮座地(諏訪ノ森)には、嘗て諏訪神社が鎮座していたとあり(その鎮座由緒は不明)、その経緯は異なっている。
 ただ、当社摂社に諏訪神社があることからみると、Wikipediaにいう由緒の方が実態に近いのかもしれない。

 当社社殿を造営したという甲斐守・紀豊庭の生没年等は不明だが、続日本紀・延暦3年(784)4月30日条に、
  「従五位下・紀豊庭を甲斐守に任じ・・・」
とあり、延暦3年4月から同8年3月までその任にあったというから、紀豊庭が当社の造営に関与した蓋然性は高い。

 なお由緒がいう天応元年の富士山噴火とは、続日本紀(869)・天応元年7月6日条にいう、
  「駿河国が『富士山の麓に灰が降って、灰のかかった処の木の葉が萎えしおれました』と言上した」
との記録を指す(正史上での富士山噴火の初見)

※祭神
  木花開耶姫命  天孫彦火火瓊々杵尊  大山祇神
   (祭神については、別稿・富士山本宮浅間大社参照)

※社殿等
 一の鳥居を入り、大杉に挟まれた参道を進んだ先に朱塗りの大鳥居が立ち境内に入る。

 
北口浅間神社・一の鳥居
 
同・参道

同・大鳥居 

 大鳥居を入った正面に朱塗りの随神門が、その先に朱塗りの神楽殿が建つ。
 参詣の栞には、
 「享保18年(1733)、江戸の富士講村上派を率いる村上光晴が、弊殿・拝殿・神楽殿・手水舎・随神門を造営した」
とある。


同・随神門 
 
同・神楽殿 

 神楽殿の背後に唐破風付向拝を有する朱塗りの拝殿(切妻造・平入、県指定重要文化財)が、
 その奥、弊殿に続いて朱塗りの本殿(入母屋造、国重要文化財)が北面(正確には北東方)して鎮座する。
 本殿について、案内には
  「本殿は元和元年(1615)に谷村城主鳥居土佐守が桃山様式に再建」
とあるのみで、前後の変遷など不明。

 
同・拝殿
 
同・本殿 

◎攝末社
 本殿の左右に小社4宇が鎮座する。
*東宮--本殿の左に鎮座 国重要文化財(明治40年指定)
  脇に立つ案内には、
   「祭神 天津日高彦火火出見尊 富士権現とも呼ばれた。
  貞応2年(1223)北条義時の創建とも伝えられるが、現社殿は、永禄4年(1561)武田信玄が川中島合戦の戦勝祈願して浅間本社として造営したものである。
  その後、文禄3年(1594)に浅野氏重、元和元年(1615)に鳥居成次が修理し、さらに、慶安2年(1649)と延宝6年(1678)には秋元氏、享保19年(1734)には村上光晴による修理が加えられた。
 本殿は身舎梁間一間、桁行一間で、前面に向拝を付ける一間社流造である。(中略)
 昭和27年(1952)に解体修理をおこなった。」
とある。
 祭神・天津日高彦火火出見尊とは、当社祭神・木花開耶姫命と夫君・瓊々杵尊との間に生まれた御子で、別名・山幸彦の名で知られる。

*神武天皇社--東宮の左に鎮座する小祠(一間社流造)
   祭神--神倭磐余彦之命(神武天皇)
   祭神・神武天皇は東宮祭神・天津日高彦火火出見尊の孫にあたることから、東宮の傍らに祀られたとも思われるが、詳細不明。

*西宮--本殿の右に鎮座  国重要文化財(昭和27年指定)
   脇に立つ案内には、
   「祭神 天照大神 ・豊受大神 ・琴平大神 
  文禄3年(1594)谷村城主・浅野左衛門佐氏重により東宮に替わる本殿として建立されたが、元和元年(1615)鳥居成次の本殿(上記東宮修理か)建立により現在地に移され西宮となった。その後、享保19年(1734)村上光晴により大修理がおこなわれた。
  全体の形式は東宮と同じ一間社流造であるが、両側面と背面は二間で一間の向拝を付ける。(中略)
  昭和39年(1964)解体修理を行った」
とある。
 アマテラスとトヨウケ大神は伊勢神宮の祭神で、室町以降の伊勢信仰の興隆に伴って祀られたと思われるが、水神・琴平大神(金比羅権現)を祀る由縁は不明。

*小御嶽遙拝所
   西宮の右にある小さな祠で小さな鳥居をもつ。詳細不明。

 
神武天皇社
(東宮の左に鎮座)
 
東 宮
(左にみえる屋根の一部が神武社)
 
 西 宮
(右に小御嶽遙拝所の鳥居がみえる)

*末社群
 境内の右手(西側)に小祠9宇が並ぶ。
 南側より ( )内は祭神
  ・日之御子社(日之御子大神) ・池鯉鮒社(チリフ・少名彦名命) ・倭四柱社(荷田東麿大人・賀茂馬淵大人・本居宣長大人・平田篤胤大人
  ・日枝社(大山咋神) ・日隆社(高皇産霊神) ・愛宕社(火結神) ・天津神社(天神八百万神) ・国津神社(国神千五百万神) 
  ・天満社(菅原道真)
   日之御子大神の出自・神格不明、ヒノミコということから太陽神かとも思われるが・・・。

 
末社(左が日之御子社)
 
日之御子社

池鯉鮒社 

倭四柱社 
 
日枝社
(以下・天満社まで同一形)

*諏訪神社(建御名方神・八坂刀売神)
 境内右手(西側)奥に鎮座し、拝殿・本殿(朱塗り流造)を有する。
 甲斐国志に「当地には、浅間神社の勧請以前から諏訪明神が鎮座していた・・・」という諏訪神社が、摂社として残ったものと思われる。
 今は杉の大木に囲まれた中にひっそりと建つ社で、これに気がつく参詣者はほとんどない。


諏訪神社・拝殿 
 
同・本殿

*下諏訪社子安社合祀殿 --諏訪社の右前に鎮座(中に小祠2宇が並ぶ)
*風神社(志那都比古・志那都比売)--諏訪社左前の大杉の根元に鎮座する小祠

 
下諏訪社子安社合祀殿
 
風神社

*恵毘寿社(事代主神・大国主神)
  本殿背後の唐破風を有する向拝部に祀られている。所謂“後戸の神”かと思われるが奉祀理由は不明。
*祖霊社
  境内右奥に鎮座する小祠

 
恵毘寿社・側面
 
同・正面

祖霊社 

 また、参詣の栞によれば、諏訪社諏訪社左前に三殿社・三神社が、大鳥居の右手に稲荷社・青麻社との小祠があるというが、参詣時には気づかなかった。

 一の鳥居から大鳥居に至る参道の中程に、仁王門礎石(参道の左右)・角行の立行石(右礎石跡の隣)がある。
 傍らの案内には、次のようにある
*仁王門礎石(国指定史跡・富士山構成要素)
  北口本宮富士浅間神社境内には、神仏混淆時代、三重塔・鐘楼・仁王門など、仏教色の濃い壮麗な堂塔があり、美麗な調和をみせていた。
  明治初年、神仏分離令施行の際に撤去され、三重塔・鐘楼は失われて、現在その跡を確認することはではない。
  市内・下吉田の臨済宗寺院・月江寺(ゲッコウジ)が護持してきた仁王門も取り払われたが、幸いにして礎石はその難を逃れ、往古のままに現存して昔日の面影をしのばせている(平石の礎石が参道左右に各6基ずつ残る)
  因みに、この仁王門の規模は、梁間一丈八尺(約5.5m)・軒高六間(約11m)といえ記録が残されている。

*角行(カクギョウ)の立行石(タチギョウイシ)(国指定史跡・富士山構成要素)
  この立行石は、慶長15年(1610)の冬、富士講の開祖・角行東覚(当時69歳)が吉田の地を訪れ、富士山霊を遙拝し、極寒の中を裸身にて石上に爪立ちして30日間の荒行をし、全身から血を噴き、里人の勧めで行を止めたと伝えられている。
  角行は本名を藤原武邦といい天文10年(1541)正月15日九州長崎で生まれ、戦国の世にあって天下泰平・国土安穏・衆生済度の大願を成就すべく難行苦行の道に入った。
  永禄2年、18歳で故郷を出立ち、岩手県盤井郡の脱骨の窟(ダッコクノイワヤ)で37日の行をなし、のち神告により富士の人穴(ヒトアナ)に入り、四寸五分角(約14cm四方)の材木に一千日爪立ちするという捨身の荒行を終え、解脱して角行と称した。(以下略)
 正保3年(1646)106歳で大往生したが、終生修行に徹し富士登山128回に及んだといわれ、富士講の開祖という。
 なお、富士講とは江戸時代に関東を中心に流行した民俗宗教の一つ。


仁王門礎石
参道左側、右側にも同様の石あり) 
 
角行の立行石

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