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冨士御室浅間神社
山梨県南都留郡冨士河口湖町勝山
祭神--木花咲耶姫命
                                                                2017.01.17参詣

 富士山頂の北(やや東)、富士急・河口湖駅の北西約300mの河口湖南岸(中央やや東より)に接するように鎮座する。
 当社は富士山二合目にある本宮と、勝山にある里宮の2宮から成っていたが、昭和48年に本宮の本殿を里宮社境内に移築し一社二宮態勢となっている。

※由緒
【本宮】
 頂いた参詣の栞には
 「富士山最古の社。
 文武天皇3年(699)、藤原義忠公が霊山富士二合目に奉斎。
 養老4年(722)、雨屋建立
 大同2年(807)、坂上田村麻呂卿が蝦夷征伐の御礼として社殿を創建。
 噴火のための数次にわたる炎上と、自然条件厳しい場所のために腐朽激しく、その都度皇室及び武田家をはじめとした武将等により再興が重ねられてきた」とあり、

 その他の資料として
 ・社名の御室とは、嘗て、石柱をめぐらせた中で祭祀をおこなっていたことによる
 ・村上天皇・天禄2年(598)、氏子祭祀の利便のため、河口湖南岸の現在地に里宮が創建された
 ・大永5年(1525)、武田信虎公(信玄の父)の修復のとき、崇敬のあまり、甲府古城と当社社門を南北相向かわしめ、以て朝夕遙拝の便を図り、武田家の祈願所となる(今、境内に「武田信玄公祈願所」との石柱が立つ)
  (現甲府城は豊臣秀吉による築造で、案内がいう甲府古城は、武田三代の居城・躑躅ケ館であろう、当社の北北西・甲府市所在)

 当社に関する何れの資料も、当社は富士山中最古の浅間神社で、文武天皇3年・藤原義忠による奉斎というが、それがどのようなものだったかは不明。
 しかし、書紀・文武天皇(697--700)段に富士山噴火あるいは祭祀にかかわる記述はなく、また文武朝前後に藤原義忠との名はみえない(時代からみて、不比等の子か孫の世代と思われるが、藤原氏系譜にも見えない)
 
 ただ、柿本集(柿本人麻呂の歌集、編纂年不明)との歌集に
 「ふじのねの たえぬ思いを するからに 常磐に燃ゆる 身とぞ成りぬる」
との歌があり、7世紀末から8世紀初頭の作と推定されることから、文武帝の御代(あるいはその前後)に噴火があったともとれるが、我が身の燃える想いを、常に火を噴いている富士に譬えたともとれ、これを以て富土山噴火の有無は判断できない。
 (富士山が火を噴く山であることは広く知られていたようで、万葉集にも十数首の歌があるが、それらが実際の富士噴火に連なるとは思えない)

 富士山二合目にある本宮(当社南約6.5km、富士山頂の北北東約2.7km)は、平城天皇・大同2年(807)・坂上田村麻呂による社殿造営という。
 坂上田村麻呂の蝦夷征伐について、日本後記(869)には
 ・延暦16(797)年11月5日 従四位坂上大宿弥田村麻呂を征夷大将軍に任じた
 ・ 同 20年(801)2月14日 征夷大将軍坂上田村麻呂に節刀を授けた
 ・  同      9月27日 征夷大将軍坂上田村麻呂が「服属しない蝦夷を討ち平らげた」と言上した
 ・ 同 21年(802)1月9日  従三位坂上大宿弥田村麻呂を遣わして陸奥国の胆沢城(岩手県奥州市)を築造させた
 ・ 同 23年(804)1月28日 従三位坂上大宿弥田村麻呂を征夷大将軍に任じた(蝦夷の地に出生したかどうかは不詳)
とあるが、田村麻呂と当地との関係はみえない。
 ただ、延暦21年1月7日条に「陸奥国の三神の神階を上げた。征夷将軍が霊験があったと奏上してきたことによる」とあり、田村麻呂には蝦夷征伐に神々の助力があったとの認識はあったようだが、その中に富士の神が含まれたかどうかは不明。

 なお理由は不詳だが、何故か、大同2年を以て創建年次とする社寺が多く(特に東北地方)、また、それを坂上田村麻呂に仮託するものが多い。当社もその一つであって、これも伝承の類いであろう。

 当社は、富士山中最古の浅間神社というが、これは文武3年奉斎という伝承によるもので確証はなく(創建年次を5代孝昭天皇・11代垂仁天皇・12代景行天皇の御代とする伝承をもつ浅間神社がある、また、富士山麓の浅間神社十数社の中には大同元年1社・同2年4社(当社を含む)があり、これらからみて、当社を以て富士山中最古というのには疑問がある。

 ただ日本後記には、富士山は延暦19年(800)3月・4月、同21年(802)1月に噴火したとの記録があり、21年には、
 「駿河・相模の両国に、神の怒りを宥めて読経を行い、災いを払うようにせよ」
と命じており、当社の創建も命に従って、延暦21年以降の何時の頃か(大同2年も含まれる)に創建されたのかもしれない。

 当社の元宮という本宮は、今、富士吉田町上吉田にある勝山地区飛地(当社の南約6.5km)に跡地があるが、そこでの祭祀は社殿をもつものではなく、石柱を立て並べた中に神籬(ヒモロギ)を設けての神マツリだったと思われる(ストーンサークルに類する施設か)
 今、本宮跡に残る社殿は廃屋と化し、柵に囲まれた中に小さな石祠があるのみというが、実見しておらず実態不詳。

【里宮】
 参詣の栞には
 「天徳2年(958)、村上天皇が崇敬者の礼拝儀祭の便を図るため、老松繁現在の場所に建立。
 以来、武田家・小山田家・徳川家からあつい信仰や、手厚い庇護を受けてきた。
 現在の建物は、明治22年に再建したもの」
とあるのみで、詳しいことは不明。

※祭神
  木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)
   (祭神については別稿・富士山本宮浅間大社参照)

※社殿等

 駐車場がある西側から入った(右配置図の右下)

 西鳥居を入り参道を進んだ右側に本宮が、その先左側に里宮が鎮座する。

 里宮から南へ真っ直ぐに表参道が延び(両側に石灯籠が並ぶ)、その先に大鳥居が立ち、その先、民家の屋根越しに富士山が聳えている。

 本宮の本殿は北面しており、本殿を通して南の富士山を拝するように鎮座し、
 里宮のそれは南面し、富士山に対面するように鎮座している。 


社殿配置図(左が北)

御室浅間神社・西鳥居 
 
同・南の大鳥居

南に聳える富士山 

【本宮】
 西鳥居からの参道の右手、少し入った処に朱塗りの拝殿が建ち、左右に朱塗りの廻廊が延びる。
 廻廊及び透塀に囲まれた中が本殿域で、中央に朱塗りの本殿が北面して鎮座する。国重要文化財(昭和60年指定)

 境内に掲げる案内によれば、
 「現在の本殿は、慶長17年(1612)時の領主・鳥居土佐守成次公により富士山二合目に造営されたもので、
 構造は一間社入母屋造、屋根は(当時)檜皮葺き、正面は軒唐破風付向拝を設け、・・・
 桃山時代の特色をもち、建立年時の確実な豪壮優雅な建造物である。
 慶長17年以来、富士山二合目(旧登山道沿い)にあり、積雪風雨・霧等激しい気象条件のなかで度々修理がおこなわれ、保存に万全を期してきたが、
 昭和39年(1964)スバルラインの出現により旧登山道が荒廃を極めると共に、余りにも厳しい自然条件のなかにあり、永久保存が至難であるため、
 昭和48年(1973)現在地に移築復元し、昭和49年5月完工、重要文化財の指定を受け現在に至っている」
とある。

 
同・拝殿

同・本殿
 
同・本殿(側面)

【里宮】
 本宮前を過ぎた左側に建つ随神門を入った境内正面に拝殿(千鳥破風向拝付き入母屋造)が、
 その奥、弊殿に接して本殿(切妻造・平入り)が建つ。
 栞には、「現在の建物は、昭和22年(1947)の再建」とあるのみで、詳細不明


里宮・随神門 

同・拝殿 

同・本殿 

◎末社
 里宮本殿を背後から囲むように末社6社(石祠)が鎮座する
 東から
  ・天神雷神合祀社  ・疱瘡社  ・片山社  ・天津神国津神合祀社(本殿背後に接して鎮座)  ・石割社  ・稲荷社
 いずれも社名のみの表記で、祭祀由緒・祭神名不明。


天神雷神合祀社 

疱瘡社 
 
片山社

天津神国津神合祀社 

石割社 
 
稲荷社

 また、表参道の両側に末社4社が鎮座する。(参詣時に東側のそれは気がつかず写真なし)
 参道西側
  ・魔王天神社  ・山神社
 参道東側
  ・山神社  ・八坂神社
 社名は参詣の栞によるもので、祭神名・祭祀由緒など不明。

 
魔王天神社
 
山神社

◎その他

*天狗面
 本宮拝殿の左右の柱に天狗の面が掛かっている。

 案内等なく、何故この面が掛かっているのかは不明。
 ただ、嘗ての浅間信仰には修験道的色彩が強く、江戸時代には富士講などを通じての富士浅間信仰が流行したというから、修験道と何らかの関係があるかとも思われる。 
 

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