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宇治/平等院(鳳凰堂)
京都府宇治市宇治蓮華
                                                         2015.03.26参詣

※創建縁起
 宇治の平等院は、元々、源氏物語の主人公・光源氏のモデルともいわれる源融(ミナモトノトオル・822--95、嵯峨天皇の12男)の別荘だったが、幾人かの手を経て宇多天皇の孫にあたる源重信(ミナモトノシゲノブ・922--95)の手に渡り、その死後、藤原道長(966--1027)が買いとって別邸・宇治殿と称し(998)、その死後、子の頼道(990--1074)が受け継ぎ、晩年になって別邸を仏堂に改造して平等院と称したという(1052)

 今、平等院といえば朱色に輝く鳳凰堂のみが却光を浴びているが、創建時のそれは本堂・阿弥陀堂(現鳳凰堂)の他、藤原一門の造営にかかる法華堂(1056)・多宝塔(1061)・五大堂(1066)・不動堂(1073)・経蔵(1073以降)など七堂伽藍を備えた大寺院だったといわれ、南北朝動乱期におこった宇治合戦(1336)によって阿弥陀堂を除き殆どが消失したという。
 その様を太平記(巻14、後醍醐帝即位以降の南北朝動乱期約50年間を描く軍記物語・1370頃成立という)
 「宇治へは、楠木判官正成に大和・河内・和泉・紀伊国の勢五千余騎を副え向らる。橋板四五間はねはずして、河中に大石を畳あげ逆茂木繁くえりたてて ・・・
 敵に心安く陣を取らせじとて、橘の小島・植島・平等院のあたりを一宇も残さず焼き払ひける程に、魔風大廈に吹き懸りて、宇治の平等院の仏閣宝蔵忽ち焼ける事こそ浅ましけれ」
と記す。

 
平等院・社殿配置図(現在・資料転写)
 
旧平等院・復元図(資料転写)

※鳳凰堂
 今に残る鳳凰堂は、平等院創建の翌年・天喜元年(1053)の造営で、阿字池の中の小島に、屋根の上に黄金の鳳凰像を戴く中堂(チュウドウ)を中心に、その左右に翼廊(ヨクロウ・両端に隅楼が乗る)が延び、中堂の背後に尾廊(ビロウ)が延びる全体像が、鳳凰が翼を拡げて舞いあがる姿に似ていることから“鳳凰堂”と呼ばれる。
 この呼称は江戸前期(1670年頃)にはじまるもので、平成24~26年にかけて平成の大修理がおこなわれ、往年の輝きを取りもどしている。

 
平等院鳳凰堂・全景

鳳凰堂・南隅楼 

鳳凰堂・中堂 
 
鳳凰堂・尾廊
 
鳳凰堂・正面模式図
 
鳳凰堂・平面図

 平等院については多くの案内書があるが、平等院刊の冊子・平安色彩美への旅(2014)は、
 「末法という時代では、人が誰しも望む救済が非常に難しくなるとされました。自分が救われる道がなくなるということは、終末思想以上の恐怖です。人々は神権に救いを求め、今の命のありようを凝視しました。それが浄土教であり、供養としての美が求められた時期でもあります。
 この御堂の中心には定朝(ジョウチョウ)作とされる阿弥陀如来が安置されています。
 堂内の荘厳は、それ以前の唐様から変化した和様の極地ともいえる表現で飾り尽くされています。
 その仏・絵画・荘厳、全てが来迎という一つの切ない願いで貫かれていることも事実です。それは堂内だけではなく、建造物 全体・庭園にまで及ぶ考えです。
 平等院について、『浄土をこの世に現出すべく頼道によって建立された』と説明される向きもありますが、実際の頼道の記録ではそういった発言は見あたりません。
 限りなく自己の“いのちの表現”の希求と、為政者としての頼道が“救済の敷洐”を実現した平等院の美。
 自然と人の手による造形美の積層こそが平等院ではないでしょうか」
と記している。

 今の鳳凰堂内部は、阿弥陀如来像を除いて、周囲の扉・壁・柱を飾っていた荘厳の殆どが落剥し、創建時の華麗なさは跡形もないが、各種調査を基にした想定復元によれば、経典に記す極楽浄土を地上に再現したような美麗且つ荘厳なものだったと推測される。

◎本尊--阿弥陀如来座像
 中堂中央の須弥壇上には、宝相華文様で飾られた後背を背に、丈六の阿弥陀如来(座高:2.77m・金箔貼)が安置されている。
 この座像は、平安の大仏師・定朝(?--1057)作であることが唯一確実という仏像で、鳳凰堂落慶と同じ天喜元年(1053)3月4日に開眼供養されたという。

  
阿弥陀如来座像(資料転写)
 
窓越しの阿弥陀如来
(資料転写)

◎九品来迎図

 中堂内、阿弥陀仏座像を取りまく内壁は九品来迎図(クホンライゴウズ)と呼ばれる障壁画9面で飾れていた(右図)

 来迎とは、浄土往生を願う人が臨終を迎えたとき、阿弥陀如来が菩薩らを引き連れて迎えにくるという信仰で、大無量寿経にいう法蔵菩薩48願のひとつ19願には、
 「十万の衆生が菩提心を興し、諸々の功徳をおさめ、浄土に生まれ変わろうと念ずるならば、命が終わるときに、自分は菩薩らとともにその人を迎えに行くであろう。もし現れなかったならば、自分は仏にならない」(大意)
とある。

 九品(クホン)とは、その人の生前に積んだ功徳や信仰の程度によって、来迎の仕方に違いがあるというもので、観無量寿経によれば、
 ・まず上品(ジョウホン)・中品(チュウホン)・下品(ゲホン)に別れ、
 ・更に、それぞれが上生(ジョウショウ)・中生(チュウショウ)・下生(ゲショウ)に細分され、
 ・その違いによって、来迎する如来菩薩の数・蓮台に違いがあるという。 

九品来迎図・配置図

 上品--仏法を信じ、戒律を守り、一心に修行に励んだ人
 中品--仏法を知って戒律を守り、善行を積み、人の道を守った一般の善男善女
 下品--仏法を信ぜず、戒を破り、悪行を為した悪人だが、臨終に際して翻意して念仏を唱えた人

 九品毎の来迎について、観無量寿経は、例えば
 ・上品上生--至誠心・深心・回向発願心をもって浄土に生まれたいと願い、戒を守り念仏を唱え善行を積んだ人は、その臨終に際して阿弥陀如来は観音・勢至の2菩薩を先頭に無数の諸仏・諸天らを率い、七宝の宮殿と金剛の蓮台をもって来迎する。
 ・下品下生--仏法を知らず五逆や十悪といった悪行を重ねた極悪人であっても、臨終に際し、善知識の教えによって悪行を悔い念仏を唱えさえすれば、阿弥陀如来は金色に輝く蓮台を遣わして来迎する(阿弥陀如来・菩薩の来迎はない)
という(大意)

 このように九品は、その人の資質・能力・信仰の程度・生前に積んだ功徳等によって9っのランクに区分しているが、何れも念仏を唱えることによって極楽に往生できるという。
 このランク付けについて、浄土宗の開祖・法然は「善人でも悪人でも同じように極楽に往生できると説いたなら、とくに悪人は慢心をお越すであろうことを懸念して、あえてこのように説かれたもので、いわば巧みな方便である」といったというが、一切衆生の極楽往生を標榜する法然としては、こう云わざるをえないのかもしれない。
 ただ宗派によっては、一切衆生は全て仏性をもつとする一切皆成説(天台宗など)と、人は資質によって5段階に分かれ、どうしても悟れない無種性の人があるとする説(法相宗)とがあったというから、仏説では資質・能力等によるランク付けが是認されていたともいえる。


南面・下品上生図 
 
東面
中央:上品上生図
左:上品中生図
右:上品下生図


北面・中品中生図

注--平安色彩美への旅より転写 

 ただ、経では下品上生の人には阿弥陀如来と観音・勢至2菩薩が来迎するとあるが、鳳凰堂のそれでは来迎する仏・菩薩らが20躰余を数えるように(上左写真)、経にいう来迎の忠実な再現ではないという。

◎雲中供養菩薩
 中堂の長押上には、雲中供養菩薩と称する菩薩像52躰(桧材)が天空に舞っている。
 オリジナルは全て国宝であり、その内26躰が鳳翔館ミュージアムに展示され、鳳凰堂内には、今回の大修理に伴って新たに模刻された菩薩像が舞っている。

 平安色彩美への旅によれば、
 「この菩薩は、阿弥陀如来とともに来迎する菩薩であり、阿弥陀如来の徳を賛美する菩薩であり、仏を信じる者を護念する菩薩でもあります。
 つまり、鳳凰堂の雲中供養菩薩は、仏に対する供養と、堂内にいるものに対する供養という二面性をもち、さらに来迎という三重構造をもっていることになります。
 各像は、たなびく飛雲上に乗り、頭光輪光を負い、緩やかな天衣ほまとっています。5躰は僧形で他は菩薩形。合掌・印を結ぶもの、様々な楽器を奏で、あるいは持物を執ったり、合掌したりしています」
とある。
 下菩薩像は芸術新潮(2014.12.号)、想定復元は平安色彩美への旅からの転写

     
       
 
鳳凰堂内・想定復元

 雲中菩薩彩色・想定復元

同 左

※その他の堂舎
 鳳凰堂の北から西にかけて幾つかの堂舎がある。
◎観音堂
 境内の北東部(鳳凰堂の北側)に建つ堂舎で、旧平等院の本堂跡に建立されという。傍らの案内には
  「均整のとれた姿は、鎌倉時代初・中期の特徴をよくあらわしている。
  当初は、中央に須弥壇を置く程度であったとみられ、道場的空間に相応しい簡素な建物である」
とある。

 鳳凰堂西側は、北の最勝院境内と南の浄土院境内に別れている(説明は当寺公式HPによる)
◎最勝院
   承応3年(1654)、京都東洞院六角勝仙院(住仏院)の僧が平等院に移り、その住庵を最勝院と呼んだことに始まる天台宗系の単立寺院
◎不動堂--最勝院の左
   不動明王を本尊とする最勝院の本堂
◎地蔵堂--不動堂の左
   この前に源頼政の墓あり


観音堂 

最勝院

不動堂

地蔵堂

 南の浄土院境内
◎羅漢堂--境内北に南面する小堂
  宇治の茶師・星野浄安道斎とその弟子たちにより、嘉永7年(1670)建立
◎浄土院
  浄土宗の栄久(エイク)上人が、明応年間(15世紀後半)に平等院修復のため建立したと伝える
◎浄土院大書院--浄土院の左
◎浄土院・養林庵書院--大書院の左、白壁の中
  慶長6年(1601)、加傳和尚が伏見城より移築したと伝える


羅漢堂

浄土院

大書院
 
養林庵書院
 鳳凰堂の南側、やや小高い処に鐘楼が建つ。
 梵鐘について、傍らの案内には
 「日本三銘鐘の一つ、昭和47年鋳造の二代目」
とある。

 鐘楼の東下に六角形の四阿が建つ。
 多宝塔があったといわれる場所で、礎石跡らしいものが見える

鐘 楼 

塔 跡

※扇の芝
 観音堂の北側に「扇の芝」と呼ばれる三角形の一画があり、平家政権の中で唯一人生き残っていた源氏の長老・源三位頼政(1104--80)が戦いに敗れて自刃した場所という。

 平家物語によれば、治承4年(1180)、平家打倒を企てが洩れた以仁王(モチヒトオウ・後白河帝の第3皇子、1151--80)と頼政は、京を脱出して南都奈良に向かう途上、宇治の地で平家の追っ手と合戦に及び、宇治橋の橋板を落とし川を挟んで華々しく合戦するも、衆寡敵せず戦いに敗れ、以仁王は脱出、頼政は平等院内のこの処で自刃、その首は郎党によって宇治川に沈められたという。
 この地が扇の芝と呼ばれるのは、頼政が開いた軍扇の上で自刃したとの伝承によるというが、“講釈師 見てきたような嘘をつき”の類いであろう。

 頼政最後の様を、平家物語(巻4・宮御最後の段)
 「三位入道七十にあまって戦して、弓手の膝口を射られ、痛手なれば、心静かに自害せんとて、平等院の門の内へ引き退き・・・、西に向かひ、声高に十念(念仏)唱へ、最後の詞(コトバ)ぞあわれなる。
   埋もれ木の花咲く事もなかりしに 身になる果てぞ 悲しかりける
 これを最後の詞にて、太刀の先を腹に突き立て、うつ伏せにつらぬかってぞ失せられける。
 (郎党)その頸をば(念仏を)唱へ取りて泣く泣く石に括りあわせ、敵のなかをまぎれいでて、宇治川の深き処に沈めけり」
という。
 この時、以仁王は宇治から脱出はしたものの、味方する南都衆徒と合流する前に追っ手に追いつかれ、光明山(相楽郡)の鳥居前で討ち取られたという。

 なお、頼政の墓と称する宝篋印塔及び顕彰碑が境内北西部・最勝院境内の片隅に立っているが、その建立経緯などは不明。

 
扇の芝
伝・源頼政自刃の場

源頼政の墓
 
源頼政顕彰碑

 ただ、平家物語は、宇治川を挟んで華々しい合戦があったというが、同時代の貴族の日記によれば、実際は、平等院付近で小競り合いがあっただけで、頼政は討ち取られ、その首は京に運ばれ曝されたという。


【時代背景】
 以下、平等院創建にかかわる時代的な背景について簡単に記す。
◎末法思想
 仏教には、釈尊の教えが時代を経るにつれて次第に衰えていくという歴史観がある。
 これによれば、釈尊入滅後の此の世は
 ・正法(ショウホウ)--釈尊の教えが正しく残り、教えに従って修行する人がおり、その結果として悟りを開く人(覚者)がいる時代
 ・像法(ゾウホウ)--正しい教えが残り、修行者はいるものの、覚者はいなくなる時代
 ・末法(マッポウ)--教えは残るものの、修行者・覚者ともにいなくなる時代
の3っの時代を経て衰微し、その後は教えそのものもなくなる暗黒時代に入るという(暗黒時代の人々を救済するのが56億7千年後に出現する弥勒菩薩)

 正法・像法・末法の時代は、国・時代によって諸説があるが、わが国では正法500年、像法1千年、末法1万年とされ、後冷泉天皇・永承7年(1052)に末法に入ったとされ、扶桑略記(1097頃)・永承7年正月26日条に『今年始めて末法に入る』とあるように広く認識されていた。

 この思想によれば、道長・頼道が生きた時代は、近く像法の時代が終わり末法の時代に入るとして朝野を挙げて怖れられた時代で、特に道長の死後(1027)、地方では反乱が続発し、都では僧兵が絡む争乱・強訴が繰りかえされ、加えて内裏・寺院の焼失など平安の世は崩壊し、乱世・末法の世に入ったことが強く意識されたという。
 そんな世相の中、人々は末法の世に相応しい救済を求め、それをうけて広まったのが阿弥陀如来による救済を説く浄土思想であって、頼長が平等院を造営したのは奇しくも末法突入の年・永承7年であった。

◎阿弥陀信仰
 阿弥陀信仰とは、極楽浄土に坐す阿弥陀如来による救済を信じて、これに絶対的に帰依するという信仰で、紀元100年頃の西インドで起こったという。

 阿弥陀如来について、観無量寿経には、仏陀が
 「久遠の昔、ある国王が仏になろうと発心して国を捨て、名を法蔵と改めた。法蔵は48ヶ条の請願を立てて五劫といえ長い間修行し、請願の全てを成就して阿弥陀如来となり、西方十万億国の彼方の極楽浄土で、今も説法している」
と説いたとある。

 この法蔵菩薩が立てた48の請願のうち、18番目に
 「たとえ、吾が修行を重ねて仏になれるとしても、諸々の衆生が、わが国に生まれることを願って念仏を唱えたのに、わが国に往生できなかったら、吾は仏にならない」
との請願があり、この誓願を立てた法蔵菩薩が十劫の昔に仏になったということは、全ての請願が成就したためであり、この請願成就によって、衆生は念仏さえ唱えれば必ず極楽浄土に往生できる、というのが浄土信仰・阿弥陀信仰の根幹という。

 ただ、仏陀が説いた教えは唯一絶対という信仰対象は立てず、仏陀になること即ち悟りをえるとは個々人の修行・精進の如何にかかわるとして、絶対的な唯一仏は立てていない。 
 これに対して阿弥陀信仰は、自己の他に阿弥陀という絶対仏を立て、これに縋るという信仰で、仏教の中では異端ともいわれ、その点では一神教に近いともいえる。

◎念仏とは
 今、念仏・南無阿弥陀仏といえば、死者・ホトケに供える言葉・呪文というニュアンスが強いが、本来の意味は、“阿弥陀如来に帰依する”・“一筋に阿弥陀如来に頼む”ということで、そこに死霊を鎮め供養するという意味はない。

 わが国にはじめて念仏をもたらしたのは天台僧・円仁(794--864、慈覚太子・第3代天台座主)といわれ、彼は唐の五台山でおこなわれていた引声念仏(インゼイネンブツ)を持ち帰り、比叡山に常行三昧堂(ジョウギョウサンマイドウ)を建てて念仏行を修したという。
 ただ、円仁がもたらした念仏は、それ相応の資質・能力あるいは資力を有する者だけが実修できる念仏で、彼らは天台諸行を修するとともに常行念三昧念仏行をおこなうことで(朝法華 夕念仏)、己の極楽往生を願ったといわれ、その意味では、市井にあって日々の生活に追われる庶民の手が届く念仏ではなかったといえる。

 それが、死霊・怨霊に対する畏怖が広まるにつれ、個人の極楽往生のためというより、怨霊となって祟りをなす死霊の鎮魂とか、中有(チュウウ、死から次の転生までの期間)に迷う死霊追善といった色彩が強くなり、念仏が真言陀羅尼と同じ効力をもつ呪文へと変貌したという。
 ただこれとても、厳しい修行によって験力を得た験者が唱える念仏が、より大きな功徳をもたらすと受けとめられ、験者が唱えるマジカルな念仏が、死霊供養・怨霊鎮撫のための呪文として、貴族たちの要望に応えていったという。

 一方、空也上人(903--72)に代表される念仏聖と呼ばれる私度僧たちが念仏を一般庶民の間に拡げていく。
 彼らは、市井にあって念仏の功徳を説きながら、山野や河原に捨てられた死者を集めて供養し、種々の社会事業をおこないながら庶民の教化に努めたが、その空也にしても、修行を積んだ大験者であったからこそ民衆に歓迎され支持されたともいう。

◎往生要集
 恵心僧都・源信(942--1017)の著・往生要集(985)には、輪廻転生する六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)、特に地獄のありさまを事細かく描いていることで知られるが、その本旨は
 ・顕密仏教(浄土宗以外の仏教)は正統な教えではあるが、それは自力によって悟りを得ようとする難行で、自分のような頑愚な人間には為しえない
 ・これに対して、念仏を唱え阿弥陀如来の慈悲に縋る他力の仏教・浄土門のみが頼るべき道・易行であり、現世での救済ではなく、死後に阿弥陀如来の浄土に生まれ変わるという浄土門こそが、末法の世に相応しい仏教だ
と説いたところにあるという。
 ただ源信は、念仏には極楽浄土に坐す阿弥陀如来の相貌を、経典に説くとおりに正確に思い起こして、それと一体となることを念じながら唱える念仏・観相念仏と、口で唱えるだけの口称念仏とがあり、観相念仏こそが正しい念仏だと説き、口称念仏を愚鈍な庶民の念仏だとして低く見たところに、時代的な限度があり、未だ一般庶民の手の届かない念仏だったといえる。

◎阿弥陀信仰と平等院
 道長・頼道らが生きた時代は、仏法が衰微した末法の世であるとの認識とともに、往生要集が説く地獄の怖ろしさが広く信じられた時代で、資質・資力のある貴族たちは争って寺院特に阿弥陀堂を建て、阿弥陀如来像を安置し、その前で念仏を唱えることで自己の救済と極楽浄土への往生を願ったという。

 また、臨終に際して阿弥陀如来が多くの菩薩らを引き連れて迎えに来てくれるという来迎思想が盛んとなり、その有様を描いた阿弥陀如来来迎図が数多く描かれている。
 貴族たちのなかには、臨終に際して自分が造らせた阿弥陀如来像や、描かせた来迎図の阿弥陀如来像の手の指に結びつけた五色の糸の端を握って、極楽往生の確かなことを信じて死んでいったといわれ、道長も又、自分が建立した法成寺(1012建立・1019消失、在京都上京区)に安置する阿弥陀如来(H=4.8m)から伸びる五色の糸をしっかと握って死んでいったという。

 頼道が建立した平等院・阿弥陀堂は、単なる作善供養・権力誇示のための寺院建立ではなく、鳳凰堂が、念仏を唱えながら阿弥陀如来像のまわりを廻れる常行三昧堂であったように、自己の極楽往生を祈念して、父道長の法成寺に倣って建立した寺院ということができる。

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