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敦煌/莫高窟
                                                  2004.10訪問

 敦煌莫高窟は、敦煌市の南東約25kmにある千仏洞で、鳴砂山の東端に位置する。
 遠い昔、前を流れる大泉河(ダイセンガ)の奔流によって浸食された南北約1600mにおよぶ断崖に穿かれた石窟群で、残存する石窟数は600余窟ともいわれ、うち塑像・壁画を残す石窟は490余を数える。

 その敦煌莫高窟について、敦煌八景は次のように詠っている(1824頃選定)

 【千仏霊験】
 南山 一望すれば暁烟(ギョウエン)収まり
 石洞豁谺(カッカ) 景色(ケイシキ)幽なり
 古仏 荘厳にして千変の相
 残碑剥蝕(ザンピハクショク)して  幾たびか秋を経す
 銅狄を摩撫(マブ)して 空しく追憶し
 蒼桑(ソウソウ)を閲歴(エツレキ)して 去留に任す
 玉塞(ギョクサイ) 原(モ)と天竺に通ず
 須(モチ)いず 帆海もて瀛州(エイシュウ)を尋ねるを






 
(意訳)
  南山から眺めると 大泉河の朝霧も収まり、
  石窟は黒々と連なり その景色は幽玄である
  中に坐す古仏は荘厳におわすが 幾春秋の間に色あせてしまった
  昔 仙人が銅像を撫でながら 
  「吾は昔 この像がつくられる様を見ていたのだが 
                 あれから500年が経ったのだな」
  と 昔を追憶したように
  ここ敦煌の地で幾たびか繰りかえされた 
    桑畑が大海に変わるような大変動が 思い出される
  玉門関は もともと天竺へと通じる道であって
    そこには仏陀の教えがある 理想の土地なのだ
  秦の始皇帝は 不老不死の仙薬を求めて 
    東方の理想郷・瀛州へと船を出したが
  なにも海を越えて行くことはない
    玉門関からの陸路でも 理想郷へ行けるのだ 

 また、ここに遊んだ詩人は、その想いを次のように詠っている。

【莫高窟詠】(莫高窟に詠う)
 雪嶺(セツレイ) 青漢(セイカン)を干(オカ)
 雲楼(ウンロウ) 碧空(ヘキクウ)に架く
 重ねて開く 千仏の刹(サツ)
 傍らに出づ 四天の宮(キュウ)
 瑞鳥 珠(シュ)を含むの影
 花霊(カレイ) 恵(ケイ)を吐く聚(ジュ)
 心を洗いて 勝境(ショウキョウ)に遊ぶ
 此れ従(ヨ)り 塵蒙(ジンモウ)を去らん
(意訳)
  雪をいただく三危山は 青空に鋭く突き刺さり 
  鳴砂山の断崖(莫高窟)には 高楼が空中に聳えている
  無数の仏洞が重なりながら連なり
  四方を護る四天王の宮も見える
  珠をくわえて飛ぶ瑞鳥の影が映る大泉河の水
  神々しい花が 妙なる薫りを放つ草むら
  心の穢れを浄めながら この素晴らしい地に遊ぶ
  これを機に 煩わしい俗世を捨てたいものだ 

 莫高窟が開削されたのは、332窟に残る“大周李懐譲重修莫高窟仏龕碑”に
  「前秦の建元2年(366)、楽僔(ラクソン)という僧がいた。彼は戒行清らかで、心も穏やかだった。かつて林野に行脚して、この山(鳴砂山)にやってきたところ、突然金色の光が輝いて千仏の姿が見えるようだったので、その巖壁を穿って窟龕を造った。
 つづいて法良禅師という人が東から来て 楽僔の傍らに窟を造建した。伽藍の草創は、この2僧にはじまる」
とあるように、紀元4世紀中頃に遡るというが、その頃の敦煌は前涼の支配下にあったことから(301~326)、「莫高窟の開削は前凉時代にはじまった」というのが定説となっている。
 ただ、楽僔・法良らが開削したという石窟は特定できない。

 莫高窟は、今でこそ仏像・壁画を数多く残す“砂漠の美術館”として、数多くの観光客を呼び込んでいるが、その原点は、あくまでも僧侶たちの修行の場であった。

 中国各地には古くから大小の石窟が開かれ、敦煌付近にも、莫高窟をはじめとして西千仏洞(敦煌市)・楡林窟(安西県)・東千仏洞(同)・旱峡石窟(同)・五個廟石窟(モンゴル自治区)・一個廟石窟(同)・水峡口石窟(同)など8ヶ所を数えるが、いずれも当時の人里離れた僻地に位置する。
 (僻地とはいっても、近くに水場があり、且つ早朝に托鉢に出て夕刻には帰れる距離、というのが立地条件という)
 修行僧たちは、人里離れた地に穿たれた峻厳な石窟に籠もって仏道修行に励んだが、その修行の助けとして造られ・描かれたのが仏像であり壁画だという。

 大乗仏教には、“六波羅蜜”(ロクハラミツ、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智恵)という人が実践すべき徳目があり、仏道修行者は、この6っの修行に専念することが求められる。
 その一つ“禅定”(ゼンジョウ)とは、俗塵を離れた閑静な場所で心静かに瞑想し、心身を統一させて悟りに至ろうとする修行で、それはインドにおいて仏教が興る前からの基本的な修行の一つでもあり、ヒンドゥー教にあっては、修行僧はもとより在家の信者も、家業を息子に譲り隠居した後、山野にわけいって禅定修行に入ることを人生の理想としたという。

 禅定する修行僧は、まず仏像の前に座り繰りかえして仏像を観照し、その相好を頭の中に叩き込む。そして、何処にあっても、目をつぶって仏の姿を眼底に思い浮かべることができるようになったとき、仏との一体感が感得され、そこから悟りへの道へと突き進むという。
 それが禅定という修行であり、修行僧たちは禅定の場を求めて、俗塵を離れたこの地に石窟を開削し、仏像を置き仏画を描いたという。

 このように、莫高窟は修行僧たちの修行の場としての石窟だったが、やがて在俗の人々、特に為政者・有力者などが布施(寄進)という形での石窟開削に参加してくる。
 彼らは、自分と親族の解脱を願い、現世・来世の功徳を願って参画したのであり、なかでも為政者にとっての石窟は、先祖を祀る宗教儀礼の場であり、自分に名を後世に伝えるモニュメントでもあったという(北魏以降の壁画には寄進者像を描き、氏名を書き込んだものが多く残っている)

 今、莫高窟に残る石窟のうち、年代が確認されるのは北凉以降のもので、そのうち塑像・壁画を残す492の石窟には、塑像約2400躰・壁画約45,000㎡ほ数え、その開削時期によって
 ・初期--北凉・北魏・西魏・北周・北朝期(421--581)
 ・中期--隋・唐期(581--907) 細分--初唐(618--712)・盛唐(712--781)・中唐(781--848)・晩唐(848--902) 
 ・後期--曹氏・西夏・吐蕃支配期(907--1277)
に別けられている。

◎拝観雑感
 莫高窟前面を北流する大泉河に架けられた石橋を渡ると、正面に「石窟宝蔵」と大書された牌廊(バイロウ・楼閣状の屋根を頂くが扉のない門)が建っている。
 ・大泉河--この辺りの川幅は広く、古書には「前に長河を渡し、波に重楼を映す」とあるが、今は雪解け時のみ水が流れる涸れ川となっている。

 その門をくぐり直進すると、「莫高窟」との扁額を揚げる小門があり、すぐ目の前の木立越しにみえる崖面に、石窟群が2層3層と重なって見えてくる。

 小門を入って左折し、崖に沿った側道(柵外の道)を少し進むと、莫高窟のシンボル・“北大像”を覆う“9層の楼閣”(96窟・965年開削)前に着き、ここで入場券を買って中に入る(荷物・カメラ等の持ち込み禁止、事務所保管、有料)
 中では、専門のガイドによる案内説明を聞きながらの拝観となるが、今回は、午前中に一般窟10窟、午後特別窟2窟を拝観した(特別窟の選択は相手任せ、こちらの希望はほとんど無視される)

 
牌 廊
 
9層の楼閣(96窟)
 
同 左

側道から見える石窟群 
 
同 左

*96窟・北大像・9層の楼閣(概要)
 唐の則天武后期(盛唐期)に造られた莫高窟最大の“弥勒大仏”で、高さ33mを有する巨大な椅座像(695造)
 石窟を開削するとき、礫岩層に大仏の租形を彫り残し、それを芯として粘土を盛り上げて形を整え彩色した像で、正式には“石胎塑像”(セキタイソゾウ)で、北大像とは愛称。

 この巨像は、晩唐・宋初・中華民国期と度重なる補修により当初の面影はほとんど失われたというが、足下から見上げる巨像は、それなりの充実感があり迫力をもって迫ってくる(遠くからの全身拝観は不可能)

 前面に聳える“朱塗9層の楼閣”は、崖面を這い上るかのように上にいくほど後退し、下から見上げると7層にみえる。
 建造当初は5層だったといわれ、中華民国時代(1928--35)に仏像全体を覆う9層の楼閣として再建されたという。

 弥勒仏とは、釈迦入滅後56億7千萬年後に此の世に現れ、法を説き衆生を済度するという未来仏で、今は兜率天(トソツテン)にあって降臨の時を待っているという。

 中国では北魏頃から、この兜率天に往生したいという信仰(弥勒上生信仰)が盛んになったが、時代が進むと、未来の降臨による救済までは待ちきれず、今の世への弥勒降臨を待望する信仰(弥勒下生信仰)が湧き起こり、その中にあって則天武后は、自らを弥勒の再誕とするメシア思想を展開し、それが北大像の造立、ひいては唐王朝の一時的簒奪・周建国(690--704)へとつながったという。


*雑感
 今、公開されている莫高窟に、禅定の場・修行の場という面影は見えない。
 駆け足でまわる観光客の関心事は、窟内に安置されている仏像であり描かれている壁画という、いわば美的観点のみからの興味であって、嘗て、この地でおこなわれていたであろう修行にまでは思いが至らず、またそれを偲ばせてくれる文物もほとんど見あたらない。

 ただ、莫高窟到着の直前にみえる、道路右手遠くに連なる断崖にあけられた北地区の石窟に、かろうじてその面影を偲ぶことができる(未公開)
  そこは、水が流れた跡だけが残る大泉河背後の切り立った荒々しい岩肌に2段3段と黒い穴があいているだで、その背後には、鳴砂山から続く沙丘群が覆い被さるかのように迫っている。

 それらは、修行僧の居住窟跡、絵師・工匠たちの工房跡だったというが、遠くから見たかぎりでは、石窟に至る通路・階段等はもとより生活に連なるような痕跡はみえない。


北地区の石窟 
 
同 左

 このような辺境の地での生き様を支えたものは、俗世を離れ、仏教の根源・涅槃を求めつづけた修行僧たちの求道心、あるいは仏を賛美する工匠たちの情熱といった、今の世では忘れられてしまった何か、なのであろう。

 なお、96窟以外の石窟・仏像・壁画等については、各種出版物参照のこと。

【敦煌文書】  
 敦煌文書と呼ばれる一群の古文書がある。
 1900年、16窟への通路(甬道)の北壁に入口を開く小さな石窟(17窟)から発見された古い経典・古文書の類で、その数4万点とも5万点ともいう。

 その発見の経緯には2説がある。 
 ①16窟に住み込んでいた王円録という道教の僧が、阿片を吸うための火種である線香を壁の割れ目に差し込んだところ、その煙が割れ目に吸い込まれるのに気づき、壁を壊して発見した
 ②王円録が、甬道に貯まっていた砂を取り除いたら、砂に圧迫されていた壁に轟音とともに割れ目が走ったので、こじ開けたところ石窟がみつかった

 いずれも、王円録という道士によって偶然発見されたというものだが(1899頃)、当時、内憂外患渦巻く末期症状だった清朝政府が現地保存を命じるにとどまったため、これを知った英仏露などの外国人によって殆どが海外に持ち出され(わが国大谷探検隊も400点ほど持ち帰っている)、残った若干数だけが中国に残されている。

17窟入口(右手)付近(資料転写)
(左奥--16窟)

 敦煌文書は、間口2.8m・奥行2.7m・高3mという小さな石窟に乱雑に詰め込まれていて、入口は閉ざされていたという。
 その理由について、
 ①西夏王国を建てたタングート族の侵入によって曹氏政権が崩壊するという緊急事態のなか、経典類を守るために慌ただしく空いていた石窟に詰め込んで封納しという解釈で、井上靖の著・“敦煌”はこれを採用している。
 ②これに対して、侵入した西夏族も仏教を信奉したことから経典類を慌てて隠す必要はなく、見つかった経典も残欠や断簡が主で、反故となった文書紙片が多いことから、不要になった経典・文書や古い絵画・仏画などの廃棄物の捨て場ではなかったかという解釈
の2説があるが、今は後説が有力という。

 見つかった文書類は価値のないものが多いとはいうが、その中にあって
 ・今ほとんど残っていない唐代以前の古い経典写本、あるいは遺失した経典・文書などが残っていたこと
 ・経典のなかには、漢語以外のチベット語・サンスクリット語・コータン語・クチャ語・ソグド語・西夏語・ヴィグル語・モンゴル語のそれが含まれ、またゾロアスター教・マニ教・景教関係の経典などがあること
 ・古い土地台帳や売買契約書の断簡、寺小屋教科書の断簡など日常的な文書が含まれていたこと
など、当時の民俗・宗教・政治の実態を知るうえで貴重なものがあるという。

 敦煌文書が収められていた17窟には、河西郡の僧統だった高僧・洪辯(コウベン)の結跏趺坐する塑像が南面し、その背後に描かれた樹木の下に、洪辯の身辺世話をする二人の優婆夷(女性信者)が描かれていたことから、この石窟は、洪辯の死後、その供養のために造営された御影堂ではないかと考えられている。

 また奥の16窟は、中央の馬蹄型須弥壇に仏・菩薩・羅漢の塑像5躰が置かれ、甬道の南北壁には説法図・供養者列像が描かれている。
 そのうち、北壁に描かれた供養者像は西夏時代のものといわれ、8躰のうち1躰が17窟の入口によって壊されていることから、17窟の閉鎖が西夏侵入以前であることを示唆するという。

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