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古都・長安
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 今の西安は、中国古代の都・長安(唐の長安)の故地に位置する。
 『長安』といえば、古代における東西交流の路・シルクロードの東の終点としての“長安”、特に、わが国平安の頃、遣唐使とか留学僧などの先人たちが、先進文明を招来せんと波濤を越えた“唐の長安”を想起する。

 その地は、紀元前1100年頃に古代王朝 周(西周)が都して以来、秦・漢(前漢)・隋・唐といった統一王朝の他、五胡十六国あるいは北朝といわれる地方政権のうちの幾つかが、それぞれの国都とした由緒ある古都である。

 なお、この地に国都を置いた諸国は次のとおり。
 周(BC1100頃~BC776、右図・緑色)→秦(BC350~BC202右図・黄色)→漢(BC200~AD8、右図・茶色)
  →前趙(316~328)→前秦(351~394)→後秦(384~417)→西魏(534~556)→北周(557~581)
  →隋(582~618、唐とほぼ同じ)→唐(618~904、右図・赤色)
                         

※周--澧京(ホウケイ)鎬京(コウケイ)
 史記(BC91頃)によれば、古代中国は三皇五帝と呼ばれる神話時代の後、夏(商ともいう)・殷・周という3っの王朝が続いたという。

 史記・周本記によれば、周は始祖・后稷(コウショク)から16代・武王(発)までの間に5回都城を移したという。
 まず、陜西省北部の邰(タイ)から邠(ヒン)を経て、古公亶父(ココウタンボ)のとき薫育(クンイク)・戌狄(カイジュウ)などの北方遊牧民の侵略を避けて南下し、西安の西方・岐山(キザン)の麓・周原(シュウゲン)の地に移ったとある。
 そこで実力を蓄えた周は、古公亶父の孫・西伯昌(文王)のとき東進し、当時の西安一帯を領していた“崇”(スウ・殷に仕えていた諸侯国)を滅ぼし、西安の西を北流する澧河の西に建都し“澧京”(ホウキョウ・上図の左下付近)と称したという。
 その様を、詩経は次のように詠っている。
  「文王 天命をうけて この武(イクサ)に功(イサオ)あり
   崇の国を伐ってのち 都を澧に作りたまいぬ
   文王 褒むべきかな」

 文王のあとを継いだ武王が、殷に不満をもつ諸侯を糾合して東進し、牧野(ボクヤ)の戦いで殷を破って“天が殷を滅ぼして、あらたに周が天命をうけた”として周王朝を興し(BC1100・BC1050年説・BC1027年説あり)、澧京に帰ってのち、澧河の東に新たにつくった国都が“鎬京”(コウケイ・澧京の右上付近)で、詩経は
  「鎬の京(ミヤコ) 鎬池の宮居
   西より東より 南より北より 来りて服せぬ者なし
   皇王(武王) 褒むべきかな」
と詠っている。

 長安近郊における国都の嚆矢である澧・鎬の2京は、後に、周王朝に不満をもつ造反者に唆された西夷・犬戎といった異民族の侵入による略奪破壊、幽王(12代)の敗死という事態を迎え、難をのがれた平王(13代)が東方の“洛邑”(ラクユウ・洛陽)に遷都(BC770、周の東遷)するまでの約300年余り、周(西周)の都であった。

 西周滅亡に際して、次のような話が残っている。 
 西周最後の王・幽王は、決して笑わない美女・褒似(ホウジ)を寵愛していたが、ある時、誤って外敵の侵入を知らせる狼煙があがったのをみて駆けつけた諸侯が、間違いと知って狼狽・憤慨する様をみて大笑いした。 
 それをみた幽王は、褒似を笑わそうとして、何もないときに何度も狼煙をあげさせたため、諸侯は狼煙をみても駆けつけなくなり、肝心の、犬戎が侵入したときには誰も集まらなかったため、国と我が身を滅ぼした。

 その様を、詩経は次のように揶揄している。  
  哲夫(テップ)は城を成し
  哲婦(テップ)は城を傾(カタム)
  懿(アア) 厥(ソ)の哲婦
  梟(キョウ)と為り 鴟(シ)と為る
  婦の長舌(チョウゼツ)あるは
  維(コレ) 禍の階(ハシ)
  乱は天より降るに匪(アラ)
  婦人より生(ナ)
  教えに匪ず 誨(オシ)えに匪ざるは
  時(コレ) 維(コレ) 婦人と寺  
(大意)
 賢明な男は国を興し 
 賢明な女は国を傾ける
 婦人が賢いということは 
 声の悪いフクロウのようなもので 
 婦人の多弁は禍のもと
 亡国の乱は 天が下す天命ではなく
 婦人のおしゃべりから起こるもの
 どんなに丁寧に教え諭しても 効き目がないのは 
 是 婦人と寺
   

※秦--咸陽城(カンヨウジョウ)
 200有余年つづいた戦国の世を統一した“秦”は、古く、殷・周に仕えて甘粛省・秦の地を領していたが、長らく諸侯として認められなかったという。
 その後、周の東遷に際して、その天子・平王を助けて功績があったことから、やっと諸侯の地位を確立したという後発の国で、孝公(始皇帝の6代前)の頃から人材登用に努め、東方の諸侯国と肩を並べるようになり、孝公12年(BC350頃)に陝西省の“雍”(ヨウ)から南下して“咸陽”(カンヨウ)に移ったという。

 これが今、西安市の北西約15~20km、東流する渭河(イガ)の北に残る“咸陽城址”(カンヨウジョウシ)
 咸陽は、北に山を背負い南に渭河に抱かれた地で、陰陽にいう“山を北に水を南にする陽の地”であることから、“咸(ミナ)(ヒ)が当たる地”という意味をもつ目出度い地名で、戦国時代には
  「田は肥え 民は富み 沃野千里 蓄積多く 戦車万乗 所謂天府で、その国は天下の雄国なり」
と賞されたという。

 その孝公の孫・昭襄王が周を滅ぼし(BC256)王と称して諸侯を服せしめ、その孫の秦王・政が、最後の諸侯国・斉を滅ぼして(BC221)天下を統一し始皇帝と称した。

 始皇帝は、天下統一後咸陽城において政務を執るかたわら、そこが手狭であるとして、渭河の南に新しい宮殿の造営に着手している。
 その経緯を、史記・秦始皇本記は
  「27年、信宮(シンキュウ)を渭水の南に造った。・・・また甘泉宮(カンセンキュウ)の前殿を造り、甬道(ヨウドウ・天子の専用道路)を築いて咸陽から連絡させた」
  「35年、始皇は『咸陽は人口多く、先王の宮廷は狭すぎる』として、渭水の南の上林苑(西安市の北、渭水との間)のなかに朝宮(正殿)を造営した。
 まず前殿(離宮)を阿房に造った。その規模は広大で、東西五百歩、南北五十丈。殿上には一万人を座らせることができ、殿下には五丈の旗を立てることができた。
 しかし、阿房の宮殿は始皇帝生存中には完成しなかった。完成後に改めて良い名を選んで名づけようとしたのだが、宮殿を阿房の地に造ったので、天下の人はこれを阿房宮といった」
という。

 始皇帝死後の秦王朝は、その末子・故亥(コガイ)が2代皇帝として即位するが、各地に続発する反乱・抗争の中から頭角を現した劉邦(リュウホウ)・関羽(カンウ)によって殺され、3代にして滅んでいった(BC206)
 その滅亡の様を、史記は
  「子嬰(シエイ・3代皇帝)が秦王ためこと46日、楚の将軍・沛公(劉邦)が秦軍を破って武関(武峪関)に入り、ついに覇上に至り、使者を送って子嬰に降伏を迫った。子嬰は頸に組紐をかけ、白馬素車に乗って、天子の爾苻を奉じて降った。沛公は咸陽に入場し、宮室・府庫を封印して軍を覇上に返した。
 それから一月余り経って諸侯の兵が到着した。項籍(関羽)が合従の長として、子嬰および秦の諸公子や一族を殺し、咸陽を屠って宮室を焼き払い、その子女を虜とし、その珍宝財貨を没収して諸侯にこれを分配した」
という。

 関羽に焼かれた咸陽城は、漢代に入ると皇室の陵墓地区となったが、渭水流路の北方移動による南半分の崩壊などにより全体像は不明という。


※漢--長安城
 秦王朝を滅亡させ、楚王・関羽との覇権争いに勝利した劉邦が興したのが“漢王朝”で(BC202~AD8)、その国都として新たに建設されたのが漢の長安城。

 漢の長安城は、渭水と秦の阿房宮の中程東より、秦の上林苑にあった“興楽宮”(コウラクグウ)を改修・改称した『長楽宮』とその西に新築した『未央宮』を中心としてはじまったという(高宗7年・BC200)
 漢・長安城の建設について、史記・高祖本記は
 ・7年2月 長楽宮完成、丞相以下は移って政務に当たる
 ・8年、未央造営に着手、9年完成。高祖は諸侯を招き、未央前殿で大々的に祝宴をはる
と記すが、未央宮完成は7年ともいう(漢書)

 中国の都城は周りを城壁で囲った方形の都市をイメージするが、漢の長安城は、まず治世に必要な宮殿あるいは一般居住などを整備した後に、それらを囲う形で城門・城壁を建造した為に、北・南・西面の城壁線に多くの凹凸があり、加えて西北角がおおきく斜行するという不整五角形をしていたという(東西約6.2km、南北約6km、城壁延長約27km )

【咸陽城東楼】 許渾(キョコン・晩唐・791-854) --秦漢時代の栄華の跡を偲んだ詩

 一たび 高城に上(ノボ)れば 万里愁う
 蒹葭(ケンカ) 楊柳 汀州に似たり
 渓雲 初めて起りて  閣に沈み
 山雨 来らんと欲して゜風 楼に満つ
 鳥は緑蕪(リョクブ)に下る 秦苑(シンエン)の夕(ユウベ)
 蝉は黄葉に鳴く 漢宮の秋
 行人(コウジン) 問うこと莫(ナカ)れ 当年の事
 故国 東来(トウライ) 渭水流る
  
(大意)
 咸陽の城址に登ると 万里の風景は悲しげで
 周囲には葦や楊柳が茂り その荒れはてた様は 江南の河辺に似ている
 雲は南の水渓から湧き昇り 夕日は西の慈福寺の高楼に沈んでいく
 北山から雨が近づくと 湿った風が東楼に満ち 
 夕闇に包まれた秦の禁苑址には 鳥が伸び放題の草原に舞い降り
 すっかり秋の風情を濃くした漢の宮殿址には 蝉がかぼそく鳴いている
 旅人よ これ以上尋ねてくれぬな 咸陽の故城を
 渭水のみが知っている あの素晴らしかった時代の事を  


※五胡十六国から北朝期の長安
 後漢(AD25~220)滅亡後の中国は、三国鼎立(220~265、魏・蜀・呉)を経て(西)(265~317)の天下統一によって一旦は安定するものの、それもつかの間、晋が匈奴系の北漢(後の前趙)に追われて南に走ったあとの華北の地は、侵入してきた異民族と在地の漢人が入り乱れての興亡が繰りかえされる“五胡十六国”(317~439)の乱世へと突入し、その後華北を統一した北魏以下の北朝と、華南の地に興亡した“南北朝時代”(439~589)を経て、“隋”による天下統一へと進んでいく。

 この間の長安には、五胡の前趙・前秦・後秦、北朝の西魏・北周の5国がそれぞれ都するが、その詳細は不明。


※隋--大興城(ダイコウジョウ)
 西晋滅亡から260余年にわたる混乱時代に終止符を打ち、再統一したのが“隋”(581~618)
 北周の外戚だった揚堅(ヨウケン)が、北周の政権を禅定という形で簒奪して“文帝”と称して即位し(581~604)、その翌年から翌々年にかけて、漢の長安城の南、今の西安市辺りに新しく建設したのが隋の『大興城』。

 新都建設の理由として、古資料は“北周都城の老朽化・狭隘化、新都予定地の良好な自然環境”などをあげているが、その実は、北周皇室・宇文氏一族を皆殺しにしたことからの呪いを恐れた文王が、北周という国の痕跡を徹底的に破壊しようとする執念によるものともいう。

 大興城の規模については諸書によって微差があるが、遺構調査によれば東西9.7km、南北8kmという広さと推測されている。
 都城配置は、中心北部に宮城・皇城地区を、その南に一般居住区を置くというプランだったが、文帝時代に建設したのは宮殿・官庁施設など最小限必要なものだけで、南部は無人の状態で放置されていたといわれ、本格的な都城建設は、隋書・煬帝大業9年(613)に「丁男(壮丁)十万を発して、大興を城(ジョウ)す」とあるように、2代皇帝・煬帝(ヨウダイ・604~618)に引き継がれたという。

 文帝の跡を継いだ煬帝は、大興城造営を進めるとともに、北の黄河と南の長江を結ぶ大運河の建設に着手するが(610)、それらの大規模工事への人民徴用による困窮、あるいは2度にわたる高句麗遠征(611・614)の失敗などによる民心の離反・反乱のなか、南方の揚州で殺され(618、近衛兵の反乱という)、隋王朝は実質2代(皇統譜上では4代)・40年にも満たない短命王朝として幕を下ろしている。


※唐--長安城
 煬帝が揚州に長期行幸していた留守に、「義兵を挙げて、帝室を匡(タダ)す」として挙兵した“李淵”(リエン・高祖)が数ヶ月後には長安に入り(617)、翌年の煬帝の死を待って、担ぎ上げていた傀儡皇帝・恭帝(キョウテイ)から禅譲させて建国したのが『唐王朝』(618~907)で、長安は建国から哀帝(20代)の洛陽遷都(904)までの約280年間にわたって、唐の国都として存続した(則天武后の洛陽遷都期間・690--707を除く)

 初代皇帝・高祖(618~626)は、隋の“大興宮”を改称した『太極宮』で即位、次の太宗(626~649)までは、隋の都城を略そのまま使用しながら国勢・国富の興隆に努め、それを背景に3代・高宗(649~683)から6代・玄宗(712~756)にかけて、宮殿・城壁などの増改築・整備がおこなわれたという。

 唐の長安城の規模は、隋のそれと略同じく東西9.7km・南北8.6kmの長方形で、その北方中央に“宮城”(皇帝の執務殿および皇室居住区)・“皇城”(官庁街)を配し、その東西と南一帯に“外域城”(一般居住区)が拡がる3区画からなり、面積約84平方㌔、他に北方城外に“禁園”(皇室・貴族らの狩猟・遊覧の地)が拡がっていたという。

◎盛唐の長安
 唐王朝の最盛期は、則天武后の死後一種の宮廷クーデターで皇位に就いた玄宗の時代という。
 確かに賢臣に補佐された前半の治世は、後に“開元の世”と讃えられる静清なものだったようで、花匂う長安には楼閣が建ち並び、大邸宅や大寺院が建てられ、東西の市場は殷賑を極めたという。

 その様を詠う詩 数首

【長安古意】 魯照鄰  
 長安の大道 狭斜(キョウシャ)に連なる
 青牛 白馬 七香車(シチキョウシャ)
 玉輦(ギョクレン) 縦横として主第(シュダイ)を過(ヨギ)
 金鞍(キンアン) 絡繹(ラクエキ)として候家(コウカ)に向う
 龍は宝蓋(ホウガイ)を含んで 朝日を承け
 鳳(ホウ)は流蘇(リュウソ)を吐いて 晩霞(バンカ)を帯ぶ
 百丈の遊糸(ユウシ)は 争うて樹を繞(メグ)
 一群の嬌鳥(キョウチョウ)は 共に花に啼く 
(大意)
 長安の大路小路には
 青牛(黒牛)・白馬に牽かせた車馬が行き交い
 王侯の乗る車は 入り乱れて皇室の邸を尋ね
 黄金の鞍をおいた馬は 途切れなく貴族の邸に向かう
 車馬を飾る宝玉をちりばめた天蓋をくわえた龍は 朝日をうけて輝き
 房のように羽根をひろげた鳳凰は 夕日に霞み
 楊柳から流れ出る細い糸は 空中に漂って木々にまとわりつき
 可愛い小鳥は 花のなかでさえずっている 

【長安の春】 聶夷中(837・晩唐)   
 長安の二月 香塵(コウジン)多く
 六街(リクガイ)の車馬 声響響
 家家(カカ)の楼上 花の如き人
 千枝万枝 紅艶(コウエン)(アラ)たなり
 簾間(レンカン)の笑話 自(ミズ)から相問う
 何人(ナンビト)か占める得たる 長安の春
 長安の春色 本(モト)主無く
 古来 尽(コトゴト)く紅楼の女に属す 
(大意)
 長安の二月は 香ばしい薫りにあふれ 
 六街を行き交う馬車の鈴は リンリンと響く
 家々の楼上には 花のような佳人があり
 千枝万枝に咲く あでやかな花の紅は新しい
 簾からもれる笑い声を聞きながら 
 春の長安の主人公は 一体 誰だろうかと想う
 長安の春景色には もともと主はなく
 昔から すべて紅楼の女たちのものなのだから 

*胡人(コジン)
 国際都市・長安には、わが国をはじめとして世界各地から留学生・商人などが集まっていたが、その中に、中央アジア・ペルシャ・イランといった西方諸国、いわゆる西域の人々は“胡人”と総称され、紫鬚緑眼(シセンリョクガン)といわれるエキゾチックな風貌とともに、その持ち来たった風俗・文物・宗教の珍しさとも相まって珍重されていたという。

【少年行】 李白  
 五陵(ゴリョウ)の年少 金市(キンシ)の東
 銀鞍(ギンアン)白馬 春風に渡(ワタ)
 落花 踏み尽して 何処にか遊ぶ
 笑って入る 胡姫(コヒ)酒肆(シュシ)の中 
(大意)
 五陵に住む金持ちのドラ息子たちが 
 華やかに飾り立てた白馬にまたがって 
 春風のなか 西市付近の歓楽街に繰り込んできた
 何処へ行くかと思ったら 傍若無人に笑いながら
      胡姫(西域の女性)がはべる酒場へと入っていった  
 五陵--漢の皇帝陵墓が集中する渭水以北の地を指す。漢の武帝が天下の富豪を住まわせたことから、金持ちが集まった地区でもあったという  

 胡人が持ちこんだものに“胡旋舞”(コセンブ)という舞踏があった。
 簡単にいえば、狭い舞座の上でクルクルと急旋回しながら舞う舞踏だが、胡人の舞姫が特異とした舞踏として知られ、莫高窟の壁画にも描かれている(220窟南壁)

【胡旋女】(コセンジョ)抄 白居易   
 胡旋(コセン)の女 胡旋の女
 心は絃に応じ 手は鼓に応ず
 絃鼓(ゲンコ)一声 双袖(ソウシュウ)挙がり
 廻雪(カイセツ)瓢揺(ヒョウヨウ) 転篷(テンホウ)舞う
 左旋 右旋 疲れを知らず
 千匝万周(センソウバンシュウ) 已(ヤ)む時無し
 人間の物顔 比す可き無く
 奔車(ホンシャ) 輪(リン)(ユルヤ)かにして 旋風遅し 
(大意)
 胡旋の女 胡旋舞の女よ 
 心は弦の音に応じて弾み 手は鼓の音に応じて動く
 弦鼓一声 両袖をあげて舞いはじめ 
 その早さは 風に舞う雪の如く 野にまろび飛ぶ枯れ蓬のようだ
 左旋 右旋 疲れをしらず 千回 万回 止むときがない
 人の世には比べるもののない早さで それに比べたら
 疾走する車馬の車輪も緩やかだし つむじ風も まだ遅いくらいだ 

◎興慶宮公園
 唐の最盛期、玄奘皇帝の頃には、皇帝の執務する宮殿として、
 ・建国当初からの“大極殿”
 ・高宗が長安城外北東部の高燥地に造営した“大明宮”(332、東西約1.7km、南北約2.2km、含元殿など20余の宮殿・楼閣があったという)
 ・玄宗が造営した“興慶宮”
の3ヶ所があったといわれ、そのうち、興慶宮址の西南部1/3強を公園化したのが興慶宮公園。

 興慶宮は、宮殿・皇城の東約1km、東側城壁の正門“春明門”に隣接した隆慶坊(後に興慶坊と改称)に設けられた玄宗の離宮で(714)、玄宗がまだ皇太子だったときの邸宅跡だったが、その後、境域を隣接坊にまで拡張、朝堂などを整備して開元16年(728)以降ここで政務を執ったという。

 盛時には、南寄りの竜池の周りに興慶殿以下十数棟の宮殿・楼閣が建ち並び、政務の中心であるとともに、玄宗と寵妃・楊貴妃との歓楽の場として隆盛を極めたが、安史の乱以後は忘れられた離宮として寂れ、年老いた后妃・侍女たちの住まいと化し、宮城の中心は大明宮に移ったという。

 隆盛時の様を詠った詩

【清平調詞】(セイヘイチョウシ) 李白 
 名花 傾国 両(トモ)に相歓(アイヨロコ)
 長く 君主の笑みを帯びて看らるるを得たり
 解釈す 春風 無限の恨みを
 沈香亭北(チンコウテイホク) 欄干に椅る


 
(大意)
 名花(牡丹)と絶世の美女(楊貴妃) ふたつとも人目を楽しませる
 玄宗帝は ことのほかご機嫌うるわしく 
     にこやかな笑みを浮かべて 倦かず眺めておられる
 それを見ていると 春風がもたらす憂愁の想いも 
     いつしか消え失せていくようだ
 沈降り亭の北側欄干には 名花と美女が
     あでやかさを競うように 欄干に寄り添っている   

 一転して、かつての栄耀栄華を偲んだ詩

【望秋興慶宮】  ジュウイク(中唐期)  
 先皇(センコウ) 歌舞の池
 今日 未だ遊巡(ユウジュン)せず
 幽咽(ユウエツ)す 竜池(リュウチ)の水
 凄凉(セイリョウ)なり 御榻(ギョトウ)の塵
 風に随(シタガ)う 秋樹(シュウジュ)の葉
 月に対す 老官人
 万事は桑海(ソウカイ)の如し
 悲しみ来りて 神(シン)を慟(ドウ)せんと欲す 
(大意)
 先帝・玄奘皇帝が、歌舞を楽しまれたこの池だが
 未だに現皇帝の巡幸を迎えていない
 幽(カス)かに咽(ムセ)んで訴えかける 竜池の水
     寒々と塵にまみれた 天子の御座
 風にまかせて散る 秋の木の葉
     中秋の月を見つめる 老いた官女
 すべては桑畑が大海原に変わるに似た大変化で
     その悲しみが 私の心を痛ませる  

 今、興慶宮址の一部は公園として解放されているが、訪れた日は国慶節の休日で、門前には屋台が建ち並び、園内では民族舞踊などが華やかに繰り広げられ、多くの人々で賑わっていたが、嘗ての興慶宮の面影を偲ぶものは何もない。

 
興慶宮公園・正面

同・入口の門
 
民族舞踊

*安倍仲麻呂記念碑
 興慶宮公園の一画に『安倍仲麻呂の記念碑』が立っている。
 仲麻呂は、元正天皇の養老元年(717)、第8次遣唐使の留学生として渡唐、難関の科挙(カキョ)に合格、中国名“晁衡”(チョウコウ)の名を以て唐朝の諸官を歴任、
 玄宗のとき、第10次遣唐使にあわせて帰国の途につくが遭難(752)、漂着したベトナムを経て長安に帰り、玄宗・粛宗・代宗の3代に仕え、従三品の高官にまで昇った人物で、
 在唐54年・70歳を以て長安にて逝去している(光仁天皇・宝亀元年-770)

 わが国では、古今集に収められた望郷の歌
  「天のはら ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かな」
で知られているが、記念碑の右側面には、同意の漢詩 
 翹首(ギョウシュ)望東天
 神馳奈良辺
 三笠山頂上
 想又皎月(コウゲツ)(マドカ) 
(大意)
 頭を翹(ア)げて 東天を望み
 神々の里 奈良の辺りに 想いをいたせば
 三笠山山頂には
 名月が円かに輝いていることだろう 

が、左側面には、仲麻呂(晁衡)が帰国途上で遭難死したと聞いた李白の詩が刻まれている。

【晁卿(チョウキョウ)(コウ)を哭(コク)す】  李白 
 日本の晁卿 帝都を辞し
 征帆一片 蓬壺(ホウコ)を通(メグ)
 名月帰らず 碧海(ヘキカイ)に沈み
 白雲 愁色 蒼梧(ソウゴ)に満つ
 
(大意)
 日本の晁卿は 都に別れを告げ
 帆船の乗って仙人が住むという蓬莱国(日本)に帰っていったが
 名月(晁卿)は 碧海に沈んで帰ってこない そして
 東海を望む蒼梧の山には 晁卿の死を悲しむかのように 白雲が漂っている 

◎華清宮(カセイキュウ)

 玄宗皇帝といえば“楊貴妃”となるが、玄宗・楊貴妃が毎冬を過ごしたという『華清宮』は、驪山北麓・始皇帝陵の少し西に位置する。

 この地は、古くからの温泉地として知られ、伝説によれば、初めて温泉の恩恵に浴したのが秦の始皇帝という。
 始皇帝が、この地で神女と遊んだとき、神女の機嫌を損ねて唾を吐きかけられ、それが瘡(カサ)になった。
 困った始皇帝が無礼を謝ったので、神女は温泉を湧き出させ、その瘡を洗い流されたという伝説だが、温泉のはじまりは是よりも早く、西周時代から歴代王朝の離宮が設けられていたという。 

華清地を隔てて楼閣を望む

 この温泉を有名にしたのは、顕宗皇帝が贅を尽くした『華清宮』を造営し、温泉の湯を引き込んだ幾つかの大浴槽を造ってからで(723)、特に寵妃・楊貴妃を得た玄宗は、毎冬訪れて歓楽を尽くしたという。

 玄宗と楊貴妃のラブロマンスは、中唐の詩人・白居易(772~846)

 漢皇 色を重んじて傾城を思う
 御宇 多年 求むれど得ず
 楊家に女(ムスメ)有り 初めて長成す
 養われて深閨(シンケイ)に在り 人 未だ知らず

 天生の麗質は 自ずと棄て難く
 一朝 選ばれて君王の側(カタワラ)に在り
 眸を廻らして 一度笑えば百媚生じ
 六宮(リクキュウ)の粉黛(フンタイ) 顔色無し

 春 寒くして浴を賜う 華清の池
 温泉 水滑らかにして 凝脂(ギョウシ)を洗う
 侍兒(ジジ) 扶(タス)け起こせども 嬌(キョウ)として力無し
 始めて 是 新たに恩沢(オンタク)を承(ウ)くるの時
   
(大意)
 漢の皇帝は容色を重んじて 傾国の美女を得たいと思い
 長年 探し求めたが 得ることができなかった
 楊家に やっと大人になったばかりの一人娘がいたが
 家の奥深くで育てられていたので 知る人もなかった
 しかし 天性の麗しい素質は自ずから表れてくるもので
 ある日 選ばれて 皇帝のお側に仕える身となった
 彼女が ひとたび眸を廻らして微笑むだけて あふれる魅力が生じ
 為に 粉(オシロイ)や黛(マユズミ)で美しく化粧した後宮の美女たちの顔色はなくなった
 春浅く 肌寒いある日 華清宮の浴池で湯浴みを賜った
 その日 温泉の水は滑らかに 艶やかな白い肌を流れ
 腰元が助けおこしても その身体はぐんなりと力なく 何とも艶めかしかった
 それが 楊貴妃が皇帝にはじめて召された時のことであった   

にはじまる大長編叙情詩・“長恨歌”(806)で世に知られているが、
 他にも、華清宮の衰微を嘆く次のような詩もある。

【華清宮】 崔魯  
 草は回磴(カイトウ)を遮(サエギ)って 鳴鑾(メイラン)を絶ち
 雲樹(ウンジュ) 深深として 碧殿(ヘキデン)寒し
 明月 自(オノズ)から来り 還(マ)た自から去る
 更に 人の玉欄干(ギョクランカン)に依(ヨ)る無し 

(大意
 伸び放題の野草が 曲がりくねった石段を埋めつくし
 訪れる天子の御車の鈴の音も途絶えてしまった
 雲のかかる老木に深々と包まれた深緑色の御殿は 寒々とたたずみ
 明月だけが 昔のままやってきては また去っていく が
 あの七夕の夕 玉の欄干に寄り添った 二人の姿はない  

 今の華清宮跡には、華清池の周りに装飾過剰の楼閣が軒を接して建ち、その間を観光客がぞろぞろと歩きまわるだけの完全な観光地と化しており、歴史に残る名所古蹟あるいは長恨歌の情景の回顧などは到底無理。
 楼閣の中には、昔、9泉あったという温泉のうち、楊貴妃が入湯したという“海棠湯”(カイシュウトウ・広い部屋の真ん中にある芙蓉の形をした小さな浴槽はじめ、皇帝専用の浴槽など幾つかをみることができる。
 ただ、広い建物の中に設けられた石造りの浴槽からは、寒々とした印象が残るだけ。


◎落日の長安

 唐王朝の中頃、玄宗末期に起こった“安史の乱”は、建国以来上りつづけてきた唐朝に大きな打撃を与えたという。
 安禄山占拠の長安では、残っていた皇族は男女を問わず殺され、玄宗の長安脱出に遅れた官吏たちは安政権に拘留され、忠誠を強要されるといった屈辱の日々を送ったという。

 その安史の乱によって、人心が荒廃した様を詠った詩

【春望】 杜甫  
 国 破れて 山河在り
 城 春にして 草木深し
 時に感じて 花にも涙を濺(ソソ)
 別(ワカレ)を恨んで 鳥にも心を驚かす
 烽火(ホウカ) 三月(サンゲツ)に連なり 
 家書 万金(バンキン)に抵(アタ)
 白頭を掻けば 更に短く
 渾(スベ)て 簪(シン)に勝(タ)えざらんと欲す 
(大意)
 国都は破壊しつくされたが 山河は昔のままに残り
 長安城にも また春がめぐってきて 草木が青々と茂っている
 この変わりはてた時世を嘆いて 花を見ても涙がこぼれ
 家族と遠く離れていることを哀しんでは 鳥の声に心を騒がせる
 戦いを知らせる狼煙は 三ヶ月間も燃えつづき
 家族からの手紙を 万金にも値するように待ちわびられる
 愁いに堪えず 白髪頭を掻けば掻くほど 髪の毛が短くなって
 冠をとめる簪(カンザシ)も 挿せなくなりそうだ   
 冒頭に2節は、わが国でもよく知られているが、この詩は、唐朝官僚の末端に連なっていた杜甫が、粛宗(玄宗の次の皇帝)の即位を聞いて行在所に駆けつける途中で安録山軍に捕らえられ、長安に抑留されていた間に作られたものという。  

 安史の乱平定(763)後の唐朝には、常に三つの難問が
 ・安史の乱平定に力のあった地方軍閥の跋扈
 ・宮廷内における宦官の横暴
 ・貴族出身者と進士出身者(科挙による官僚)間の確執
がつきまとい、特に宦官は、皇位継承を左右するなど唐朝の深奥までにくい込み、官僚党派間の権力闘争ともあいまって、唐朝を内部から蝕んでいったという。

 そんな中、“中興の世”とよばれる一時的な復調はあったものの、9世記も後半に入ると各地に反乱が続発し、その中から塩の闇商人だった“黄巣”(コウソウ)が乱を起こし、ほとんど全土を荒らし回った末に長安に入り、唐王朝を簒奪して国号を“大斉”(ダイセイ)と号した(黄巣の乱・875~884)

 黄巣の乱は、地方軍閥の力を借りた唐朝によって鎮圧され、長安は回復されはするものの、その間の長安は荒廃を究め、唐朝に国事を主宰する実力も長安を復興させる力もなく、時々の実力者に操られる傀儡皇帝2代・十数年の余命を数えた末に、最後の皇帝・哀帝(903~907)から実力者・朱全忠(後梁初代皇帝)への禅譲によって唐は滅亡し(907)、世は「五代十国時代」と呼ばれる群雄割拠の乱世へと移り、国都長安は、朱全忠によって城内の主な建物のほとんどが破壊されたという。

 と同時に、周の建都以来、一時的な冷遇期はあったものの、約2000年にわたっる国都としての長安もまた、その華やかな舞台に幕を降ろしていった。

 その後の長安は、旧皇城部分を中心とする小規模な城郭として再建されたものの、往時の華やかさを取りもどすことなく推移し、やっと明代に入って、周囲40里余りの城壁に囲まれた城郭・『西安府』として再建され(1368~1398)、これが『西安』という地名のはじまりという。

 今の西安市は、この明の西安府をもとにする都市で、明代の城壁・城門はそれなりに壮大な姿を留めてはいるものの(明代城壁をそのまま残す数少ない都市の一つという)、城内の旧市街地はもとより、旧長安城の範囲を超えて拡がる新市街地からは、嘗ての“花の長安”と呼ばれていた面影を偲ぶことはできない。

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