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秦・始皇帝陵
                                                                 2004.10訪問

 中国最初の皇帝・始皇帝は、西安の東北約25km、驪山(リザン・H=1014m)北麓、後に連山を背負い、前に遠く渭河(渭水ともいう)を望む微高地に造られた墳丘地下の宮殿に眠っている。

 この陵墓について、史記はこう記している。
 「37年9月、始皇を驪山に葬った。
 始皇が即位したとき、すでに埋葬の地として驪山に深い穴を掘ったが、天下を併せるにおよんで、ここに送られた者七十余万の徒刑者を使役して、三度地下の水脈に達するまで深く掘り、銅板を下に敷いて棺郭を納めるようにしておいた。

 今、始皇を埋葬するにあたって、この冢(ツカ)のなかに宮殿・望楼を造り、百官の席を設け、奇器奇物を府蔵から移して充満させた。そして、工匠に命じて機械仕掛けの弩矢(ドヤ・強弓)を造らせ、冢を穿って近づく者があれば、自然に矢が飛び出すようにした。
 また水銀を流して百川・大海を造り、機械で絶えず水銀を注ぎ込むようにし、上には天文をそなえ、下には地理をそなえて、人魚の膏を燭に使用した。

 (二世皇帝・胡亥は)先帝の後宮の女性で子のいない者をすべて殉死させ、築造に関係した工匠らを皆、中に閉じ込めた。
 そして、冢の上に草木を植えて山のように象った」

 資料によれば、始皇帝陵は四方に城門をもつ二重の城郭(外城940×2165m、内城580×1355m、約200万㎡余)に囲まれた内城の南側に四角錐状の墳丘を築き、その北側には、寝殿(始皇帝の霊魂が地上に出て飲食などをする建物)・便殿(始皇帝の霊魂が休息する建物)・食官(祭祀場および管理事務所)などの建物群があったといわれ、死せる始皇帝ただ一人のために造営された都城とみることができる。

 墳丘の大きさは、古書によれば、高さ50余丈(約115m)、周囲5里余り(約2070m)とあり、従来は20世記初頭の記録76mをもって高さとしていたが、最新の測量によれば、底辺515×485m・底面積25万㎡・高さ52.5mの四角錐形のなだらかな小山という。

 この墳丘の下にあるのが、始皇帝の屍を納める地下宮殿だが、未発掘のため詳細は不明(盗掘の有無については諸説あり)
 地上からの電磁波調査などによれば、約460×390mの広さをもつ宮殿域が確認され、その中央に設けられた広さ80×50m、深さ30mほどの墓室に始皇帝は眠っていると推定されている。

◎現状
 資料に残る古い写真(1958年頃)には、周り一面の樹木(柘榴という)のなかに墳丘が隆起する田園風景が写っているが、訪れた始皇帝陵は、周りの柘榴(ザクロ)畑は変わらないものの、
 道路から一段上がった小広場中央に“始皇帝陵”との石碑を立て、周りに回廊・植え込みなどを配した公園が造られ、観光拠点としての整備が図られている。

 また、始皇帝陵の前を走る狭い道路沿いには、食堂・土産物店といった観光地特有の簡単な建物が並び、柘榴売り・記念品売りなどの露天が客の呼び込みに精を出し、道路脇には駐車の列がつづく、いわば田舎の観光地といった有様で、その中を大勢の観光客が右往左往しながら記念写真を撮り、墳丘頂上への小路を列をなして登り降りしていた。

 
公園化前の始皇帝陵
(墳丘の周りは一面の柘榴畑という)

始皇帝陵公園 

推定模式図

※唐詩にみる始皇帝

 始皇帝の業績・功罪については、多くの先人によって語られているが、著名な盛唐期の詩人・李白(701--62)は、次のように詠っている。

 秦皇 六合を掃(ハラ)
 虎視して何ぞ雄なる哉(カナ)
 剣を揮(フル)いて浮雲(フウン)を決し
 諸侯 尽く西来(セイライ)
 明断 自ずと天に啓(ヒラ)
 大略 群才を駕(ガ)
 兵を収めて金人を鋳
 函谷(カンコク) 正に東に開く
 功を会稽(カイケイ)の嶺に銘し
 望みを琅邪(ロウヤ)の台に騁(ハ)

 刑徒 七十万
 土を驪山の隅(クマ)に起す
 尚 不死の薬を採り
 茫然として心を哀(カナ)しましむ
 徐市(ジョフツ) 秦女を載せ
 楼船 幾時(イクジ)にか回(カエ)
 但(イマ) 三泉の下(モト)を見れば
 金棺(キンカン) 寒灰(カンカイ)を葬る 
(大意)
 秦の始皇帝は天下を掃き平らげ
 虎の如く まわりを睨め野和すさまは 何とも威勢のいいことだ
 剣をふるって浮雲を両断すれば 
 諸侯は われがちにと秦国へ参上し(天下統一)
 それは 帝が聡明で決断力があったから 天が運命を開いてくれたからで
 その偉大な能力は 多くの雄才を使いこなしたからだ
 君は 下々の武器を没収して金人像を鋳造し
 函谷関は まっすぐ東方に開き
 己の功績を刻んだ石碑を会稽の山に立て
 琅邪の高台に登って展望をほしいままにした(東方巡察)
 
 君は 己の死後を考えて 七十万の徒刑者を動員して
 驪山の一画に壮大な墓を築かせたのに 
 それでも足らず 不死の薬を求めさせたが 
 その貪欲さはあきれたものだ
 徐市(徐福)は 秦国の娘らを乗せて船出したが 
 その巨船は 何時になったら帰ってくることやら
 今 始皇帝陵の 地下三重の水脈の下をみれば
 黄金の棺桶の中には 冷たい遺灰が残っているばかり  

 また、初唐期の詩人・中宋(656--710)も、次のように詠う。

【幸秦始皇陵】(始皇帝陵を尋ねて)
 眷言(ケンゲン)す 君 徳を失えりと
 驪邑(リユウ)に君の余を想う
 政 煩(ハン)にして 方(ハジ)めて篆(テン)を改め
 俗を愚にせんとして 乃(スナワ)ち書を焚(ヤ)

 阿房(アボウ) 久しく已に滅び
 閣道(カクドウ) 遂に墟(キョ)と成る
 東南の気を厭(シズ)めんと欲し
 翻って傷(イタ)む 鮑車(ホウシャ)に掩(オオ)われるを

 
(大意)
 回顧すれば 君(始皇帝)は失徳の帝王だった
 陵のある驪山の麓で 君の業績を想う
 君は 政事(マトリゴト)が煩雑になると 書きにくい大篆(ダイテン)を廃し
小篆(ショウテン)を以て統一した字体とし(文字の統一:功) 
 愚民政策をおこなって 天下の書籍を集めて焼いた(焚書坑儒:罪)

 君が民の膏を搾って造った壮大な阿房宮は とうの昔に灰燼と帰し
 宮殿を巡る二重の渡り廊下も 廃墟にななった
 東海の地に皇帝の権威を示そうと出かけた巡察の途中で死し
 死臭を消すために塩漬け魚の車(鮑車)に隠されて都に帰ったとは、本等に気の毒なことだ  

 中宋の詩の最後の一句は、史記の次の一節をうけている。
 「37年 七月丙寅の日 始皇は沙丘(河北省)の平台で崩御した。宰相の李斯は、これが漏れて天下に乱が起こることを恐れて、喪を発しなかった。
 そして、始皇の屍を納めた棺を安車に乗せ、お気に入りの宦官を参乗させ、行く先々で食事を差し上げ、百官が政事を奏上することも従来通りであった・・・
 この頃は暑さも激しく、安車から臭気が漂ったので、従う車ごとに一石の塩漬け魚をのせ、その臭気で屍からの臭気を紛らわせた。・・・」

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