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敦煌点景
                                                                2004.10訪問

※敦煌という街
 現在の敦煌市は、南の祁連(キレン)山脈に発し、北流して西方の沙漠に消える“党河”(トウガ)の右岸(東)に位置するオアシス都市。
 街中を十字に区切る大通り沿いは、それなりに賑わっているものの、その周りは、ただ平面的に広がった埃っぽい地方都市で、
 中央ロータリーに立つ『反弾琵琶舞天像』(ハンダンビワブテンゾウ)のみが、この地が世界遺産・莫高窟(バッコウクツ)の観光基地であることを知らせてくれるだけで、市内には古えを偲ばせてくれる遺構・遺物はほとんどみられない。

 それも当然で、今の敦煌市は、古書に
  「沙州の西、もと故城あり。即ち漢の敦煌郡の治たり。清の雍正3年(1725)、故城の東に別に衛城を築く」
とあるように、漢代に党河の西に建設され(BC111)明代に放棄された(1524)敦煌城に代わって、清代になって、党河の東に建設された新しい街で、そんな街に古い歴史を求めるのは無理であろう。

 
中央ロータリー付近

反弾琵琶舞天像 
 
観無量寿経変・部分
(莫高窟112窟・壁画)

*反弾琵琶(ハンダンビワ)--足を上げてステップを踏み身をくねらせて舞いながら、背中に廻した琵琶を奏でるという難度の高い琵琶演奏法。
 宝冠・宝石などで着飾った舞天(ブテン・天女)が、天衣を翻しながら反弾琵琶を奏している様が、莫高窟112窟の観無量寿経変に描かれている(上右)

※敦煌の歴史(概略)
 敦煌が属する甘粛省は、古代中国の中心地・中原(チュウゲン)と、西方に広がる地域(西域)とを結ぶシルクロードに沿った古来からの東西交流の要衝であるとともに、漢族と遊牧民族との攻防の地でもあった。

 元々甘粛省から西方へかけての一帯は、古代王朝・殷周(BC16~BC8世記)の頃には、“羌戎”(キョウジュウ)と総称された遊牧民の地で、敦煌の名が史書に登場するのは、史記・大苑伝(ダイエンデン)
  「月氏(ゲッシ)は、はじめ敦煌と祁連山の間に居住していた」
との記述という。

 そこに登場する月氏とは、戦国時代から秦代(BC403~BC206)にかけてこの辺りに居住し、漢族が珍重する“玉”と西方諸国が求める“絹”を主とする中継交易に従事していた民族だが、それが“匈奴”(キョウド)の冒頓単干(ボクトツゼン・BC209~BC174)に追われて中央アジア方面へ西走した後、漢の武帝が登場(BC141)するまでの敦煌は匈奴の支配下にあったという。

 古代中国王朝による敦煌を含む西域一帯の実効支配は、漢(前漢・BC202~AD8)にはじまる。
 漢の7代皇帝・武帝(BC141~BC87)は、対匈奴政策を、それまでの消極策から積極策・強攻策に転じ、衛青(エイセイ)・霍去病(カッキョヘイ)・季広利(リコウリ)といった将軍を派遣して匈奴を西へ追い、よって漢の勢力を西域一帯にまで広げ、
 その間を結ぶ主要な東西交易路であった河西回廊(カサイカイロウ)に武威(ブイ)・酒泉(シュセン)の2郡を置いて実効統治をはじめ(BC115頃)
 次いで、両郡をそれぞれ分割して張掖(チョウエキ)・敦煌の2郡を置くことによって(BC111、諸説あり)、河西四郡としての統治体系を定着させ、
 それ以降、その最西端に位置する敦煌は、西域経営における交易・軍事両面での重要拠点として繁栄したという。

 漢の武帝によって西に追われた匈奴が、その嘆きを詠った詩が残されている。
  われ祁連山を亡(ウシナ)
  われ六畜をして蕃息(バンソク)せざらしむ
  われ燕支山(エンシサン)を失い
  わが嫁婦(カフ)をして顔色なからしむ
 祁連山を失ったので、その山麓での家畜の放牧ができなくなり、燕支山(口紅の材となる植物があったという)を失ったので、婦女子の化粧もままならなくなった、という悲しみの詩という。

 その後の敦煌を含む西域一帯には、後漢滅亡後に乱立した五胡十六国(3~6世記)、それを統一し敦煌の最盛期を画した隋・唐(7~8世記)、あるいは唐滅亡後の乱世・五代十国(9~12世記)といった数百年にわたって、幾多の政権が栄枯盛衰を繰りかえし、元の全土統一(13世記)以降、再び中央王朝の版図として復活、明代に一時放棄されるも(16~17世記)、清代に再度版図として回復され現在に至っている。
 敦煌を統治した歴代政権の変遷は次のようになる。

 

 *印は、当地一帯を支配した地方政権
 なお、莫高窟開削にかかわる時代は北涼(ホクリョウ)から元までの11代・約1000年間という。

※点景
 以下、旅で見聞きし記憶に残った幾つかを記す(莫高窟・陽関を除く)

◎敦煌八景
 ○○八景という言葉がある。
 その地方の景観の素晴らしさを八つの場所で代表させたもので、中国江南の洞庭胡周辺を詠う“瀟湘八景”(ショウショウ ハッケイ)を筆頭に、各地で詠われている。

 敦煌にも名所・景観を詠った“敦煌八景”がある。
 清の道光4年(1824)頃、敦煌県知事を勤めた阿履吉が選んだもので、それぞれに詩が付されているという。
  ①千仏霊験--莫高千仏洞の霊験
  ②両関遺跡--玉門関・陽関の両遺跡
  ③危嶺東峙(キレイトウジ)--敦煌の東に椅立する三危山
  ④党水北流(トウスイホクリュウ)--北流する党河の流れ
  ⑤月泉暁徹(ゲッセンギョウテツ)--暁の月牙泉
  ⑥砂嶺晴鳴(サレイメイセイ)--晴天寺に砂が鳴く鳴砂山
  ⑦古城晩眺(ヒジョウバンチョウ)--敦煌故城の夜景
  ⑧繍壌春耕(シュウジョウシュンコウ)--豊かな田園風景
 今、その幾つかは現在も観光地として引き継がれているという。

 本来の八景は、瀟湘八景に詠う、晴嵐(セイラン)・夕照(ユウショウ)・帰帆(キハン)・夜雨(ヤウ)・晩鐘(バンショウ)・秋月(シュウゲツ)・落雁(ラクガン)・暮雪(ボセツ)という8っの景観をいうが、後には、その土地独自の景観をまとめたものも八景という。

◎敦煌故城址(トンコウコジョウアト)
 敦煌市の西、党河を渡って少し進んだ道ばたの空き地に、古の敦煌故城の西北角に当たるという“角櫓址”(スミヤグラアト、H=4~5mほど)と、それに続いていたであろう城壁址(H=2mほど)の一部だけが、痩せ細った土塊然として僅かに残っている。
 いずれも版築造で、地下に数メートル埋まっているだろうという。

 敦煌八景に“古城晩眺”と賞賛された面影は今いずこ、現在の湖城都は無計画に拡がってきた新興市街地の中に(20年ほど前までは一面綿畑だったという)、案内標識はもとより保護保全施設もないまま放置され、子供たちの遊び場となりはてた状態で、そのうちに消え去ってしまう懸念も感じられる。
 といっても、わざわざ故城址への案内を乞う物好きな観光客も少ないであろうが。
 なお、通常のガイドブックに載っている“敦煌古城”とは、映画・敦煌(1988、井上靖原作)の実物大ロケセットで、この敦煌故城とは異なる。

     


◎晋画像陵墓(シン ガゾウリョウボ)
 敦煌市から莫高窟までの間に広がる小石混じりの沙漠のなか、道路の両側に、高さ1m前後の土饅頭が累々とみえてくる。
 
 周辺住民の墓地で、低い土饅頭のみのものが多いが、表面を煉瓦で覆ったもの、石版製の墓標が立っているものなどもあり、場所によっては数メートル間隔ほどに密集している。
 ガイドの話では、この辺りでは沙漠のなか2mほどの穴を掘って勝手に埋葬することが許され、古くからの慣習という。
 また、中国における墓参りは、春の清明節・夏の盂蘭盆会そして故人の命日だという。清明節とは、春分から15日目頃にまわってくる二十四節季(旧歴)の一つで、わが国の春の彼岸会に相当する。

 そんな墓地地域を過ぎ、道路から20~30分ほど入った沙漠のなかに、数年前に公開された『晋画像陵墓』(西晋時代のもの)が一つだけポツンと残っている。

 2mほどの小丘の地下へ通じる斜路を降りると、アーチ状の磚造(センゾウ、煉瓦の一種)の門に達するが、門扉があった形跡は見えない。
 アーチの上部一面は磚で覆われ、そのほとんどに伏羲(フクギ)・女媧(ジョカ)といった神仙像が描かれている(ここにあるのはレプリカ)

 4m四方ほどの玄室(墓室)には、持ち送り式に張り出した割石積みの天井の下には、中央の祭祀具をはさんで両側に被葬者夫妻の棺があり、正面の壁には、夫妻の上半身肖像画が描かれている。

 玄室の両側に小部屋(耳室)があり、片方は台所然としたしつらえで、もう片方は厩(ウマヤ)を模したものらしいという。冥土での生活に困らないように、必要な品々(明器)を納めた、ということであろう。

 この辺りには隋・晋時代の陵墓が点在し、これもその一つで、この墓の主は、西晋時代(265~316)この辺りに盤踞していた在地豪族か、中央から派遣された高級官僚ではないかというが、被葬者名等は不明。


晋画像陵墓・全景 
 
同・入口の斜路

同・表示板
(西晋画像陵墓とある) 

 翌日、敦煌博物館を訪れると、この墓からの出土品が展示されていて、なかに絵を描いた磚があった。
 伏羲・女媧などの神仙像、青龍・白虎・朱雀・玄武といった四神像、鹿・象・麒麟・蛙といった自然界の動物、羽根と足のある魚といった想像上の怪物など、いろんな神仙世界をあらわす絵画が稚拙な筆で線書きしてあるが、そこに仏教的な匂いがほとんどないのが不思議。

 数少ない見学者がちらほらする館内には、
 ・敦煌周辺から出土した先史時代の遺物、
 ・敦煌文書の断欠といった莫高窟関連の文書、
 ・漢語・チベット語の経典断欠、陵墓から出土した墓磚、
 ・古代絹布の断欠、
 ・長城関係の遺物
などが時代を追って展示されているが、今の中国漢字を読めないこともあって、想像を交えながらの見学となる(時間を作っての訪問で、ガイドなし)


◎鳴砂山(メイサザン)と月牙泉(ゲッガセン)
 鳴砂山は、敦煌市の南約6kmに拡がる大砂丘群の総称で、東西約406km・南北約20kmにわたって大小の砂丘が折り重なるように連綿と続き、神沙山(シンサ)・沙角山(サカク)ともいう。

 俗に、
  『晴れた日には、強風に舞う砂礫のたてる音が糸竹管弦のように聞こえ、その様は、音楽を奏でているようだ』
といわれ、これが山名の由縁という。

 唐代の敦煌録(880頃)には、
  『鳴砂山、州(敦煌城)を去ること十里、其の山は東西八十里、南北四十里、高さ五百尺。悉く純沙聚起(ジュンサシュウキ)
 この山、神異ありて峯は削成(サクセイ)さるが如し。その間に井(セイ・月牙泉)あり。砂、それを蔽(オオ)う能(アタ)わず。
 砂、盛夏晴天に自鳴す。人馬これを践めば声 数十里を振わす。
 風俗の端午の日、城内の子女、皆高峯に踏(ノボ)り一斉に麟下(リンカ)せば(滑り降りれば)、その砂の声 耽(ホ)えて雷の如し。暁に至りてこれを看れば、峭鰐(ショウガク・険しい様)は旧の如し』
とある。

 また、地元の伝承によれば、
  『昔、この沙場に野営した漢の大軍が、一陣の旋風とともに全軍が黄砂に蔽われ埋没してしまった。
 山中から時として鼓角の音が聞こえるのは、彼らの魂が散じることなく出没し、陰風となって砂を飛ばし、その悲鳴が雷のように止むことがないからだ』
という。

 乾燥した夏の晴れた日、強風に飛ばされた砂粒(石英質の硬い砂粒で円く磨かれているという)が擦れあって大きな音を出す、それを“砂が鳴く”とうけとった古人の感性、それが八景にいう“沙嶺晴鳴”である。

 早朝7時過ぎ(北京時間、時差2時間のため実質5時頃)宿を出て、砂漠に昇る日の出観賞に出発したが、風はないものの薄曇りのため昇日みえず。
 ラクダに騎乗して砂丘を遊覧し、月牙泉を通って帰るまでの約1時間半、朝の斜光をあびて陰影くっきりの砂丘群を期待したものの、ぼんやりした日差しのなか、のっぺりとした起伏が続くだけで、写真にならず。加えて初騎乗のラクダは不安定で、ビューポイントはあるものの鞍上からの撮影は国難。

 
鳴砂山風景(絵葉書転写)
   
帰りの観光客を待つラクダ群

 その鳴砂山砂丘群のほぼ真ん中辺りにあるのが、『月牙泉』と名付けられた泉池。

 かつて長さ約200m、最大幅約50mあったという三角形の月牙泉は、古書に
 ・古今を経て、砂が満つることなし
 ・烈風に遇うといえども、泉、砂に掩われることなし
などと記されるように、周りを流砂・飛砂にとりまかれているにもかかわらず、2000年の昔から未だ涸れたこともなく、砂に埋もれたこともない不思議な泉池という。

 それは、敦煌八景にも、“月明晩徹”として
  勝地(ショウチ)の霊泉 暁を轍(テッ)して清し
  月泉は 猶 是れ昔より名を知る
  一湾 月の如く 弦 初めて上(ノボ)れば
  半璧(ハンヘキ)の澄波(トウハ) 鏡と明るきを比(クラ)べ 
  風は飛沙を捲きて 終(ツイ)に到らず
  淵は 止水を含みて 正に相い生う
と詠われている。*半璧--三日月型の玉・月牙泉を指す

 というのは昔のことで、砂漠のなかにある美しい泉池として宣伝され、鳴砂山とともに多くの観光客を集めている今の月牙泉は、見る影もなく衰弱し、古ぼけた楼閣(雷音寺か)の傍らに、少し大きめの水たまり然とした姿を呈しているのみで、
 北側の大砂丘(高低差約100m)の裾に立てられた、昔あった泉の範囲を示す標識によって、往古の景観を偲ぶのみとなりはてている。

 ガイドの話では、改革開放後、党河上流でのダム建設などにより地下水脈が変化したためとか、背後の砂丘が滑り降りる人が多く、砂丘が崩れ泉を埋めたためとかいうが、砂丘の移動は昔からのことで、月牙泉の縮小は前者によるものであろう。 

楼閣の右に小さくなった月牙泉がある

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