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大神社
(通称:新田山王宮)
大阪府大東市新田東本町 884
祭神--大山咋神
                                                      2021.07.06参詣

 JR学研都市線・住道駅の西約1.5km、駅から線路沿いの道を西へ、灰塚小学校南信号を斜め右に曲がって広い道に入り、寝屋川を越え、諸福小学校西の角を北に入った突き当たりに鎮座する。
 社名“大”は“ダイ”と読むが、その由縁は不明。

※由緒
 拝殿前に立つ案内(石版)には、
 「新田という呼称は、当時の既存の集落に対し、新しく開拓された土地であるところから付けられたものである。
 しかし、豊臣秀吉の太閤検地(1582--98)を受けており、その時点での新田村であり、その開拓の起源は戦国期に遡るといえよう。

 伝承によれば、当時の開拓を手がけたのは、近江(滋賀県)から移ってきた人達であった。そこで、氏神も故郷の神である山王宮(日吉神社)をこの地に勧請した、という。

 改築前の社殿には享保2年(1771)の棟札があり、その時に新築されて270年間、この間には氏子による修築が加えられていた。しかし、風雪に耐えた社殿も損みがひどくなり、昭和59年に浄財を募り、同年4月着工10月吉日の新築となった。

 享保7年(1722)の新田村明細帳には、氏神山王宮権現 境内七畝歩と記されている。
 さらに文政8年(1825)に本殿覆屋、天保5年(1834)には拝殿及び本殿へのつなぎ廊下が建てられ、江戸期を通じて徐々に社殿整備が進められてきた。

 また、当時、村の行政区域は東西に分けられており、祭礼日には東西それぞれから2台のダンジリが引き廻され、宵宮には、にわか(芝居)なども行われていたことが記録されている。
 従って、山王宮は新田村の成立・発展と共に歩んできた当地の証人である。
 なお、境内にある大神社及び社務所は昭和48年に、福島社・大嶋社(稲荷社)は昭和52年に老朽によってそれぞれ新築再建された。 昭和59年10月吉日建立 氏子中一同
とある。

 大東市史(1973)には、
 「山王宮神社
 新田東本町にある。地元の伝承によれば、最初にこの新田の開拓を手がけたのは、多く近江(滋賀県)から移ってきた人達で、この山王宮も故郷の神である比叡の山王神社を勧請したものという。
 享保7年(1722)の新田村明細帳には、
  『氏神山王権現宮三尺五寸三尺三寸 境内七畝歩 但神主無御座候』
となっていて、境内には1.2mに1.1mの小さな本殿があるだけだったが、それから約100年を経た文政8年(1825)の家数人別奥寄帳には、
  『氏神山王権現社 境内除地長三拾間横七間 社梁行三尺三寸桁行三尺五寸 雨覆梁行弐間桁行弐間半 廊下 拝殿梁行九尺桁行壱丈八尺
と見え、本殿に雨覆をかけるとともに、拝殿を建て廊下で本殿と繋ぐなど、社容の整備が進められている。
 これは単に神社建築の様式変遷というより、近世の農村社会の変貌そのものであって、農民の富裕化と生活の全般的向上をものがたっている。天保5年(1834)には社殿を改築している。
 なお境内に稲荷神社があるが、これは山王宮をこの地に勧請したとき、元からあった農業神を稲荷神として祀ったものであろう」

 これによれば、当社は近江の坂本比叡からの移住者が旧地の氏神(日吉神社の祭神)を勧請し『山王宮』と称した社で、今、境内には「山王宮」とはあるものの「大神社」との表示はなく、当社を大神社と呼ぶ由縁は不明。

 なお、地名・新田について、大東市史には
 「新田  大和川の川換に伴う新田ではなく、文禄検地(1582--98、太閤検地ともいう)を受けた村である。
 開拓後間もなく、まだ村名が定まらない時期に検地を受けたので、普通名詞の新田をそのまま固有の村名としたものであろう。
 他村との境界線が著しく単調で、とくに東と南は井路による直線で区画されている。
 この村は他と比較して他村からの入作が多いが、これは開拓時の地形と区画に原因している」
とある。


※祭神
   大山咋神(オオヤマクヒ)

 大山咋神とは、近江・日吉大社東本宮の主祭神で、古事記によれば、素盞鳴尊の御子・大年神(オオトシガミ)が天知迦流美豆比売(アマチカルミヅヒメ)を娶って生んだ御子で、
 「大山咋神、亦の名は山末之大主神(ヤマスエノオオヌシ)。この神は、近つ淡海国(アフミ)の日枝山(ヒエ山)に坐(イマ)す。また葛野(カヅノ)の松尾に坐す、鳴鏑(ナリカブラ)を用(モ)つ神なり」
とあり、スサノヲに連なる出雲系の国つ神に属する。
 なお、“鳴鏑を用つ神”とは“鳴鏑に化身して神妻(巫女)に御子を生ませる神”を意味する。いわゆる賀茂の丹塗矢型神話を念頭においた伝承をいう。

 大山咋の“咋”とは“杭”あるいは“柱”のことで、杭を打つ、あるいは杭を立てることはその土地を領有・支配することを意味する。そこから大山咋神とは日枝の山(八王子山-H=378m)に坐す神、則ち“山の神”を意味する。


※社殿等
 道路の北側に鳥居が立ち境内に入る。
 鳥居の神額には『山王宮』、また拝殿に掲げる扁額にも『山王宮』とはあるものの、境内の何処にも「大神社」との表示はない。


大神社(山王宮)・社頭 
 
同・鳥居
 
同・鳥居神額

 広い境内の北側正面、一段高くなった処に「山王宮」と刻した2本の柱が立ち、その奥に入母屋造・亙葺きの拝殿が南面して建つ。
 拝殿正面に掲げる扁額には『山王宮』とある。

 
同・境内
 
同・拝殿(正面)

同・拝殿(側面) 

 拝殿の背後、弊殿を介して本殿(覆屋)が鎮座するが、周りの建物が邪魔して全容は見られない。
 拝殿の内陣奥に本殿社殿の小祠が鎮座し、一間社流造かと思われるが詳細は見えない。

 
同・本殿(側面)
 
同・本殿(背面)
 
同・拝殿からみた本殿社殿

◎境内社
*福嶋社
 拝殿の右にある小社。
 社名表示はないが、祠内に小祠があり、その幔幕に“鱗紋”があり、トグロを巻いた蛇の像がみえることから水神を祀る祠かと思われる。なお、内陣に吊されている大きな提灯には『福嶋大明神』とある。

 
境内社・福嶋社
 
同・内陣 

*大嶋社・大神社
 拝殿の左に小社2社が東面して鎮座する。
 向かって左の大きい方が「大嶋社」で右の小さいのが「大神社」。

 大嶋社について案内には「稲荷社」とあるが、内陣に朱塗りの鳥居はあるものの稲荷社に付き物の狐像は見えない。
 大神社は、案内に「境内にある大神社」とあるのが是かとおもわれ、内陣に小祠を納めているが幔幕が大きく社殿様式等は確認できない。
 ただ、幔幕の下に朱塗りの鳥居がみえること、幔幕にみえる神紋が大嶋社と同じことから是も稲荷社かと思われる。
 ただ、当小社が「大神社」と称することからみると、当小社が大神社(山王宮)本来の社で、山王宮勧請後境内社に貶められたのかもしれないが、資料なく詳細不明。


左:大嶋社・右:大神社 

大嶋社内陣 
 
大神社内陣

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