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大神社
大阪府大東市太子田 2-130
祭神--天照大神
付--聖徳太子堂
                                                          2021.07.06参詣

 JR学研都市線・住道駅の西約650m、駅北の住道駅前橋北詰から寝屋川北岸沿いの道(旧古堤街道)を西へ行った北側に鎮座する。
 社名は“大”と書いて“ダイ”と読むが、その由縁は不明。 

※由緒
 境内に立つ案内・『太子田の大神社と聖徳太子堂』(平成26年3月、大東市教育委員会)には、
 「大神社の祭神は天照大神で、毎年10月20日を祭礼日としています。
 社殿の中には、彩色された神明造り・桧皮葺きの本殿と木製狛犬が安置されています。狛犬の台座には『文政十亥九月吉日』(1827)と刻まれており、本殿もこの時に建てられたものと考えられます。
 拝殿は、棟札から『文久三癸亥菊月』(1863・9)の建立で、拝殿前の燈籠一対もこの時に奉納されたものです。(以下・下記)
とある

 大東市史(1973)には、
 「太子田2丁目にあって天照大神を祀る。
 約71㎡の境内に本殿と拝殿があり、文久3年9月に奉納された燈籠一対がある。
 すぐ西隣りが聖徳太子堂である」
と簡単にある。

 これらによれば、当社の創建由緒・年代等は不明だが、狛犬台座・燈籠・棟札の銘文からみると江戸時代後期にあったのは確かといえる。

※祭神
   天照大神

 当社の創建由緒が不明なこともあって、天照大神を祀る由縁は不明。
 かつての伊勢神宮(天照大神)は“私幣禁断”といって天皇以外の奉祀を禁止していたが、平安末から鎌倉にかけて次第にゆるみ、江戸時代になると“おかげ参り”に代表されるように一般庶民の奉祀も受けいれるようになり、これに伴い地方でも天照大神を祀るようになったという。
 当社も、そういう伊勢信仰の大衆化という風潮のなかで天照大神を勧請したのではないかと思われる。

 ただ、当社が大神社(ダイジンジャ)と称する由縁は不明。天照大神を祀ることから、かつては大神宮と称していたのかもしれない。

※社殿等
 旧古堤街道から西北方に分かれた道の北側に鳥居が立ち、広い境内の正面に拝殿・本殿が、右横に地車小屋があるだけの簡素な形態を呈している。

 
大神社(太子田)・鳥居

同・境内 

同・境内

 鳥居を入った正面、一段高くなった処に入母屋造・亙葺きの拝殿が、その背後、弊殿を介して同じく入母屋造・亙葺きの本殿(覆屋)が南面して鎮座する。

 拝殿内陣から奥を覗くと本殿らしき社殿がみえるが、仕切りの格子戸に阻まれてその建築様式等は不明。
 また、格子戸の上に極彩色の絵馬が掲げてあり、幼児を抱いた女性などが描かれているが、如何なる場面を描いたのかは不明。

 
同・拝殿

同・拝殿 
 
同・内陣
 
同・左:拝殿・右:本殿
 
同・本殿 

【聖徳太子堂】
 当社の西、道を挟んで『聖徳太子堂』(太子田2-9)があり、 上記案内には、
 「神社西側の聖徳大師堂には、父・用明天皇の病気平癒を祈願する太子16歳の孝養像が安置されています。
 伝承によると、この付近には七堂伽藍の建ち並ぶ善根寺という大きな寺があり、太子像はそこに安置されていました。 
 善根寺の創建年代は不明ですが、太子信仰が古くから盛んであったことが、ここ太子田の地名の由来となっています。
 善根寺は明治6年(1873)に廃寺となり、敷地内に建つ石碑と西側の土地に小字名として残るのみです。

 現在の太子堂は大正10年(1621)太子入滅1300年を記念して建てられたもので、毎年4月に法会が営まれ、太子信仰は今も景使用されています」

 また大東市史には、
 「太子田2丁目、大神社の西隣りにあり、現在は同所の明福寺の管理となっている。
 地元の伝承では、元この地に善根寺という七堂伽藍を整えた古刹があり、その寺料として当てられたのが御領・太子田・御供田などであった。
 しかし、この大寺も時が移るとともに荒廃し、ついてに明治6年(1873)に廃寺となった。
 だが村人達が永く信仰していた聖徳太子の尊像だけは残したいと、明福寺に安置した。そして大正10年(1921)、太子入滅1300年を機会として、多くの信者から浄財を募って堂宇を建立し、ここに再び太子の尊像をまつった、ということである。

 この伝承に出てくる善根寺については、全く不明というほかないが、この堂の前に寺趾を示す記念碑があり、その台座として反花座が転用されているが、その彫りの仕様などから鎌倉時代の作といわれるから、あるいはこれが唯一の遺物であろうか。

 聖徳太子信仰ははやく奈良時代に起こったといわれるが、鎌倉時代になるといよいよ盛んになって、各宗派は競って自宗と太子を結びつけることに努め、太子僧や太子堂を造ったという。
 それが室町から江戸時代に入ると庶民の信仰となり、庶民間でも太子講などを結んで信仰を強めていった。
 この太子堂もこうした意味で、太子田を中心とした太子講の人々によって継承し維持されてきたと考えられる。
 そしてこの太子堂の維持や太子講の費用にあてるため講有の田畑をもっていた。地元でもこの田を太子田の太子堂のために置かれた、といっている。
 もちろん地元の太子田も、いま『たしでん』と読んでいるが、かつては『たいしでん』と呼ばれており、太子堂のための田を中心に発達した村といえるのである」
とある。

 大神社(太子田)の西側街区の南東角に位置し、南側入口から入った正面に、一間向拝を有する入母屋造・亙葺きの社殿が南面して建つが、横から見ると背後の民家と一体になっているように見える。

 社殿内陣の正面は3間の障子で区切られており、太子像を安置する内部を見ることはできない。
 なお、上記案内には、堂前に寺跡を示す反花座(仏像の台座などに使われる蓮華座の花弁が、上向きではなく下向き開いている様式)の祈念碑があるというが、入口右に立つ聖徳太子堂と刻した石柱の台座がそれであろう。

 
聖徳太子堂・全景(南東側より)
 
同・正面入口
 
同・社殿

 大東市史には、上記に続けて
 「さて堂内には、高さ32.8cmの木像聖徳太子孝養像が安置されている。
 父の用明天皇が病の時、16歳の太子は昼夜を分たず看病し、また手に柄香炉をとって病気の平癒を祈ったという。
 この事に因んで太子16歳の像は孝養太子像と呼ばれ、頭髪を美豆良(ミヅラ)に結い、赤い御袍を着て袈裟をかけ、右手に柄香炉を持ち左手の小指を右の衣の袖にかけている。

 この太子堂の像は、もとは今から600年ぐらい前に彫まれたもう少し大きい像であったが、火災で焼けてしまい。その後に新彫した250年ぐらい前のものといい、作者は僧・元調であるというが確証はない」
とある。

 聖徳太子孝養像は、頭髪をミズラ(美豆良・角髪、髪全体を中央で二つに分け、耳の横でそれぞれを括って垂らした古代童子の髪型)に結った童子が手に柄香炉(柄の付いた香炉)を持つのが基本形で、立像・絵画など種々のものがある。
 大東市史によれば、当堂蔵の太子孝養像は下左の立像とある。


太子孝養像(当堂蔵) 
 
(奈良・元興寺蔵)
 
(大阪・四天王寺蔵)
 
(兵庫・一乗寺蔵)

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