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八幡神社
大阪府大東市御供田 2-3-20
祭神--誉田別命・息長帯日売命・比咩大神
                                                    2021.07.06参詣


 JR学研都市線・住道駅の東約500m、駅南の線路沿いの道を東へ、住道1丁目交差点を越えて二つ目の角を南へはいった処に鎮座する。

※由緒
 境内に掲げる案内には、
 「当神社は約320年前(昭和50年起算)、元禄の初めに洛南男山の石清水八幡宮より、当地の氏神として分霊を勧請斎祀し、村の安全と五穀豊穣を祈り続けてきたお社である。

 当地に八幡神社のあることを、地名・御供田と呼称する由来については、船橋市に在住されていた團野家(ダンノケ、元当地の名門)所蔵の古文書に記録の中から一部抜粋して次に掲げ、諸賢の参考に資する。

 抜粋    社務所
 河内国讃良郡御供田村、いにしへは團野村と号す。石清水八幡宮の社領となりしより、御供田村と名を改む。
 團野浄忍入道、姓は紀氏なるが故に八幡宮を勧請し一村の氏神とす。(中略)
 70代後冷泉院(在位:1045--68)の御宇、八幡太郎義家、奥州の朝敵を誅し上洛の後、石清水八幡宮へ御供田を寄附したまふ。よって村名となる事しかり。

 大阪府全志によれば、当地に鵲森神社(カササギモリ)の社領であったと記されているが、いつの頃の時代か定かでない」

 大東市史(1973)には、
 「御供田2丁目にあり、祭神は誉田別命・息長帯日売命・比咩大神。
 慶応3年(1867)の宗門御改寺諸家別人別員数帳によれば、『氏神神社境内除地 梁三尺七寸桁四尺五寸 雨覆梁二間桁二間 拝殿梁弐間桁弐間半』とある。

 案内によれば、約850年程前、京都男山八幡宮より御供田の氏神として勧請したもので、御供田という名も、この石清水八幡宮への寄進地という意味であるという。
 また御神体であった劔も何れかへ持ち出されたともいわれ、明治7年(1874)の記録では、江戸中期頃、本社社殿の損傷著しく、また木像の御神体が鼠にかじられて破損したので、村民相談の結果、安楽寺の仏像一体を当社へ移し御神体としたという。

 境内にある四基の燈籠の内、一基に『元禄12年(1699)己卯三月吉日 川刕御供田村』との銘文がある。当社関係の資料としては一番古いと思われる」
とある。


 上記案内によれば、当社は、元禄の始め頃(1690年代か)、紀氏出身の團野浄忍入道なる人物が京都男山の石清水八幡宮から分霊を勧請したことにはじるという。
 石清水八幡宮は、清和天皇・貞観2年(860)に奈良大安寺の僧で、紀氏出身の行教が宇佐八幡神の神託を受けて創建し、初代別当に行教の甥・紀御豊が任ぜられ、以降、その職は紀氏が世襲したという。
 この石清水八幡宮と紀氏との関係から、紀氏出身の團野浄忍が八幡宮の分霊を勧請し、その別当職に就いたということであろう。

 地名・御供田の由来について、案内にいう團野家古文書には、当地に、八幡太郎義家(1039--1106、清和源氏の一流・河内源氏の5代目・源義家)が石清水八幡宮へ寄進した御供田があったからとあるが、
 大阪府全志(1922)には、
 「本地は讃良郡に属し、御供田村と称す。
 村名は、大阪玉造鷺森神社(カササギノモリ)の記録によれば、往時同神社の神領たりしより起れりといふ。
 其の一部分は深野池に沿ひし所ならん。南遊紀行に『御供村は池の東にあり、島にはあらず。漁民多し、ふかうの池のまはり、凡42村ありと云』と記せり」

 また大東市史には、
 「古大和川の分流の玉櫛川・吉田川が流出した土砂によって、その末端の合流地に形成され、深野池に突き出した形になっていた。
 御供田とは、社寺に属してその御供料にあてる田畑を意味し、大阪府全志によれば、古くは玉造の鵲森神社(カササギノモリ)の社領であったとされている。
 ここには“御供田村由緒略記”ともいうべき記録が残っているが、筆者が江戸末期の公卿で、鵲森神社の記録によったとされているが明らかでない。

 保元3年(1157)の古文書によれば、八幡宮領は35ヶ国にわたって120数カ所、河内でも25ヶ所に増えているが、その多くは延久(1069--74)以後に獲得したものであろう。

 この間、河内源氏は頼義から義家の時代となり、特に石清水八幡宮を崇敬した義家は、武士の棟梁として『天下第一武勇之士』といわれ、諸国の百姓が続々と田畑を寄進するので、朝廷では禁止令を出したほどである。
 本市の御供田も土地の豪族が義家に寄進し、義家がこれを石清水に寄進したと、土地では云い伝えている。
 保元3年の文書には、残念ながら御供田とか本市域にかかわるような地名は見あたらないが、この地名伝承は、そのころの八旛宮と河内の結びつき方を遇している」
とある。


 これによれば、地名・御供田の由来には鵲森神社御供田説・義家寄進説の2説があるとなるが、
 *鵲森神社とは、今、JR大阪環状線・森ノ宮駅のすぐ西側にある鵲森宮(中央区森の宮中央、祭神:用明天皇他)のことと思われ、同社は推古天皇元年(593)四天王寺が現在地に建立される以前同地にあったという元四天王寺の鎮守社として創建された古社といわれ(別稿・鷺森宮参照)、その御供田が当地にあった可能性はあるが、上記資料以外にそれを証する資料は見当たらない。

 *源義家は、石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と名乗ったといわれるように、石清水八幡宮との関係は深いが、当地に義家(あるいは源氏一族)の所領があったという確証はない。
 
なお、上記抜粋には「70代後冷泉院の御宇八幡太郎義家」とあるが、後冷泉天皇の御代に奥州で前九年の役(1051--62)が起こり、勅により源頼義・義家父子が出兵して平定しているから、「朝敵を誅し云々」とはこれに関連した記述であろう。

 *あるいは、古くは鷺森神社の御供田だったのが、頼義・義家の時代に源氏の所領となり、それを義家が石清水八幡宮に寄進したとも考えられるが、これとても推測であって確証あってのことではない。


※社殿等
 境内南側に立つ鳥居を入った正面に、入母屋造・亙葺きの拝殿が南面して鎮座する。
 社殿は近年になっての建立のようで、社殿はまだ新しい。

 
八幡神社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・内陣

 拝殿の奥、弊殿を介して切妻造平入り・亙葺きの本殿が南面して鎮座する。
 ただ、外から見える本殿は覆屋で、拝殿内陣から覗くと、奥に一間社流造らしき本殿の社殿がみえる。
 境内に境内社等は見えない。


同・社殿(左:本殿、右:拝殿) 
 
同・本殿(覆屋)

同・本殿社殿(内陣より) 

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