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北條神社
大阪府大東市北条 5-2197
祭神--誉田別命・菅原道真
                                                      2021.06.17参詣

 JR学研都市線・四條畷駅の東南約900m、駅東口を出て府道20号線(旧東高野街道)を南下、北條交番前交差点を左(東)へ折れ、約400m程進んだ北側に鎮座する(角を少し入った処に「北條神社」の石碑あり)

※由緒
 境内に掲げる案内には、
 「祭神は京都北野神社の御神木で像を刻んだものであると、当社の古記録にある。
 即ち、時の天皇の御詔勅に『北野の神木で神像を作り、漂流地に祀るべし』とあったので、数多くの神像を刻み加茂川に流された。その一体が当村の西の津之辺の浜辺に流れついた。
 その所が森であったので、以来その所を明神の森と呼び、聖地であるとして代々お祭りを欠かさなかった。
 しかし、この社は平地であるため度々洪水の災いにあった。そこで、時代は不明であるが現在地に遷座された。

 明治時代に合祀された八幡宮は、鎌倉時代に京都男山八幡宮を当村北条の八幡山に勧請した。
 戦国期の飯盛城時代、この八幡宮は代々の城主の守護神と仰がれ、武士達は武芸上達の神として武運長久を祈願した。

 その後、江戸時代に四条村か二つに分かれ、八幡宮は久具領の産土神となった。
 明治5年、八幡宮・天満宮の二柱が合祀され北条神社となった。
  末社に『善女大龍王』の水神が境内に祀られる」

 大阪府全志(1922)には、
 「北条神社は東方(北河内郡四条村)字宮谷にあり、もと菅原道真を祀りて天満宮と称せり。
 伝へいふ、昔京都北野に菅神の社を建て、天満大自在威徳大神と崇敬せらるゝと共に、数多くの神像を刻し、漂着地に於いて祭祀すべしとのことで、加茂川に流されたる神像の一は、本地の字ツノベなる東明神の木に着したるを以て、之を同所に奉祀せしもの当社の初めにして、其の地は洪水の患ありければ当所に奉遷し、旧地を明神の森と呼びしが、今は開墾せられて畑地となれりと。

 明治5年村社に列せられ、同8年字飛升の村社八幡宮(品陀別命)を合祀して今の社名に改めらる。
 合祀せし八幡宮は創建の年月祥ならざるも、伝ふる所に依れば、鎌倉時代に男山八幡宮の分霊を勧請せしものにして、飯盛山城主崇敬して代々守護神と仰ぎ武運長久を祈りしと。
 徳川時代にありて本地は所領二分せられ、殆ど二ヶ村の観を呈したるを以て、八幡宮は久貝領の産土神となり、当社はその他の産土神となり来たれり」

 大東市史(1973)には、
 「北條5丁目にあり、祭神は八幡大神と菅原道真。
 当神社は元々道真のみを祀っていたが、明治5年(1872)に北方にあった八幡宮をここへ移転し、併祀されたまま現在に至っている。
 伝説によると、平安時代の寛弘年中(1004--12)に、京都北野天満宮より多数の天神さんの木像(道長像)を彫刻して流した。そして漂着した処にそれを祀るようにとの達しがあった。
 はたして深野池の水際であった津之辺へ一体が着いたので、村人達は飯盛山の中腹の清浄なところへそれをまつり産土神としたという。天神さんの漂着した処は現在でも明神社といい、当社の御旅所となっている。(以下略)
とある。

 上記由緒によれば、当社の創建は寛弘の頃というが、天暦元年(947)北野天満宮創建以降、菅原道真の怨霊鎮撫のための社が各地に建てられており、当社もその一社であろう。

※祭神
 社頭の案内には
   誉田別命(品陀別命)・菅原道真
とある。

※社殿等
 当社は、JR四条畷駅の東約1.4km・飯盛山の西南山麓に鎮座し、北條交番前交差点からやや緩急のある坂道を進んだ左、低い石垣の間に石段がある。
 石段の直上に立つ鳥居を入った境内は横に長く、北側正面の石垣の上社殿が建つ。
 中央・拝殿の右に社務所らしい建物があるが無人。


北条神社・入口の石段 

同・鳥居 
 
同・境内

 石段上には千鳥破風向拝を有する入母屋造・亙葺きの拝殿が、その奥に本殿(覆屋)がいずれも南面して鎮座する。
 外から見える切妻造・妻入りの本殿は、壁をトタン板で補修したような覆屋で、
 拝殿の内陣奥に見る本殿社殿は、御簾と格子戸に阻まれてよく見えないが小祠2社が鎮座しているらしい。

 
同・拝殿(正面)
 
同・拝殿(向拝部)
 
同・内陣

同・本殿(覆屋) 

同・本殿背面 

内陣からみる本殿正面
(御簾の奥に本殿あり) 


【善女大龍王社】
   祭神--善女大龍王

 拝殿の右側(東側)奥にやや小振りの鳥居が立ち、その奥に宝(方)形造・亙葺きの社殿が西面して鎮座する。
 鳥居は古くみえるが、社殿及び内陣に鎮座する一間社流造の小祠はまだ新しい。
 附近に案内等はなく詳細不明だが、社殿の扁額には『善女大龍王』とある。

 
善女大龍王社・鳥居
 
同・社殿
 
同・本殿

 善女大龍王とは、法華経にいう八大龍王の一尊・沙掲羅龍王(シャカツラリュウオウ)の三女・「善女龍王」(ゼンニョリュウオウ)のことと思われ、今昔物語(14巻・41話、伝1120頃)に、

 ・淳和天皇の御代・天長元年(824)天下に大旱魃が起ったとき、天皇は空海を召して請雨の修法をなすよう命じた。
 ・命をうけた空海は神泉苑において請雨の法を修すること七日、頭上に五寸ばかりの黄金の蛇を戴いた五尺許りの蛇が現れて神泉苑の池に入っていった。
 ・空海は、これをみた4人の伴僧に(他の人には見えなかったとある)、『これは天竺の阿耨達智池(アノクダッチ)に住む善女龍王が、修法の霊力を顕すために現れたのだ』と説いた。
 ・すると、俄に空が曇って戌亥の方から黒雲が湧き出て大雨となり、国中が潤った。
 ・これより後、天下旱魃のときに、この法を伝える人が神泉苑でこの法をおこなうと必ず雨が降った。
とあるように(概略)、農耕に必要な雨をもたらしてくれる龍神という。




善女龍王・絵図 

◎辨財天龍王の碑
 境内東南隅から東へ延びる小道があり、少し進んだ左側に苔生した石碑5基が並んでいる。
 中央に高さ1m程の自然石の碑があり、
  中央--辨財天龍王  左--黒龍大明神  右ーー□□大明神
と刻してある。

 弁財天龍王とあるから、弁財天と黒龍大明神他を併せ祀った石碑で、臆測すれば畝境内の善女大龍神と何らかの関係を有する石碑かもしれない。

     

【山神の碑】
 東南隅からの小道を入ってすぐに、
 「山神
 今はその存在さえ忘れられているが、昔は炭焼き・草刈りなど山仕事をする人達にとっては、山を支配する神として崇められ、山路の往き帰りには必ず礼拝したという。 大東・三好長慶会
との案内が立っている。

 その案内板の上方、木立に囲まれた斜面に、『山神』と刻した三角形の石が滑り落ちそうな姿で座っているが見つけにくい。
 かつて村の四辻・峠道などに数多くあった道祖神の一種かとおもわれるが、詳細不明。
 なお、山神案内板前の小道を左に入ると飯盛山にある飯盛城跡に行けるらしく、「三好長慶と飯盛城」との案内板が立っている。

   

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