トップページへ戻る

北野神社
A:氷野北野神社--大阪府大東市大東町583
B:赤井北野神社--大阪府大東市赤井2-13
祭神--菅原道真
                                                     2021.06.01参詣

 大東市内には北野神社が2社あり、上記Bの赤井北野神社はAの氷見北野神社から分祀したものという。

 氷野北野神社は、JR学研都市線・住道駅の北約1.1km、駅西を南北に走る府道21号線(八尾枚方線)を北へ、氷野歩道橋が架かる角を東へ、氷野小学校外周を南から東・北へと回り込んだ先に鎮座する。

 赤井北野神社は住道駅の西約400m弱、府道21号線・赤井交差点を南へ、堤防に突き当たる一つ手前の角を右(西)へ入った北側に鎮座する。

※由緒
 氷見北野神社・社頭に掲げる案内には、
 「氷見北野神社は菅原道真を祭神とし、毎年10月20日に祭礼が行われています。
 神社の由緒は不明ですが、宝暦8年(1758)に氷野・赤井両村が作成した社殿の修復額が伝わっています。 
 もともと一村であった氷野と赤井は、明治35年(1902)に赤井北野神社が分祀されるまでは、ともに氷野北野神社を氏神としていました。

 拝殿前には文政5年(1822)に氷野村から奉納された燈籠と、赤井村から奉納された狛犬があります。
 現在の社殿は昭和43年(1968)に建てられましたが、以前の社殿て使用されていた象鼻(ゾウハナ)と蟇股(カエルマタ)が残されています。

 北野神社の参道は、江戸時代中期までは当地の東側一帯に存在した深野池(フカウノイケ)の堤防跡といわれています。
 元禄15年(1702)、堤防の内側に尼崎新田が開かれ、深野池開発のさきがけとなりました。
 新田開拓後、当地周辺では農業用の井路(イジ・水路)が開かれ、水運も盛んとなりました。
 また当社では、毎年9月15日に深野南新田(現在の平野屋新町)の井路から砂を持ち帰り、参道を補修する『砂もち』といわれる風習が長らく行われていました。
 都市化にともない、大半の井路は昭和40年前後に埋め立てられましたが、境内におかれている『学校の橋』・『乾の橋』の石材が往時の面影を伝えています。平成27年9月 大東市教育委員会

 また北河内のお宮(2009)には、氷野北野神社について、
 「当社の由緒については不詳である。 
 昭和46年社殿を新築されたが、以前の社殿は安土桃山時代の形式を残していたと言われ、その一部が現在保存されている。
 また、当社は古墳時代の遺跡としても有名である。明治5年村社に列せられる」
とある。

 赤井北野神社の氷野からの分祀経緯等は不祥だが、北河内のお宮(2009)には、
 「当社の由緒については不祥ながら、明治以降氷野北野神社から分祀したとの言い伝えがある。
 平成10年11月26日新社殿に遷座した」
とある。


 今、氷野北野神社の鎮座地は大東市大東町だが、これは昭和31年(1956)の大東市発足以後の町名で、古くは茨田郡氷野村に属していた(明治22年-1889、茨田郡赤井村・氷野村・御領村・諸福村・新田村が合併して南郷村成立、大字氷野と称した)

 その氷野について、大阪府全志(1922)には、
 「大字氷野
 本地は古来茨田郡に属し(明治29年、茨田郡から北河内郡に変更)、もと八個荘の内にして赤江村と称せしが、後“江”を“井”に改めて、万治元年(1658、江戸前期)分かれて赤井村・氷野村の両村になる。本地はその一なり。(中略)
 村名は氷連(ヒノムラジ)の居りしより起れるの称ならんか。氷連は、姓氏録河内国神別に『氷連 石上朝臣同祖 饒速日命(ニギヤヒ)11世孫伊己灯宿禰(読み不明)之後也』と見ゆる是なり」
とある。(大字赤井についても同文、ただし氷連は除く)

 かつての氷野村は、宝永元年(1704)の大和川付け替え以前に当地にあった「深野池」との大池のすぐ西にあったようで、深野池関係絵図には、池の左下に“氷野”・“赤井”との地名が見え(右絵図)、今、大東町の西、府道21号線を挟んで氷見、その南に赤井との町名がある。

 大阪府全志が“地名・氷野の起因か”という氷連とは、朝廷に献納される氷を司る(氷室の管理・朝廷への氷の献納等)伴造(トモノミヤツコ)で、先代旧事本紀に「饒速日命十一世孫・物部大前宿禰連(伊己灯宿禰と同一人か)は氷連の祖」とあり物部氏系の氏族という。
 書紀に記す孝徳4年(648)に派遣された遣唐使一行の中に学生・氷連老人(ヒノムラジオキナ)との名が見えるから、飛鳥時代に実在したのは確からしい。

 大東市史によれば、河内国讃良郡には氷室2ヶ所(讃良北氷室・南氷室)があったとあるが、その確たる場所は不明だが、北氷室は四條畷市の室池附近で、南氷室は大東市の龍間辺りと考えられ、龍間には近世まで氷を採っていたという採氷池が残り、車に積んで中垣内におろし、船積みして大阪へ送っていたという。
 ただ、今の龍間は当社から東へ3km以上離れた処にあり、そこの氷室を管理したと思われる氷連と当地との関係は不祥。

大和川付け替え前の深野池
池の左に氷野・赤井の地名が見える

 氷野北野神社の創建年代は不明だが、宝暦8年(1758・江戸中期)の社殿を修復したとの額が伝わっていることから、それ以前にあったのは確かだろう。ただそこからが何時まで遡及できるかは不明。

 赤井北野神社は明治35年、氷野北野神社からの分祀というが、氷野と赤井の関係について、大東市史には
*氷野
 「地名の初見は、三箇や灰塚と同じように『小松寺縁起』(1145)である。
 古くは新撰姓氏録に氷連の名が見えるが、これとの関係は明らかでない。
 鎌倉時代になると、枚岡神社社家の『水走家文書』の建長4年(1252)の譲状に氷野河とあり、同文書の応永23年(1416)の譲状には氷野河浮津とある。また佐太の来迎寺の応永3年(1396)に関する記事の中に西氷野村と見えている。
 なお荘園志料は豫章記(1500頃)から『河内氷野荘』との記載を挙げているが、群書類従の活版本では『水野荘』となっている。
 それはともかく、この氷野は赤井と関連させて考えねばならない」
 (これからみると、氷野という地名は早ければ鎌倉時代、遅くとも南北朝時代には知られていたと思われる)

*赤井
 「河内志は、赤井は古く赤江と書いたと記しているが、元禄11年(1698)の河内国御料私料村高帳では『氷野ノ内赤井村』としているし、現在も両村は複雑に入り組んでいて、もと一村であったことは明確である。 
 つまり氷野と赤井は合わせて赤井と呼ばれ、平安初期以前にその姿を表していたのである。
 なお次のように考えることもできる。すなわち、赤井はさらに御料の地域も含んでいたが、これにはいつしか総称として氷野と呼ばれるようになった。
 やがて分離独立するに至った時、ひとつは古い伝統ある地名を思い起こして赤井とし、他は供御料であった由緒に因んで御領と名づけた」
とあり、古く氷野・赤井は一村の呈を為していたが、明治の町村制公布(1888)以降公的に分離し、そのなかで赤井北野神社は氷野北野神社からの分離独立したとも推測できる。


※祭神
   菅原道真

 当社が菅原道真を祀る由縁は不明。
 道真は朝廷内での権力争いに敗れ太宰府に左遷されその地で亡くなったが、死後、都で起こった災禍を道真の怨霊による祟りとして恐れられ、これを慰めるために神として祀ったのが道真信仰の始まりだが、
 中世になると至誠・国家鎮護・詩文・和歌・書道の神などの神格が付加され、特に江戸時代には学問の神として寺小屋に祀られるなど、庶民に親しまれたといわれ、
 当社が江戸時代に創建されたとすれば、当時の流行神であった学問の神としての道真を祀ったと推測される。

※社殿等
【氷野北野神社】
 入口を入ると右に「氷野北野神社」との標柱が立ち、傍らに古い石灯篭が、砂利を敷きつめた長い参道の途中にやや小振りの鳥居が立つ。
 参道について、上記案内には“深野池の堤防跡といわれている”とあるが、確かに参道の両側は一見して約4・50㎝ほど低くなっており、かつての堤防跡というのは事実かもしれない。


氷野北野神社・参道入口 

 同・社標柱と石灯篭 
 
同・鳥居と参道

 参道の突き当たり正面、玉垣に囲まれたなかに千鳥破風を有する入母屋造の拝殿が、その背後、弊殿を介して切妻造の本殿(覆屋)が南面して鎮座する。
 拝殿内陣の奥に本殿の小祠がみえるが、前に垂れる幕に遮られていて如何なる様式の社殿かは不祥。


同・拝殿 

同・拝殿(側面) 
 
(案内より転写)

同・本殿(覆屋) 
 
同・拝殿内陣 

 境内に末社等はないが、境内東側の植え込みの下に横長の石材が2基置いてある。
 この石材は、“かつての井路に架かっていた学校の橋・乾の橋の残材”といわれ、四角形の石柱3本を横に並べてベンチ状にしたもので、これが橋の何処に使われていた部材かは不明。
 なお、二つの石材間の植え込みの中に古い石灯篭が立っている。火袋部を欠いているから相当古いものらしい。

 
左:学校の橋・右:乾の橋か?
(間に石灯篭が見える)
 
学校の橋?
 
乾の橋?

【赤井北野神社】
 赤井交差点から南へ、堤防の一つ手前の小道を西に入った北側に鎮座するが、この街区のほぼ西半分は泉勝寺という大寺で占められており、当社は泉勝寺南西部の狭い区画に鎮座する形となっている。(当社と泉勝寺の関係は不明)


赤井北野神社・社頭
(右の門は泉勝寺山門) 

同・鳥居
 
附近略図

 鳥居の近接して唐破風向拝を有する拝殿が南面して建つ。
 社殿は複雑な屋根構造をもつ大きな社殿だが、境内へは入れず、玉垣の外から眺めるだけで詳細不祥。
 当社は明治35年に氷見北野神社から分社したというが、今の鳥居・社殿共に一見してまだ新しく近年に改築されたと思われる。


同・拝殿(向拝部) 
 
同・社殿全景
 
同・内陣

 鳥居の右(東)に小さな地蔵堂(中に地蔵像安置)と泉勝寺の堂々とした山門が建ち、山門横に「真宗大谷派 寶壽山泉勝寺」との石柱が立つ。
 泉勝寺は大きな本堂を有する大寺だが、その縁起等は不明。

 
左:地蔵堂・右:泉勝寺山門
 
泉勝寺・石柱

トップページへ戻る