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南條神社
大阪府大東市野崎 2-7-1
祭神・牛頭天王・素盞鳴命
                                                          2021.06.08参詣

 JR学研都市線・野崎駅の東約700m、野崎観音(慈眼寺)の山門を入ってすぐ左側(北側)の高所に鎮座する。

※由緒
 拝殿右前に掲げる案内(石版)には、
 「当社は、宝塔神社に対して北の宮さん・牛頭さんの呼称で親しまれ、野崎地区の氏神として厚く信仰される。
 明治5年から野崎・宝塔神社に一時合祀されたが、同13年には野崎村村社として復活し現在に至る。

 牛頭天王は、仏教における神将として怨霊や病魔を打ち払う。
 素盞鳴命は姉の天照大神の岩戸隠れ神話を生ませるほどの荒ぶる神であり、病魔を退散させる神威ありとして尊崇される。
 このため、平安期以降の神仏習合理論により牛頭天王と同一視されるようになった。
 京都・八坂神社に代表されるように牛頭天王をお祀りする神社は古く、当社も北條村に対し南條村を称した江戸時代以前に南條(野崎)村の鎮守として牛頭天王社と呼ばれていたのであろう。

 石鳥居に『元禄』の銘が刻されていることから、この時期(17世紀末)に社域が整備されたと推定される。
 また、本殿前にある一対の木製狛犬(向かって左側の狛犬には角があり、一角獣と呼ばれる。狛犬に角があるものほど時代は古いと言われている)は、極彩色が施され、現在、剥離しているが桃山時代の雰囲気を漂わせている。
 なお、その台座の裏書に『延享元年(1744)子年子九月 天王宮野崎村』とある。 平成9年9月吉日 南條神社氏子中
とある。

 また大東市史(1973)には、
 「野崎2丁目、野崎観音の境内にある。
 素盞鳴命・牛頭天王を祀っていたが、明治5年同じく野崎の宝塔神社へ合祀され、復活したのは明治13年といわれている。
 一般に当社は牛頭天王社と呼ばれているが、牛頭天王というのは、平安初期頃に怨霊の祟りを制御するために出てきたもので、仏教における神将のようなものだという。
 この牛頭天王が、のちに密教系僧侶達によって素盞鳴命と手を結ばされ、神社へ祀られるようになったのである。 
 当社においても、もともとは農業神・水神として素盞鳴命を祀っていたが、いつの頃からか慈眼寺との関係が出来てくることによって、牛頭天王社として変質していったと考えられる」
とある。


※祭神
   牛頭天王(ゴズテンノウ)・素盞鳴命(スサノオ)

 当社鳥居の神額に『牛頭天王宮』とあるように、元々の祭神は牛頭天王一柱だったと思われる。
 牛頭天王とは、強力な疫病神だったものが、一旦疫病が流行すれば為すすべをもたなかった時代に、これを丁重に祀ることによって逆転して疫病除けの神として広く崇敬されていた。
 それが、明治の神仏分離によって仏教色が強いとして排斥され、同じ神格をもつとされる素盞鳴命に変わったもので、京都・八坂神社に代表されるように、江戸時代の牛頭天王社は殆どが祭神を素盞鳴命に変え、牛頭天王の名は消してしまっている。
 そんな風潮の中にあって、牛頭天王・素盞鳴命2柱を併祀した当社は珍しい存在といえる。

 なお大東市史は、当社元々の祭神は素盞鳴命だっととれる記述があるが、中世以降、牛頭天王と素盞鳴命とは習合していたというものの、これは一部の有識者間での認識であって、一般庶民が崇敬するのはあくまでも牛頭天王であったと思われる。


※社殿等
 野崎観音(慈眼寺)の山門を入ったすぐの左、石段の上に南條神社の鳥居が立ち、神額には『牛頭天王宮』とある。
 野崎観音境内の一画を借りたようなたたずまいで、当社境内といえる区画は狭い。
 当社は野崎観音の鎮守社的性格をもつのかもしれないが、当社と野崎観音との関係は不明(由緒にそれを示唆する記述はない)


野崎観音・山門 
 
南條神社・社頭
 
同・鳥居

 鳥居を入った正面に、入母屋造・亙葺きの拝殿が、その後に本殿(覆屋)が南面して鎮座するが、隣接する堂舎との間が狭く、本殿の全貌は実見不能(裏にも回れない)
 上記案内に、本殿前の狛犬は角がある一角獣だというが、拝殿内陣からは格子戸に阻まれて本殿内部の様子は見えない。

 
同・拝殿
 
同・拝殿内陣

同・本殿(覆屋) 

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