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野崎観音
(正式寺名:福聚山慈眼寺)
大阪府大東市野崎 2-7-1
                                                      2021.06.08参詣

 JR学研都市線・野崎駅の東約700m、駅東から観音参道(商店街)を通って東へ進み、長い石段を登った上に鎮座する。
 正式寺名・慈眼寺というより野崎観音の名で親しまれているお寺。

※縁起
 頂いた参詣の栞には、
 「野崎観音は福聚山慈眼寺(フクジュサン ジゲンジ)という禅宗のお寺です。
  今から1300年ほど前、(天平勝宝年間・745--57)大仏開眼のために来朝した婆羅門僧正が『野崎の地は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(ハラナ)によく似ている』と行基様に申されました。
 感動された行基様が観音様(十一面観音)を彫み、この地に安置されましたのが、これがこの寺のはじまりと伝えられています。

 藤原時代(894--1185)の末、淀川右岸に住む江口の君が、長の病を観音様に治していただいたお礼に、お寺を再興されました。

 永仁年間(1293--98)に、入蓮僧正が秦氏の協力を得、大修復をされましたが、永禄の乱(1569)によって寺の殆どが焼けてしまい、本尊の観音様だけが残りました。
 長いあいた小さなお堂のままでお祀りしてありましたが、元和2年(1616)青厳和尚がこのお寺を復興され、元禄宝永(1688--1710)の頃に『のざきまいり』が盛んになるにつれ、お寺も栄え現在に至っています」

 河内名所図会(1801)には
 「福聚山慈眼寺
 当山は、南天竺波羅奈国(ナンテンジク ハラナクニ)大悲の聖蹟を模(ウツ)して、古刹(コセツ)たる事、年既に深し。
 今に至りて、寺前の沢を人呼んで波羅奈沢(ハラナサワ)といふ。惜哉(オシイカナ)、中古以来、伝記葬(ホロ)びて只郷童の口碑を証とす。故に開闢(カイビャク)の年代、事実、詳(ツマビラカ)ならず。大悲尊像も何人の刻めるか。寺宇の権輿(ケンヨ)も分明ならず。
  ・・・(江口の君関連:下記)・・・
 厥后(ソノノチ)、亀山帝の朝に権大僧正実慶(ジツケャウ)、当山に寺職して弘長元年(1261)に寺記を書けり。
 又、伏見帝の御時、沙門入蓮ここに住して衰弊(スイヘイ)をかなしみ、力を優婆塞秦氏に勠(アワセ)て、重修(オウシュ)せらる。此時に立る石塔婆(セキトウバ)、今に存す。
 又、其後、永禄8年(1565)、松永久秀志貴城に籠りて近隣動乱の時、仏閣、兵燹(ヒョウセン)に罹(カカリ)て灰燼となる。漸(ヤウヤウ)、本尊、実慶の寺記のみ遺れり」
として、下の絵図を載せている。

 
河内名所図会・野崎観音

 また、大東市史(1973)には、
 「鎌倉時代の弘長のころ(1261--64)、權大僧都の実慶という僧が入住して寺に由来記をつくり、ついで永仁2年(1294)には、入蓮という僧が秦氏と力を併せて九重の石塔を建てた。これは現在も寺の裏山に残っている。
 その後、南北朝や室町時代の内乱で、この寺地附近は度々戦火にさらされたが、その間この寺がどういう状態だったかは明らかでない。
 のち永禄8年(1565)には松永久秀の兵火にかかって堂宇はすべて焼失し、実慶が記した由来紀もこの時焼失してしまったという。
 豊臣秀吉や徳川家康が出て、天下の動乱を収めた慶長元和のころ(1596--1624)、青嵓(青厳)という曹洞の禅僧が、この地に来て堂宇を構えて仏像を安置し、かたらわに草庵を結んで止住した。
 その後しだいに観音堂や薬師堂などを再建し、こうした復興事業のしめくくりとして、釣鐘が出来上がったのである。
 これは、その宝永5年(1708)に新鋳された現在の釣鐘に、5世の大真和尚が記したこの寺の由来のあらすじである」
とある。

※本尊
   十一面観世音菩薩像
 
 HPには、
 「白檀の一木彫りで、渦巻く波間に躍動する龍の背に立ち、穏やかなやわらかい眼差しで、お参りの方を迎えてくださいます。
 半眼の穏やかな表情が眠っているようにも見えるため『居眠り観音』とも呼ばれています。
 西国霊場三十三ヶ所を決める観音様の集まりがあった際、居眠りをしていて遅刻したため、西国霊場に入れてもらえなかったそうです。
 霊験あらかたな話ではなく、少し人間味のある言い伝えは、当寺の信仰の場として多くの方々のお参りがあるとともに、行楽としての『のざきまいり』をはじめ、落語や浄瑠璃の舞台として大阪の人々に古くから広く親しまれた事を表しているように思われます」
とある。

 本堂須弥壇の奥に本尊が鎮座するが、本堂前の案内に
 「普段は御御簾が掛けられていますが、お正月(元旦~18日)・野崎参り(5月1日~8日)・千日参り(7月9日)には開帳されお参りすることができます」
とあるように、通常は御簾の奥に隠れていて実見できない。

 縁起では行基僧正の作とあるが、本堂前の案内には「平安中期」とあり年代が合わない。
 行基の没年が天平勝宝元年(749、奈良後期)であることからみて、これは有名な高僧・行基に仮託した伝承であろう。


須弥壇奥にみえる本尊 

本尊・十一面観音像
(資料転写) 

同左
(参詣の栞より転写) 

※野崎参り(ノザキマイリ)
 今、“野崎まいり”といっても知る人は少ないだろうが、7・80歳代の年寄りは東海林太郎の“野崎まいりは 屋形船でまいろ・・・”に始まる野崎小唄(昭和初期)が懐かしく思い出される。

 野崎参りとは、旧暦4月1日から8日(今は5月1日から8日)まで慈眼寺でおこなわれる無縁経法要に多くの人々がお参りすることを指す俗称で、HPには
 「元禄時代から伝わる伝統行事・野崎参りは、正しくは無縁経法要というもので、生きとし生きるものすべてに感謝のお経を捧げる伝統行事です。
 江戸時代から300年以上も長く続き、落語の“のざきまいり”、東海林太郎の“野崎小唄”などで広く知られています。
 かつては舟で行く人と陸で行く人とが罵りあって、勝てば一年の幸が得られるという俗信があり、この時期になると周囲はとても賑わったと伝わっています」
とある。(無縁経が如何なる経典かは不明)

 また河内名所図会には、
 「春は無縁経とて桜花匂ふ頃、秋は紅葉して山々錦なるふし、浪速津の老少ここに群し、あるは川舟に棹さして、道行く人と言葉戦ひして、詣(ケイ)する輩(トモガラ)多し。是を野崎参と云」
として、参詣人を乗せた川舟と陸路を行く参詣人間での掛合の有様を描いた絵図を載せている。

 
河内名所図会・野崎参り

※境内
 商店街を抜けた参道の途中に、『野崎観音慈眼禅寺』及び『観世音菩薩』との石柱が立ち、参道先の長い石段(200段ほどあるという)を登った上に山門が建つ。(この山門は境内西側の入口で、参道途中から別れた南側にも別の山門が建つ)


参道途中の標石 
 
石段(これから長々と続く)
 
山 門

◎本堂
 山門から境内に入った左側の高所、石段を上った上に、錣(シコロ)屋根造・亙葺き・横長の本殿が南面して鎮座し、扁額には達筆で『観世音』とある。

 HPには、
 「本尊十一面観音菩薩を中心に、脇侍仏として普賢菩薩と文殊菩薩をおまつりし、両脇に持國天・多聞天・広目天・増長天の四天王が御本尊をお護りしております。
 旧の本堂は昭和9年の室戸台風によって破損しましたが、19世尾瀧一峰和尚が北河内一円を托鉢し多くの方々の浄財により、東大阪日下の大龍寺(黄檗宗)の禅堂を譲り受けて、ここに解体移築し本堂としました」
とある。


本堂への石段 
 
本堂・正面
 
本堂・側面

 内陣正面、須弥壇上の御簾を掛けた厨子の中に本尊・十一面観音像が安置され、その両脇に小さな普賢・文殊両菩薩の像が置かれている(外からはみえず、写真を拡大して確認)
 また、須弥壇の左右には四天王像が各2体ずつ立っている。

 
本堂・須弥壇
 
四天王像(須弥壇左側)
 
四天王像(須弥壇右側)

◎三十三所観音堂
 本堂の左にある方形の堂舎で、HPには、
 「西国観音霊場の観音様が一堂におまつりしてあります。
 当寺のご本尊・十一面観世音菩薩を中心に、第1番の那智山青岸渡寺から第33番の谷汲山華厳寺まで計34体の観音様を一会にお参りすることができます。(以下略)
とある。

 宝(方)形造・亙葺きの堂舎で、内陣には、中央の厨子に入った当社観音像の周りに、西国三十三ヶ所霊場の観音像33体が並んでいる。
 当社は本堂前に『河内西国 特別客番 慈眼寺』とあるように、西国33ヶ所霊場からは外れているが、同じ観音像を本尊とすることから西国33ヶ所霊場の本尊を、当社観音像と一緒に祀ったものであろう。 

 
三十三所観音堂
 
同・内陣 

◎江口の君堂
 本堂右横の社務所を挟んで右側に建つ方形の堂舎で、HPには、
 「当寺の中興開基江口ノ君光相比丘尼として本堂の右隣りにお祀りしております。
 平安時代の方で、淀川の右岸(現東淀川区)江口の里の白拍子(歌舞を演じる遊女)で、病を十一面観音様に治して頂いた御礼に、当寺を再興されました。
 その後、多くの女性の方々が江口の君にあやかろうとして観音様にお参りされるようになりました」

 河内名所図会には、
 「抑、一条院の御宇に、摂州難波江の渡口(トコウ)に住して行き来の旅客を饗(モテナ)す美女あり。世これを江口君といふ。
 ある時、沈痾(チンア・長らく治らない病気)に罹(カカ)りて医療の験(シルシ)さらになし。常に聞るは、和州初瀨寺の観世音、霊応殊に勝れさせ給ふ。既に、かの地に参籠して懇ろに祈り、一七日満願の時、霊夢を感ず。
 端嚴(タンゴン)たる高僧来りて曰(ノタマハク)、河州野崎福聚山は我山に異ならず。其所の大悲に懇求(コングウ)せば所願空しからず。
 妓女、夢覚て歓喜し、直に尋て此山に来りて本尊を敬礼、七昼夜に満ぬれば、忽ち病悩治癒す。
 これより、伝聞て、四来の緇素(シソ・僧俗)、遠村、近郷、ここに群す」

 大東市史には
 「平安時代の中ごろ、摂津の江口(大阪市東淀川区内)は淀川と神崎川の分岐点で、瀬戸内海から淀川筋に入る船の繋ぎ場として賑わい、多くの遊女が集まってきて繁昌をきわめていた。
 そこの遊女の江口の君という者が、長の患いに苦しみ、大和の長谷観音に病気平癒の願かけに参籠していたところ、夢の中に僧が現われてこう告げた。
 『河内の福聚山はわが長谷観音と同じである。南天竺の波羅奈沢国の峰の一つであり、また施無畏大士がおいでになる霊場である。汝の家に近いことでもあるから、そこに参って病苦を免れるよう祈るがよい』と。
 江口の君は早速慈眼寺に参り、七昼夜籠もってお祈りすると、たちまち難病が治った。
 よろこんだ彼女は、報恩感謝のためにお堂を建立することにした。

 その頃の慈眼寺は嶋頭にあり、低地でいつも洪水に悩まされていたので、寺地を東方の現在地に移して堂宇を再建した。
 そこで江口の君を中興の祖と呼ぶようになった」
とある。

 江口とは、淀川右岸、淀川と神崎川の分流点の西南一帯にある古くからの地名で(現大阪市東淀川区南江口附近)、かつて旧淀川を往来する船の川港があって、多くの遊女が集う歓楽街として繁昌したという。
 江口の君とはそれらの遊女たちを指す総称だが、その一人・妙(タエ)という遊女が、宿の貸し借りにからんで西行法師と取り交わした歌が世に知られ、江口の君といえば妙を指すようになったという。(別稿・江口の君堂参照)

 その妙が病に罹ったとき長谷観音の夢告を得て当寺に参籠し治癒したので、感謝を込めて当寺に堂舎を造営したというのが江口の君堂の創建由緒だが、傍証となる資料は見あたらない。

 内陣正面、須弥壇上の厨子の中に主尊・江口の君像が安置されているが、御簾が掛けられていて直接拝顔することはできない。

 
江口の君堂
 
同・内陣

 ただ、厨子の右前にある江口の君像の写真によって如何なる姿の像かは知ることができ、また参詣の栞には彩色された官女風の像が載せられている。

 
江口の君像(厨子前の写真)
 
江口の君像(栞より転写)

◎羅漢堂(十六羅漢堂)
 江口の君堂から右へ行った処にある堂舎で、HPには、
 「釈迦無尼仏を中心に16体の羅漢像がお祀りされています。
 羅漢とは、お釈迦様の16人の高弟のことであり、野崎観音の十六羅漢は、江戸時代から『のざきかんのん十六羅漢 うちの親父は働かん』と子どもの遊び唄にまで親しまれ、観音様と共に信仰を集めてきました。
 昭和26年に山崩れに遭い羅漢堂は流失し、尊像も著しく損傷を受けましたが、平成18年に羅漢像の修復が完成、その後、仮羅漢堂に一時安置されてありましたが、令和3年に羅漢堂が再興され遷座されました」
とある。

 切妻造・平入りの堂舎で、正面の扁額には『十六阿羅漢』とあり、内陣中央の光背をもつ釈迦如来座像の左右に羅漢像が各8体ずつ並んでいる。


羅漢堂 
 
同・扁額

内陣羅漢像(左部) 

内陣羅漢像(中央部) 
 
内陣羅漢像(右部)

◎薬師堂
 羅漢像前の小径を右に行った処にある方形・白壁の堂舎で、本尊は薬師如来像。 
 参詣の栞に、「薬師如来は、心身の病気を治してくださる仏様で、病気平癒・身体健全・延命長寿の功徳があると言われています」とあるだけで、建立由来など詳細不明。(内陣の写真撮影失念)

 
薬師堂(正面)
 
薬師堂(側面)

◎鐘楼
 本堂と三十三所観音堂との間を入ったやや高い処(観音堂の後ろに当たる)に「鐘楼」が建ち、「梵鐘」が吊されている。
 参詣の栞には、「梵鐘は、宝永5年鋳造のもので、枚方住田中河内大目藤原家成の銘があり、行事のときと除夜の鐘に限ってついています」とあり、一般参詣者が突くことは禁止されていて、撞木は貫に結びつけられている。


鐘 楼 
 
梵 鐘 

◎石造九重層塔 (大東市指定文化財)
 鐘楼右手の「河内飯盛山ハイキングコース」の看板の横から、折れ曲がった細い山道(ハイキングコースで階段多し)を上った上の狭い平地に立つ石塔で、傍らの案内には
 「造立銘は永仁2年(1294)とあり、74字の金石文を基礎に刻する北河内最古の層塔である。
 風化のため全文は読みとれないが、沙弥入蓮と秦氏が、主君と両親の追善供養のために造立した旨が刻まれ、初層軸部の四側面には梵字で金剛界四方仏がそれぞれ刻まれている。
 在俗信者入蓮がいかなる人物であったかは不明であるが、秦氏は古代河内一円に勢力のあった大陸系渡来人の子孫と考えられ、造立当寺、当地方の有力者であったと思われる。

 高さ3.3m、花崗岩製で、全体の造りや梵字の刻まれ方から、鎌倉時代の特徴をよく示している資料である。

 なお、当石塔は元々相輪を欠く九層であったが、昭和9年の室戸台風で倒壊の際、最上部の屋根石を失い八層で組み直されたという。
 その後、昭和59年に地元の中学生二人により屋根石が発見され、傍らに置いてあったものを、平成17年に方角を正して組み直し、再び九層に復元したものである。 平成18年3月 大東市教育委員会
とある。

 河内名所図会に「伏見帝の御代(1287--98、鎌倉後期)、沙門入蓮が堂舎を重修したときに一緒に建てた」とある石塔婆がこれであろうが、最上部に通常あるはずの相輪は無く、最初から無かったのか欠けたのかは不明。

 なお、九重層塔のすぐ下にある狭い平地には「慈母観音菩薩像」が立っているが、案内等なし。

 
九重層塔への階段

九重層塔 

慈母観音像 

◎役行者像
 薬師堂左の高所、玉垣に囲まれた中に錫杖を手にする役行者の石造があり、傍らの石柱に「行者神変大菩薩」とある。
 神変大菩薩とは、寛政11年(1799)に朝廷から役行者に贈られた諡号だが、当寺に役行者像を安置する由縁は不明。
 ただ、この行者像はやや若くて柔和な表情をしており、一般にみる役行者像とはニュアンスが異なる。
 また、玉垣の左に宝篋印塔一基が立っているが、その建立由来は不明。


 
 
役行者像
 
宝篋印塔

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