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菅原神社(三箇)
大阪府大東市三箇(サンガ) 5-2-3
祭神--菅原道真
                                                       2021.06.08参詣

 JR学研都市線・野崎駅の西北西約900m、駅西を走る国道170号線・野江駅前交差点(四條畷警察のすぐ北)を西へ、道なりに進み深野橋を渡った寝屋川西岸沿いの小道を北へ、最初の角を西へ入った北側に鎮座する。

※由緒
 境内に掲げる案内(大東市教育委員会)には、
 「祭神は、天満大自在天神の称号を授与された菅原道真公である。大祭は10月19・20日。
 社地内に稲荷社が鎮座する。天神さんもお稲荷さんも、稲作を中心とする五穀豊穣の神である。

 住道地区の氏神で、延宝7年(1679)三箇村検地帳には『氏神天満宮』と記され、境内地18歩の年貢が免除されていた。
 また江戸中期頃の当社は、梁間五尺五寸・桁行一間二尺の社殿をもち、西の隣接地には曹洞宗宇治興聖寺末・水月院があった。現在も墓石が残存し、江戸時代までの神仏習合の面影を残している。  
 社宝として神刀がまつられる。これは神威の高揚を願って、宝永年間の氏子たちが奉献したものである。相州綱廣の銘あり。

 往時の秋祭りには西の口・江の口南・江の口北・大箇(タイガ)・下野・押廻から地車計6台が引き出されて社頭に並んだ。この宮入の順番は18日くじ引きで決められた。

 また当地は16世紀半ばごろ飯盛城の支城・三箇城のあったところとされている。
 城主・三箇殿は永禄5年(1562)キリシタンとなり洗礼名・サンチョと称す。この時以来三箇の名は異国文書に登場する。城の位置については諸説があって断定し難い。
 なお、水月院跡には『城は灰 埋は土となるものを 何を此代に思ひ残さん』の辞世句を残す墓石が見いだされる」

 大東市史(1973)には、
 「三箇5丁目にあり。その社地は三箇城址といわれている。祭神は菅原道真。
 延宝7年の三個村検地帳によれば、氏神天神宮として境内のうち18歩は年貢を免除されているが、免除の由来については不明だとしている。
 深野池開拓中の宝永3年(1706)池中から相州継廣の名刀一降りが発見されたので、当社に奉納して五穀の無災豊穣を祈願した。
 この時、田中清兵衛尉清信・和多与右衛門尉好師の両名が奉納の願文を書いて、自らを『社辺耕作人』というからには、この三個村の農民であろうが明らかではない。

 当社は江戸中期のころ梁間五尺五寸(約1.65m)・桁行一間二尺(約2.42m)の社殿があり、社僧一人が宮守にあたっていた。これは宮寺として隣接していた水月院の僧のことであろう。
 なお当社地内には稲荷神社が祀られている」
とある。

 当社の鎮座地・三箇(サンガ)は今は民家が建て込んでいるが、江戸中期までは深野池(フカウノイケ)の中にあった三つの島を指す総称で(三ヶ村・三箇村、右略図)、大東市史には
 「深野池に浮かぶ三つの島から成りたっていたから、とするのが通説となっていて、古地図では池中に三つの島を配して、それぞれに『三ケ』と記入しているが、ほかに四つの島に記すものもあれば五つの島を記した地図もあり、製作時期が数十年と距らないのに、こうした差異があるのは、三箇の地形の形成過程がたいへん複雑であったことを物語っている。

 三箇の地名が最初に現れる文書は“小松寺縁起”で、平安後期の久安元年(1145)正月、この寺の修二月会の費用を負担する土地として、氷野や灰塚、それに本市の山手の山家郷などと共に指定されている」
とある。 

 その一つに、戦国時代には三好長慶の居城・飯盛山城の支城である三箇城があったという(1470年頃から120年程迄)
 その位置としては、当社社地と廃慶岸寺跡が候補地という。
 今、当社鳥居左・地車庫前の楠木の下に『三箇城址』(側面には「大正8年大坂府」とある)との石碑が立っているが、確証あってのことかどうかは不祥。

 
根元に石碑あり
 
三箇城址の石碑

 一方、かつての三箇城は、その城内にキリスト教の教会があったといわれ、これは永禄5年(1562)に城主・三箇頼照がその一族とともにキリスト教に改宗し(洗礼名:サンチョ)、城内に教会を建てたことに発し、天正8年(1580)から同10年にかけてが最盛期であったという。
 この聖堂には、京都での争乱を避けた宣教師・フロイスが数ヶ月滞在したといわれ、フロイスが本部に送った手紙には「教会は水に囲まれたサンガという小島にある」とあるという。
 三箇氏は天正10年(1582)の本能寺の変で明智光秀に与したことで没落し、教会は天正15年(1587)の秀吉によるバテレン追放によって廃止され、その時、城ももなくなったという。


 深野池は、かつての河内湖が縮小して残った大きな池(南北二里・東西一里あったという)で、三ヶ島の周りに広がっていたといわれ、大東市史には、
 「生駒飯盛山系は、東の大和川は緩やかだが、西は急傾斜で落ち込み、これをうけて河内平野は、微かに標高を加えつつ上町台地に至っている。
 河内平野では最も低かったために、深野池は処によりかなりの水深をもっていた。
 この地ははじめ“三箇の沖”と云っていたが、やがて“ふかうの池”と呼び深野池と書いたのは、これらよるものだろうか。」
とある。 

 深野池には南から旧大和川水系の吉田川が、北からは旧淀川水系の寝屋川などが流入していたが、西方が上町台地に阻まれて排水がままならず、大雨が降る毎に大洪水が発生し(延宝2年-1674、吉田川・深野池・新開池の堤防35ヶ所が切れ大水害となり、続く延宝3・4年にも堤防切れによる大洪水が起こったという)住民たちは困窮したという。
 地元民からの度重なる陳情をうけた幕府は、宝永元年(1704)に大和川付け替え工事に着手、柏原の大和川・古川の合流地点から西へ新河道を開削(現大和川)、延長約14.5kmを8ヶ月という短期間で竣工させたという。

 大和川付け替え後、干上がった深野池・吉田川などの一帯では、工事竣工の翌年から新田開発がおこなわれ、三ヶ村の西には三箇新田・尼崎新田が、東には深野新田などが開拓され、宝永5年(1708)には検地がおこなわれたという。

 当社の創建年次は不明だが、延宝7年(1679)の三箇島検地帳に『氏神天満宮』とあることから、深野池内の三箇島の何れかにあったのだろうが、はっきりしない。

 なお、当社に隣接してあったという水月院について、大阪府全志(1922)には、
 「曹洞宗興聖寺末にして観世音を本尊とす。
 伝説によれば、本寺は往古本地の池たりし時、その中に出現せる尊像にして、野崎村の慈眼寺(野崎観音)に安置せられしを、慶安4年(1651)当地に一宇を創立して転置せしものなりと」
とある。
 今は当社の西に隣接する公園の一画に墓石が残るだけで(水月院跡・下記)、詳細は不明。

※社殿等
 境内の南、玉垣に挟まれて鳥居が立ち、傍らの社標柱には「大東市総社 三箇菅原神社」とある。
 鳥居を入った参道の途中に注連鳥居が立つ。

 
三箇菅原神社・社頭

同・鳥居 

同・注連鳥居 

 参道突き当たりの境内正面に、入母屋造・亙葺きの拝殿が、その背後、弊殿を介して切妻造・白壁・亙葺きの本殿(覆屋)が南面して建つ。
 ただ、外から見える本殿は覆い屋であって、拝殿の奥に赤色塗りの社殿が本殿が見えるが、社殿様式は不祥。


同・拝殿 
 
同・拝殿(側面)
 
同・内陣

同・本殿(覆屋) 
 
同・本殿社殿

◎境内社
*錦竜権現社
 拝殿右にある小祠で、扁額に「錦竜権現」とあるから、竜神を祀る社であろう。
 色あせた朱塗り鳥居の奥に西面して鎮座し、中に一間社流造の小祠が鎮座する。


錦竜権現社 
 
同・社殿 

*稲荷社
 境内に入った右に西面して鎮座する。
 朱塗りの鳥居列の奥に小祠があり、中に小祠2宇が鎮座する。
 祭神名の表示はないが、内陣に下がる提灯には「三徳大明神」・「菅納大神」とある。


 稲荷社・鳥居
 
同・内陣

同・提灯 

※水月院跡
 境内西の小公園の一画、金網に囲われた中に宝篋印塔他の墓石6基が立っている。(神社とは路地で別れている)
 かつて、曹洞宗宇治興聖寺の末寺だったという水月院の跡地といわれ、廃寺後(明治初期の神仏分離による廃寺であろう)、この墓石群のみが残存しているという。

 なお、水月院跡の右に、地蔵像を納めた地蔵堂がある。


水月院跡の墓石 

左:水月院跡・右地蔵堂 

内陣の地蔵像

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