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住吉神社
大阪府大東市浜町5
祭神--住吉大神
                                                 2021.06.01参詣

 JR学研都市線・住道駅の北側すぐに位置し、駅北側のデッキから寝屋川に架かる住道駅前大橋の途中からの坂路を東へ降りた処に鎮座するが、小さな石段の下にあって道路からは見えない。

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
 「舟運送が盛んであった頃、寝屋川と恩智川が合流するこの地は『角堂浜』(スミドウハマ)と呼ばれ、大阪と北河内・大和の荷物が一手に集まり、野崎まいりや生駒宝山寺への社寺参詣にも舟が利用されたので、大いに賑わっていた。
 舟運には、長さ11間3尺(約21m)・幅1間1尺2寸(約2.2m)・深さ1尺4寸(約0.4m)の剣先船(ケンサキブネ)が使用され、運航する区画により、それぞれ古剣先船・新剣先船・在郷剣先船と呼んでいた。

 『住吉さん』と親しく呼ばれていた当社は、このような舟運との関係で、航海守護の神である住吉大社から勧請されたものであろう。

 寝屋川岸に建てられている当社であるが、昭和47年の水害後、川岸の様子はすっかり変わってしまい、社殿も三方をコンクリートの壁で囲む現在のような形となった。
 今はひっそりと建つ住吉神社であるが、社殿のあるこの地、角堂浜が『すみのどう』地名の由来地であり、現在の住道の繁栄は、ここから始まったといえよう。 平成22年3月 大東市教育委員会
とある。

 当地にあった川港・角堂浜(住道浜)の守護神として難波の住吉大社から勧請されたのが当社であろうが、その創建年代は不明。

 当社はJR学研都市線・住道駅の東、寝屋川・恩智川合流点の剣先に位置するが、地名・住道(スミノドウ)の由来について、大東市史(1973)には
 ・住道地区は、深野の池中や大和川の分流域の沖積地に成立した集落で、その起源は平安時代までさかのぼる。
 ・地名の由来については、旧住道町の公文書に
   『其の地域内に角堂(スミノドウ)と呼べる地名あるに因りて、其の名を取り、文字を改めて住道村と名付く』
となっている。
 ・角堂は横山新田の中の一小字で、この地名が記録に表れるのは、元文2年(1737)の三箇村明細帳に、年貢米の積出場所及び用水樋の在り場所と記されているからである。

 ・角堂の地名の起源については、ある僧がここに結んだ菴を、その形から角堂といったものが地名になったというが、三箇キリシタンが隆盛を極めたころ(16世紀後半)、ここに第二の教会が建てられた、とするのが有力のようである。
 ・一小字名が六ヶ村の総称として採用されたのは奇異にみえるが、角堂の交通上の位置を考えれば不思議ではない。
 ・この浜は近世中期から寝屋川筋剣先船の拠点として栄え、野崎観音や生駒聖天・石切神社の参詣客は、ここで船を降りて歩行するものが多かったから、角堂の名は大阪市中や近郷には知られていたのである。
とある(要点抄記)

 なお三箇キリシタンとは、
 ・永禄5年(1562)、飯盛山城の支城・三箇城(サンガ、三箇菅原神社付近ともいう)の城主・三箇頼照及びその一族・家臣らがキリスト教に改宗したことに始まり、頼照は居城の近くに聖堂を建設し(伝教師・フロイス一時滞在し、彼が本部に送った文書に滞在地は“サンガという小島”と記している)、河内キリシタンの拠点の一つだったという。
 ・頼照は、永禄11年(1570)、今までの聖堂が手狭になったとして別に大きな聖堂を建設したという。
 ・その位置は不明だが当地辺りともいわれ(別説あり)、これが角堂の地名の起こりともいう。
 ・なお、三箇氏は本能寺の変(1582)で明智光秀に与したことから没落したといわれ、その後、三箇城には同じキリシタン大名の結城如安(洗礼名:ジョアン)が入ったが、天正15年(1587)豊臣秀吉によるバテレン追放令により三箇城は聖堂とともに廃城となったという。

※社殿等
 JR住道駅の北側デッキからつづく住道駅前大橋の中程から右(東)へ、寝屋川と恩智川が合流する剣先への坂路を下り、突き当たりの石段を降りたすぐ左に鎮座する。
 今は高い堤防があって川とは接していないが、かつては船がつけられる浜であって、案内には大正時代の写真が添付されている。

 今、三方をコンクリート壁で囲われたなかに小さな社殿が南面して鎮座し、社頭の石灯篭に住吉大明神とあるだけの目立たない神社だが、社頭一帯は綺麗に掃除され、参詣時にはご婦人が熱心に祈っておられた。

 
住吉神社への坂路(右は恩智川)
 
住吉神社・全景
 
同・社殿
 
同・内陣
 
同・石灯篭
 
大正時代の住道浜
(社頭案内より転写)

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