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素盞鳴神社
通称--産土神社
大阪府大東市灰塚 3-7-13
祭神ーー素盞鳴命
                                                   2021.07.06参詣

 JR学研都市線・住道駅の西北西約600m、JR線路の南に近接して鎮座するが、道路が輻輳していてルートの目印となるものはない。

※由緒
 拝殿左の壁に貼られている案内には、
 「寛永3年(1626)、今から275年ほど前には、既に素盞鳴神社境内地1畝6歩を除地の上、租税を免除された記録がある。
 神社の境内の裏側石垣より観察すると、今から323年以前に、現在の境内に小さなお社が建てられた。
 この神社は、村の中心的位置をしめ、産土神社とも称され、祭神はもとより素盞鳴命である。
 宮座に関する記録は、天保年間に左右衛門組と久右衛門組に分かれ、宮座持ちとして1段16歩の田畑を有した。
 弓座と客座として射的式を行っていたが、最近は射的式もなく、弓のない。しかし毎年2月7日には餅撒式が行われている。
 歴史研究家の神社調査によると、享保期以前(1716--36)より文化・文政の時代(1804--29、江戸後期)に、社殿の建造・灯籠・狛犬の寄進が行われた。
 現在の社殿は、その当時建立されたものと思われる。(以下略)
とある。

 また大東市史(1973)には、
 「灰塚3丁目にあって灰塚の中心的位置を占め、産土神とも称されている。 
 祭神は素盞鳴命で、毎年10月19・20の両日はダンジリが出て祭礼は大変な賑わいをみせている。
 また当社では現在も宮座が存在していて、毎年2月7日には弓座と客座に分かれて射的式を行っている。
 この宮座に関する記録は、天保年間に佐右衛門組と久右衛門組に分かれ、また宮座持ちとして1段6歩の田畑を所持することぐらいだが、近世初頭からこの村に住見ながらこれに加入していない豪家もある点からして、中世に結成されて以来、その組織を守りつづけた知られる。
 中世のような政治的役割は担い得ないが、なお村落生活を強く規制していたことがうかがわれて興味深い」
とある。

 案内からみて、当社が寛永3年(江戸前期)にあったのは確かだろうが、由緒成立年代不詳のため、小社が建てられたという“今から323年前”が何時の頃かは不明。

 なお、灰塚とは珍しい地名だが、これについて大東市史には、
 「地名の初見は文久元年(1145)の小松寺縁起であるが、永仁6年(1298)8月、枚岡神社社家の一族・鳥居光阿という者が、讃良郡灰墓郷内の土地三段余を南河内の壺井八幡宮(羽曳野市)に寄進したことが、同社の文書に見えている。
 鎌倉後期のことであるが、平安時代に灰塚と呼んだ地名が、なぜ灰墓となったかは明らかでない。
 のちの天正12年(1584)の蔵入帳には“はいつか”と記されている」
とあり、平安末期にはあった地名らしいが、灰塚と呼ばれる由縁は不明。


※祭神
   素盞鳴命

 当社の創建由緒が不祥のこともあって、素盞鳴命が祀られる由縁は不明。
 臆測すれば、元々は疫病等の流行を怖れた人々が、疫病除けの神として牛頭天王が祀っていたが、明治の神仏分離によって牛頭天王が仏教色が強いとして排斥されたことから、京都の八坂神社(祭神:牛頭天王→素盞鳴)と同じように、同じ神格をもつとされる素盞鳴命に変えたものと思われる。


※社殿等
 南側道路に面して立つ鳥居を入り、南北に長い境内の北側に社殿が南面して鎮座するのみで、境内社等はない。

 
素盞鳴神社・鳥居
 
同・境内 

 境内北側に入母屋造・亙葺きの拝殿が南面して鎮座する。


同・拝殿 
 
同・拝殿(側面)

同・内陣 

 拝殿の奥、弊殿を介して入母屋造・白壁・亙葺きの本殿が南面して鎮座する。
 ただ、外から見える本殿は覆屋で、拝殿内陣から覗くと、奥に本殿の社殿が鎮座する。


同・本殿(覆屋) 
 
同・本殿社殿(拝殿内陣より)

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