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エルサレム/巡礼記
(イエス 最後の一週間)

 2006年5月、イスラエルの地を踏みエルサレムを訪れた。その時の見聞をもとに、新約聖書の記述に沿いながら、異教徒から見たイエス最後の一週間についての愚見を記してみる。

 紀元30年頃のある春・過越祭の前、イエスは突如としてエルサレムに現れ、最後の一週間を過ごしている。イエスがガリラヤ地方での伝道に専念していたら十字架上の刑死ということにはならなかっただろう。

 イエスが何故エルサレムに上がったのか、その理由はわからない。
 マルコ伝には
  『一行がエルサレムに上がっていく途中、イエスは先頭に立って進んでいかれた。それを見て、弟子たちは驚き且つ怖れた』
とあるが、それは何かに憑かれた者の姿である。
 イエスは続けて、弟子たちにこう語っている。
  『人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。人の子は3日の後に復活する』(マルコ伝)
 ここでのイエスは、エルサレムでわが身に降りかかるであろう受難を予言している。
 ここで福音書記者マルコ(一人か複数人かは不明)は、イエスは、旧約の預言を成就するために、自ら求めて死に向かって突き進んだ、といいたかったのかもしれない。

 ただ4福音書のなかで最初にまとまったとされるマルコ伝ですら、イエス刑死後40年ほど経った後(AD70頃)に書かれたといわれ(マタイ・ルカ伝:AD80頃、ヨハネ伝:AD95頃成立という)、初期キリスト教団成立期というその間の背景からみて、イエスの生涯を一応なぞってはいるものの、そこに描かれたイエスは、マルコあるいは彼が属する一群が解釈したイエス像といっても過言ではなかろうし、4福音書に描かれたイエスがそれぞれに異なっているのも、この為であろう。

※黄金の門
 神殿の丘の東壁にある【黄金の門】は今、“開かずの門”となっていて、城外から近づこうにも道がなく、東側にあるオリーブ山から眺めるだけである。

 この門は、過越祭の一週間前、イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入場したという門で、キリスト教では“来るべき終末の日に、メシアがその軍勢とともに入ってくる”と信じられている門である。

 

黄金の門・遠望

 福音書によれば、イエスが入ってきたとき、多くの人が自分の服とシュロの葉を道に敷いて迎え、「ホサナ。主の御名によって来たる者に祝福あれ。我らの父ダビデの来るべき国に祝福あれ。いと高きところにてホサナ」と叫んだ、とある。
 ホサナとは“我らを助けたまえ”との意である。

 ここでのイエスはメシアとして歓迎されている。人々が服やシュロの葉を道に敷いたのは、単なる歓迎の為というより、イエスの足が大地に直接触れることで、メシアがもつ霊力が大地の中に流れ出ないようにする呪的行為とみることもできる。

 ただ人々が望んだメシアとは、魂の救い主としてのメシアではなく、ローマの圧政から解放してくれる世俗的な王者としてのメシアであったと思われる。
 そういう期待を持って歓迎されたイエスのその後の行動が、王者としてのそれではなかったことが、民衆が、たった一週間という短期間のうちにイエスから離れ、イエスを殺そうとするユダヤ当局の扇動があったにしろ、「十字架に架けろ」と叫ぶことになる理由の一つであろう。

 今、オリーブ山から見た黄金の門の前一帯には白い石で累々と満ちている。資料によれば、ムスリム(イスラム教徒)の墓だという。イスラムが、終末の日にやってくるとされるメシア到来を畏れて門を閉ざすとともに、ムスリム以外が門に近づくことを禁じたためという。
 ただ、城門の下あるいはすぐ外に死者を葬るのは古くからの風習で、死者の復活を願う呪的行為ともいう。

 キリスト教がいうメシア到来を阻むべく門を守るムスリムの死者達。
 終末におけるメシア到来を信じるふたつの一神教、その間に存在する確執と対抗意識を如実に語るのが、この閉ざされた黄金の門なのかもしれない 

※最後の晩餐の部屋
 過越祭の前々日(木曜日)の夕方、イエスは弟子たちと“過越(スギコシ)の食事”をとったという。その家というのが、旧市街地西南の城外・シオンの丘に残っている。

 ここでは、何故かイエスとダビデが同居している。建物の1階が“ダビデの墓”で、2階の部屋にイエスの【最後の晩餐の部屋】がある。
 その部屋は何の装飾もなくガランとした薄暗い部屋で、晩餐がおこなわれたことを示唆するものは何もなく、南側の壁には聖地メッカの方向を示すミフラーブが設けられており、イスラム時代にここがモスクとして用いられていたことを示している。

 この部屋で、イエスは12人の弟子たちと食事をとり、ユダの裏切りを予言したというが、それがここだという根拠はない。
 マタイ伝によれば、
  『「何処で過越の食事をとるのか」と問う弟子に、イエスは「町に行って水甕を持っている人についていくと、その人が入った家の主人が2階の部屋に食事の用意をしている」と答えた。弟子が出かけていくと、その通りであった』
とあり、2階の部屋とは記しているが、何処だとは記していない。

 最後の晩餐といえば、ミケランジェロの絵画が有名である。ガイドの話によれば、ミケランジェロの絵は制作当時のイタリアの風習を描いたもので、イエス当時のそれではないという。
 イエスの頃は食卓で食事する習慣はなく、床に座って食べたという。また一直線に並ぶのではなく、半円形又はコの字型に座り、主人はその端に座ったという。
 とすれば、この部屋に最後の晩餐の食卓といったような摩訶不思議なレプリカが置かれていないのも納得できる。

 古くから聖地といわれる場所は、何故か宗教が変わっても聖地として残されることが多い。この家が、ダビデの墓→最後の晩餐の部屋→モスクと変遷したのは、ここが旧約以前からの聖なる土地であったのを示唆するのかもしれない。


最後の晩餐の家 
 
最後の晩餐の部屋 

◎ダビデの墓
 同じ建物の1階が【ダビデの墓】とされ、出入り口は別になっている。
 部屋には、刺繍で飾られたビロードの覆いを掛けた“ダビデの柩”が置かれ、柩の上にはトーラ(モーゼ五書)を納めた銀製の容器が安置され、ここが聖なる場所であることを示している。
 なお、この部屋は男女別々に区切られており、男性は柩の右半分を見ることになる。

 ユダヤ教最高の祭具といえば、シナイ山でモーゼが神より授けられた十戒を刻んだ石版を納める“契約の櫃”だが、これはバビロニアによるエルサレム陥落のとき神殿とともに焼失したといわれ、その後は“トーラ”(モーゼ五書)が聖典で、イスラエルの英雄・ダビデの棺の上に奉安されるには相応しいものといえよう。

 ただ、ダビデの墓について旧約・列王伝は、『ダビデは先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に葬られた』とある。
 とすれば、神殿域の南に続く丘・ダビデの町に葬られたと思われる。
 今、ムスリムの居住地となっているかつてのダビデの町(神殿域の南に連なる丘)が古くからの“シオンの丘”というが、イエス当時、最後の晩餐の家のあるこの辺りもシオンの丘と呼ばれていたらしい。
 そんなことからの混乱かもしれない。とはいえ、この二つのシオンはエルサレム旧市街地南部の東と西の違いでしかない。


ダビデの墓
 
ダビデの棺

ダビデの墓への入口 


※ゲッセマネの園

 弟子たちと過越の食事をとったイエスは、ペトロ・ヤコブ・ヨハネの3弟子を連れてオリーブ山に移り、ゲッセマネの園で“これから起こるであろうことを予感して、血と汗を流しながら父(神)に祈った”という。

 ゲッセマネとはヘブライ語で“油絞り”を意味する。
 その昔、この辺りがオリーブの林だったことからの名で、今は草花が咲き乱れるなかに十数本のオリーブが植わる庭園となっている。万国民の教会のすぐ横には、樹齢2000年を超すという古木がある。苦悶するイエスを眺めた歴史の証人かもしれない。

 また、この園は、ペトロ以下の弟子たちが「私が祈っている間、目を覚ましていなさい」というイエスの言葉に反して眠り込んだ場所であり、ユダの裏切りによってイエスが逮捕された場所でもある。
 弟子たちが寝込んでいたとすれば、その間のイエスの言動を見た人はいなかったはずなのに、聖書には詳細に記されている。おかしな話だが、そこが聖書の面白みかもしれない。


ゲッセマネの園
(奥の建物は万国民の教会) 
 
樹齢2000年という古木 

◎イエスの逮捕
 ユダヤ当局によるイエス逮捕の場面をマルコ伝は、
  『イエスが話しておられると、12人の一人であるユダが進み寄ってきた。祭司長・律法学者・長老たちの遣わした群集も、剣や棒をもって一緒に来た。・・・ユダはやってくるとすぐに、イエスに近寄り「先生」といって接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。・・・』
と記している。

 ユダが何故イエスを裏切ったのか、4福音書それぞれに違っている。
 おおまかにいうと、マルコは自ら長老のもとに行ったとあり、理由は書いていない。マタイは金ほしさに行ったとあり、ルカとヨハネは金に貪欲な悪魔にけしかけられて、となっていて、福音書成立が後になるに従って、ルカの邪悪さがひどくなっていて、福音書記者の恣意が入っているといえる。

 これに一石を投じたのが2006年に公表された「ユダの福音書」だが、そこでのユダは、イエスの命をうけて官憲にイエスを売ったことになっている。ただユダの福音書の信憑性・正当性については、未だに何の情報も聞こえてこない。

◎万国民の教会(ゲッセマネの園)

 ゲッセマネの園の一画に【万国民の教会】が建っている。
 万国民の教会とは仰々しい名前だが、この教会が、いろんな国々からの献金によって建てられたからという(1919、最初の教会は4世紀とか)
 別名を『苦悶の教会』というように、ゲッセマネの園で、逮捕直前のイエスが“逮捕・刑死という苦い盃を呑むべきかどうか苦悶しつつ神に祈り、神の御心に任せる決心をした”ことを記念する教会で、隣の『ゲッセマネの園』と一体となっている。

 バジリカ様式の教会正面の3蓮アーチの上には、苦悶しながら祈るイエスを中心に、左右に嘆き悲しむ弟子たちと婦人たちが大きく描かれている。

 内陣・祭壇の上には、岩にもたれて苦悶するイエスが、その左右には“ユダの接吻”・“イエスの逮捕”の場面が描かれている。
 また、祭壇前に低い柵で区切られてある石は、その時イエスがもたれた岩だという。
 一見したところではわずかな凹凸がある灰色の床石と見えるが、それは異教徒の見方で、信者にとっては、実際にイエスが触れた聖なる岩であり、イエスの苦悶を追体験できる聖なる場所である。
 訪れたときも、信者たちが手を伸ばして岩に触れて祈りを捧げ、互いに写真を取り合っていた。


万国民の教会・正面 

同・祭壇 
 
イエスがもたれたという岩
(信者たちが祈りながら触っていた)

4、鶏鳴教会
 ユダの裏切りによりゲッセマネで逮捕されたイエスは、最高法院(サンヘドリン)での裁判を受けるために、当時、大祭司の邸宅があったというシオンの丘まで曳かれていく。
 そのサンヘドリンがあったとされる場所に立つのが【鶏鳴教会】である。

 “鶏鳴”とは、逮捕される前のイエスが、弟子ペトロに「あなたは明日の朝、鶏が2度鳴くまでに、3度私のことは知らないというだろう」と予告したのに対して、ペトロは「そんなことはない」と誓った。
 しかしイエス逮捕後、あとを追ってサンヘドリンまでついてきたペトロが、中庭にいた3人から「この人は、あのナザレのイエスと一緒にいた仲間だ」といわれ、その都度否定はしたものの、それは予告通りに鶏が2度鳴くまでの間だったので、ペトロは外に出て泣き崩れた、との話によるものという。

 イエスはサンヘドリンで裁判を受けるが、当時の裁判で被告を有罪とするには、複数の証人による証言が一致することが必要だったという。
 イエスの裁判では、祭司長たちがイエスを罪に落とすために求めた証言が食い違っていて、本来なら無罪となるべきところだが、最後に大祭司が「おまえは誉むべき方(神)の子、メシアか」と問うたのに対して、イエスが「そうだ」と肯定したことから、“神を冒涜する者”として死刑の判決を受けたという。

 この問答について、マタイ伝では「そうです」と答え、マルコ伝では「それは、あなたが言っていることだ」と食い違っている。
 このマルコ伝の記述は一見否定しているようにとれるが、マルコ伝のカイザリア版では、そのあとに続けて「あなた達は、人の子(イエス)が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて降りて来るのを見るだろう」とあることから、結果として肯定したことには違いない。神の右に座る人の子とは神の子である。



鶏鳴教会 
 
同左・裏正面
 
同 左
(タンパンには吊り下げられたイエス像が見える)

 聖堂内には、イエスの裁判・イエスとペトロの対話など、当教会に関係した大きな壁画数枚が飾られている。
 また内陣の床に穴があいていて、真下にある岩をくりぬいた小部屋を見ることができる。
 イエスが収容された“地下牢獄”というが、イエスが牢獄に入ったという記述もなく、曳かれてきたイエスは、直ちに裁判をうけ判決をうけているから、牢獄収監というのはおかしい。
 今では地下に降りて横から入れるが、当時は出入口がなく、床の穴から吊り降ろしたといわれ、その有様を描くのが裏正面上部のタンパンの絵(上写真の右)という。
 ただ、この小部屋は、昔の貯水槽の跡だという。

 
鶏鳴教会・内陣

イエス裁判の壁画
(祭壇中央) 
 
イエスとペトロの対話
(祭壇左)

地下の牢獄 
   
牢獄で神に祈るイエス像


◎2000年前の石の階段
 鶏鳴教会のすぐ近くに、2000年前という石の階段が発掘保存されている。大きな平石を並べた緩やかな石段で、イエスも何度か上り下りしたであろうという。修復されているとはいえ、2000年経ったとは思えない立派な石段である。

 石段の上に2枚のレリーフが飾られている。左の一枚は、イエスが弟子たちとともに階段を降りている場面で、右の一枚には、サンヘドリンへ曳かれていくイエスが描かれている。


2000年前の石の階段 

弟子たちと石段を降りるイエス 
 
サンヘドリンへ曳かれるイエス

 イエスは、ユダヤ教のサンヘドリン(最高法院)で死刑判決を受けるが、当時、最終的な死刑判決とその執行はローマから派遣されたユダヤ総督の権限であった。そのためイエスは、ユダヤ総督ピラトのもとに送られ、ピラトからの尋問を受けた末、そこでも死刑判決を受ける。

 その時、イエスを有罪とするのに躊躇するピラトにむかって、ユダヤ人たちが「(イエスを)十字架につけろ」と叫び続けた。
 これが騒動に発展することを恐れたピラトは、持ってこさせた水で手を洗いながら「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちの問題だ」というと、ユダヤ人たちがこぞって「その血の責任は、われわれと子孫にある」と答えた。
 そこでピラトは、イエスを鞭打って十字架に架けるために兵士に引き渡した(マタイ伝)、とある。
 これが、“ユダヤ人がイエス・キリストを殺した”というキリスト教によるユダヤ人排斥の原点である。

 しかし当時のローマ当局にとって、サンヘドリンから起訴されたイエスをあえて釈放する理由になかった。それよりもイエスは、民衆を、大祭司を中心とする政教一体統治に対する反抗へと扇動しかねない危険人物で、萌芽のうちに摘みとられるべき人物だったともいえる。
 ここで、ピラトがイエス処刑を躊躇したと記すのは、初期キリスト教会のローマに対する阿諛迎合とみることもみれる。

※ヴィア・ドロローサ
 ヴィア・ドロローサとは、死刑判決を受けたイエスが、己が架けられる十字架を担がされて処刑場まで曳かれていったとされる道で、神殿の丘の北西部にあった総督邸から西へ、ゴルゴダの丘までの約1qを指す。
 ただ、その時イエスが十字架を担いだと記すのはヨハネ伝のみで、他の福音書にはない。また、イエスが実際に歩いたという道は、今のそれの2〜3m下に埋まっているという。

 道の途中には、そこでの出来事を記念する14ヶ所のステーションが設けられている(そのうち、道沿いにあるのは9ヶ所)
 キリスト教徒にとってのこの道は、主キリストの受難を追体験する場として、特に金曜日には多くの人が十字架を担ぎながら歩くというが、われわれが訪れた日にはステーションで祈る人をチラホラ見る程度だった。

 われわれは第3ステーション(B留)から歩きはじめたが、道筋のほとんどが狭いアラブ人商店街のなかを通っている。商店街といっても、露天商に毛が生えた程度の土産物店で、その中に埋もれたようなステーションもある。
 各ステーションには径30pほどの半球形のナンバー標識が設置されているが、ガイドがいなければ見おとしそうなものもある。

 
ヴィア・ドロローサ略図
(資料転写)
 
商店街
 
同 左
 
同 左

◎各ステーションの概略 14ヶ所のステーション(以下「留」という)のうち、第10ステーション以降は聖墳墓教会の中にあり、道沿いのものは9ヶ所。
 微に入り細にわたって記念の場所(小聖堂が多い)が設定されているが、面白いことに9ヶ所のうち5ヶ所については福音書に記載がない。
 新約聖書外典などからの引用と思われ、時代が降るに従って起こったキリスト神話の増殖・拡大によるものといえる。

@−−イエスが死刑判決を受けた旧総督官邸(今はアラブ人男子小学校という)−−未見
A−−イエスが十字架を担がされた場所(小学校前に建つ「鞭打ち教会」内、イエスが十字架を最初から担いだとするのはヨハネ伝のみ)−未見
B−−イエスが十字架の重みで倒れた場所(小聖堂-1948建造-入り口上にレリーフあり)−−福音書記載なし
C−−母マリアが、十字架を担いだイエスに逢った場所(小聖堂「慟哭する母マリア教会」-1881建造-入口上にレリーフあり)−−福音書記載なし
D−−キレネ人シモンが、イエスに代わって十字架を背負わされた場所(小聖堂内-1895建造にレリーフあり。ただ、マタイ伝には「イエスを総督邸から外に引き出したときシモンが通りかかったので、兵士たちが無理矢理にイエスの十字架を担がせた」とあり、最初からシモンが十字架をかついだとされている)
E−−女性ヴェロニカがイエスの汗を拭いた場所(聖ヴェロニカ教会-1895建造・地下洞窟内にある聖遺物−汗を拭いた布切れ−には、茨の冠を被り血に染まったイエスの顔が写っているという。ただしオリジナルはローマ・サンピエトロ寺院で保管とか。ヴェロニカとはイエスから病を治してもらった女性)−−福音書記載なし
F−−イエスが2度目に倒れた場所(小聖堂内にレリーフあり)−−福音書記載なし
G−−イエスが嘆き悲しむ女性たちを慰めた場所(修道院の石壁に小さな十字架あり。ルカ伝のみに、イエスが跡を追ってきた女性たちに「私のために泣くな。むしろ自分の子供たちのために泣け。人々が、子を産めない女、産んだことのない女、乳を飲ませたことのない乳房は幸せだ、という日が来る、とやがてエルサレムに降るであろう神の審判を予告したとある→ユダヤ戦争におけるエルサレム崩壊・AD70を指す)
H−−イエスが3度目に倒れた場所(イエス当時この辺りに城門があり、ゴルゴタの丘は城外だったという。今は聖墳墓教会の東翼廊屋上にあるエチオピア正教会への入口となっている)−−福音書記載なし


B留−イエス倒れる 
 
同左−レリーフ部拡大
 
C留−イエス母マリアと逢う
 
D留−シモン
イエスに代わって十字架を担う
 
F留−イエス倒れる(2度目)
 
H留−イエス倒れる(3度目)

6、聖墳墓教会
 聖墳墓教会は、イエスが十字架に架けられたゴルゴダの丘と、イエスが葬られた洞窟墓地を覆う形で建てられた教会で、キリスト教最高の聖地である。

 ユダヤ人がローマ帝国に挑戦して徹底的に破れたユダヤ戦争(第一次:AD66〜70、第二次:AD132〜135)後、エルサレムはローマの直接統治下に置かれ、その名も“アリエア・カピトリーナ”と改称される。
 その時、ゴルゴダの丘は埋め立てられ、その上にローマの神を祀る神殿が建てられたという。

 ローマ帝国によるキリスト教公認(AD313)後、時の皇帝コンスタンティヌス一世の母ヘネナがエルサレムを訪問、当地で、イエスが架けられたという“聖なる十字架”を発見(AD326)、異教の神殿を撤去して建てられたのが最初(AD335)である。
 その後、何度かの破壊・再建が繰りかえされ、今のそれは1880年に再建されたもの。

 教会は、大小ふたつのドームを戴く大きな建物で、内部には、カトリック・東方正教・アルメニア系といった各宗派および各修道会の聖堂が混在しているが、中心となるものは、入ってすぐ右手にある一段高くなったゴルゴダの丘と、左手中央ドーム下の聖墳墓。


聖墳墓教会・全景(資料転写)
 
聖墳墓教会・模式図(資料転写)

 ヴィア・ドロローサ第10から第14ステーションまでが、当教会の中に設けられている。
I−−イエスが衣服を脱がされた場所
 マルコ伝に、「兵士たちはイエスを十字架に架けた後、その衣服を分け合うために籤を引いた」とある。
 衣服を分けたのは、単に役得としての行為ではなく、イエスが持っていた霊威が籠もる衣服をわが身にまとうことで、その霊威をわがものとするため、とも解釈できる。
 しかし、兵士たちに、そんな観念があったかどうかは疑問である。

J−−イエスが十字架に釘付けされた場面−−ゴルゴダの丘
 イエスが二人の盗賊とともに十字架に架けられたゴルゴタの丘とされ、祭壇の上に、十字架に釘付けされているイエスを描いた壁画が掲げられている。
 マルコ伝では、「イエスを十字架につけたのは午前9時であった。罪状書きには『ユダヤ人の王』と書いてあった。・・・
 祭司長たちは、そこを通りかかった人々と一緒に『他人は救えても自分は救えない。メシアなら、すぐに十字架から降りるがよい。そうしたら信じてやろう』と罵ったと記すが、ルカ伝には、イエスが『父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのですから』といったと付け加え、イエスが神の子であること執拗にを強調している

K−−イエスが息を引き取った場所−−ゴルゴダの丘
 イエスの最後についてマルコ伝は、
  「12時になると全地は暗くなり、それが3時頃まで続いた。3時にイエスは『エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ』(神よ、われを見捨て給うのか)と叫んで息をひきとった。
 神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が避け、墓が開いて、眠っていた多くの聖なる者たちの身体が生きかえった」
とある。

 この“エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ”との言葉は、旧約・詩編22章の冒頭の一節で、そこには
  「私の神よ、何故私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離され、救おうとせず、呻きの言葉も聞いてくださらないのか」
と始まり、最後は、
  「地の果てまで、すべての人が主と認め、御許に立ちかえり、国々の民がひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命にあふれてこの地に住む者は尽く主にひれ伏し、塵に降った者(死者)もすべて御前に身を屈めます。私の魂は神に仕え、主のことを来たるべき代に伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末まで告げ知らせるでしょう」
という神への賛歌で終わっている。

 イエスは、その全編を唱えようとしたが、既に体力がなく冒頭のみを唱えたもので、絶望の言葉ではなく神に対する賛美の言葉だとするのが正統的解釈だが、神に見放された人間イエスの絶望的な叫びとする解釈もある。後者の解釈がより身近に感じられる。

 なお、ルカ伝になると、
  「全地は暗くなり、それが3時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。『父よ、私の霊を御手に委ねます』」
とあり、時代が降れば降るほど、イエスの神格化が進んだことを示唆している。

 K留は、十字架上でガックリと首を垂れたイエスを中心に、何から何まで金ピカに飾り立てられている。
 イエスの死を救い主の死として荘厳に飾り立てたいのはわかるが、異教徒には鼻につく。


J留:イエス釘付けされる

K留:イエス息を引き取る

JK留・全景
(左がK留)

L−−十字架降架の場所
 ゴルゴダの丘の左手に“石版”が置かれている(右写真)
 ここにイエスの遺体を降ろして埋葬の準備をしたという場所という。所謂“十字架降架”の場所という。

 石版の上には、“遺体を十字架から降ろしている場面”(十字架降架)・“遺体を亜麻布で覆っている場面”(埋葬準備)・“遺体を墓に運んでいく場面”(埋葬)を描いた3枚の壁画が飾られ、石版の周りは燭台・香炉などで賑々しく飾られている。

十字架降架 
 
埋葬準備
 
埋 葬


7、聖墳墓−−第14ステーション
 イエスの墓とされる聖堂は、聖墳墓教会で最も神聖な聖地である。大ドームの真下にある聖堂は、イエスが葬られた洞窟墓の上に建つという。

 イエスの埋葬についてマルコ伝には、
  「夕方になって、身分の高い議員ヨセフがピラトの許可を得て、イエスの遺体を十字架から降ろして亜麻布で巻き、岩を掘った墓の中に納め、入口には石を転がしておいた。
 マグダラのマリアとヨセフの母マリアが遠くからイエスの遺体を納めた墓を見つめていた」
とある。ただ、ここにイエスの母マリアの姿はない。

 訪れた時、大勢の信者たちが墓室内に入ろうと列をなし、聖職者の指示で数人ずつ中に入っていく。洞窟を模した狭い墓室には、両手を広げたイエス・キリスト像を中心とした祭壇が設けられ、人々は敬虔な祈りを捧げていた。


聖墳墓・正面 
  
同左(絵葉書転写)
 
墳墓内・祭壇
 
墳墓内全景(絵葉書転写) 


※もう一つの聖墳墓
 エルサレムには、イエスが処刑され埋葬されたとされる場所がもう一ヶ所ある。旧市街地の北方、聖墳墓教会から約700mほど離れた【園の墓】がそうだという。
 花卉・草花で彩られた美しい庭園の奥まった一角にあり、英国考古学会の重鎮ゴールトンによって発見されたもので、ゴールトンのカルバリとも呼ばれ、英国国教会が管理しているという。

 庭園の奥に切りたった崖が屏風のように連なり、その右端、崖の先端部に虚ろな眼窩と見える二つの窪みがあり、全体が大きなサレコウベ(ドクロ)と見える岩がある。

 崖の上は墓地となっていて、サレコウベの上に見える柵に囲まれた場所が、イエスが処刑されたゴルゴタの丘だという。
 ゴルゴダとはサレコウベの意だから、地形的にはここをゴルゴタとしてもおかしくはないが、地形といいサレコウベの岩といい、2000年ほど前と同じであるはずはなく、後世の付会であろう。 

 崖の左手、庭園の奥に一つの洞窟墓が口を開いている。

 ルカ伝に、
 『安息日が終わった週明け、婦人たちが香油を持って墓に行ったら、イエスの遺体はなかった。
 そこへ、輝く衣を着た二人の天使が現れ、「あの方は、もうここにはおられない。復活されたのだ」と告げた。婦人たちは急いで帰って、このことを弟子たちに告げた。
 驚いたペトロが墓に走り中をのぞき込んだら、中には亜麻布だけしかなかった』
とある。
 この墓が使用された痕跡はないという。キリスト教教義からいうと、イエスはキリストとして復活したのだから遺体はなくて当然で、ましてや墓など不要ということもできる。

 狭い入口を入ると右に石室があり、イエスの遺体を置いたという石の台座が残っており、また入口の右上に小さい窓があり、そこからも石室の中を覗くことができる。
 この構造から、ここが墓室であった可能性は高いが、これをイエスの墓とする証となるものはない。
 ただガイドの説明では、ペトロが覗いた小窓、入口を塞ぐ石を転がした敷居の溝など、福音書に記された墓の構造と合致するものが幾つかあるというが、詳細は不明。

 入口の木製扉には、HE IS NOT HERE FOR FE IS RISEN(あの方はここにはおられない、復活されたのだから)というルカ伝の一節が刻まれているというが、判読不能。

 
もう一つの聖墳墓・入口
 
同 左
 
同・墓室

 聖墳墓教会でみた、豪華ではあるが何となく装飾過多で雑然とした雰囲気を、イエスの墓としては幾分かの違和感を感じる異教徒としては、自然の装いの他は何らの装飾もなく、清楚に設えられた当墓地の雰囲気は、ここがイエスの本当の墓地だという言葉が何となく納得できる、そんな感性をくすぐる何かをもっている場所ではある。

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