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イスラエル/巡礼記−1
(聖母マリア関連)

 2006年5月、イスラエルを巡った折、聖母マリアに関係する幾つかの教会を訪問した。「受胎告知教会」・「マリア訪問教会」および「聖誕教会」である。
 まずは、異邦人がみたその訪問記から。

※受胎告知教会−−ナザレ
 乙女マリアが天使ガブリエルから“精霊による受胎”を告げられたのは、イスラエルの北方にあるガリラヤ湖の西約25qに位置する町“ナザレ”という。
 今のナザレは、周囲を山に囲まれた坂の多い町で建物が密集しているが、イエスの時代、どれほどの人が住んでいたかわからない。洞穴住居を主とする寒村だったともいう。

 町のほぼ中央に建つ【受胎告知教会】は、乙女マリアが天使ガブリエルから“精霊による受胎”を告げられ家(洞窟か)の跡に建てられたという教会で、キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌス一世が母ヘレナの要請で建てたもの(AD326)といわれ、その後何度かの修改築を経て、今のそれは1969年に建てられた中東では最大級のモダンな教会である。

 白大理石に淡い紅色の横縞がはいった教会正面には、最上部左に受胎を告げる天使ガブリエルが、右にそれを驚くマリアが浮き彫りされ、その下の見える4人は福音書記者であろう。
 この教会は、すべてがアヴェ・マリアのAをモチーフとしてデザインされている。
 遠くからも見える尖った屋根がAなら、正面も下が大きく広がったA、そこにに開けられた窓もAでまとまり、棟飾りにもまたAが連なっている。

 正面の扉は、聖誕から磔刑までのイエスを描いたレリーフで飾られている。
 ・左上から下へ、イエス生誕→エジプトへの逃避行→父ヨハネに大工仕事を倣うイエス
 ・右下から上へ、洗礼→山上の垂訓→十字架磔刑


受胎告知教会(資料転写)

同・正面
 
正面扉のレリーフ
 
同・側面1
 
同・側面2

 聖堂内1階の一段低くなった床の奥に洞穴を象った祭壇があり、その穴の奥に下への階段が見え、そこが受胎告知の家(部屋)だという。
 1階は旅行者用の祭壇だそうで、訪れたとき旅行者とおぼしき一行がミサをあげていた。なお、一般のミサは2階でおこなわれるという。

 2階には「羊飼いイエス」の絵をはじめ4枚の絵が飾られ、後方と聖堂周りの回廊には、各国から贈られた「聖母子像」が並んでいる。各国それぞれの民族性を表したもので面白い。
 2階入口近くには、わが国から贈られた安土桃山風の着物を着た「華の聖母子像」(長谷川ルカ作)がある。


1階:洞窟を象った祭壇
 
2階祭壇

良き羊飼い(イエス)像 

イエスの足を拭くマリア像 

放蕩息子の帰還 

罪なき者は石をもて打て
 
各国から送られた聖母子像
 
華の聖母子像

 マリアは、この地で天使から“精霊によって妊った”と告げられたというが、それを記しているのはマタイ伝とルカ伝だけで、マルコ伝・ヨハネ伝には記されていない。
 しかもマタイ伝では、「天使がマリアの受胎を婚約者ヨハネに告げた」と記し、ルカ伝には「マリアに直接告げた」とあり統一されていない(キリスト教絵画では、ほとんどルカ伝による場面を描いている)

 また受胎告知を記していないマルコ伝は
 「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ・ヨセ・ユダ・シモンの兄弟ではないか」
と記し、イエスが普通の人の普通の子であるとしている。
 当時、人を名指すときには“父親の名”をあげて“○○の子”(イエスの場合はヨセフの子)いうのが普通だったというが、ここでは“(母親)マリアの子”と呼ばれており、ナザレ人の間では、イエスはマリアが産んだ私生児とされていた、との説もある。

 そんな事情もあってか、福音を説きはじめたイエスが
  『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』(マルコ伝)
と嘆くように、イエスはナザレではほとんど受け入れられていない。

 マタイやルカが記すように、マリアが、天使のお告げによってイエスが神の子であると知っていたのなら、少なくともマリアだけはイエスの伝道活動を理解していたはずである。
 しかしマルコ伝では、シナゴークで話しているイエスに会いにきた母親と兄弟に対して、
  『私の母・兄弟とは誰のことだ。ここにいる人々が母であり兄弟である』
と冷たく突き放している。
 教条的にはイエスの兄弟愛を示すものとなるのだろうが、ここでのマリアは、息子の気が狂ったかとオロオロする普通の(あるいは愚かな)母として描かれている、とみることもできる。

 これらからみると、マリアが精霊によって妊ったという伝承は、初期キリスト教教会が作ったドグマであるといえる。
 神と人間の女性の聖婚による神の子誕生という伝説は、洋の東西を問わず各地に多く、そんな伝説世界のなかから生まれたものともいえる。
 しかし、ここから始まる聖母マリアの存在が、キリスト教を華やかなもの豊かなものにしたことは事実である。

 隣接して【聖ヨセフ教会】があり、その地下に、ヨセフがイエスに大工仕事を教えたという小部屋(洞窟)が復元されている。
 マタイ伝によれば、ヨハネはイスラエルの王ダビデの後裔とされ、また、ヨセフは正しい人で、マリアの受胎を神のなせる御業として受けとった義人”として登場する。
 イエスが精霊とマリアの間に生まれた御子とすれば、ヨハネとの親子関係はないことになるが、ヨハネをイエスと結びつけるのは、ダビデ・・・・・ヨハネ−イエスという系譜を作ることで、イエスをダビデの血をひく後裔とするために作られた伝承であろう。

 聖書のなかで影の薄い父・ヨセフを崇拝の対象にしたのは、11・12世紀頃のフランチェスコ会やドミニカ会の修道士たちで、彼らはヨセフに勤勉な家父長のイメージを付加することで神性を与え、大工や家具職人の守護神へと昇化させたという。

※マリア訪問教会−−エルサレム郊外・エン・カレム
 ルカ伝のみに、
  『天使ガブリエルから、叔母エリザベートもまた神の恩寵により妊ったと知らされたマリアは、山里に向かい、ユダの町に住むエリザベートを訪問した』
とあり、その訪問を記念して建てられたのが【マリア訪問教会】である。

 当教会は、エルサレム西南郊外エン・カレムの丘の中腹に残る十字軍時代の遺跡の上、だらだらとした坂を上がったところにある。
 聖堂正面上部には、ロバに乗ってやってくるマリアが描かれ、内陣祭殿の上には、マリアとエリザベートが手を取り合っている壁画が描かれ、その横には、ヘロデ王の幼児虐殺の場面、それを避けてエジプトへ逃れるヨセフ一家を描いた壁画が掲げられているが、この二つのの挿話が何故ここに掲げられているのか疑問。

 聖堂前庭には、エリザベートに逢ったときマリアが神に捧げたという“マリア賛歌”(マク゜ニフィカート)を、各国語に訳したものが壁一面に掲げられていて、日本語のそれもあった。
 マリア賛歌とは、「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜び讃えます」(ルカ伝)にはじまる長編詩である。


マリア訪問教会

マリア、エリザベートと逢う

各国語で奉納されたマリア賛歌

 ルカ伝によれば、祭司ザカリアとエリザベートの夫妻は、神の前で正しい人だったが歳をとっても子供がなかった。
 ザカリアがエルサレムの神殿で祈っていると、神から『あなたの願いは聞き入れられた。妻エリザベートは男の子を産む。その子をヨハネと名付けよ』と告げられる。
 そこで生まれたのが、イエスに先立って荒れ野で神を説いた“洗礼者・ヨハネ”で、エリザベートがマリアの挨拶を受けたとき、その胎内で子が踊り、エリザベートは『あなたは女の中で祝福された方です』とマリアを祝福したとある(ルカ伝)

 洗礼者ヨハネは、ラクダの毛衣を着て革の帯を締め、イナゴと野密を食べながら、罪の許しを得るための“悔い改めの洗礼”をおこなったというイエスに先行する預言者で、イエスもまたヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたという。
 その時、
  『天が裂け、霊が鳩のように降りてくるのが見え、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえた』
というが(マルコ伝)、神の子であるイエスが、悔い改めの洗礼を受けるというのも、おかしな話である。

 当時の交通事情からみて、ナザレからエルサレムまで6・7日はかかっただろうという。身重の女の身で、それだけの長旅が可能だったのかどうか、極めて疑問という。
 マリアのエリザベート訪問は、イエスと洗礼者ヨハネを関係づけようとする教義上の要請からきたもの、との色合いが強い。

 聖堂内と、そこへ至る坂下の2ヶ所に泉があり、いずれも『マリアの泉』と呼ばれている。伝承では、マリアがエリザベートに会ったとき、この2つの洞穴から同時に水が湧きだしたという。

 教条的にいえば、イエスと洗礼者ヨハネの初対面を神が嘉した、ということになろうが、これを民俗学からいえば、古くから世界各地にある“女神・洞穴・泉”の3点セットということができる。
 洞穴とは女神の子宮であり、泉は羊水、そこから新しい生命が生まれ出るのであり、人は洞穴(子宮)に入り泉の水を浴び洞穴を出ることで蘇る。それは神の子の誕生あるいは再生に連なる。

 2つの泉はマリアとエリザベートが出会ったとき湧きだしたというが、それは後世の付加であって、イエス以前から泉があり、神の子誕生に関する何らかの伝承があったかと思われ、そういう古くからの聖地に建てられたのが当教会であろう。


マリアの泉:聖堂内

マリアの泉:坂の下

※聖誕教会−−ベツレヘム
 エルサレムの南西約9qにあるベツレヘムは、標高750mほどの丘陵地帯でダビデの故郷だという。
 また創世記では、ヤコブの妻・ラケルがこの辺りに葬られたというが、ベツレヘムを有名にしているのは、これらの伝承に加えて、救世主・イエスがこの地で生まれたという伝承による。

 イエス聖誕といえばクリスマス。クリスマスといえば、家畜小屋の中で聖母マリアに抱かれた幼子イエスであり、その地はベツレヘム、とのイメージである。
 そのイエスが生まれたとされる家畜小屋(洞窟)があったとされる場所に建てられたのが【聖誕教会】だが、頑丈な石壁に囲まれた外観は一見して要塞である。
 
 入口前の広場には高い石造りの壁が聳え、鐘楼上の十字架がなければ中世の要塞を思わせる。
 出入り口も十字軍時代、ビザンチン時代と時代が降るほど小さくなり、現在のそれは人一人背を屈してやっと潜れるほどである。異教徒・特にイスラムの騎士が騎乗のまま侵入することを防ぐためだという。

 聖堂内陣の一画に半円形の窪みがあり、真ん中に穴のあいた星形の金属板が飾られている。
 ここが当教会の中心で、その下がイエスが生まれた小屋の跡だという。周りには数多くの香炉がつり下がり、信者たちが星形の前に座り込み、穴の淵に手を触れながら祈り且つ写真を撮っていた。


聖誕教会・正面広場
正面奥に入口がある

イエス聖誕の洞穴
中央星形の真ん中に穴があいている。
この下にイエスが生まれた小屋跡があるという

聖母子像

 教会内にはカトリック・東方正教・アルメニアといった各宗派がそれぞれに独自の祭壇を設け、その存在を誇示している。何故個別なのか、どうもわからない。

 
カトリック教会祭壇

東方正教会祭壇 

アルメニア教会祭壇 

 4っの福音書のうち、イエスがベツレヘムで生まれたとするのはマタイ伝とルカ伝のみで、マルコ伝・ヨハネ伝にはイエス聖誕そのものが記されていない。
 そのマタイ・ルカですら、“イエスはベツレヘムで生まれた”とはするものの、その内容は大きく異なっている。

 マタイ伝によれば、
 『イエスはヘロデ王の時代にベツレヘムで生まれた。
 その時、西空の輝きによってユダヤ人の王が生まれたことを知った東方の三博士がベツレヘムを訪れ、ヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、何処におられるか」と問い、律法学者から「エフタラのベツレヘムよ、お前はユダ族のなかでいと小さき者、お前の中から、私のためにイスラエルを治める者が出る」との預言(ミカ書)があると聞いてベツレヘムへ向かう。その時、輝く星が彼らの先に立って進み、幼子のいる場所の上に留まった。
 彼らは歓びにあふれ、母マリアとともにおられる幼子を拝し、黄金・乳香・没薬を捧げた』

 一方のルカ伝によれば、
 『皇帝アウグストゥスの命で、シリア州知事のキリニウスが住民登録をおこなった。
 父ヨゼフがダビデの血筋だったので、身ごもっていた許嫁マリアを連れてガリラヤのベツレヘムへ上っていった。
 ベツレヘムでマリアは幼子を産んだが、泊まる宿がなかったので、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
 その頃、野宿していた羊飼いたちの処へ天使が現れ、「今日、ダビデの町で救い主・メシアがお生まれになった。貴方たちは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子をみるであろう」と告げた。
 羊飼いたちはベツレヘムへ行って、ヨセフとマリア、そして飼い葉桶に寝かせられている乳飲み子を尋ねあてた』
とある。

 一般にイエス聖誕時の挿話とされる家畜小屋での誕生と三博士及び羊飼いたちの訪問は、この2つの話を一つにしたものである。

 夜空に輝く星といえば彗星か新星だろうが、今の天文学上の知見では紀元前後に彗星・新星現象ともに起こっていない。ただ、イエスが生まれるより以前の前7年(あるいは前6年)に、土星と木星が魚座の中で3度にわたって接近して一つに見える“相合”という現象が起こり、特に地中海沿岸でみられたはずといわれ、これがマタイにいう輝く星で、多分、夜明けの空に輝いていたであろうという。

 古代ユダヤの伝承では、魚座はイスラエルあるいはメシアの象徴で、木星は万人にとっての幸せの星・偉大な星、土星はイスラエルの保護星と考えられていたという。
 その魚座で、守護星・土星と幸運の星・木星が出合うということは、バビロンの占星術師にとっては、西方の地に有力な王が現れることを示すもので、それが三博士の訪問という伝承へと連なっているのかもしれない。
 またローマ帝国の記録によれば、紀元前後に人口調査はおこなわれていないという。

 今、イエスの聖誕日・クリスマスは12月25日に祝われているが、この日になったのは紀元4世紀頃で、それまでは1月6日とされていたという(今も1月6日を聖誕祭として祝う宗派がある)
 12月25日としたのは、太陽が復活する冬至をイエス聖誕日としたという説、あるいは紀元前後のローマ帝国で広く信仰されていたミトラ教の神・ミトラの誕生日が12月25日だったのを引き継いだという説など、諸説がある。
 また1月6日についても、古代オリエントで10日間続いた正月の後半の始まりの日を“神が創造を終えた日”あるいは“希望の日”として特別視していた習俗を引き継いだものともいう。因みに、この日はゾロアスター教の始祖・ザラツシュトラあるいはアレキサンドロス大王といった聖人・英雄の誕生日の誕生日とされていた。そんな古くからの習俗をひきついだものであろう。
 また細かいことながら、パレスチナ地方では12月・1月は極寒の頃で、羊などの家畜は小屋の中に入っているという。ルカがいうように野営していた羊飼いに神が現れたとすれば、それは3月から6月遅くとも10月までのはずだともいう。

 当時のユダヤ人のなかでは、旧約ミカ書の予言をうけて“ベツレヘムの地において、イスラエル建国の王者・ダビデの血をひくメシアが出る”との伝承が信じられていたという。
 イエスがベツレヘムで生まれたとするのは、旧約の予言を成就するメシアの登場を期待するユダヤ人の願望からくるドグマだといえる。

◎ベツレヘムの今 
 イエス聖誕の地とされるベツレヘムは今、アラブ人の町でパレスチナ暫定自治区に属する。町に出入りするには、イスラエル側・パレスチナ側2ヶ所の検問所で厳しくチェックされる。
 検問所の両側には所謂“分離壁”が高々と連なり、パレスチナ問題の厳しさを示している(ただ今回の旅で、分離壁を見たのはここだけ)

 今のベツレヘムにはイスラエル側から直接入ることはできない。検問所前で一旦エルサレムからのバスを降り、検問所(イスラエル側・アラブ側の2ヶ所ある)を通ってからアラブ人提供のバスに乗り換えることになる。
 年代物の古いバスが通りぬける街並みは閑散としてさびれ、諸処にアラブ人たちが何するともなくたむろし、観光客とみると1ドル商品(水のボトル・絵葉書など)を売りつけてくる。ただ、しっこくはない。

 検問所を通りぬけたパレスチナ側の壁に“ウェルカム・ベツレヘム”と記された歓迎の看板がある。
 歓迎されるのはいいが、中に入った内側の壁に“白鳩に噛みつくライオン”の壁画が描かれている。白鳩がパレスチナ、ライオンがイスラエルを意味するのだろうが、現実を揶揄する風刺画であり、大いなる皮肉としかいいようがない。 

分離壁に描かれた風刺壁画


※聖書の中のマリア
 新約聖書・4福音書の中でマリアが登場するのは以下の8ヶ所に過ぎず、そのなかでもマリアを主人公とするのは受胎告知とエリザベート訪問・イエス聖誕の3場面でしかない。
@受胎告知(ルカ伝)・Aエリザベート訪問(ルカ伝)・Bイエス聖誕(マタイ・ルカ伝)−−上記の通り
Cエジプトへの脱出(マタイ伝)−−ユダヤの王ヘロデによる幼児殺戮を逃れてエジプトへ脱出する場面
D神殿でのイエス(ルカ伝)−−迷子になった12歳のイエスを尋ねてまわり、イスラエル神殿で見つける場面。
Eイエスの母・兄弟(マルコ伝)−−説教しているイエスを尋ねていったマリアが、「私の母・兄弟とは誰のことだ」と突き放される場面。
Fカナの婚礼(ヨハネ伝)−−親戚の婚礼に招かれたマリアが、葡萄酒がなくなりかけたとイエスに告げる場面。
Gイエスの磔刑(ヨハネ伝)−−イエスが架けられた十字架のそばにマリアも立っていたという場面。ただし、これはヨハネ伝のみの記述。

 イエスの伝道開始はAD27年頃で十字架上の死はAD30年頃といわれ、最初の福音書・マルコ伝の成立がAD60年頃、続いてマルコ伝とルカ伝がAD80年代(ルカ伝はすこし遅れるか)、最後のヨハネ伝はAD90年代後半頃の成立という。
 イエス受難以後の初期キリスト教会の揺籃期にあって、その間の刻の流れと記者が属するそれぞれの立場から書かれたのが4福音書で、そこ描かれたイエスの姿には異なるものがあり統一されていない。

 これら福音書の成立時期からアリアを眺めると、時代が降るにつれてマリアの現れる場面が増えてはいるが(ルカ伝が最多)、@ABの場面以外のマリアは単なる脇役でしかない。
 例えば、イエスが各地で教えを垂れる場面ではマリアは一切姿を見せないし、キリスト教の原点である「キリストの復活」で、復活したキリストが姿を見せるのは“マグダラのマリア”あるいは弟子たちの前であって、わが子イエスの死をもっとも嘆いているはずのマリアではない。
 いずれにしろ、新約聖書全体を概観するかぎり、マリアは初めにちょっとだけ出てくる脇役であり、普通の女性でしかない。

◎マリア信仰の教義化
 そんなマリアが、その後のキリスト教興隆のなかで“神の母・聖母”として大きくクローブアップされていく。その足取りを、カトリックにおけるマリア信仰の教義化という面から見てみる。

@マリアの「神の母(テオトコス)化」−−エフェソス公会議・431年
 初期キリスト教にあって、マリアという一女性から生まれたイエスを人とみるか神とみるかということは最も重要な問題だったが、ローマ教会はニカイア(325)・コンスタンティノーブル(381)で開かれた2回の公会議で、これを解決しようとした。

 そこで決められた教義が、“イエス・キリストは父なる神と全く実体を同じくする神”との教義で、これを以て一応の決着をみたとされる。
 しかしこれが全キリスト教社会に異論なく受け入れられたかというとそうでもなく、その後も何かにつけてくすぶり続け、これが姿を替えて、“では、神であるイエスを産んだマリアとは何者か”と問うたのがエフェソスの公会議である。
 この公会議で、マリアは普通の『人間イエスの母』から特別な女性・『神の母・テオトコス(神を誕生させた者)』へと格上げされ、マリアは人間イエスを産んだ“人の母”であるとするネストリゥス派は異端として排除されていった(この流れが中国に伝わったキリスト教である景教)

 ただこの教義が、かつての女神アルテミス崇拝の中心地であったエフェソスで認められたというのが奇しき縁で、ここで人々はかつての女神アルテミスに代わる“女神マリア”を手に入れたということともなる。
 逆にいえば、一般民衆のなかに根強く残っている大地母神としての女神アルテミスのイメージを聖母マリアに置き換えたということで、これによってキリスト教は布教の拡大に成功したともいえる。

Aマリアの「処女性」−−ラテラノ公会議・649年
 マリア信仰で最も広く知られているのは@の『受胎告知』、“天使ガブリエルに神の子を妊ったと告げられて驚く”マリアであろう。
 神あるいは超越者と人間の女性との交わりから神あるいは英雄が生まれるという神話は、世界各地で普遍的に語られるパターンだが、そこで女性の処女性が問題になることは少ない。

 このラテラノ公会議で決められたことは、マリアは“永遠の処女”すなわち“受胎の時も、出産時も、出産後も処女であった”ということという。
 旧約聖書・イザヤ書に『わたしの主が御自ら あなたたちに証を与えられる。見よ、“おとめ”が妊って男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ』との一節がある。これは“神がユダヤ民族を救済するために男の子=メシアをこの世に送られる”という予言で、そこで使われているヘブライ語の“おとめ”という言葉を、ギリシャ語あるいはラテン語に訳するとき“処女”としたのがはじまりという。

 キリスト教では、旧約聖書の記載はすべてキリストによる救いの予言とされることからいうと、イザヤ書にいう“男の子”がイエスであり、その母マリアは“処女”であったわけで、この予言と、神の母は“原罪にまみれていない穢れなき女性であるべきだ”とする教会の意図と合致したところで生まれたのが『マリアの処女性=処女懐妊』という教義である。

 ただ新約聖書を読むかぎり、ルカ伝の受胎告知の場面では単に“おとめ”と記されているし、キリスト教教義の基礎を造ったとされるヨハネは、『神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになった』、つまり“イエスは律法に従順な一人の女から産まれた”と記すのみで、そこでは母親の処女性など問題されていない。

 キリスト教には幾つかの“外典”があるが、そのひとつに2世紀末頃にまとめられたという「ヤコブ原福音書」がある。
 この外典は、その副題に“いと聖なる、神の母にして永遠の処女たるマリアの物語”とあるように、マリアの誕生からイエス出産までを物語るもので、そこにはマリアの無原罪の宿り・神殿での養育・神託によるヨセフとの縁組み・天使による受胎告知・イエス誕生までが、わかりやすく潤色されて物語風に語られ、中世社会では聖書以上に流布し一般庶民に親しまれたという。

 この外典が(他にも似たものとして「黄金伝説」などがある)、マリアの処女懐胎や次に記す無原罪のお宿りといったカトリック世界で展開され教義化されたマリア論の原点で、そこには、母親に清らかで、完全で、至高なるものを求める人間の希求と、キリスト教によって異教として排除された古代の地母神に代わる“聖にして母なる女性”を求める庶民の願いがあったという。

Bマリアの「無原罪のお宿り」−−教皇ピウス9世の大教書・1854年
 キリスト教では、アダムとイブの楽園追放以来、すべての人間は生まれながらに原罪を背負っており、その原罪は、受胎の瞬間に親から子へと伝えられるとされる。
 そんな原罪を背負った人間に神の恩寵が下るはずはなく、神の恩寵が下ったということは、マリアが普通の人間ではなく、生まれながらにして原罪を免れた女性であったからだという。
 というより、原罪を免れた聖なる女性でなければならない、という信仰ともいえる。

 その“原罪を免れている”ということのはじまりが、マリアが母アンナの胎内に宿ったときからの『無原罪のお宿り(無原罪の受胎)』という教義である。
 いいかえれば、マリアの母アンナも、欲情を伴った肉の交わりによって懐妊したのではなく、アンナもまた“神の恩寵によって妊ったはずだ”という信仰で、その原型となるものは、ヤコブ原福音書にある『年老いても子宝に恵まれないヨキアムとアンナの夫妻が神に祈りを捧げたところ、“神の恩寵によってマリアを妊った”』だという。

 この無原罪のお宿りという教義は、イエスの母マリアを清純無垢な神の母とするために考え抜かれた抽象的な概念、というより、“かくあるべし”という信仰といえるものである。
 この教義は古くから議論され、一時は異端として排除されたが(ローマ異端審問1644)、一般民衆の強い要請を容れる形で1854年、時の教皇ビオス9世によって教義として宣言され、カトリック世界で定着したという。

 キリスト教絵画の中に、幼子イエスを抱く聖母マリアと、その二人を優しく見守る祖母アンナを描いたものがある。それは単に祖母・母・幼子という家族団欒の絵ではなく、無原罪受胎と処女懐妊、そこから生まれた神の子という一連の教義を視覚化したものでもある。

Cマリアの被昇天−−教皇ピウス12世の教皇令・1950年
 聖母マリアに関する教義の最後として、それも科学的思考が風靡する20世紀になって認められたのが『聖母被昇天』の教義で、その原型もまた聖書外典に求められるものである。
 それは、神の母たるマリアが普通の人間と同じように死んだはずはない、という素朴な想いからくるもので、東方教会では4・5世紀頃から、西方教会では7・8世紀頃からはじまった昇天祭の行事を、一般民衆の要望を受け入れる形で教義化したものという。

 外典によれば、イエスの死後、想い出の土地を巡り歩いて余生を送っていたマリアは、その臨終に際して、神によって各布教地から雲に乗って集まった12人の使徒たちに囲まれるなか、その霊魂は、天上から迎えにきたキリストに抱かれて昇天し、遺骸はその地に埋葬されるが、3日後、霊魂を伴って再訪したキリストによって霊魂と肉体が一体となって、天使の祝福の中をキリストに抱かれて再昇天し、父なる神に祝福されて冠を授けられ、キリストの右に位置したという。
 マリアが自力で昇天したのではなく、キリストによって天上に連れて行かれたから被昇天と呼ばれる。

 この被昇天という教義は、イブが楽園を追われたことと対になるもので、罪を犯すことで楽園を追われた堕天の女イブに対する新しいイブとしてのマリアが、神の子イエスを産むことによってイブの罪を購い天に帰っていく、そこに被昇天の原点があるともいう。

※マリアとは
 キリスト教において、すべての規範である聖書のなかで特段の存在感をもって描かれていないマリア、また神学上からも、神格化する特段の必要性のないマリアを、ここまで神格化したということは、それを求める一般民衆の要望があったからだという。
 そして、その要望の根底にあるのは、“臨終における安らかな死”と、“魂の地獄おちからの救済”であり、“安らかな子供の出産”、すなわち、人の一生の始めと終わり、いいかえれば無から有へ、有から無へという境界を越える瞬間における救済であり加護だったという。

 キリスト教における救済や加護は、本来キリストに求められるべきものだが、それがマリアに向けられたということは、マリアが神学上の拘束から自由であったからだという。
 “神と子と精霊”という神聖不可侵な三位一体教義の枠外にあるマリアは、この教義から自由であり、が故に、父権主義の色濃いキリスト教のなかにあって、ただイエスの母という一点のみで、先行する女神のイメージ、地母神がもつ母性的エネルギーを望むがままに吸収拡大し、自分たちが望む信仰を自由に形成できたわけで、それが、異教的地母神信仰の巣窟であった古代あるいは中世のヨーロッパに、キリスト教が浸透していく尖兵となり得た理由だったともいえる。

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