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エルサレム/嘆きの壁
                                                                  

 キリスト教徒にとって“聖墳墓教会”がエルサレムの象徴で、イスラムにとってのそれが“岩のドーム”だとすれば、ユダヤ人にとっては『嘆きの壁』が象徴といえる。いや、象徴というより“魂の故郷”というほうが的を射ている。

 嘆きの壁は、エルサレム旧市街の一角を占める神殿の丘を取りまく石壁の西寄りにある。
 今見られる石壁(H=21m)はソロモン王(BC965〜926)が築いた第一神殿のそれではなく、下から7層ほどがヘロデ王(BC20頃)時代の石壁で、8層目以上は十字軍時代およびオスマン・トルコ時代のもので(16世紀)、この地下には、ヘロデ時代の石壁が19層・約20数メートル埋まっているという。
 ソロモンが築き、ネブカドネサルが破壊した第一神殿の石壁は勿論、バビロン補囚からの帰還後に再建したという第二神殿のそれも、今その痕跡を見ることはできない。それらは、ヘロデ王が神殿を改築したとき、ほぼ2倍に広げられた神域の土中に埋まっているという。

 第二次ユダヤ戦争に敗れ(AD135)、ローマからエルサレムへの立ち入りを禁止されたユダヤ人は、やがて年一回、ヘロデ神殿崩壊の日にだけ神域(神殿の丘内)に入って神の祈り、神殿焼失と亡国を嘆き悲しむことが許された。
 その後、イスラム統治時代には神域占領後は禁止され、為に、礼拝場所は神域西側の現在地に移ったという(今、神域内はイスラム一色で占められ、ユダヤ教に関するものは皆無)
 また近年のヨルダン統治時代(1948〜67)にも許されず、ユダヤ人たちは、シオンの丘にあるダビデの墓に祈っていたという。

 ユダヤ人にとっての嘆きの壁とは神殿に代わる聖地であり、その前で神への祈りを捧げることは千数百年にわたる伝統である。
 6日戦争(1967年6月、第3次中東戦争)のとき、エルサレムの東西分割(1948)以降ヨルダンの統治下だったエルサレム旧市街地に突入したイスラエル軍の、ユダヤ教のラビを中心とする一支隊が、まず目指したのは嘆きの壁だったという。
 開戦3日目の朝10時、壁の前に到着したラビたちは、旧約・詩編の『エルサレムよ、もしも、私があなたを忘れるなら、私の右手は萎えるがよい。私の舌は上顎に張り付くがよい。・・・』を引用しながら、東エルサレムの奪還・嘆きの壁解放という悲願を達成したもうた神へ感謝を献げ、伝統の鹿の角笛を吹き鳴らしながら、喜びの踊りを踊りまくったという。

 
嘆きの壁・全景
 
同左・側面より 

 今、壁の前一帯は大きな広場になっている。6日戦争以前は、アラブ人の住宅が密集し、狭い路地が壁に沿っているだだったのを、エルサレム占領後、イスラエル政府が住宅を強制撤去し、ユダヤ人の祈りの場として整備したという。

 広場は左右に別けられ、左が男性用、右が女性用となっている。安息日には大勢の人々が集まって祈りを捧げるというが、訪れたとき(火曜日)も多くの人が祈っていた。
 立ったままの人、椅子に座った人、壁から離れて立つ人、壁に頭を付けた人、黒い山高帽に黒いフロックコートの人(最も熱心なユダヤ教徒という)、キッパ(丸い椀状の帽子)を被っている人(普通のユダヤ教徒)が、いずれも聖書を手に、体を前後に揺らしながら熱心に祈っている。
 壁の継ぎ目に、小さな紙切れが挟んである。願い事を記して献げたものとかで、そういうところはわれわれと同じである。

 異教徒であるわれわれにも、何かが迫ってくる聖なる処である。

 
     

 われわれは神社仏閣を訪れたとき、男性は帽子を取る。キリスト教・イスラムも同じである。
 しかしユダヤ教では頭に何かを被る。帽子・特にキッパは天を表すもので、彼らがキッパを被るのは、“天の下”いいかえれば“神の御許”にいることを意味し、常に神と共にいることを意味するという。
 広場の台には沢山のキッパが置いてあった。帽子を持ってこなかった人は誰でも自由に使えるのだろう。
 われわれ異教徒でも、男は帽子さえ被っていれば広場にはいることができる。女性にはそういう習慣はないようだが、白いペールを被っている人が多い。

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