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エルサレム/その歴史
イスラエルの旅から

 2006年5月、イスラエルを旅した。そのときの見聞をもとに、旧約聖書の時代からイスラム登場までのエルサレム(イスラエル略史を含むについて、自分なりにまとめてみた。

T、エルサレム−その1(旧約時代)
 イスラエル中央やや北寄りの丘陵地(H=700〜800m)にあるエルサレムは、3っの唯一神教ユダヤ教・キリスト教・イスラムそれぞれの聖都である。
 ユダヤ教にあっては、ダビデ王が栄光ある首都として定め、続くソロモン王が神殿を建立したということで。キリスト教にあっては、イエス・キリストが十字架に架けられ、復活した地として。イスラムにあっては、ムハンマドが天馬に乗ってメッカからこの地へと飛び来たり、光の梯子を登って天国へ行き、神の前にひれ伏したという伝承によって。

 同じ“アブラハムの神”の流れをひく3つの唯一神教が、これほど入り交じっている町は他にはない。それぞれの神が、周囲4qという狭い旧市街地を“己だけの聖地”と主張しあい、また激しく反発しあっている土地でもある。

エルサレム/旧市街地遠望
エルサレム旧市街地
(オリーブの丘からの遠望−−高層ビル群は新市街地)

※ダビデの町
 エルサレムを青史に登場させたのは、ダビデ王(在位BC1004〜964頃)である。旧約・サムエル記下はこう記している。
 『ダビデ王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエプス人を攻めようとした。エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ」。・・
 しかしダビデはシオンの要害を陥れた。これがダビデの町である。・・・ダビデはこの要害に住み、ミロから内部まで、周囲に城壁を築いた。・・・』(5--6)
 イスラエル初代の王サウル(BC1014〜1004コロ)の死後、宿敵ペリシデ人を駆逐したダビデは、ユダの地で王位に就き、続いて北のイスラエルをも合わせてイスラエル連合王国(統一王国)を樹立していく。王位に就いたダビデは7年半ほどはヘブロンに都するが、その後、エルサレムを攻略してここに遷っている(BC996頃)。これが聖都エルサレムの始まりである。

 ここでいうダビデの町とは、いまエルサレムの中心とされる旧市街地ではなく、その南に連なる「オフェルの丘」とよばれる細長く伸びた小さな尾根にあった。この尾根は東西南の三方を深い谷に囲まれ、東の谷に“ギボンの泉”と呼ばれる水源をもつ、自然の要害である。
 ダビデは、この丘に自らの王宮を設け、神ヤハウェ顕現の象徴である“契約の櫃”を担ぎ上げて安置している。契約の櫃とは、かつて神からモーセに与えられた十戒を記した石版を納めた“聖なる容器”である。

 ダビデは恒久的な神殿は建設していない。神がそれを望まなかったからというが、神の住む家である神殿の建設は、偶像崇拝を排除するヤハウェ信仰にはない発想で、非ヤハウェ宗教、カナン的なものである。契約の櫃は、従来からの慣習にもとづいて天幕の中に納められたという。
 ただ政治的にみた場合、契約の櫃をこの新しい都に移したことは、カナン宗教の中心だったこの地にヤハウェ信仰の伝統を移し換えることによって、ヤハウェ信仰の新しい中心地を創設することだったという。

 エルサレムは、北のイスラエルと南のユダの接点に位置する異民族エプス人の土地で、南北いずれの部族にも属していなかった。ダビデは、この地を首都とすることによって、どの部族に対しても中立的な立場を確立し、且つ、ヤハウェ信仰の伝統を振りかざす宗教勢力の王権への干渉を排除することで、それ以前のイスラエル人のみの部族連合国家から、カナン系住民を含む領土国家へと移行を図った、ともいわれている。

 今、オフェルの丘はアラブ人の密集居住地区で、“シルワン”と呼ばれている。

※ダビデ以前のエルサレム
 エルサレムは、ダビデがイスラエル連合王国の首都とする前は、エブス人の町だった。旧約・ヨシュア記は、
 『ユダの人々はエルサレムの住民エブス人を追い出せなかったので、エブス人はユダの人々とともにエルサレムに住んで今日に至っている』(15--63)
と記しているだけだが、ダビデ以前のエルサレムについて、些少の記録が残っている。まとまったものとしては

@ エジプト第18王朝のファラオ、アメンホテブ4世(BC1377--1358コロ)の都“アマルナ”から「アマルナ文書」と呼ばれる粘土板が出土している。この文書は、同4世がカナンの諸侯と取り交わした外交文書の類だが、そのうち6通に“ウルサレムのアブディヒバ王”と名乗る王の名前が記され、その1通には、
 「国王陛下、どうぞあなたの下僕アブディヒバのことを心にお留め置きください。そうして、あなた様の領土をもう一度取り戻すために、あなた様の射手をお遣わしください」
とファラオからの援軍を懇願している。

 前15世紀初頭ころから、カナン(イスラエル・パレスチナの古称)の地はエジプトの支配下に置かれていたが、宗教改革に熱心なアメンホテブ4世の頃には破綻を生じたといわれ、先の文書は、外敵の侵入によって、カナンの王が苦境に陥っていたことを示している(この要請は無視されたらしい)
 ウルサレムとは“サレム神の礎”という意味で、サレム神とは夜明けと薄暮の女神である。そこからみて、ウルサレムとは、町の守護神として“サレム神を祀る町”という意味だろうという。
 この“ウルサレム”が今のエルサレムの古称である。

A 伝承として受け取るべきだろうが、創世記に、アブラハムが侵入してきた外敵を撃破して居留地まで凱旋してきたとき、
 『ソドムの王はシャベの谷まで彼を出迎えた。いと高き神の祭司であった“サレムの王メルキゼテク”も、パンと葡萄酒をもって来た。・・・』(14--18)
とあるが、ここでいう“サレム”がウルサレム、すなわち今のエルサレムのことだという。
 そこに、“いと高き神の祭司”とあることからみると、サレム神が他の神々より高位の神として崇められ、その神殿があったウルサレムの王が、当時にあっても重要な人物だったことを示唆している。

◎王政のはじまり
 イスラエルにおける王制は、前11世紀末のサウル王から前6世紀初めのユダ王国滅亡まで約400年ほど続くが、そもそも古代のイスラエルに王制という理念はなかった。イスラエルの民を支配するのは神のみであり、人が人を支配するのは神への冒涜であった。そのためイスラエルでは、古来からの12部族が緩やかな連合体を形成し、いったん事が起こると各部族から集められた民兵によって対処していたという(それを指揮したのが士師と呼ばれる一種の預言者)

 しかし、前11世紀にはじまったペリシテ人の侵入は、一時的な民兵では対処できない強力なもので、その中で、聖地シロを破壊され「契約の櫃」を奪われる、という悲劇を味わうこととなった(サムエル記上4--10)
 そのため民の間から王を求める声があがり(同上8--5)、王制を敷くこととなるが、そこには当然ながら王政に反対する勢力が存在した。その代表とされるのが、当時の宗教的指導者・サムエルである(最後の士師ともいわれる)
 サムエルは、王という存在がいかに民を搾取し圧迫するかを縷々指摘して民に警告するが(同上8--11)、民は
 『いいえ、我々には王が必要なのです。我々もまた他の国民と同じようになり、王が裁きをおこない、王を陣頭に立てて、我々の戦いを戦うのです』(同上8--19)
と聞き入れなかった。そのため、サムエルは
 『彼らの声に従い、彼らに王を立てよ』
という神の言葉を受けて、サウルに油を注いだ、とある(同上8--22)

 こうして選ばれたのがベンヤミン族出身のサウルである。サウルは常備軍を整備し、ゲリラ戦でもって一旦はペリシテ人を海岸平野まで追い返すが、体勢を立て直したペリシテ人に反撃され、ギルボア山での戦いで息子ともども討ち死にしてしまう。
 『ペリシテ軍はイスラエルと戦い、イスラエル兵はペリシテ軍の前から逃げ去り、傷ついた兵はギルボア山上に倒れた。ペリシテ軍はサウルの息子たちを討った。サウルも深手を負い、自らの剣の上に倒れ伏した。・・・
 翌日、戦死者から戦利品をはぎ取ろうとやってきたペリシテ軍は、サウルと3人の息子が倒れているのを見つけた。彼らはサウルの首を切り取り、武具を奪った。・・・彼らは、その遺体をベト・シャンの城壁にさらした』(同上31--1)

 サウルの遺体が曝されたのが今の【ベト・シェアン】(ガリラヤ湖の南約26q)で、サウルが倒れた“ギルボア山”は、ベト・シェアンの西約10qに位置する。

◎ベト・シェアン
 ガリラヤ湖の南に広がるエズレル平野の東部に位置する“ベト・シェアン”は、3000年の昔はペリシテ人の町であった。ギルボア山の決戦でサウル王を倒したペリシテ人は、その遺体を自分等の町の城壁に曝したというが、今、当地に残るのは、ローマからビザンチンにかけて繁栄した古代都市の遺跡で、サウルの遺体が曝されたという古い城壁は、遺跡の後方に聳える小高い丘【テル・ベト・シェアン】に埋もれて、発掘調査でも未だ発見されていない。
 *テル−−古代各時代の遺跡・遺構が幾層にも重なってできた丘。ベト・シェアンでは約20層  もの遺構が重なっているという

 今のベト・シェアンには、ローマの典型的な円形劇場(収容人員約8000人)、劇場からテルに向けて伸びる柱列道路、紀元734年の地震で倒れたという神殿の円柱、ローマ時代の蒸し風呂の蒸気をとおす床下構造といった遺構が広がっているだけで、それらの遺跡の先にテル・ベト・シェアンが聳えている(登頂可能)

ベト・シェアン遺跡
ベト・シェアン遺跡と
背後に聳えるテル・ベト・シェアン
ベト・シェアン遺跡・柱列道路
テル・ベト・シェアンに向かう柱列道路

◎ダビデ登場
 そのサウルに仕えたのがダビデだが、ダビデの登場には二つの伝承がある。
 一つは、ユダに山地で羊を飼っていたダビデが、悪霊に悩まされているサウルを竪琴を奏でて癒すために、陣中に召し出されたという話で(サムエル記上16--14)
 もう一つは、ペリシデ軍との戦いにおける功績の故にサウルに召し抱えられたという話(同上17--31)。ここにいう後者にいう功績が、エラの谷での戦いで、ペリシテ軍の勇者・ゴリアトを一騎打ちで倒したという挿話である。

 その後、数々の軍功と人望を妬むサウルに疎外され、命を狙われたダビデは、サウルのもとを逃げだし、やがて宿敵ペリシテ人の傭兵となって封土を与えられるまでになる。そしてサウルの死後、まずユダの人々によって王として擁立され、続いてサウルの息子イシュ・ポシェト謀殺後、イスラエルの長老たちの要請を受けてイスラエルの王をも兼ね、いわゆるイスラエル連合(統一)王国を樹立していく。

 連合王国を樹立し、宿敵ペリシテ人を討ってペリシテの地(今のガザ地方)に閉じこめたダビデは、官僚組織を整えた中央集権体制を確立し、軍事力を増強して周辺民族の征服に乗り出し、それらを属国あるいは直轄領としていく。

 こうしてイスラエルは、わずか十数年の間に、ペリシテ人の侵入で滅亡に瀕した部族集団から、サウル王の戦う民族国家を経て、ダビデによる、パレスチナ全域を統一した領土国家へと発展し、異民族をも支配するオリエント的な小帝国にまで躍進している。

 ダビデ時代は、イスラエルにとっては勝利と栄光の時代である。イスラエル人の記憶に深く刻み込まれたその栄光は、ヤハウェはダビデと契約を結び、ダビデに与えられた神の恩寵はとこしえに変わることがない、という信仰を生み、苦難の時代を迎える度ごとに、イスラエル人を苦難から救い、勝利と栄光をもたらしてくれる第二のダビデ出現への期待、あるいはダビデ家からの救い主・メシア出現という願望へと連なっていった。
 *ダビデ契約−−(主は預言者ナタンを通じてこう告げられた) 『主があなた(ダビデ)のために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出た子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする』(サムエル記下7--12)
 *詩編−−『私(神)が選んだ者と私は契約を結び、私の僕ダビデに誓った。あなたの子孫 をとこしえに立て、あなたの玉座を代々に備える』(詩89--4)
        『主はダビデに誓われた。それは真、思い返されることはない。あなたのもうけた子等のなかから、玉座を継ぐ者を定める』(詩132--11)

※神殿の丘
 エルサレムの中心は“世界のヘソ”ともいわれる旧市街地だが、その東の一角の金色に輝く“岩のドーム”を中心として広がる【神殿の丘】は、エルサレムの象徴というべき景観を呈している。
 ここが神殿の丘と呼ばれるのは、イスラエル王国繁栄の頂点を極めたソロモン王が、前10世紀中頃、ここに恒久的な神殿を築き契約の櫃を奉安したことからの呼び名だが、ここもまた数奇な運命をたどってきた。

◎イサクの供犠
 神殿の丘は、旧約・創世記では“モリヤの丘”という呼び名で登場する。
 アブラハムがベエル・シェバに滞在していたとき、
 『神は、アブラハムを試された。神は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山に登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられた。アブラハムはイサクを連れて出発し、3日目に到着した。
 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物をとり、息子を屠ろうとした。・・・
 そのとき、天から主が、
 「アブラハムよ、その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、わかったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私に捧げることを惜しまなかった」
と言った。アブラムは、かたわらの木の茂みで見つけた雄羊を捕らえて、息子の代わりに焼き尽くす献げ物として捧げた』
とある(創世記22--1)

 このモリヤの丘がエルサレムの神殿の丘だという確証はないが、歴代志下に
 『ソロモンはエルサレムのモリヤの山で、主の神殿の建築をはじめた。そこは、主が父ダビデにご自身を現され、ダビデがあらかじめ準備していた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場であった』(3--1)
とあることからみると、神殿の丘であるのは確かであろう。

 この物語は、神がアブラハムの信仰の深さ・確かさを試したものと解されている。古代のセム系民族には“長子は神に属する”という信仰があった。“燔祭”といわれる儀式で、動物を殺して裂き、内蔵を洗って血を流し去り、その犠牲獣を丸ごと祭壇の上で焼き尽くして、その香りを神に愛でてもらう祭祀儀礼である。

 旧約・出エジプト記には、端的に
 『あなたの初子を私に捧げなければならない』(22--28)
とあるが、これは前12〜11世紀に遡るという。なお、ここでの初子とは“長男”を指している。これが、時代がくだると、
 『初めに胎を開くもの(初子)はすべて、主に捧げなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。ただし、ロバの初子の場合はすべて、子羊をもって贖わねばならない(代替供犠)。・・・あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて(代替え供物をもって)贖わねばならない』(出エジプト記13--12)
とあるように、初子供犠を動物供犠で代替えさせる方向が現れ、
 さらに
 『主は喜ばれるだろうか、幾千の雄牛、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実を捧げるべきか。・・・主がお前に求めておられるのは、正義をおこない、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩くことである』(ミカ書6--7)
と初子供犠そのものを否定し、神が求められるのは、祭儀における捧げ物よりも、真摯な信仰と倫理的な実践だという思想が生まれてくる。

 人間の初子を神に捧げることが、どれだけおこなわれたかは疑問だが、エルサレム神殿における動物供犠祭祀は、ユダヤ戦争による神殿崩壊(AD70)まで続けられていったことは事実であり、ユダヤ教のみならずイスラムにあっても、祭祀の場での動物(子羊・小牛)供犠として続いてきた習俗である。
 *旧約にいう初子供犠とは、エジプト脱出のとき『ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえ私は、始めて胎を開く雄をすべて主に捧げ、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである』(出エジプト記13--15)という一節に発するという。

 キリスト教では、このイサク供犠の伝承は、神の独り子イエスが十字架に架かって犠牲となったことの予言、と解されている。

◎ダビデの祭壇
 モリヤの地でのイサク供犠はひとつの伝承だが、神殿の丘が“神の祭壇”として青史に姿を現すのは、これまたダビデの時代である。

 旧約・サムエル記下によれば、大略
 『ダビデがその晩年、イスラエル全土の人口調査をおこなったことで、ヤハウェの怒りを招き、全土に疫病がもたらされる。そのとき預言者ガドが神のお告げを受けて、ダビデに
 「エブス人アラウナの“麦打ち場”に上がり、そこに主のための祭壇を築け」
と告げた。ダビデはガドの言葉に従い(ダビデの町から北へ)上っていって、無償で差し出すという持主・アラウナから、彼の麦打ち場と焼き尽くす献げ物である牛を買い取り、祭壇を築き、献げ物を捧げた。主は、この国祈りに応えてイスラエルに降った疫病は止んだ』(24--18)
と語られ、この麦打ち場が今の神殿の丘とされている。
 麦打ち場とは、今でいう脱穀場であろう。苅り入れた麦の束を何かに叩きつけて穂を落とす脱穀行為が麦打ちである。そして、その叩きつけるものが、いまの神殿の丘の中心・岩のドームに覆われた“巨大な岩”(聖岩)である、と信じられている。

 巨大な岩塊を神の祭壇とする。それは、わが国をはじめとする多神教世界で、巨石を神の依代、降臨の場とする磐座信仰にも通じる。唯一神ヤハウェが巨石の上に祭壇を築くことを命じたということは、巨石崇拝が、多神教・一神教をとわず共通する古代信仰のひとつであったことを示唆している。

※ソロモンの神殿(第一神殿)
 ダビデが用意したこの祭壇(かつての麦打ち場)を中心として、壮麗な【神殿】を建設したのがダビデの子ソロモン王(BC965〜926コロ)である(BC955頃)。これを、バビロン捕囚からの帰還後に再建された神殿と区別して、“ソロモンの神殿”あるいは“第一神殿”と呼ぶ。

 ダビデの後を継いだソロモンは、領土拡張をほとんどおこなわず、王国の経済的発展に専念したという。彼は、エジプトをはじめとするオリエント諸国との平和的外交関係、特に政略結婚(第一夫人はエジプトの王女)を通じて友好関係の緊密化を図るとともに、西アジアとエジプトを結ぶ陸橋地帯という地理的条件を活かした通商交易を活発化して、イスラエルひいてはエルサレムに経済的繁栄をもたらしている。
 ソロモンは、エルサレムの繁栄のなかで流入する莫大な富を利用して、イスラエル各地で活発な建築活動をおこなっているが、その最大のものが、エルサレム市街地の拡張と神殿の建設である。

 彼は、ダビデの町を大きく北側に拡張し、その北東の丘(いまの「神殿の丘」、「シオンの丘」ともいう)に壮麗な神殿を建設し、その中に、かつてダビデが天幕の中に奉安していた「契約の櫃」を安置した。この神殿建設は、エルサレムの“聖地”としての地位の確立であり、ヤハウェ宗教が、特定の神殿における祭儀中心のものに変質していく端緒といわれ、これ以降、イスラエル人の宗教生活において、エルサレム神殿への巡礼とそこでの祭儀への参加が義務づけられることとなった(男性のみの義務)
 神殿は、長さ約30m、幅約10m、高さ約15m、海路レバノンから取り寄せた貴重なレバノン杉をふんだんに使い、契約の櫃を置いた至聖所(本殿)は金で覆われていたという。

 このようにソロモンの王国は空前の繁栄を謳歌するが、それは同時に、偶像崇拝を含む異なる宗教や習慣の流入という邪教的要素も伴っていた。特に、ソロモンが娶った数多くの異国女性が持ちこんだ異教(ヤハウェ信仰からみれば邪教)の神殿が建てられ、異教の神々が崇拝され、その神々がヤハウェと習合した。それはヤハウェ信仰そのものの変質・頽廃をもたらすこととなり、心ある人々の眉をひそませ、ヤハウェ信仰の厳守を求める預言者が声を大きくする契機ともなった。
 加えて、本来はヤハウェ信仰とは関係のなかったエルサレム(ダビデ以前のエルサレムは異教の町であった)が宗教の中心的地位を独占することは、地方の民衆、特に北の部族にとって自分等がもつ古くからの聖地の衰退へと連なり、国王らの豪華な生活を支えるための負担の増大とも重なって、地方における不平不満が鬱積していくこととなった。
 それらの不平不満が、ソロモン没後の王国分裂の一因ともなり、ダビデが統一しソロモンが繁栄をもたらした連合王国は、ソロモンの死とともに、北の10部族による“イスラエル王国”と、南のユダ部族を主体とする“ユダ王国”へと分裂していった(BC926、歴下10--1)

※失われた10部族
 分裂したイスラエル王国のうち北のイスラエル王国が、パレスチナの地から消えたのは前721年である。アッシリアの王位継承の混乱に乗じて独立を企てた北王国に対して、新王シャルナマサル五世(BC727〜722)は、直ちにイスラエルに侵攻して首都サマリアを陥落させ(BC721)、続くサルゴン二世(BC722〜705)は全土を完全制圧し、
 「私はサマリアを包囲し陥落させた。・・・そこに住む27,090人を捕囚とした」
とその年代記に誇り、旧約(列王記下17--1)はこう記している。
 『アッシリアの王シャルナマサルが攻め上ってきたとき、イスラエルの王・ホシェア(BC732〜724)はアッシリアの王に服従して貢ぎ物を納めた。しかしアッシリアの王は、ホシェアが謀反を企ててエジプトの王に使節を派遣し、アッシリアの王に年ごとの貢ぎ物を納めなくなったのを知るに至り、彼を捕らえて牢につないだ。アッシリアの王はサマリアに攻め上ってきて、3年間これを包囲し、ホシェアの治世第9年にサマリアを占領した。彼はイスラエル人を捕らえてアッシリアに連れて行き、各地の町々に住まわせた』
 この時、パレスチナの地から強制連行された北イスラエルの民は、アッシリアの各地で異邦人の渦に飲み込まれ、二度と歴史に現れることなく消滅していった。いわゆる“失われた10部族”である。
 
 一方、イスラエル人が連れ去られた跡には
 『アッシリアの王はバビロン、クト・・・の人々を連れてきて、イスラエルの人々に代えてサマリアの住民とし、この人々がサマリアを占拠した。・・・彼らはそれぞれ自分たちの神像を造り、サマリア人の築いた聖なる高台の家(祭場)に安置した』(列王記下17--24)
という。
 この時北イスラエルの地に移住してきた異邦人、および彼らと混血した残留イスラエル人(下層農民ら)の子孫が、新約のなかで反感と侮蔑をもって描かれている“サマリア人”である。

 今から見れば、この北イスラエル滅亡は、当時の国際情勢の中で起こった地政学的な出来事であるが、旧約では、イスラエルの民の不実に対する神の怒りとして、
 『こうなったのは、イスラエルの人々が彼らの神、主に対して罪を犯し、他の神々を畏れ敬い、主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の風習に従って歩んだからで
ある』(列王記下17--7)
と記している。

※ユダ王国の滅亡とバビロン補囚
 南のユダ王国は、北王国滅亡を横目に、アッシリアの圧政を受けながらも約100年間にわたって王国を存続させていったが、アッシリアの滅亡後の新バビロニア建国(BC609)の後、2度にわたって反乱を起こし、王国の滅亡と支配階層の強制移住すなわちバビロン補囚を招くことになった。
 ・BC601〜598−−エジプトと提携して反乱→第一次バビロン補囚
 ・BC588〜587−−反乱→ユダ王国滅亡→第二次バビロン補囚
 ・BC582    −−第三次バビロン補囚

 『バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、私たちは泣いた。・・・』
にはじまる詩編137は、“エルサレムから遠く離れた異国の地に移された捕囚の民に、バビロンの人々が、自分等の楽しみのために「お前たちの国の歌をうたえ」と迫ってくる。しかし、聖なる神殿で奏でられるべき歌を、何で、異教の地で奏でられようか”と、遠くエルサレムを想う捕囚の民の悲しみを表した哀歌で、捕囚初期のものという。

 旧約によれは、この時バビロンに強制移住させられたユダの人々は、王をはじめとする政治的・行政的・宗教的指導者層の人々で総数約4,600人だったというが、家族らを加えると数万人になったであろう。
 彼らがバビロンの地でどのように処遇されたかは不明である。ただ、アッシリアによる強制的な分散移住とは違って、新バビロニアは、旧ユダ王国の民を比較的まとまった形でバビロン近郊に住まわせ、且つ、旧ユダ王国領に異民族を強制植民させなかったことから、細々ながら民族の一体性を保持することができた、という違いがあった。

 この移住政策の違いが、その後の南北両王国の人々の運命を大きく変えた。その結果、イスラエル十二部族のうち王国滅亡を越えて生き残ったのは、ユダ部族を中心とする旧ユダ王国の人々だけとなり、ペルシャ帝国による捕囚からの帰還(BC538)後、彼らは『ユダヤ人』と呼ばれるようになった。

◎第二神殿
 新バビロニア王国を崩壊させ、全オリエントの覇権を確立したペルシャ帝国(BC559〜330)の初代・キュロス王(BC559〜530)は、バビロン入場後、戦利品として集められていた諸国の神像あるいは宝物などを返還し宗教の自由を認めたが、この時、捕囚の民のイスラエル帰還が許され、数次にわかれて帰還していった(BC537〜)
 そのとき帰還した捕囚の民は
 『会衆の総数は、42,360人であった。ほかに男女の使用人7,337人、男女の詠唱者が200人いた』(エズラ書2--64)
とあるが、すべての捕囚ユダヤ人が帰還したわけではなく、自分の意志によってバビロンに留まった人々も多かった(全捕囚民の3/4ほどは残留したともいう)。この残留ユダヤ人がいわゆる“離散の民”のはじまりだという。

 エルサレムに帰った彼らがまず目指したのが、神殿の再建である。とはいえ再建事業はエルサレムに残留していたユダヤ人との確執、周辺諸国の妨害などにより困難を極め一時的な中断もあったが、ペルシャ・ダレイオス一世(BC522〜486)の勅令と財政的援助をうけて前515年に完成している。
 ネブカドネサル二世による破壊(BC586)から数えて71年目であり、神殿の再建は、神の怒りの終結と新しい恵みの象徴として受け取られたという。
 これ以降、ユダヤは政治的にはペルシャの支配を受けながらも、神殿と大祭司を中心に民族的同一性を保ち続ける宗教共同体として存続していった。

 この時再建された第二神殿の詳細は不明だが、第一神殿と第二神殿の決定的な違いは、前者には契約の櫃が安置されていたのに対して、後者には安置すべき契約の櫃を持たず、空っぽだったということである。契約の櫃は、ネブカドネサルによるエルサレム破壊の時、神殿炎上とともに焼失したという。

U、エルサレム−その2(新約時代)
 紀元前1世紀頃のパレスチナはハスモン王朝(BC142--BC63、ユダヤ人による独立王国)の統治下にあったが、これに終止符を打ったのはローマ第1回三頭政治家(カエサル・ポンペイウス・クラッスス)のひとりポンペイウスである。
 ハスモン王家の内紛に端を発したパレスチナの内乱に乗じた彼は、前63年、3ヶ月の包囲の末にエルサレムを陥落させ、これによってユダヤはローマの属州シリアに編入されていく(BC63)
 前1世紀後半のローマは、ポンペイウス・カエサル・カシウス・アントニウス・オクタビアヌス(初代ローマ皇帝アウグストゥス)といった有力者の権力抗争の場でもあったが、その間、その時々の権力者に取り入り、ユダヤにおける実質的支配権を握りつづけたのがイドマヤ人・アンティパトロスとその次男ヘロデ(後のヘロデ大王)である。

※ヘロデ大王
 紀元前40年、ローマ元老院から「ユダヤの王」としての地位を承認されたヘロデは、反対派を粛清してエルサレムに入り、その後34年間にわたってユダヤの王として全土を統治した(BC37〜BC4)

 新約におけるヘロデは、イエス誕生に際して
『ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた』(マタイ2--16)というように、残虐な王として描かれているが、史書の類にも、強烈な猜疑心から多くの政治的対立者・反対派あるいは意に染まないユダヤ人を虐殺するとともに、最後には自分の妻やその母あるいは自分の息子を二人までも殺した、悪逆非道な圧政者として記されている。

 しかしその反面、都市建設・都市改造といった面に異常な情熱を注ぎ、多くの新都市を建設し、都市施設の整備を行っている。

◎ヘロデの神殿
 ヘロデが建造した建築物のなかで特筆すべきものが、エルサレム神殿の大規模な改築、いわゆる【ヘロデの神殿】の建造である。
 ヘロデは、まず西側の谷を埋めることで神域を約2倍に拡張し(南北約470m、東西約300m、面積約14ha)、周りを石垣で囲み土を盛り上げ、その中に神殿を建設している。
 ヘロデの神殿は、彼の治世15年(BC23)に着手され、神殿は僅か18ヶ月という短期間に建造されたといわれるが、回廊などの整備を含めて約10年、全体の完成は紀元64年という。

 しかし、その栄光は長く続かず、第一次ユダヤ戦争(AD66〜70)に勝利したローマは、駐留軍の兵舎として利用するアントニア要塞を除き、神殿・神域を徹底的に破壊している。ヘロデが贅を尽くして建造し、ユダヤ人たちにとって最も神聖な祭祀の場であった神殿は、完成後短期間のうちにあっけない終焉を迎え、その後、ここにユダヤ教の神殿が再建されることはなかった。

 今、“神殿の丘”と呼ばれる神域は、この時ヘロデが拡張した区画をほぼ踏襲したもので、“嘆きの壁”は今に残る城壁の一部である(別項「嘆きの壁」参照)
エルサレム/ヘロデ神殿・想定復元図
ヘロデ神殿
(想定復元図)

※イエス以降
 イエス刑死後のエルサレムは依然としてローマの統治下にあった。総督ピラトにとって、イエスの十字架刑死などは気にかける必要もない些細な出来事で、ましてやイエスの復活など一部狂信者の戯言に過ぎなかった。

 しかしイエスのキリストとしての復活を信じる弟子たちは、ペトロを中心として、イエスの復活という奇蹟を旗印にユダヤ人の間に徐々に浸透していった。しかしそれは、あくまでもユダヤ教という枠内での動きであり、初期キリスト教というより“ユダヤ教ナザレ派(イエス派)”というべきものであり、当時のユダヤ社会の片隅に生まれたささやかな動きにすぎなかったであろう。

 当時のユダヤ教はサドカイ・ファリサイ両派が主流であったが、その中で勢力を拡げてきたのが、“熱心党”と呼ばれる一派である。熱心党とは、神への熱心、具体的には律法、それも十戒第一項の「私の他に神はいない」を忠実に命をかけて守り抜こうとした人たちを指す。
 彼らは、異教徒ローマよる支配を徹底的に排除し、ユダヤ本来の神の支配に復帰することを主張し、そのためには暴力行為も辞さない強硬派(今でいう原理主義者に近いか)だったともいう。

◎第一次ユダヤ戦争
 ユダヤ人のローマに対する反乱は西暦66年に起こっている。これを【第一次ユダヤ戦争】(AD66〜70)と呼ぶ。

 歴代ローマ総督による物心両面からの圧政(歴代総督の無能と私利追求によるともいう)に対するユダヤ人の反発が鬱積するなか、時のローマ総督フルロス(在位64〜66)が神殿宝庫から金17タラントを強奪した(貢納延滞が理由、という)ことを直接のきっかけとして爆発した反乱で、ローマの守備兵は一掃され、神殿における皇帝への日々の祈願と生贄を停止された(ローマへの実質的な宣戦布告)

 反乱の火の手はたちまちのうちに全国に広がり、鎮圧に出動したシリア総督軍も大損害をこうむって退却し、反乱軍はイスラエルのほぼ全土を掌握した。
 驚いたローマは、有能な将軍ウェスパシアヌスに大軍を与え総司令官として派遣した。彼は、まず北方のガリラヤから兵を進め、各地の反乱根拠地を撃破しながらエルサレムへと進んでいったが、ローマにおける皇帝ネロの自殺(AD68)と後継皇帝選出の混乱(1年間に3人の皇帝が選出され殺されていった)により一旦中止された。
 ローマの混乱をパレスチナの地で見守っていたウェスパシアスは、69年、東方諸軍団の推挙をうけて皇帝の位に就くため、息子ティトスに後を托してローマへ去る(第9代皇帝・AD69〜79)
 後を任されたティトス(第10代皇帝AD79〜81)は70年春、総勢8万の大軍でエルサレムを包囲し、5ヶ月に及ぶ激闘の末これを制圧、ユダヤ教の聖都エルサレムは神殿もろとも火焔の中に滅亡していった。

 これによってユダヤ教は、その中心となっていた神殿の崩壊とともに、その宗教社会の全体系が瓦解し、神殿を基盤とするサドカイ派、戦いを主導した熱心党、それに同調したエッセネ派といったほとんどの宗派が消滅していった。
 そのなかで、熱心党の一団が立てこもり3年間にわたりローマ軍と対峙し、集団自決した地が要塞・マサダである(別項「マサダ要塞」参照)
 しかし、これによってユダヤ教そのものがなくなったかというと、そうではなく、エルサレム陥落直前に脱出したファリサイ派の一部穏健派によって、シナゴーク(会堂)を中心とした宗教へと変貌していくこととなる。以後シナゴークは、神殿なきユダヤ教の中心として現代にまで続いている。

◎第二次ユダヤ戦争(バル・コホバ戦争)
 ユダヤ戦争を勝利し、エルサレムを徹底的に破壊したローマは、ユダヤは2度と反乱を起こさないと考えていた。ローマ支配下にある諸国もまたそう思っていた。ところがユダヤは、性懲りもなく2度目の反乱を起こした。
 ローマも驚いたが、周りの諸国も驚いた。俗に“バル・コホバ戦争”と呼ばれる【第二次ユダヤ戦争】(AD132〜135)である。

 メシアとして油を注がれたバル・コホバに主導された反乱で、蜂起直後はローマ軍を圧倒し、一時的にはエルサレムをも奪還するものの、体勢を立て直したローマ軍により徹底的に撃破され、バル・コホバ以下の主導者は処刑され、ユダヤによる対ローマへの反抗は終焉していく。

 2度にわたるユダヤ戦争後のエルサレムは、徹底的に破壊され、多くの人々が殺され、追放され、奴隷として各地へ売られていった。ユダヤという痕跡を徹底的に消し尽くされたエルサレムは、皇帝ハドリアヌス(AD117〜138)によって、その名をアエリア・カピトリーナと改名され、ローマの神々の像、神としての皇帝像などを祀るユダヤから見て異教の神殿が建立されていった。

 今からみると、2度にわたるユダヤ戦争は、ローマという怪物の周りを、蟷螂の斧を振りかざしてウロチョロしているユダヤ、という戯画としかみえないが、当時のユダヤ人がローマからうける圧迫は、単なる物質的なものというより、自分等の神を否定し抹殺しようとする暴挙であったといえる。
 単なる物質的なものだったら、ここまで徹底した反抗は企てなかったかもしれない。そこが唯一神信仰の強さであり怖さである。
 彼らにとっての1・2世紀とは、旧約・ダニエル書などにいう終末前夜そのものであり、彼らの対ローマ戦争は、神と悪魔との戦いに擬せられてのそれであって、最後には神の救済的介入があるという希望に支えられての戦いであったという。しかし結果的には恐るべき絶望がやってきたわけで、旧約偽典エズラ書には、こうある。
 『何故といって、私は見たのです。どんなにあなたが彼ら罪人を支持し、不埒にふるまう輩を大切になさるかを。あなたの民(ユダヤ)を滅ぼして、あなたの敵(ローマ)を守られたかを』


V、イスラム登場
 『ああなんと勿体なくも有り難いことか、アッラーはその僕(ムハンマド)を連れて夜空を逝き、聖なる礼拝堂から、かの、我ら(アッラー)にあたりを浄められた遠隔の礼拝堂まで旅して、我らの神兆を目のあたり拝ませようとし給うた。まことに耳早く、全てを見透し給う御神』(コーラン、井筒俊彦訳)
 コーラン17章(夜の旅)冒頭の一節である。“聖なる礼拝堂”とはイスラムの聖地メッカの神殿(カアバ神殿)を、“遠隔の礼拝堂”とはエルサレムの神殿を指すという。ムハンマドが一夜、天使ガブリエルに導かれ、天馬に乗ってメッカからエルサレムに飛来し、神殿の丘にある巨岩から光の梯子(ミーラージュ)を登って天国に行き、アダム・ヨハネ・イエス・ヨセフ・アブラハムに会い、最後に神の前にひれ伏して再び地上に帰った、という伝承である。

 イスラムでは、アラビア半島西部(紅海東岸)のメッカが最高の聖地で、メディナがそれに次ぐものだが、エルサレムもまた第三の「聖都」とみなしている。
 その根拠が上記コーランの一節だが、ムハンマドがメッカを追われて一時メディナに避難していたころ、エルサレムの方角に向かって祈りを捧げていたということも、同じアブラハムの神を戴く宗教ということで、当初から、エルサレムを聖地として特別視していたことを示している。
 またハディース(ムハンマドの言行録、8世紀初頭集録)にも、「エルサレムに巡礼し、そこで礼拝した者は、すべての罪が許されるであろう」とか「聖地エルサレムで死ぬことは、天国で死ぬことと同じである」といったエルサレム賛歌があるという。

 エルサレムの歴史にイスラムが登場するのは紀元638年である。ムハンマドの死後(632)も破竹の勢いで教勢を拡大してきたイスラム勢力は、638年にエルサレムを包囲し、その無条件降伏を受けて無血入城している(第2代正統カリフ、オマル一世634〜644)
 通常、新たな征服者の入城には破壊と略奪が付きものだが、オマル一世はエルサレム入城に当たって、ムスリム(イスラム教徒)による破壊・略奪および教会堂等聖所の接収など、一切の不法行為を禁止したという。

※岩のドーム
 ダビデが祭壇を設け、ソロモンの第一神殿、捕囚後の第二神殿、そしてヘロデの神殿が建っていたユダヤ教最高の聖地『神殿の丘』は、今、イスラム一色に塗りつぶされ(イスラム名:ハラム・アッシヤリフ)、その中心が黄金に輝く【岩のドーム】(オマル・モスク)である。

 イスラムがエルサレムを占拠したとき、神殿の丘は廃墟同然のありさまでゴミ捨て場になっていたという。オマル一世は神殿の丘を清掃させ、かつてムハンマドが天へ登ったといわれる“聖なる岩”(イスラム名:エッサフラ)の上に木造の礼拝堂を建てている(638)。7世紀の巡礼記録(670)は「ムスリムが建てた荒削りの四角形の祈りの家は、廃墟の上に厚板と大きな梁を立てて造った粗末なもので、一度に3000人を収容できる」と記しているが、これがオマル・モスク、俗称“岩のドーム”の原型である。
 
 今みられる岩のドームはオマルが建てたそれではなく、ウマイヤ朝第5代カリフ、アブドゥル・マリク(685〜705)によって建てられたもので(691造)、礼拝のためのモスクというより、聖なる岩を保護するために建てられた記念建築物という性格が強い。堂内は聖岩の周りを回廊が巡り、通常のモスクにある礼拝するムスリムが居並ぶ広間は備えていない。

 神殿の丘の中央やや西寄り、東西約120m南北約150mのやや不規則な長方形基壇の上に建つ“岩のドーム”は、下部が一辺21mの八角形堂宇で高さ9.5m、その上に直径20.4m高さ20.5mのドームが載っている。
 今みられる黄金色のドームは、それまでの金メッキを金箔貼りに改修されたものである(1994、金使用量80s)。黄金に輝く大ドーム、細密な装飾模様で飾られたブルータイルというコントラストは、それなりに見事なものである。

エルサレム/岩のドーム エルサレム/岩のドーム

 今度の旅ではドームの内部に入らなかったが、資料によれば、ドームの中心である“聖岩”は長さ17.7m、幅15.5mの石灰岩で、地表から最大3mほど露出し、あちこちに粒状の孔があいているそうだが、その昔、神に捧げる犠牲の血(または葡萄酒)を注ぎ入れた穴だという。
 イスラムの伝承では、岩の表面に、ムハンマドが天使ガブリエルに導かれて昇天したとき、彼が残した足跡があるという。

 岩の南端に、地下の洞穴に降りる石段があり「魂の井戸(死者の井戸とも)」と呼ばれている。イスラムの伝承によれば、死者の魂が集まって祈りを捧げながら、審判の日を待つという。わが国でいえば、神のご神体あるいは神の依代を祀っている聖なる洞穴といったところか。調査では、青銅器時代(BC28000〜2200)の墓だろうという。
 その後の岩のドームは、2度の地震(1016・1067−この時聖岩も裂けた)その他で何度も補修されているが(最終補修1994年)、基本的には当初の姿を留めているという。

◎アル・アクサー・モスク
 神殿の丘で、岩のモスクと対になっているのが西南隅に建つ【アル(エル)・アクサー・モスク】(至遠のモスク)である。
 建造時期には2説、岩のドームと同じアブドゥル・マリク建造説(693年)、その子アル・ワリド(第6代カリフ、705〜715)建造説(705年)があるが、前者が着手し後者によって完成されたというのが実態であろう。その後も、何度かの地震あるいは火災などで破壊されたが、その都度歴代カリフたちによって修復・再建され、建造当初のものはほとんど残っていない。

 モスクは過去何回も修復改造されているが、付属建物を除いて南北80m、東西55mのバジリカ様式(ローマの古代建築をルーツとする長方形建物)を基本とし、その西に細長い側廊部がL型に続いている。岩のドームに比べて、質実剛健といった佇まいである。
エルサレム/アル・アクサー・モスク

※十字軍のエルサレム
 十字軍とは、イスラム勢力に支配されている聖地エルサレムの奪還を目指しておこなわれた一連の遠征をいう。1095年、イスラム勢力の攻勢に曝されていたビザンツ皇帝からの救援要請を機に、聖地回復という錦の御旗を掲げた時のローマ教皇ウルバヌス二世の呼びかけておこなわれた第1回十字軍(1096〜99)から、約2世紀弱にわたっておこなわれ、教会主導のものだけで7回を数える(最終1270〜72)

 そのうち聖地奪還という当初の目的を達成し、エルサレムをある程度の期間統治したのは第1回のそれのみで、第6回のそれが、イスラム側との協定で一時的にエルサレムに入ったのを除けば、他の5回はことごとく失敗している。

 1099年6月からの40日間にわたる攻防の末、エルサレムに入城した十字軍は、イスラム教徒やユダヤ人を手当たり次第に虐殺したという。その様をキリスト教の司教ウイリアムは
 「これほど多くの殺された死体をみるのは、恐怖以外の何ものでもなかった。そこら中にバラバラになった死体が転がっていて、地面はすべて血で覆われていた。・・・」
と記している。イスラムのエルサレム入城時に比べて雲泥の違いである。

 エルサレム奪還後の十字軍は、エルサレム王国(ラテン王国とも)を樹立(併せて、パレスチナからレバノンにかけての地中海沿いに幾つかの王国を建てている)、88年間にわたって聖地エルサレムを統治するなか、聖墳墓教会の大改修、新しい教会や修道院の建設などを行っている。
 このイスラエル奪還・王国樹立というのは、11世紀末のイスラム勢力の分裂・内紛といった弱体化のなかでおこなわれた快挙(キリスト教側からの見方)であって、イスラムがアイユーブ朝(1169〜1260)のもとで再統一されるとともに、エルサレムのまたイスラム側に奪回されている。その立役者が、“アラブの英雄”と呼ばれるサラディーン(1169〜1193)である。

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