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拾 遺(短編)
                       イスラエルの旅から                                                         

 イスラエルの旅から、まとまったものではないが、各処で見聞した幾つかについて記す。

※エマオ修道院--復活ということ
 イエスは、死んで3日後に復活したという。
 安息日が終わった翌朝(日曜日の朝)、マグダラのマリア他数人の婦人たちが墓に行くと、イエスの遺体はなく、天使から「イエスは復活した」と告げられた。
 復活したイエスは、まずマグダラのマリアの前に現れ、次いでペトロの前に現れ、更に11人の弟子たちの前に現れた、となっているが、福音書によって多少の差異がある。

 ルカ伝によれば、マリアに顕れた後、エマオのという村で二人の弟子たちの前に現れたとあり、そこには
 『安息日の翌日、二人の弟子が話ながらエマオ村に向かって歩いていたら、イエスが近づいてきて「何を話しているか」と尋ねた。弟子の一人が、イエスとは気づかないまま、「エルサレムで、3日前にナザレのイエスという人が十字架にかけられなくなったが、今朝、婦人たちが墓に行くと遺体がなくなっていて、天使から“イエスは生きておられる”と告げられたという話です」と答えた。
 その晩、一緒に泊まった宿での食事のとき、イエスがパンをとり、賛美の祈りとともにパンを割いて二人に与えたので、二人は、この人はイエスだと気づいたが、その時、イエスの姿は見えなくなっていた』(24-13)
とある。

 マルコ伝では、同じことを『イエスがエマオで二人の弟子たちに現れた』と簡単に記すが、マタイ伝にはない。
 最初に成立したマルコ伝と最後のルカ伝にあって、その間のマタイ伝にないことは、この話はルカ伝独自の創作かもしれず(すべての話がルカ伝では多弁になっており、作為が強い)、マルコ伝の簡単な記述は後世の挿入ともいう。

◎エマオ修道院
 エマオは、エルサレムかの西約30kmにある町ラトゥルンとされ、 エルサレムからテルアビブへの街道筋に位置する。

 ここにイエスが現れたというルカ伝を跡づけるものは何もなく、ただ、丘の中腹にトラピスト修道院が建っているのみである。

 ここの修道士たちは、必要最小限の言葉は発するものの、平素は無口で修行に励んでいるという

 針葉樹の林と美しい花壇に囲まれた、清楚な修道院であった。




修道院正面 

同・内陣 

 キリスト教は、十字架刑に処せられたイエスが“復活した”ことを原点として成立した宗教である。
 忌むべき十字架刑による死と(ローマでの十字架は極悪人の処刑に使われる刑具だったという)、その死からの復活がなければ、イエスはユダヤ教に多い予言者の一人に過ぎない。いや、イエスの存在そのものが残っていないだろう。

 カトリックで唱えられる使徒信条には、
 『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は精霊に宿り、処女マリアより生まれ、ポンティオ・ピトラのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、冥府に降り、三日後に死人のうちより蘇り、天に上り、全能の神の右に座したまえり・・・』
とある。
 ここでいっているのは、“イエスの十字架刑死と復活を信じること”が、キリスト者たる必要条件ということである。

 また、イエス刑死後20~30年後に書かれたという使徒パウロの書簡(コリント人への手紙)にも、
 『(複音とは)キリストが聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日後に復活したこと、ペテロに現れ、その後11人に現れたことです(15-3)。・・・キリストが復活しなかったなら、貴方方の信仰はむなしく、貴方方は今もなお罪のなかにあることになります(15-17)
とあり、ここでも十字架刑からの復活が複音の中核で、これがなければキリスト教は成立しないことで、これがキリスト教主流派の公式教義となっている。

 復活とは、換言すれば“蘇り・生まれ変わり”である。
 わが国でいう“蘇り”とは“黄泉返り”・“冥界からの帰還”を意味し、仏教説話集・民話などにも地獄巡りや蘇生譚として数多く残っている。
 また“生まれ変わり”といえば、生まれた赤ん坊を指して「お爺ちゃん(お婆ちゃんの)とそっくり」というように、新生児の誕生を、なくなった祖父母などの生まれ変わりと受けとるもので、蘇り・生まれ変わりいずれも、そうあって欲しいという願いの表れである。

 しかし、我々がいう蘇りとキリスト教がいう復活との感には、大きな違いがある。
 我々は、死者が蘇った生まれ変わったといっても、それはあくまで信仰上・観念上のことで現実のこととは思っていない。
 これに対して、イエス・キリストの復活は、現実にイエスの身に起こったこととして“それを信ぜよ”というところが違っている。
 ただ、復活したのが人間イエスではなくメシアとしてのキリストであれば、それは信仰上でのことであり、異教徒があれこれ詮索することではないが、キリスト教では、あくまでも人間イエスというところに違和感がある。
 異教徒である我々としては、信じる者は幸せであるというほかはない。

 ただ、イエスの時代であっても、ユダヤ教に一派ファリサイ派やエッセネ派では死者の復活は信じられたが、サドカイ派では信じられなかっといわれ、復活を信じる者は愚か者とする人々もあったというから(グノーシス派)、当時にあっても一般に受けいれられる普遍性はもたなかったのかもしれない。

※聖十字架伝承
 
聖墳墓教会の東翼部に“聖十字架発見の聖堂”という一画がある。
 キリスト教をローマ国教化したコンスタンティウス一世の母“聖太后ヘレナ”が、イエスが架けられたという十字架を発見した、という場所である。

 世界には“生命の木”しいう神話・伝承が数多く残っているが、中世のキリスト教社会でも、キリストの十字架と生命の木とを結びつけた物語がある。
 『死期が近いことを悟ったアダムは、息子のセトに命じて「エデンの園に行って、病を治す奇跡の油を貰ってくるように」と頼んだ。セトは東にある楽園に着き、天使ミカエルから油の代わりに生命の木から採れた3粒の種を貰い、「三日後に死ぬであろう父親の舌の裏にそれを入れるように」と命じられた。

 アダムが死んだ後、セトは、天使から命じられたように、3粒の種を舌の下に入れてヘブロンの谷に葬った。すると、その身体から3本の木が生えだし、互いに絡まりあって1本の木のようになった。

 数千年経って、ダビデ王が天使のお告げをうけてその木を見いだし、エルサレムに移し植えた。木は急速に生長し、それに触れると、病気の者も身体の不自由な者も癒やされた。
 ソロモンが神殿の柱にしようと切り倒したが、その幹は絶えず伸び縮みするために柱にも梁にも仕えなかった。

 ユダヤ人たちは木を冒涜しようと目論んで、その木を使ってシロアムに橋を架けた。誰もがそれを踏みつけにしていたが、シバの女王がソロモンを訪問したとき、聖なる予感を感じて、橋に足をかけることを拒んで浅瀬を渉った。

 イエス磔刑のとき、この木で十字架が造られゴルゴタの丘に立てられた。そこはまさしくアダムが埋葬された場所で、そこで流された救い主イエスの血は、最初の人間に洗礼を施し、原罪から彼を浄め、それによって人類全体の罪が贖われた。

 キリスト教がローマ帝国の国教として受けいれられたとき、皇帝コンスタンティヌスの母后ヘレナがエルサレムにやってきて、聖なる十字架を捜した。
 当時、ゴルゴタの丘にはハドリアヌス帝が建立した異教の建物があったが、ヘレナはその神殿を取り壊し、その地下から3本の十字架を発見したが、どれがイエスが架けられた十字架かはわからなかった。
 丁度そこへ死んだ婦人の葬列が通りかかったので、それを止めて、死者の上に十字架を1本ずつかざしてみた。3番目の十字架に触れると死者は生きかえった。
 これが聖十字架である。
 ヘレナは、この十字架の一片を息子のところへ持ち帰り、残りはすべて元の場所に残しておいたが、程なく、細かい木片となってキリスト教世界に散らばり、各地で聖遺物として崇拝されている』

 この伝承からいうと、キリスト教も、彼らからみて異教・邪教と排斥する古代の樹木信仰が引き継がれているとみることができる。人間の願いというか欲望というか、そういった素朴な祈りというものは、さしもの一神教でも根絶やしできない根深いものだとともいえる。

※港町・カイザリア
 港町カイザリアは、テルアビブかの北約40kmに位置する。
 ヘロデ大王が、紀元前3世紀にフェニキア人によって造られた小さな港を大規模に改造し、岩礁が多く大型船の入港に不便であったヤッフォーに代えて、ローマからの大型船が入港可能な国際港へと大改造した港町である(発掘によれば、町の前面に防波堤が突きでていたという-下想定復元図)
 因みに、カイザリアとは、ローマ皇帝アウグスト・カイザルに因んで名づけられた名で、ヘロデ大王のローマに対する迎合が含まれるという。

 今、カイザリアの海岸には、海のつきだした形でローマ統治時代の宮殿跡が発掘復元され、他にも海に向かって開く半円形の劇場跡(直系170m、高さ35m、収容人数約4000人)、海岸沿いに長々と伸びる競技場跡(延長460m、幅95m、山側に階段式観覧席が存存)、十字軍時代の要塞跡などが残っている。

 ここからは、ローマ皇帝アウグストゥスとユダヤ総督ピトラの名を刻んだ石碑残欠が出土し、総督ピトラの実在が証明されたという。

 また、古代遺跡からすこし離れた浜辺に延々と伸びるのが、ヘロデ大王が築いたといわれる水道橋で、北方約10kmのカルメル山から水を引いたといわれ、連続アーチで支えられた典型的なローマ式高架水道橋である。


カイザリア遺跡・全景 
 
同・円形劇場址
 
同・競技場址

宮殿址の円柱 
 
城門付近

石碑残欠(コピー)
 
かつての港近くだったと思われる都市遺構
 
ヘロデの水道橋 
 




想定復元図

※港町ヤッフォ--聖ペトロ教会
 地中海沿岸に位置する古代の港町ヤッフォは、ダビデ時代から栄えていたといわれ、ソロモン時代、神殿用のレバノン杉もここで陸揚げされたという。
 新約・使徒言行録にはヤッファという名で出ており、聖ペトロが滞在したという。

 この町でペトロは、病気で死んだ女弟子タビタを蘇生させるという奇跡をおこなったといわれ、使徒言行録には
 『(ペトロがタビタの家に着くと)皆を外に出してから跪いて祈り、遺体に向かって「タビタ起きなさい」というと、彼女は目を開き、ペトロをみて起き上がった。
 ペトロは彼女に手を貸して立たせ、生きかえったことを皆に見せた。このことはヤッフォー中に知れ渡り、多くの人が主を信じた』(9-36)とある。

 このタビタ蘇生の奇跡を記念するのが聖ペトロ教会で、海岸脇の広場の奥にあり、祭壇上には、蘇生してベットから身を起こすタビタと、それに手を貸すペトロが描かれている。
 

聖ペトロ教会
◎シモンの家
 ヤッフォー海岸近くの旧市街地、細い石畳の坂道が入り組んだ一画、狭い石段を降りたところに“皮なめし職人シモンの家”と呼ばれる小さな家がある。

 この家は、ヤッフォーでイエスの教えを説いて回っていた聖ペトロが暫く滞在した家といわれ、
 使徒言行録には 
 『使徒ペトロがシモンの家の屋上で祈っていると、3度にわたつて、天から袋に入った鳥獣が降りてきて、神が「これを屠って食べよ」という幻をみた。
 ペトロが「清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがない」というと、「神が浄めたものを、清くないといってはならない」と告げられた。


皮なめし職人・シモンの家

 この幻が何を意味するのかと思案しているところへ、カイザリアに駐屯するローマ軍の百人隊長コルネリウスからの使者がきて、「家に来て話を聞かせてください。聖なる天使からお告げがあったのです」といった。

 その翌日、ペトロは出かけていき、コルネリウスはじめ集まっている大勢の人たちにイエス・キリストの複音を説いた。そのとき、精霊が異邦人の上に降ったので、ペトロは神に是認されたとみて、割礼を要求することなく、イエス・キスとの名によって水で洗礼させ、入信させた。

 使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人が神の言葉を聞き入れたことを驚くとともに「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださった」といって、神を賛美した』
とある。

 キリスト教にとって、カイザリアとヤッフォは、それまでのユダヤ人のみを対象とした布教活動が、異邦人へと拡大されたという点で、大きな転回点となった町である。

 ユダヤ教の律法によれば、ユダヤ人が“割礼のない人たち”すなわち異邦人の処へ行って話をする、あるいは一緒に食事をとるということは許されないことであった。 
 そんななかで、ペトロによってイエスの教えが異邦人に向けて説かれたということは異例であり、また、それが異邦人にも受けいれられたということは、驚くべきことだったという。
 このペトロの業績について、「異邦人ですら、イエスの教えが受けいれられた」と賛美する人も、「異邦人と交わることはゆるされないことだ」として批判する人もいたという。

 ただ、異邦人相手の本格的布教となると、使徒パウロの回心をまたねばならなかった。
 ただ、この地は、ユダヤ人の間に騒動を巻き起こす人物としてローマ提督から告発された使徒パウロが、裁判のためローマへ向かって船出した港であり(使徒27-1)、それは使徒パウロの布教活動へと連なるもので、キリスト教がローマ世界へ広がっていく端緒を作った港でもあったという。


※ベト・シェアン
 ガリラヤ湖の南に拡がるエズレル平原の東部にある【ベト・シェアン】は、古くはペリシテ人の町だったという。
 
 古代ユダヤ初代の王・サウルが、町の西約10kmに位置するギルボア山におけるペリシデ人と闘いに敗れ、その死体がこの町の城壁に曝されたという。
 旧約・サムエル記上には、次のように記している。
 「ペリシデ軍はイスラエルと戦い、イスラエル兵はペリシデ軍の前から逃げ去り、傷ついた兵士たちはギルボア山上に倒れた。サウルに対する攻撃も激しくなり、射手たちはサウルを見つけ、サウルは彼らのために深手をうけた。
 サウルは従卒に「吾を刺し殺せ」と命じたが、従卒は怖れて刺せなかったので、サウルは剣をとり、自らその上に倒れ伏した。
 翌日、戦死者から武器を剥ぎ取ろうとやってきたペリシデ人はサウルの遺体を見つけ、彼の武器を神殿に納め、その遺体をベト・シェアンの城壁にさらした」

 今、当地に残るのは、ローマ時代からビザンチン時代にかけて繁栄した都市の遺跡であり、サウルが曝されたという城壁址は、遺跡の後方に聳える小高い丘・テル・ベト・シェアン(各時代の遺構が20層ほど重なっているという)の中に埋もれ、発掘調査でも未だ発見されていないという。

 平野部に拡がる遺跡には、典型的なローマ式円形劇場址(約8000人収容)、劇場跡からテルに向かって伸びる柱列道路、紀元734年の地震で崩壊したという神殿の円柱、ローマ式蒸し風呂用蒸気配管の床下構造などが残っているが、遺構断片などが雑然と転がっているだけで、何処が何やら判別不能。

 
ベト・シェアン遺跡・遠景
 
テル・ベト・シェアン
 
遺跡全景(資料転写)

円形劇場 
 
柱列道路(復元)

地震で倒壊した神殿の円柱 

※アブダット遺跡
 イスラエル南部に拡がる荒涼たるネゲブ砂漠の北辺にのこる遺跡。
 ヨルダンのペトラを首都として 栄えたナバテア人は、紀元前3世紀頃にはネゲブ砂漠まで進出し、高度な水利灌漑技術を駆使して、交易路の要衝だったこの地に隊商都市を築いたが、紀元2世紀、この地がローマの属州化されたことから衰微消滅したという。

 今のアブダット遺跡は完全に廃墟化しているが、諸処に影絵風のモニュメントが置かれ、当時の交易・生活の有様を伝えてくれる。

影絵風モニュメント
   
廃墟となった居住地遺構
     
ローマ風神殿の遺構
     

※ダビデの星
 イスラエルの国旗は、中央にダビデの星(六芒星)を配し、上下2本の帯は祈禱時に用いる肩掛けを表すという。

 ダビデの星はダビデの象徴というが、ダビデ時代に使用されたかどうかは不明。
 一説によれば、13世記末のスペインでユダヤ人である標しとして用いられたといわれ、史書によれば、レコンキスタ(国土回復運動)によってイスラムを追い出したスペイン王朝は、ユダヤ人にキリスト教への改宗を迫り、それを拒否したユダヤ人に明確な標を付けるよう強制しているから、その標としてこの標しが使われたのかもしれない。

 ダビデの星は“六芒星”(ロクボウセイ)とも呼ばれ、古来から、男女とか天地・陰陽といった相対するものの調和・融合を表し、幸運をもたらす招福の護符あるいは強力な魔除けの護符として用いられたという。
 ガリラヤ湖畔で訪れたカナペウム(ユダヤ教教会)の古代遺構でみた大理石の軒飾り(AD1世紀頃)にも、他の文様と並んで六芒星がみられ、古くからのものであることを示唆している。 

 
イスラエル国旗

古い六芒星(中央) 

同左(左・やや崩れている) 

 六芒星はわが国にもあり“籠目紋”と呼ぶが、俗に阿部清明に因んで“清明紋”とも称し、魔除け・災難除けの護符として用いられたという。
 なお、この籠目紋が伊勢神宮の石灯籠に刻まれていることから、神宮とユダヤ教との関連を云々する俗説があるが、この石灯籠は明治になった寄進されたもので、ユダヤ教徒は無関係であろう。

※菊花紋
 ユダヤに16弁菊花のような文様があり、一時、これを以て“わが国の皇室はユダヤと関係がある”とする俗説が 横行した。

 確かに、クムラン遺跡に残る小さな部屋の床にそれらしき花文様が残っており(右写真)、一見すれば16弁の菊花紋ともみえる。
 しかし、この花文様は、8枚の花弁の先端がハート型に割れているため、これを16弁と見誤ったもので、皇室で使われる“十六弁八重表菊紋”とは完全に異なっており、この花文様を以て皇室とユダヤとの関係を云々するのはナンセンス。 

 花模様といえば、エルサレムのヘロデの門(華の門)や糞門にも花文様が刻まれていた。
 ・ヘロデ門--遠目には多弁の花文様と見えるが、これを菊花とするには中央・萼の部分が大きく、古代オリエントに多見されるヒマワリではないかという。
 ただ、ヒマワリは太陽信仰を象徴する花であり、それが唯一神信仰以外を否定するユダヤにあるのは不自然ともいえる。
 ・糞門--8弁の梅煮に似た文様(天神さんの紋に似ている)
 これらからみると、ユダヤでの花文様は民族的・宗教的な意味をもたない、単なる装飾文様とみるべきであろう。


ヘロデ門(華の門) 






 
同 左
花文様
 
糞 門







同 左
花文様 

 因みに、皇室の紋とされる十六弁八重表菊紋は、鎌倉時代、菊花を愛した後鳥羽上皇(1198--1221)が自らの専用紋として愛用したことに始まり、続く後深草・亀山・後宇多上皇らがこれを踏襲したことから、暗黙のうちに皇室の紋として定着したといわれている。

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