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熊野/補陀洛渡海
            (ふだらくとかい)

2007.10.22参詣

 JR紀勢本線・那智駅前の何もない閑散とした広場の先に、『補陀洛山寺』と『浜の宮王子址(熊野三所大神社の一)』が並んでいる。

※補陀洛山寺
   和歌山県東牟婁郡那智勝浦町築地
   本尊−−千手観音菩薩
 仁徳天皇のころ、インドから那智に漂着した裸形上人開基との伝承をもつ古刹。

 本来は隣接して建つ『浜の宮王子』の神宮寺で、青岸渡寺の末寺だったが、明治の神仏分離令によって分離独立し補陀洛山寺と称した。その際、山上の青岸渡寺にあった仏像・仏具のほとんどが当寺に移されたという。
 広い境内の奥に本堂が、左手に補陀洛渡海船(実物模型)を納める小屋がある。

補陀洛渡海 補陀洛渡海
補陀洛山寺・本堂 同・内陣

※補陀洛渡海(フダラクトカイ)
 補陀洛山寺は“補陀洛渡海した住職を数多く出した寺”として世に知られている。
 補陀洛渡海とは、一言で言えば、観音菩薩が坐(イマ)すという南方・補陀洛浄土を目指して不帰の船出をすることで、“入水捨身(シャシン)による自殺行”である。
 今、浄土といえば阿弥陀如来が坐す西方・極楽浄土を指すが、大乗仏教によれば、この世の四方八方に浄土がありそれぞれ如来・菩薩が坐すとされ、そのひとつが観音の補陀洛浄土である。

 補陀洛浄土とは、求道の旅をつづける善財童子が、ホタラカという海に面した美しい山で観音に巡り会い、その説法を聞いたという華厳経の記載によって、インド南海岸のポータラカにあるという伝説・想像上の山とされるが、それが中国に入って、長江河口の舟山列島にある普蛇山に比定され、わが国では南に開けた幾つかの土地が補陀洛浄土あるいは海を隔てた浄土への入口とされた。那智はそのひとつである。

 補陀洛渡海の実態は伝承に包まれていてはっきりしない。
 ただ、鎌倉時代の史書「吾妻鏡」に次の一節がある。
 『貞永2年(1233)3月7日、一人の老僧が熊野那智浦から南へ向かって舟を出した。法名・智定房。在俗の折には下河辺六郎行秀として知られた名うての勇者であった。智定房が小舟の屋形に入ったのち、扉は釘をもって外から打ちつけられた。もはや中には日すら射し込むことがなかった。舟には三十日分ほどの食料と、灯り用のわずかな油だけが積み込まれていた。海に押し出された舟は、やがて北風に押されて波の彼方に姿を消していった。
 行秀は、源頼朝が那須野で巻狩りを催したとき、頼朝の面前で大鹿を射損じるという失態を演じたため、その場で髻を切って行方をくらまし、その後熊野に籠もったという武士で、彼が船出に際して、出家以来のことを書き付け人に託して北条泰時にまで届けてきたもので、泰時が皆に披露しところ、涙を絞らぬ人はなかった』(大意)

 この記録あるいは幾つかの伝承を勘案すれば、補陀洛渡海を志し精進潔斎をつづけてきた上人は、北風の吹く時期をみはかって、わずかの食料と水をもって舟に乗り込む。小舟は伴の船に沖合の綱切島まで曳航され、そこで曳き綱が切られる。後はただ北からの風に任せて南へ走り続けるだけ。
 日の差さない真っ暗な船内では、渡海上人が一心に法華経を唱えながら、ただひたすら補陀洛浄土への再生を祈りつづける。これが自分の身を棄てることで、観音の坐すという補陀洛浄土に生まれ変わることを希求する補陀洛渡海である。

 那智に伝わる“那智参詣曼荼羅”の右下には、補陀洛山寺前の浜辺に立つ大鳥居の下に3人の渡海僧が立ち(渡海には一人の場合と数人一緒の場合があったという)、周りを数人の僧俗が取りまき合掌している。その前の浜には一艘の帆掛け船が描かれ、帆を上げ走りだそうとしている。補陀洛渡海を描いた場面である。

 また本堂左には、渡海に使用したといわれる“渡海船”の模型が展示されている。人一人座れるだけの小さな屋形を備えた小船で、周りは板戸で締め切ってある。ちょっとした横波で転覆しそうな頼りない小舟で、こんな小舟で大洋に出ていった、その強烈な信仰心にはただ敬服するばかりである。

補陀洛渡海 補陀洛渡海
那智参詣曼荼羅・渡海部分 補陀洛渡海船・模型

 曼荼羅図でははっきりしないが、模型に見るように渡海船上にある屋形の四方には鳥居が立てられ、忌垣(イガキ)で囲われている。
 鳥居には『発心門・修行門・菩提門・涅槃門』との額が掲げられているはずで、「殯(モガリ)の四門」あるいは「殯門」と呼ばれた。古く、死者の霊・荒魂が荒(スサ)び出るのを畏れて、葬送の場を忌垣で囲い四方に鳥居を立てて荒魂を封鎖しようとした信仰の名残で、それが仏教に入って、仏塔の四方に立つ門になぞらえて発心門以下の額をあげたのだという。
 これらからみると、四方に鳥居を立て板戸を締め切った屋形は渡海上人が生きたまま入る棺桶で、渡海船は墓場を表しているといえる。

 境内にある石版には、平安前期(貞観10年868)の慶龍上人以下江戸時代まで25人の名が刻まれている。
 ただ、江戸時代にはいると生きたまま渡海するという慣習はなくなり、補陀洛山寺の住職が亡くなったとき、その亡骸を、いまだ生きているかのように装って渡海船に乗せ、補陀洛渡海という名のもとに沖合まで曳航し水葬に付すようになったという。
 そのきっかけとなったのが、熊野巡覧記(1666)にいう
 『中頃、金光坊といふ僧、住職の時、例の如く生きながら入水せしむるに、此僧甚だ死をいとひ、命を惜しみけるを、役人是非なく海中に押入れける。是より存命の内に入水することは止りぬ。今は住職入寂の後の儀式ありと申伝ふ』
との事件という(これを主題とした井上靖の小説がある)

 補陀洛渡海は那智だけのものではなく、四国の足摺岬など数カ所からもあったというが、那智に多かった裏には、古来から熊野の地・特に那智の浜が現世の外にある異界・常世(トコヨ)へ連なっているという観念があり、また熊野の地に多かった水葬による葬送儀礼の影響があるという。

 常世とは、はるか彼方にある永遠の世界をさすが、その常世と現世の接点が那智の浜であり、その浜から、常世からやってくるカミ・ホトケの路を逆にたどれは常世に至ることができるという信仰を生んだといえる。
 そしてその信仰が、那智の大滝を媒介とした観音信仰と一体化して、
 『観音深く頼むべし 弘誓(グゼイ)の海に船浮かべ 沈める衆生引き寄せて 菩提の岸まで漕ぎ渡る』(梁塵秘抄)
と唄われたように、観音の導きによって補陀洛の浄土に蘇ろうという特異な信仰を生んだといえる。

【追記】
 この補陀落渡海について、五来重氏は
 ・補陀落渡海の真相はまったく謎である。しかし私は水葬と入水往生の二面をもつ宗教的実修と推定して、大きな誤りはあるまいと考えている。
 ・もちろん古代葬方としての水葬が先行し、熊野の中世浄土教化にともなって入水往生への変化が考えられる。
 ・紀伊続風土記は補陀洛山寺の項に
  「当寺の住僧、旧は臨終以前に船に乗せて海上へ放ち、補陀落山に行きしという。その船綱を切離しし所を綱切島といふ
と記しているのは、死者をまだ生きている体にした水葬であることが想像される。
 ・土地の古老の話では、補陀落渡海する時は、死者を棺に入れて海岸に向かうが、浜の宮の大鳥居までは生きている人に話すように言葉をかけながら行く。しかし棺が大鳥居を出ると同時に念仏に変わり、葬式になるのだという。
 ・熊野年代記には19人の渡海者を記しているが、そのうち「存命」と書かれたのは嘉吉元年(1441)の祐尊だけである。とすれば他は臨終以前という体裁によそおった水葬とみても差し支えない。
 ・平家物語などを通して想像すると、死者をおさめた殯船(モガリブネ)を同行船が湾外の山成島まで曳航して、ここから熊野灘に放ったものであろう。
 ・帆立島はここで帆を立てたとか、綱切り島はここで綱を切り離したとかいわれるのは、このような行儀を反映している。
という(熊野詣・2004)

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