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広 峯 神 社
兵庫県姫路市広峯山
主祭神--素盞鳴尊・五十猛尊
                                                               2009.11.02参詣

 姫路城天守閣の北方指呼の距離にある広峰山(H=257m)の頂上に鎮座する古社。
 JR山陽本線・姫路駅前から神姫バス・広峯行(時間1本)で終点で下車(約20分)。バス停の少し先に石碑3基(嘉永7年・1854、大正14年・1925、昭和25年1950)が立つ。最も古い嘉永7年石碑には「従之廣嶺山 十八丁」とある。18丁とは約1970m。

 バス停から舗装された坂路(2車線)を登ること約30分で大鳥居前着(十六丁)、鳥居から参道(舗装道)を約10分で広峰山頂の社殿に着く。社殿への石段下右手に“十八丁”と刻した丁石あり。比高差約200mというが、ほとんどが緩坂路のため登坂は楽。
 なお、山名は“廣嶺山”・神社名は“廣峯神社”と記し峯の字が異なる。古くは山名も広峯だったが、後土御門天皇の勅宣により“峯”を“嶺”と改めたという(明応6年・1497)

バス停・広峯横の石碑
バス停横に立つ道標
広峯神社/大鳥居
広峯神社・大鳥居

※鎮座由緒
 広峯神社由緒記(以下・由緒記)によれば、
  『平野庸修の撰にかかる“播磨鏡”(1762)に「崇神天皇の御代に広峯山に神籬を建て、素戔鳴尊(スサノヲ)・五十猛命(イタケル)を奉斎し」とあるが如く、西暦元年前後と説いている。
 其後、聖武天皇・天平5年(733)吉備真備公に勅して、広峯山に大社殿を造営、新羅国明神と称し、牛頭天王と名づけた、と述べている』
とある。

 当社に関する諸資料では、大鳥居脇に立つ案内に「天平5年、吉備真備の創建・・・」と記すように、天平5年・吉備真備(695--775・キビのマキビ)の創建とするものが多い。崇神天皇の御代云々とは、崇神紀に記す「別に八百万の群神を祀った」ことに仮託した伝承で、スサノヲ・イタケルを祀ったというのも後世の付会であろう。

 吉備真備創建説とは、南北朝時代の地誌・峯相記(1348頃)にいう
  「元正天皇・霊亀2年(716)、吉備真備入唐す。在唐18年、所学十三道。殊に陰陽を極芸とせり。聖武天皇御宇天平5年に帰朝。当山の麓に一宿し給へり。爰に夢にも非ず現にも非ず、貴人出来して、我古丹が家を追出され、蘇民が為に助られて、浪人と成りてより以来居所未だ定らず。汝と唐朝に契たりしを憑て追来也と云々。則当山に崇め奉る牛頭天王是也。
 数年を経て後、平安城を立られし時、東方守護の為に、祇園荒町に勧請し奉ると云々。恐らくは当社を以て本社と云べし」
を受けたもので、
 当社の栞には、
  「奈良時代(733)にこの地を訪れた吉備真備公が神託を受け、現在の奥の院・吉備神社がある位置(白幣山)に社殿を建立した」
とある。なお、現在地へは天禄3年(972・平安中期)の遷座という。

 この峯相記の記述は、備後国風土記・逸文にいう蘇民将来伝承、あるいは京都にゴズテンノウを祀る神社(祇園社)の存在を知っていることなどを前提として記されているが、元々の蘇民将来伝承にはない古旦将来あるいはゴズテンノウ(風土記では武塔天王)が登場していることなどをみると、だいぶ後世になっての創作とも思われ(史書にゴズテンノウが現れるのは12世紀以降という)、これを以て当社の創建とするには疑問がある。
 ゴズテンノウには神道・仏教・道教などが習合し、なかでも陰陽道的色彩が強いことから、これとわが国陰陽道の祖といわれる吉備真備が結びついたものとも思われる。

 この天平5年吉備真備の創建というのは、創建時期を古く見せるための伝承としても、三代実録(901・六国史の一)の貞観8年(866)7月13日条に、
  「播磨国無位素盞鳴神に従5位下を授く」
とあり、これが当社を指すとされることからみると、9世紀には鎮座していたと思われるが、何故か、延喜式神名帳(927撰上)には見えない。
 祭神スサノヲとはいうものの、記紀にいう三貴紳の一としてのスサノヲではなく、新羅からの渡来神(武塔神または牛頭天王)であり仏教色が強いとされて除外されたのかもしれない。

◎京都・八坂神社との関係
 当社では、古くから京都・祇園社(現八坂神社)との間に祇園信仰の本社争いが続いてきた。
 祇園の神(ゴズテンノウ)は広峯から京都・祇園に遷ったとするもので、当社が所有する
 ・「播磨国広峯社者祇園本社」(建保4年・1216文書)
 ・「祇園本社播磨国広峯者」(貞応2年・1223文書)
との文書、あるいは京都・祇園社の創建にからんで、
 ・伊呂波字類抄(平安末期・1190代か)
  「常住寺の僧・円如が、広峯から八坂郷の樹下に遷す」
 ・二十二社註式(1469頃・室町中期)
  「牛頭天王、始め播磨国明石浦に垂迹、同国広峯に遷り、その後(京都)北白川東光寺(東光寺の鎮守社・東天王社-現岡崎神社)に遷り、陽成天皇元慶年中(877--85)に感神院(現八坂神社)に遷る」
などがあり、また播磨国勝地実録(時期不明)
  「貞観11年(869)、京都洛内外中疫気大流行し鎮止せず。この時に当たり、清和天皇詔勅を下し、因って広峰を分祭す」
という。これにからんで三代実録(901)に、「貞観11年6月26日、左右京職に路上の屍を収葬せしむ」とある。何らかの流行病を抑えるために、広峯から防疫神・ゴズテンノウを勧請したのだろうが、ありえることといえる。

 これに対して八坂神社は
 「播磨国広峯社を祇園の本社とする説は、鎌倉時代に広峯社が祇園執行の知行するところとなったのちに、広峯社側で主張しはじめたものであろう。
 北白川の東光寺は清和天皇・元慶2年(878)の創建だから、それ以前に祇園の神が東光寺に遷座したとは言い難い。これは、東天王町に東光寺の鎮守として牛頭天王社(東天王社を指すか)があるため、これと混同し付会したものであろう」(八坂神社1997・大意)
と記し、広峯からの遷座を否定している。

 ただ、その経路となったとされる岡崎神社(北白川)の由緒には、東光寺の鎮守といわれる東天王社について、
 「東天王社は延歴13年の創建で、もともと北白川の地で祀られていたが、弘仁年間(810--24)の社殿炎上の後、貞観11年(869)播磨国広峯から改めてゴズテンノウを勧請して現在地に祀った。その後、ゴズテンノウは感神院に遷し祀られた」
とあり、これは、八坂神社がいう東光寺創建時期からの広峰本社説否定説への反証ともいえる。

 ゴズテンノウの広峯から京都への遷座を確証する資料は、寡聞にして見当たらないが、祇園の神が遷座したとの伝承をもつ神社が点在すること(神戸・祇園社、京都・岡崎社など)をみれば、広峯本社説も一概には否定できない。

※祭神
 当社の祭神は多く28柱を数え、本殿の中に3殿に別れて奉祀され、由緒記には以下のように記している。
 正殿--素盞鳴尊(スサノヲ)--牛頭天王・武塔天神・天道神とも尊称され、薬師如来の教令転身也
       五十猛尊(イタケル)--素尊の御子神、大屋彦神・射楯神(イタテ)とも称す
 左殿--奇稲田媛命(クシイナダヒメ)--素尊の御后神であり、歳徳神で万徳を司る恵方の神である
       足摩乳命(アシナヅチ)・手摩乳命(テナヅチ)--奇稲田媛命の御両神神
 右殿--田心媛命(タコリヒメ)・湍津媛命(タギツヒメ)・市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)
        --宗像三女神と申しあげ、安芸の厳島にお祀りされている
       正勝吾勝々速日天忍穂耳命(マサカツアカツ カツハヤヒ アメノオシホミミ)・天穂日命(アメノホヒ)
       ・天津彦根命(アマツヒコネ)・活津彦根命(イクツヒコネ)・熊野樟日命(クマノクスヒ)
       --なお十柱の神々を天正年度(1578--92)に合祀したので、この宮殿には十八柱の神々をお祀りしている
  注--当社では、本殿に向かって正殿の右を左殿、左を右殿と称している

 これらの祭神は、所謂スサノヲ一家を構成する神々だが、通常の祇園社では、スサノヲ、后・クシイナダヒメ、御子・八王子を祀り、イタケル・アシナヅチ・テナヅチは含まれていない。

 ただ、これらは、明治初年の神仏分離令によってゴズテンノウが神社から排除された以降のもので、江戸時代までの祭神は、
 ・ゴズテンノウ
 ・后・婆利采女(ハリサイジョ)
 ・御子・八王子
だったと思われる。
 それが、明治になって主祭神をゴズテンノウからスサノヲに変更され、その際、それまでの祭神構成にあわせるために后・クシイナダヒメ以下を並べたものであろう。

 特にタゴリヒメからクマノクスヒまでの8柱は、アマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)によって生まれた8柱の神(5男神・3女神)であって、スサノヲ・クシイナダヒメ夫婦の御子ではない。また、書紀本文によれば、ウケヒで生まれた8柱の神々のうち、3女神がスサノヲの御子であって、5男神はアマテラスの御子とされ、皇統譜に組みこまれている(長子・オシホミミは皇孫・ニニギの父神)。これらからみて、ゴズテンノウの8王子との数合わせとしての8王子としかいいようがない。

 この祭神の変更について、由緒記には、外国(唐)留学から帰朝した吉備真備が、学んできた陰陽暦学を広めるため、
 「彼の国の故事を取り入れスサノヲをゴズテンノウとし、クシイナダヒメをハノサイジョとし、八王子神を八将神などと配して日本歴歴の神とし、云々」
とあるが、実態は逆であって、異国からの渡来神・ゴズテンノウを払拭するためになされた祭神の変更といえる。

 とはいえ、今の当社でゴズテンノウが完全に払拭されたかといえば、そうでもなく、拝殿脇に置かれている大祓人形(オオハライ  ヒトガタ)の案内には、
 「当社には疫神ゴズテンノウがお祀りしてあります。下の箱の人形に氏名・年齢・性別を書いて箱に納めてください。無病息災・開運招福をご祈祷申しあげます」
とある。

 ここにある大祓人形とは、人の身についた汚穢・災厄をこの人形に移して流しやるためのヒトガタ(依代)で、強力な防疫神であるゴズテンノウに対する無病息災・災厄除却の祈願が、今も残っている証といえる。
 ただ、昔あったというゴズテンノウの絵姿を描いた護符はなくなっている。
広峯神社/大祓人形
大祓人形

 因みに、スサノヲ一家とゴズテンノウ一家を対応させると、次のようになる。
  スサノヲ      ⇔  ゴズテンノウ
  クシイナダヒメ  ⇔  ハリサイジョ(南海龍王の娘)
  八王子(上記8柱) ⇔  八王子(総光天王・魔王天王・倶魔羅天王・得達神天王・良侍天王・侍神相天王・宅神相天王・蛇毒気神-簠簋内伝による。諸説あり)

 なお、由緒記にいう“教令転身”とは、密教で諸尊をその性格に従って分類した“三転身”の一つで、教えに従わない衆生を強制的に折伏する忿怒系の明王としての一性格を指し(仏教辞典)、そこには強力な防疫神としてのゴズテンノウに通ずるものがある。

※社殿等

 大鳥居を入ると参道は二手、左手の新参道(舗装道)と、右手の旧参道(地道)に別れ、旧参道の途中には天祖父社がひっそりと建っている。いずれも社殿前まで約10分程度。

 参道を登りきると、石段の上に随神門が聳え、その右手に古い宝篋印塔(ホウキョウ イントウ・H=224cm・室町時代初期・国重要文化財)が立つ。境内に入ると、正面に壮大な拝殿(国重文)・本殿(国重文)が前後にならび、境内左手に蛭子社・地養社が、右手に軍殿八幡宮、本殿裏に天神社社以下7社の末社群がまとまって建つ。
 また、末社群右奥の白幣山への山道を登ると、奥の院と呼ばれる吉備神社・荒神社が建ち、両社の間に磐座あるいは神籬とおぼしき石群が残っている。

社殿配置図

広峯神社・正面
(石段上が随神門)

宝篋印塔(重文)

 神社・栞によれば、
 「円融天皇の御代、天禄2年(972・平安初期)になって現在地へ社殿が大造営され、その跡地(白幣山)には吉備真備を祀る吉備神社(後述)が建てられた」
とある。
 ただ、その時の社殿は、今のような一棟の大きな建物ではなく、一間流造の社殿3棟が別々に建てられていたようで、その後、何度かの焼失・再建が繰りかえされる間に、一棟の建物に変わったらしい。
 なお、今の本殿下には、平安時代初期の一間流造社殿の掘立柱の遺構があるという。最初の社殿跡であろう。

◎本殿(国重要文化財)
 今の本殿は、嘉吉の乱(1441・室町時代)で焼失したものを文安元年(1444)に再建した建物で(「文安元年十月二十一日大工藤原宗久」との上棟札があるという)、檜皮葺の入母屋造。正面11間(約20m)・側面4間という大きな建物。

 社殿平面図をみると、本殿内部は、中央部7間が神殿で、外陣・内陣の奥に一間流造の社殿(正殿・左殿・右殿)を収める神座が横に並び、当初別々だった社殿をそのまま一つの本殿内に納めた形をとっている。
 面白いのは、神座が3室に別れ、社殿はその中央ではなく、左(正殿・右殿)あるいは右(左殿)に寄った位置に置かれていることで、社殿の横が空いている。
 本殿脇に立つ案内には、「空いている右もしくは左の一間に、祭神と同じ本地仏を併祀しようとする意図からと解される」とあるが、多分、江戸期までは本地仏が収められていたとおもわれ、神仏混淆時代の密教寺院的な要素を取り入れた神殿建築としての特異な姿を留めている。

広峯神社/本殿正面
広峯神社・本殿正面
広峯神社/本殿
広峯神社・本殿
広峯神社/本殿・拝殿・平面図
本殿・拝殿・平面図

◎拝殿(国重要文化財)
 本殿前に軒を接するほど近接して建てられた本瓦葺・入母屋造の建物で、敷地が本殿に向かって上がる斜面となっているため、建物前面の一部が舞台造となっている。正面十間(約18m)・側面4間で、正面に向拝が付いている。内部の柱間は本殿と同じで板敷床が広がっている。

 案内には「寛永3年(1626・桃山時代)姫路城主・本多忠政の再建」とある。本殿と同じ時期に建てられたものを、何らかの理由で再建したらしい。

広峯神社/拝殿
広峯神社・拝殿
広峯神社/拝殿内陣
同・拝殿内陣

※摂社・末社
 当社の摂・末社は多く、12社を数える。

◎境外摂・末社
 本殿裏から、狭い山道を辿った白幣山山頂(H=260m・シロニギテ山か)、2棟の覆屋のなかに吉備神社と荒神社が鎮座している。本殿から約10分。ここまで訪れる人はないようで、山道・覆屋ともに大分荒れている。
 ・吉備神社--祭神:吉備真備 
 ・荒神社 --祭神:スサノヲ(荒御魂)

 白幣山とは、吉備真備が始めてスサノヲを祀ったといわれる場所で、神社・栞によれば、
 「平安初期の天禄2年(972)に広峯神社社殿を現在地に遷したとき、その跡地に吉備真備を祀った」
という。広峯神社の摂社との位置づけと思われるが、吉備真備の経歴以外に吉備社に関する何らの案内資料もなく詳細不明。

 荒神社は、案内板に17世紀前半(江戸初期)創建とあるのみで、詳細・時期など不明。今の祭神はスサノヲの荒御魂(アラミタマ・荒ぶるような猛々しい働きを示す神霊)とするが、江戸初期の創建であることからみると、ゴズテンノウの荒御魂を祀ったのかもしれない。

 吉備神社と荒神社にはさまれて“吉備神社仮宮”と称する小祠があり、その背後の金網に囲われた中に数個の石がある。仮宮の意味は不明。
 吉備真備が最初に祭りををおこなった祭祀跡で、之があることから“初めの宮=仮祭場”という意味で“仮宮”と称するのかもしれないが、真備以前から、神が降臨する聖地として崇められていた磐座あるいは神籬跡とも思われ、詳細不明。

広峯神社/摂社・吉備社
吉備神社

広峯神社/末社・荒神社
荒神社

左:吉備神社 右:荒神社
(中央の小祠は吉備神社仮宮・
その左手に磐座がある)

吉備神社・仮宮

◎境内末社
(いずれも姫路市指定重要有形文化財)
  地養社 蘇民将来 1687(江戸初期) 拝殿左
  蛭子社 蛭子命(=エビス神) 1849(江戸末期) 境内左手  
  軍殿八幡社 応神天皇・神功皇后 1711(江戸中期) 拝殿右
  稲荷社 倉稲魂命 1761(〃) 本殿裏
  天神社 菅原道真 1725(〃)  同上
  庚申社 猿田彦神・天鈿女神 1751(〃)  同上
  山王権現社 金山毘古神 1777(〃)  同上
  大鬼社 伊奘諾尊 1735(〃)  同上
  熊野権現社 菊理姫命・速玉男命・瀬織津姫命 1868(江戸末期)  同上
  冠者殿社 神皇産霊神・高皇産霊神・木花咲哉姫神 19世紀初頭  同上

 ・地養社--備後国風土記・逸文で、武塔神を接待した蘇民将来を祭神とすることは、当社が吉備真備創建とはいうものの、蘇民将来伝承にかかわる神社であることを暗に示唆しているのかもしれない(備後からの遷座かもしれない)
 社頭の案内板には、蘇民将来伝承の粗筋を記したあとに、
 「スサノヲは蘇民将来の門戸に茅の輪を造らせ、それを以て疫神を禁圧し給ひたり。・・・全国各地の神社で輪抜の神事(茅の輪くぐり)がおこなわれているのも、この社の古事にならうものである」
と記し、6月晦日の夏越祓神事で茅の輪くぐりをするのは、当社から始まる、としている。
 当社に蘇民将来を祀る由縁はわかるが、それを何故地養社と呼ぶのかは不明。


末社・地養社

本殿裏の末社群(7社)

末社・冠者殿社

◎天祖父社

 祭神--天照大御神・伊奘諾尊・伊奘冉尊

 山下の鳥居をくぐってすぐ、道を右手の旧参道(地道)にとって進むと、社殿までの中ほどに“天祖父社”なる社殿がひっそりと建っている。天祖父とはアマサイと読むらしいが、はっきりしない。
 祭神はアマテラス・イザナギ・イザナミの3柱となっているが、鎮座由緒・年代など不明。アマサイという特異な社名からみると、本来の祭神は別かもしれない。
 また広峯神社境内にはあるものの、境内絵図以外にその名は見えず、広峯社との関係は不明。社殿左に磐座らしき石が2個あり、幣帛があがっている。

 この旧参道そのものも荒れているが、参道沿いには、崩れかけた築地塀(土塀)・屋形門などが残っている。かつての神仏習合時に広峰社あるいは神宮寺に仕えた社家の跡という。


天祖父社

◎神秘なる九つの穴
 本殿背後の壁面の柱間毎に9ヶ所の穴が開けられ、それぞれの穴の上に暦でいう“九星”(キュウセイ・一白水星・二黒土星など)を記した木札がかかっている。
 傍らの案内板には
 「当社のご祭神は“こよみ”を司る神様です。この“九つの穴”は、生年月日により運命星が定められている現代暦上の“九星”に相応します。穴深くには、自分の守神が鎮まっておられますので、自分の穴に向かって参拝してください」
とある。
 当社を創建した吉備真備が陰陽暦法をもたらしたことから、それに係わる九星への祈祷所を設けたものだろうが、今、珍しがられはするものの、ここに祈る人があるかどうかは疑問。
 なお九星とは、陰陽道で、九曜星を五行の方位に配し、これを人の生年にあてて吉凶を判断するもの(広辞苑)、という。

広峯神社/神秘九穴
神秘なる九穴
(柱間毎に九つの穴が並んでいる)
広峯神社/九穴・部分
同・部分

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