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祇園神社(神戸)
神戸市兵庫区上祇園
祭神−−素盞鳴尊・櫛稲田媛命
                                                           2009.11.07参詣

 神戸市西部の山手にある古社で、阪神電鉄・三宮駅前から市営バス(7系統)で広野下車。平野交差点から北へ国道428号線(旧有馬街道)を200mほど進んだ小高い丘の上に鎮座する。
 道路脇の鳥居から30数段の石段を登った上に、瓦葺・入母屋造の拝殿、その裏・玉垣(透塀)に囲まれた神域に檜皮葺・破風付春日造の本殿が南面し、本殿の左右および神域裏手に末社が建つ。古くから、当平野地域の氏神として崇敬されているという。

祇園神社/鳥居
祇園神社・鳥居
祇園神社/拝殿
同・拝殿
祇園神社/本殿
同・本殿
(左右の小祠は末社)

※鎮座由緒
 神社略記によれば、
 「創祀年代は不詳だが、所蔵の古文書(天明8年・1788)によると、貞観11年(869)に姫路市城北にある広峯神社より素盞鳴尊の分霊を京都に遷したとき、当地・平野に居た徳城坊という僧侶が広峯と関係があったので、その神輿を此処に一晩お泊めした。
 その時、素盞鳴尊の霊験あらたかなのを仰ぎ、永く国家鎮護を祈るために、此処に社を建て、産土神として祀ったのに創まる」
という(大意)

 清和天皇の御代(858--76)に京洛一帯に流行した疫病(三代実録・貞観11年・14年に流行の記事あり)を鎮圧するため、播磨国広峯から防疫神・ゴズテンノウを一旦京都・北白川(現岡崎神社)に勧請し(貞観11年)、最終的に祇園感神院(現八坂神社)に祀った(貞観18年・876)といわれ、その途上、当地に一泊されたことを契機として創祀されたというのが当社の創建由緒である。
 ただ、八坂神社ではゴズテンノウ(スサノヲ)の広峯からの勧請を否定している(別項・「広峯神社」参照)

 今の祭神はスサノヲとその后となっているが、これは明治初年の神仏分離以降のもので、それ以前・江戸時代までは牛頭天王(ゴズテンノウ)と后・婆利采女(ハリサイジョ)だったと思われる。

◎蘇民将来のお守
 略記によれば、邪鬼退散・疫病除けのお守りとして、「蘇民将来子孫也」と記した“こよみ守”を授与しているという。祇園関連社の周辺で「蘇民将来子孫之家也」と記した護符を門口に掲げる風習は各地にあるが、その一変型だろう。実物不見。

※末社
 境内には以下の末社5社があるが、いずれも鎮座由緒・時期等不明。
 (神域玉垣内)
 ・皇大社−−天照坐皇大御神(アマテラシマス スメオオミカミ)−−本殿右
 ・春日社−−タケミカヅチ・フツヌシ・アメノコヤネ(春日三神)−−本殿左
  両社ともに創建由緒は不明だが、本殿の両脇に祀られていることからみると、末社内でも特別視されているらしい。
 (境内背後)
 ・市杵島姫社−−イチキシマヒメ
  アマテラスとスサノヲのウケヒで生まれた3女神で、スサノヲの御子とされる。航行安全を司る女神で、宮島・厳島神社祭神の一柱だが、イチキシマヒメは仏教に入って福神・弁財天と習合しているから、弁財天としての奉祀か。稲荷神と並んでいることからみても、その可能性が強い。
 ・白玉稲荷社−−ウカノミタマ(穀物神・稲荷神)
 (境内右手)
 ・猿田彦社−−サルタヒコ(道祖神)
  当社前を通る旧有馬街道沿いに祀られていた塞の神・道祖神としてのサルタヒコを、境内に遷したものであろう。下記する“塞神の碑”に関係するのかもしれない。

祇園神社/末社1
末社(左:市杵島社、右:稲荷社)
祇園神社/末社2
末社・猿田彦社

※烏原神社(カラスハラ)
 祭神−−応神天皇・市杵島媛命・天児屋根命・稲荷大神

 本殿裏の右手にある小祠。祇園社との直接的な関係はないようで、脇に掲げる由緒には、
 「古く、石井川上流・烏原村(現北区)にあったが、明治38年に建設された水道用水の貯水ダム(烏原水源池)の底に沈み、住民と共に平野の西・氷室村に遷座した。
 その後、神戸大空襲(昭和20年3月)で社殿全てが焼失し、また、阪神淡路大震災(平成7年)で鳥居など石造物も倒壊したので、平成18年6月、ご縁のある祇園社境内に遷した」(大意)
とある。“ご縁のある”というが詳細不明。
祇園神社/境内社・烏原神社
烏原神社

※塞神の碑
 平野交差点から祇園神社に至る国道428号線(旧有馬街道)の中ほど(東側)にある小公園に、「塞神」(サエノカミ)と刻した石碑が立っている。
 サエノカミとは、道端や四辻・橋のたもと・峠などの“境界”にあって、外から侵入してくる邪神・疫神・悪霊などを遮るカミで、通常、道祖神(ドウソシン)と呼ばれるがフナトノカミという場合もある。サルタヒコ像(神道系)や男女双神像(俗信仰)が彫られていることが多い。

 石碑脇に掲げる案内には、
 「昔、この辺り(奥平野村)を東西に通っていた“古道街道”を通る旅人らの道中安全を守る神(道祖神)として祀られていた、と伝える。
 天保時代(1830--44)、この辺りに「塞神」を祀った塚があり、そこに生えていた榎が枯れたので掘り起こしたら、甲冑・剣・馬具などが出てきた。しかし当時の村人は、祟りを怖れて埋めもどし山伏を呼んで祈祷させたと言い伝えられている(平野古事探訪より)(大意)
とある。

塞神の碑

 案内では、平清盛による福原遷都(治承4年・1180)の際、この辺りに半年ほどの短期間だが都が置かれ、清盛の邸宅・平野殿があったとの記録もあり、福原荘・大和田荘の中心地であった、とある。
 また、道路拡幅に伴う発掘調査で貴族の庭園跡(池)の一部が発見されたという。

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