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沼名前神社(鞆の浦)
(式内:沼名前神社)
広島県鞆町後地
祭神−−大綿津見命・須佐之男命
                                                              2009.09.22参詣

 延喜式神名帳に、『備後国沼隈郡 沼名前神社(ヌナクマ)』とある式内社だが、式内社の後継と称する「渡守神社」(ワタシ)と「鞆祇園宮」を合祀したもので、今、「鞆祇園社 沼名前神社」と称している。俗称:祇園宮。
 なお、神社名・沼名前は“ヌナクマ”と読むが、“ヌナサキ”と読む古資料もある。古資料・福山志料(文化6年・1809)には「式にはヌナサキと読ましむ。然れども郡名・沼隈(ヌナクマ)ならば、神社も同じヌナクマと訓すへし」とあり、郡名からくるとする。

 JR山陽本線・福山駅前から鞆鉄バスで約30分、バス停・鞆の浦下車。浜添いの道(福山鞆線)を少し戻ってスーパー・セルコの角(案内表示あり)を左折、町中の参道(石畳が続く)を西へ進んだ山麓の高台に鎮座する。

※鎮座由緒
 今、当社は渡守神社の祭神・オオワタツミ(海神)を主祭神とし、鞆祇園宮の祭神・スサノヲを相殿神とし、合わせて式内・沼名前神社を称するが、これは明治9年(1876)以降のことで、これに至る経緯について、諸資料を勘案すれば概略次のようになる(資料によって混乱あり)
 ・江戸期以前  −−渡守神社→鞆の西町に鎮座(今、御旅所がある字古城跡の辺りという−−後述)
              鞆祇園宮→鞆の関町(現在地不明)に鎮座
 ・慶長4年(1599) −−鞆の大火に類焼し両社とも焼失
 ・その後(時期不明)−−渡守神社→後地村麻谷に再建遷座
               (福島正則−広島藩在任1601--19−が、麻谷の祇園社に並べて再建ともいう)
              鞆祇園宮→後地村草谷に再建遷座
 ・貞享2年(1685) −−渡守神社→藩主・水野氏が後地村草谷に遷座
 ・明治元年(1868)−−鞆祇園宮を素盞鳴神社と改称(神仏分離令によってゴズテンノウをスサノヲに変更したのもであろう)
 ・ 同 4年(1871) −−鞆祇園宮が国幣小社に列したとき、祇園宮を沼名前神社と改称(鞆祇園社を式内・沼名前神社と誤認したためという)
 ・ 同 7年(1874) −−宮司・吉岡徳明から、“式内・沼名前神社は渡守神社”との上申があり、これが採用され
 ・ 同 8年(1875) −−渡守神社を式内・沼名前神社と認定
 ・ 同 9年(1876) −−渡守神の神霊を本殿に奉斎し、祇園神を相殿に奉斎、現在に至る

 祇園宮を式内・沼名前神社と誤認したことについて、特選神名帳(明治9年・1925)には、
 「鞆祇園神を式社と誤認せしは、当国風土記にのす所の武塔神・疫隅社を、天野信景(1663--1733、江戸中期の国学者)が牛頭天王弁に“備後国沼隈郡鞆浦に疫隅社有り。俗に鞆天王云ふ”と云て当社の事とし、鞆浦志にも風土記を引て当社なりと云なせしより起れる事なれども、式に深津郡須佐能袁能神社ありて、神代巻口決に武塔神は深津郡に在る須佐能袁能神社にして、鞆津祇園神社に非る事明なり」
とある、という。
 これをみると、江戸時代には、鞆祇園宮を式内・須佐能袁能神社とする説があったらしい。鞆祇園社の祭神がスサノヲ(あるいはゴズテンノウ)であることから、風土記にいう疫隈社すなわち式内・須佐能袁能神社と解したのだろうが、この説は、属する郡が異なるとして否定されている。なお、宮司・吉岡某が渡守神社を以て式内社と上申した根拠などは不明。

鎮座由緒
 神社刊の由緒には、
 「およそ1800年前、第14代仲哀天皇の2年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、オオワタツミ命を祀られ、海路の安全を祈られたことに始まる。・・・
 皇后が西国より帰られる折、再びこの浦に寄られ、自ら祀られたオオワタツミ命の大前に、身につけておられた“鞆”を奉納されお礼を申されたことから、この浦を“鞆の浦”と呼ぶようになったという。
 スサノヲ命は祇園さんともいわれるが、鎮座起源は不詳
 明治9年、オオワタツミ(渡守神社)とスサノヲ(鞆祇園宮)を合祀」
とある。神功皇后云々とあるのは渡守神社の由緒及び鞆の浦の地名伝承で、祇園宮の由緒は不明。
 なお“鞆”(トモ)とは、弓を射るとき左手首に着けて、弓の弦が直接腕に当たるのを防ぐ丸い革製の防具で、ホムタともいう(広辞苑)。鞆の浦は古来からの海港であることから、着岸した船の艫(トモ・船尾)をも意味するかもしれない。

*渡守神社
 渡守神社の創建由緒について、管見した伝承を列記すれば、
 ・備陽六郡志(18世紀後半)
   神功皇后が三韓退治のとき、この浦に船を着けて浦の名をとうたところ、浦人が「知らず」と答えた。そこで、船の艫を着けた処だから“艫の社”と云え、と勅した。
   皇后が三韓を征して帰還のとき、この浦を再訪し、海中出現の霊石とともに船の木・碇の石を給して祀らせた。
 ・備後国志抜書(刊行時期不明)
   神功皇后が朝鮮出兵の途中、この浦に着かれたとき、海中から尺余の霊石が出現した。皇后が浦人に「此処に神が坐すか」と問われたら、浦人は「神は坐さず」と答えた。そこで皇后は此の霊石を渡して、『渡しの神』として祀るように勅した。これが『渡守の明神』である。
 ・福山志料(1809)
   神功皇后が、三韓退治の時、御船をこの裏に寄せられ、異国退治を祈って『渡守の明神』として祀られた。
 ・広島県史(1984)
   神功皇后が三韓征伐に出陣の時、海中出現の霊石を祀って渡守神社を創建し、凱旋のとき鞆の港に停泊し、腕に巻いた鞆を奉納して報斎された。
等々がある(いずれも大意)

 上記の創建由緒は、これらの伝承をうけたもので、当社の旧社地という御旅所(後述)に掲げる由来にも、ほぼ同様の伝承が記されている。
 しかし、これらの伝承は、当社の古社名を“渡守明神”ということからみて、神仏習合が進んだ平安時代以降の創作で、創建年代を古くみせるために、神功皇后の鞆の浦寄港という架空の事蹟をもってきたのであろう。

 ただ別伝として、備陽六郡志には、“隠岐国千波(チフリ)に祀られている船人の守護神・チフリ神(布那斗之神:フナトノカミ=塞の神・道祖神)を勧請して、渡守明神として祀った”との伝承も記すが、チフリとは地名であって神名ではないとの反論もある。

*鞆祇園宮
 鞆祇園宮については、上記の神社由緒にいうように、創建時期不明というほかないが、備陽六郡志によれば、
 「備後国の祇園社として品治郡戸毛村(現素盞鳴神社)・三上郡小童村(現須佐神社)と当社がある。
 当社は、今の関町という処に鎮座していたが、口伝によれば、天長年中(824--34)あるいは保元年中(1156--59)に今の処へ移ったというが、いずれとも決めがたい。
 その後、延慶3年(1313)沙弥・道照という人が再興し、永享10年(1438)沙門・心疑が霊夢により補修したという」(大意)
とある。延慶・永享の再建或いは改築は、いずれも慶長4年の大火以前のことで、創建に係わる由緒ではなく、当社の創建由緒は、既に、江戸中期には不詳となっていたことを示す。

 上記のように、鞆祇園宮は風土記にいう疫隅国社と誤認されたこともあったという。確かに、戸毛の素盞鳴神社が疫隅国社(式内・須佐能袁能神社)に比定されるかぎり、当社が疫隅国社というのは誤認だろうが、古来から、海陸の結節点として多くの人・物資が通過した津(港)である鞆の浦には、人と共に外つ国のカミもまた上陸されたわけで、北海のカミ・武塔神すなわちゴズテンノウも当地に上陸し、その後江隈の地・戸毛村に移ったとも解される。

※祭神
渡守神社
 祭神・大綿津見(オオワタツミ)の“大”は美称、“綿津見”とは海を司る神で、イザナギ・イザナミ双神の神生みで生まれたとも、イザナギが黄泉国から帰って禊祓をしたとき表・中・底3柱のワタツミが生まれたともいう。“海神”・“少童”とも書き、いずれもワタツミと読む。

 当社祭神について、福山志料には
 「関境の産土神にして祭神は豊玉彦命(トヨタマヒコ)、すなわち海神也。或は道祖神(ドウソシン)、また隠岐島知夫利神(チフリ)を勧請すと云」
とあり、また広島県史には
 「沼隈郡後地村の渡守大明神の祭神は船玉命(フナタマ)
とある。
 トヨタマヒコとはオオワタツミの御子で海神(ワタツミノカミ)だが、オオワタツミと異名同神ともいえる。フナタマとは“船霊”のことで、古くから漁民の間で船の守護神・漁撈の神として信仰された神で、これも海神の一柱。
 海を司るワタツミ神とは、航行安全・航路案内・漁撈など海洋に係わる全般を司るカミを意味し、あの意味では、陸上におけるドウソシンとほぼ同じ神格をもつ。
 隠岐島のチフリの神とは別名・フナト神ともされ、境界にあって邪霊・悪霊の侵入を阻止する塞の神という。福山志料・弁説ではドウソシン・チフリの神ともに当社祭神とするには似つかわしくないと否定しているが、両神とも、海陸の境界を守護する塞の神(境界にあって邪霊・悪神等の侵入を遮る神)と解すれば、おかしくはない。

 上記創建由緒にいうように、当社祭神は神功皇后にからんだ霊石とされているが、それは後世の仮託であって、元々は、漁民や航海者を守る海や船の守護神であり、且つ外からの邪霊侵入を阻止する塞の神的神格を併せもつ海神というのが本来のカミで、それらの総称としての海神・オオワタツミであろう。

鞆祇園宮
 今の祭神はスサノヲとなっているが、当社が蘇民将来伝承と関連するとすれば武塔神が本来の祭神で、それが何時の頃かにスサノヲと変化したと思われる。ただ、式内社調査報告(1980)が引用する牛頭天王弁(18世紀初頭頃)には
 「備後国沼隈郡鞆浦に疫隈社有り。俗に“鞆天王”と云う・・・」
とあり、また大日本地名辞書(明治末1907頃)には
 「沼名前神社 ・・・今、鞆の祇園牛頭天王社を以て、之に充つ・・・」
とあることをみると、江戸時代にはゴズテンノウを祀る神社として知られていたようで、そこから、風土記にいう疫隅国社(式内・須佐能袁能神社)に比定する説が出たのであろう。

 一般に、ゴズテンノウからスサノヲへの神名変更は、明治初年の神仏分離によって、ゴズテンノウが邪神として排斥されたためというが、当社の祭神・スサノヲが、この時ゴズテンノウから変更されたのか、それ以前からのものかは不明。
 社務所でお尋ねしたところでは、明治の神仏分離のとき、ゴズテンノウに関する資料のほとんどが廃棄されたため、何もわからないという。ここにも、明治新政府によって強制された神仏分離の悪影響が及んでいる、といえる。

※社殿等
 浜沿いの道から入った参道途中に“一の鳥居”やよび“官弊小社 沼名前神社”と刻した石柱が立つ。
 境内入口の“二の鳥居”は寛永2年(1625)水野勝重寄進によるもので、県指定の重要文化財。通常の明神鳥居だが、笠木の両端に鳥が留まった形をした飾り(鳥衾・トリブスマ)をもつところに特徴がある。
 当社社殿は、正面に軒唐破風をもつ拝殿と本殿の間を弊殿(石の間ともいう)で結んだ権現造といわれる様式だが、二重の千鳥破風をもつ大屋根で覆われた弊殿部分が他に比べて長いという特徴をもつ。七棟をもつ屋根は銅板葺。旧社殿は昭和50年に焼失し、その後復元した建物だが、全体として重厚な感をうける。

沼名前神社/一の鳥居
参道途中に立つ一の鳥居
沼名前神社/二の鳥居
沼名前神社・石標
(社名面の右面に延喜式内社とある)
沼名前神社/二の鳥居
境内入口に立つ二の鳥居
(笠木の両端に鳥衾あり
県指定重要文化財)
沼名前神社/随神門
沼名前神社・随神門
沼名前神社/社殿全景
同・社殿側面
(右から拝殿・弊殿・本殿)
沼名前神社/拝殿
同・拝殿
◎摂末社
 社殿右手に、左から摂社・八幡社(仲哀天皇・応神天皇・神功皇后)、末社・3社(祠)、摂社・渡守社、末社・護国神社が鎮座し、社殿左には天満宮(祠、菅原道真)、神輿蔵などが鎮座する。
 境内案内図によれば、末社3社とは、竈社・塞社相殿1社(オクツヒコ神他5柱)、松尾社・稲荷社・地主社相殿(オオヤマクヒ神他3柱)1社、厳島社・艮社相殿1社(イチキシマヒメ・キビツヒコ)とある。
 式内社調査報告によれば、上記以外にも、35社の境外末社があるというが、詳細不明

 右図の緑の社屋は“能舞台”(国指定重要文化財、後述)。 
沼名前神社/境内社殿配置図
境内・社殿配置図

摂社・渡守神社

 祭神−−船玉大神

 明治9年、オオヤマツミ神を主祭神として本殿に迎える以前の旧社といわれ、祭神をフナタマ神とするところに、往時の面影を保っている。




沼名前神社/摂社・渡守神社
摂社・渡守神社

※能舞台
 豊臣秀吉遺愛のもので京都伏見城内にあった能舞台で、元和6年(1620)伏見城解体の際、福山城主・水野日向守勝成が徳川二代将軍秀忠から拝領、後、万治年中(1658--61)に当社に寄進されたもの。

 持ち運びできる“組立式能舞台”となっていて、その形式としては日本唯一のもの(神社案内より)




沼名前神社/能舞台
能舞台

渡守神社御旅所−−鞆町古城跡

 沼名前神社の南約400m、神社前からお寺が並ぶ小道を南下して浜へ出た処にある。
 渡守神社の旧鎮座地と推定され、社頭の由来には、上記の神功皇后に係わる創建伝承を述べた末尾に、
 「此の地即ち綿津見大神御上陸の処と伝え、古より渡守神社御旅所として今に及べり」
とある。
 海を背にして鳥居と、玉垣の中に御旅所の標石が立つのみで、背後はすぐ浜辺となっている。

渡守神社・御旅所

※茅の輪
 沼名前神社近くの町中を歩くと、藁で作った“茅の輪”を家の玄関先に掛けられている家が、少しだが目につく。新市町戸毛の素盞鳴神社付近でも見かけた風習である。
 蘇民将来伝承で、武塔神すなわちスサノヲが「疫病が流行ったとき、腰に茅の輪を付けた人は免れるであろう」と教えたとされる疫病除け・魔除けの呪符で、これを飾った家は疫病神・邪霊・悪霊が避けて通るとされる。

 戸毛の素盞鳴神社と同じように、当地に茅の輪を掛ける習慣があることは、鞆祇園宮が単にスサノヲ(ゴズテンノウ)を祀る社というのではなく、蘇民将来伝承に色濃く係わっていることを示唆し、北海からやってきた武塔神が、まず当地に上陸したとする説を補強するものともいえる(別稿・「素盞鳴神社(戸毛)」の“茅の輪と庶民将来の護符”参照)

 お聞きしたお婆さんは、毎年6月30日の祭事・茅の輪くぐりが終わった後、茅の輪に使われていた藁を貰ってきて、各家で作るという。両手の指で輪を作った程度の大きさで、細工に稚拙があるのは各戸で作るためか。とはいえ、今では、わざわざ藁を貰ってきて茅の輪を作って、玄関に掛ける家も少なくなってきたらしい。
 なお、戸毛で見かけた“蘇民将来子孫之家”との護府は見かけなかった。
沼名前神社/茅の輪
玄関先に掛けられた茅の輪

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