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岡 崎 神 社(京都)
京都市左京区岡崎東天王町
祭神--素盞鳴命・奇稲田姫命・八柱御子神
                                                              2009.11.12参詣

 京都御苑の南を東西に走る丸太町通りの東端、吉田山(黒谷)の南麓に鎮座する古社。京阪本線・丸太町駅の東約1.5km。
 今、子育て・安産・厄除けの神・「東天王 岡崎神社」と称するが、その原点は王城守護の社・東天王社という。

※鎮座由緒
 神社由緒によれば、
 「桓武天皇・延歴13年(794)、平安遷都の際、王城守護のため平安京の四方に建立された社の一つで、都の東方に鎮座することから東天王と称した。・・・」
とある。
 疫病・災厄の流行が邪神・悪霊の仕業とされていた当時にあって、都城の四方に、それら邪霊・悪霊の侵入を遮る塞の神(サエノカミ)として、神仏を祀るのは古くからの信仰であり、そのひとつが東天王社で、社名を“天王”と称することからみて、あえて祭神を特定すれば防疫神・ゴズテンノウであろう。
 だが、桓武朝(781--806)の事蹟を記した正史・“日本後紀”(天長10年・833)には、この4天王社創建についての記述は見えない。

 ただ、江戸中期の図説百科事典である“和漢三才図会”(正徳3年・1713又は同5年・1715、寺島良安著)に、
 「大将軍の社  四処に在り。東(岡崎に在り)・西(紙屋川)・北(紫野大徳寺の門前)・南(今所在を失ふ)
           桓武天皇平安城の四方に将軍塚を築き、以って王城の鎮護(マモリ)と為し給ふ。
           各其の祭る所の神に異説有り」
との記述があり、ここでいう“岡崎にあった東大将軍社”が東天王社(現岡崎神社)を指すのかもしれない。

 しかし今、東大将軍社の後継社として、岡崎神社(旧東天王社)の他にも東山区にある“東三条大将軍社”(長光町・岡崎神社の南西約1.6km )があり、天王社と大将軍社、いずれも王城守護のため四方に祀られたとはするものの、両社が別社なのか同一社なのかははっきりしない。

 大将軍とは陰陽道にいう八将神(八将軍ともいう)の一で、暦法に基づき方角による吉凶を司る方位神とされ、魔王天王とも呼ばれる大凶神という。
 陰陽道では、この神が在する方位(3年毎に東南西北を巡るという)は万事が凶であって、「この方位に向かって柱を建てたり、築地や石をついたり、棟上げや家の造作、移住、井戸掘り、嫁取りなど、よろずのことをおこなってはならない」という(「万暦大成」・江戸時代)

 この八将神は、同じく陰陽道的色彩の強いゴズテンノウの御子・八王子と習合し、簠簋内伝(ホキナイデン、占いに関する秘伝書・伝安倍清明著、11世紀か)に、
 「第二大将軍は魔王天王、盤牛王の化身と申すなり。三歳ずつ塞がり、万事に凶」
とあるように、大将軍はゴズテンノウの第2王子・魔王天王とされる。御子神(八王子)が、父神(ゴズテンノウ)のもつ神格の一部を分掌するとすれば、八王子の一・魔王天王はゴズテンノウと同体とも解され、大将軍をゴズテンノウとみなす場合もある。

 一方、東天王社におけるゴズテンノウ奉斎に関して、
 「牛頭天王、始め播磨国明石浦に垂迹、同国広峯に遷り、その後北白川東光寺に遷り、陽成天皇・元慶年中(877--85)に感神院に遷る」(「二十二社註式」・室町時代・1469頃)
 「東天王社は元々北白川(北方約2kmの一帯)に祀られていたが、弘仁年間(810--24)の社殿炎上後、貞観11年(869)播磨国広峯(兵庫県姫路市、別項・広峯神社参照)から改めてゴズテンノウ(スサノヲ命)を勧請して現社地に祭祀した。その後、ゴズテンノウは感神院(現八坂神社)に移し祀られた」(ネット資料、出典不明)
 「祇園社  帝都の東に祇園社有り。牛頭天王之祠と称す。・・・初め明石浦に在り、後広嶺山に移す。尋て山城北白川に徒り、終に現在地に遷る。・・・」(祇園社略記、元禄3年・1690)
と、いずれも、ゴズテンノウが姫路の広峯から当社に遷り、その後、八坂の祇園社(感神院)に遷ったという。、八坂祇園社の創建にも係わる伝承である。

 これに対して八坂神社では、北白川東光寺は清和天皇の女御・藤原高子の願いにより元慶2年(878)に建立された寺で、その鎮守が東天王社であることから、
 「元慶2年以前に祇園の神が東光寺に鎮座されたとはいえない。これは東光寺の鎮守として東天王町に牛頭天王社(東天王社)があるため、これと混合し付会したものであろう」
と、ゴズテンノウの広峯からの遷座説を否定している。
 しかし、東天王社が桓武朝に創建されたのであれば、元慶2年以前に、ゴズテンノウが東天王社に鎮座したとしてもおかしくないことで、東光寺創建以前にゴズテンノウが祀られているはずはない、とする八坂神社の主張は無理があるともいえる。

 その後の東天王社は東光寺と一体となって、中世の頃まで朝廷や幕府の庇護を受け隆盛したというが、応仁元年(1467・応仁の乱)の兵火で一切が焼失したことから東光寺が廃寺となり、東天王社のみが残ったという。しかし、これも享禄4年(1531)の兵乱による岡崎一帯の焼亡によって廃絶したが、後に岡崎村の産土社として再建されたというが、当社に関する資料がほとんど見えないことから確認不能。

※祭神
 今の祭神はスサノヲとその后・御子神となっているが、古く、東天王社と呼ばれていた頃の祭神は、江戸中期のガイドブック・拾遺都名所図会(天明7・1787)
 「東天王社  祭神・牛頭天王 ・・・」
とあるように、ゴズテンノウとその后・ハリサイジョおよび御子・八王子を祀っていた社で、明治初年の神仏分離によってゴズテンノウが邪神として排斥されたことをうけて、祭神をゴズテンノウからスサノヲに変更し、神社名もゴズテンノウを示唆する東天王から岡崎に変更されたと思われる。
 今の当社には、由緒を含めてゴズテンノウ色の一切が払拭され、往時を偲ぶものは見かけない。

※社殿
 京都・丸太町通りから参道を入ったすぐに大鳥居が立ち、その奥、一段高い玉垣内に唐破風向拝つきの壮大な拝殿、その奥に本殿が鎮座する。江戸時代の鳥居には、「正一位東天王」との神額が懸かっていたという(拾遺都名所図会)が今はない。正一位とは朝廷から贈られた神階を指すが、寡聞にしてそれを証する記録は見かけない。
 神社由緒によれば、
 「清和天皇が貞観11年(869)に造営、後醍醐天皇(1318--39)も造営、室町時代には足利義政(1449--73)が修造、・・・」
とあるが、その後の兵乱により何度か被災したともいわれ、今の社殿が何時のものかは不明。

岡崎神社/大鳥居
岡崎神社・大鳥居
岡崎神社/拝殿
同・拝殿

※末社等

◎雨社--祭神:オオヤマツミ命(山の神)他4神
  拝殿の右手にある末社。
 もともと大文字山(如意ヶ嶽)の山中にあったもので、雨乞いの竜神として崇敬されたという。当社への遷座時期など不明。

 境内左手に、稲荷神・ウカノミタマを祀る三宮社、氏子の先祖を祀る祖霊社、社名不明の小祠が鎮座する。
岡崎神社/末社・雨社
末社・雨社
◎手水屋形の子授けウサギ
 今、当社はウサギの社として知られているようで、境内各処にウサギがみられ、由緒には
 「往時、背後の紫雲山をはじめ境内一帯がウサギの生息地であったことから、ウサギは氏神の神使いと伝えられ、・・・特に手水屋形にある子育てウサギ像は参詣者の人気を集め、祭神が子宝に恵まれ、ウサギが多産であることから、子授けの神として祈願信仰されている」
とある。手水屋形の周囲には、子授け祈願や感謝の絵馬が多数掛けられている。
岡崎神社/神紋・兎
神紋・兎
岡崎神社/子授け兎
手水屋形の子授けウサギ像
 ただ、当社祭神のゴズテンノウあるいはスサノヲは、共に8柱の御子神を有するから多産といえなくもないが、本来の神格は防疫神であって、子授け・安産とは直接的には関係ない。
 治承2年(1178)、中宮の御産に際して安産祈願の奉斎をうけ無事皇子を出産されたことから、安産の神として崇敬され、後に多産の獣・ウサギと結びついたのであろう。
 なお、ここでいう中宮とは、治承2年ということからみて、高倉天皇(1168--80)の中宮・徳子(平清盛の娘・後の建礼門院)を指し、この時生まれた皇子(言仁親王)が、後に平家一門と共に壇ノ浦に沈んだ安徳天皇(1180--85)であろう。 

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