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王子神社(福山)
広島県福山市東深津町4丁目
祭神−−須佐之男命・八王子
                                                              2009.09.21参詣

 延喜式神名帳にある『備後国深津郡一座 須佐能袁能神社』の論社の一つとされる古社。

 JR山陽本線・福山駅の東約2kmほどの市街地のなか、北から連なる高台・王子山の先端部に鎮座する。南側は急斜面の崖(傾斜地崩壊危険地域)となっていて、神社へは北側の石段を登って入る。

 境内東寄りに、南から舞殿を兼ねた拝殿・渡殿・本殿と連なる社殿は、見たところまだ新しい。
 式内社の研究(昭和58年・1983、志賀剛著)には
 「王子神社は西面する中祠で、本殿は正面二間・奥行3間で、舞殿は拝殿を兼ねている。・・・境内の細長い建物の中に仏像が並び、明治以前に王子権現といった時代の神仏混淆の名残をとどめている」
とあるが、今、社殿は南面(正確には南東面)し、仏像を並べた建物は見えない。
 境内に「王子神社ご動座記念 平成5年9月建之」との石柱が立つから、その頃に何らかの改築がなされたらしい。ただ、神社からの仏教色排除は、明治初年の神仏分離によるものが多く、当社が昭和50年代まで仏像を並べていたというのは珍しい。

 北側参道脇にコンクリート製の祠めいたものがあり、その階上部分に掌に載るような小さな古祠が納まっている。西備名区にいう小祠二十座の残存のようで、志賀氏によれば“瘡(カサ)神社”という。
 この瘡神社について、西備名区には
 「瘡神社  昔、此所に阿比という女あり。悪瘡(痘瘡)を病みて治療たへ、此所に捨てられて死せり。後世此病にかかる者、我に祈らば験あらんと誓ひとしなり。それより今に伝えて悪瘡ある者此に祈るに験あり」
とある。
 特定の病で苦しんだ人が、死に面して、“同じ病の人が、我に祈れば病を癒してやろう”と誓約して亡くなった話しは各地に残るが、この瘡神社もそのひとつで、医療が発達していなかった時代の世俗信仰といえる。

 境内の端から南を臨むと眼下に福山市内が一望でき、崖際には歌碑4基が建っている。境内西側には墓地が広がり、聖と穢れとが共存する不思議な場所となっている。

王子神社/参道入口
王子神社・参道入口
王子神社/鳥居
同・参道途中の鳥居
王子神社/社殿側面
同・社殿全景(側面)
王子神社/拝殿
同・拝殿
王子神社/本殿
同・本殿
王子神社/末社・瘡神社
同・末社・瘡神社?

※鎮座由緒
 当社の鎮座時期は不明だが、境内に掲げる由緒(昭和57年3月)には、
 「備後国風土記によれば、スサノヲ命が朝鮮より八王子と共に帰朝し、吾等を信仰すれば、その子孫を疫病から守ると申されたので、深津郡の人々はこの深津島山に王子神社を建て、以て広く当地方の人々の崇敬するところとなる。
 式内社研究者、元京都学芸大学教授・文学博士・志津剛氏(志賀剛の誤記か)の説によると、延喜式神名帳に載せられている備後国深津郡須佐能袁能神社は当社であると断定されている 昭和57年3月」
とある。
 前半は、書紀一書にいう、高天原を追われたスサノヲが一旦朝鮮半島のソシモリに降り、“ここには居たくない”として船を作り出雲の国に帰ったという伝承と、備後国風土記逸文にいう蘇民将来伝承をミックスしたもので、後半は式内社の研究にいう志賀氏の説をうけたもので、当社本来の由緒とは解されない。

 当社に関する古資料はほとんど見当たらないが、管見したかぎりでは「西備名区」(セイビメイク、文化5年・1804刊)・深津郡条に、
 「王子権現  深津嶋山と云ふにあり。其先は石畳のうへに神躰の石を置くばかりなりしが、元禄の検地の時(17世紀末)、彼竿役人の側に狐2疋が付廻りけるが、此山へ竿を入んとしける時、竿先に立回りける故に、免されて除地となり、今は繁昌して大社となれり。・・・ 此外、小祠共に二十座」
とあるのみだが、そこには祭神についての記載はなく、創建当初からの祭神がスサノヲ・八王子だったか否かは不明。
 これを見る限り、17世紀末頃までの当社は、石畳にご神体の石を置くだけの素朴な社(祠)でしかなく、18世紀になって社殿が創建されたようで、そこには10世紀以前から続く式内社としての面影はない。

 ただ志賀氏は、その著・式内社の研究の中で、式内・須佐能袁能神社を現新市町戸毛の素盞鳴神社とする説(戸毛説)を、
 「戸毛説では、深津郡江熊牛頭天王社再興之事・・・天文拾年八月朔日の銘がある磐を根拠とするが、創立に関する資料はないから、戦国時代の天文拾年の銘だけで平安中期の式内社とするのは無理」(別稿、「素盞鳴神社・戸毛」参照)
として否定し、
 ・風土記・疫隈国社の縁起にいう疫隅とは江の隈国で、入江の曲がったところの多い地方を意味する。かかる地方は備前の深津郡で、今の福山市東部であろう。
 (注−−西備名区には、「深津嶋山−−此沖海路にありし一小嶼なり。今の王子山なり」とあり、当地が海中の小島だったという)
 ・近世初頭まで福山市東部は一面の海で、入江が多く、深い津(港)があった。疫の隈国社は疫の社でもあるから、深津郡内にあったはずである(後半部の論理不明)
 ・現在、福山市の東部に南北に細長い王子山が横たわり、その南に王子神社がある。この神社こそ疫の社であろう。
 ・王子神社境内に瘡神社があるが、この瘡神社は王子神社が疫神社であることを示すもので、痘瘡にかかった者は、この病で死んだ者に祈ると死を免れるということである。
 ・(西備名区にいう)二十座の小祠とは、痘瘡にかかった際に、王子神社に捧げた多くの人々の瘡神社であったことが知られる。換言すれば、王子神社以前の小祠というべきである。
 ・以上によって、王子神社には八王子と共にスサノヲが祀られていたことは確かで、京都の祇園社にもスサノヲと共に八王子が祀っているから、この王子神社は深津郡の式内・須佐能袁能神社と断言し得るであろう。
という(大意)

 志賀氏の主張を意訳すれば、式内・須佐能袁能神社は深津郡すなわち海に近い場所にあったはずで、古代の地形からみると、海中の島だったという深津嶋山=王子山に鎮座する当社がそれに該当する。また、境内に痘瘡除けの瘡神社があることは、スサノヲや八王子がもつ防疫神との神格に連なるもので、これも当社がスサノヲ・八王子を祀る式内社であることを示唆している、という。

 しかし、上記論拠にはやや飛躍があり、また管見のかぎりでは、当社を式内社と示唆する古資料は見当たらず、また上記・西備名区の記事などを勘案すれば、当社を式内・須佐能袁能神社の後継社とするのは疑問とおもえる。

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