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素盞鳴神社(戸毛)
(延喜式内・須佐能袁能神社)
広島県福山市新市町戸毛
祭神--素盞鳴命・稲田姫命・八王子命
                                                     2009.09.21参詣 2013.0327再訪

 延喜式神名帳(972)に、『備後国深津郡一座 須佐能袁能神社(スサノオノ神社)』とある式内社とされ、説によれば全国に数多くある祇園神社の原点という。また備後国一の宮との社格をもつという。
 今、『素盞鳴神社』(スサノオ神社)と称するが、当社を式内社とすることに対して論社として下記3社がある。
 ・素盞鳴神社(天王宮)--福山市神辺町上御領
 ・天神社--福山市蔵王町
 ・王子神社--福山市東深津町4丁目

 JR東海道線・福山駅から分岐する福塩線・上戸毛駅(カミトゲ)の西約200mに鎮座する古社。

 福山市内とはいえ(旧新市町・2003、福山市に合併)、静かな田舎町の面影を残す往還を西へ進んだ処に神社への入口があり、鉄道と道路に挟まれた広い境内に、社殿がひっそりと建っている。式内社という格式よりも、旧村落の鎮守といった雰囲気が色濃く漂っている。
 入口右手の玉垣内に、「県社」および「式内社」(明治11年・1878建立)と刻んだ背の低い石標2基が立つ。

 
※創建由緒
 当社は、延喜式神名帳(927年撰上)にいう式内社だが、式内社というより、備後国風土記(逸文)・『疫隅の国社』(エノクマのクニツヤシロ)条に、
 「昔、北の国においでになった武塔(ムトウ)の神が、南の海の神の女子を予波比(ヨバヒ・求婚)に出ていかれたところ、日が暮れた。その所に将来兄弟が住んでいた。兄の蘇民将来(ソミン ショウライ)はひどく貧しく、弟の将来は富み、家と倉が一百あった。武塔神は悪にの家に宿を借りようとしたが、惜しんで貸さなかった。兄の蘇民将来はお貸し申しあげ、粟柄(粟の茎)をもって御座所を造り、粟飯などをもって饗応した。
 さて、終わってお出ましになり、数年たって八柱の子供を連れて帰ってきて仰せられて、『私は将来にお返しをしよう。お前の子孫のこの家に在宅しているか』と問うた。蘇民将来は答えて申しあげた。『私の娘とこの妻がおります』と。そこで仰せられるには、『茅の輪を腰の上に着けさせよ』と。そこで仰せのままに腰に茅の輪を着けさせた。その夜、蘇民の女の子一人を残して、全部ことごとく殺して亡ぼしてしまわれた。
 そこで仰せられて、『私は速須佐雄(ハヤスサノヲ)の神である。後の世に疫病がはやったら、蘇民将来の子孫だといって、茅の輪を腰につけた人は免れるであろう」』といわれた」(風土記・東洋文庫版、以下「蘇民将来伝承」という)
とある“疫隅の国社”として知られ、伝承末尾に“武塔神=スサノヲ”とあるのをうけて“式内・須佐能袁能神社”と比定されている。

 当社境内に掲げる石版の案内には、
 疫隅の郷(エノクマのサト) (江ノ隈の里)
 この附近は江熊の里と呼ばれたところ、古くは江隈とも記された。  
 江は入江であり、隈(クマ)は片隅(カタスミ)とも読める。江ノ隈の読みから、穴の海の入江であったことが伺われる。
 奈良時代には古山陽道がこの辺りを通り、海陸交通の要衝として、人の往来につれて市(江熊の市:エノクマのイチ)が栄えたところでもある。

 茅の輪神事(チノワシンジ)
 (蘇民将来伝承の概要を記した後に)
 当社は、蘇民将来『茅の輪』伝承発祥の地として、文献上最古の記録を残すほか、『疫隅の国社』として延喜式神名帳にみえる古い歴史をもっている。現在も、無病息災・厄除けを願って、この伝承に由来する『茅の輪くぐり』の神事をおこなっている。
 素盞鳴尊は、武塔天神(ムトウテンジン)はあるいは祇園牛頭天王(ゴズテンノウ)とも称され、出雲神話の祖である。・・・
 明治初年までの神仏習合の一時期、『早苗山天龍山天王寺祇園社』と呼ばれたこともあり、早苗の松の伝承を残した。
とある。
 旧称・天龍山天王寺祇園社(戸毛祇園社ともいう)とは、神仏習合時にゴズテンノウを祭神としていた頃の寺院としての古称。

 当社の創建時期について、当参詣の栞には、
 「天武天皇御宇(672--86)の創祀にして、醍醐天皇御宇(896--930)に再営されたと伝えられています。延喜式の深津郡一座・須佐能袁能神社は当社である。また、備後国三祇園の一社です」
とある。
 この天武朝創祀というのは仮託だろうし、醍醐天皇御宇云々というのも確認不能。なお、備後国三祇園とは、鞆の沼名前神社・甲奴町小童(ヒチ)の須佐神社と当社をいう。

 この疫隈の国社は、江戸初期以前から式内・須佐能袁能神社に比定されていたようで、徳川義直(1600--1650、尾張徳川家の祖)が編纂させた神祇全書には、
 「疫隅社、式内社深津郡須佐能袁能神社也」
とあり、神祇志料(明治6年・1873)には、
 「深津郡一座 須佐能袁能神社又疫隅社といふ。今品治郡江熊郷戸毛村字江熊に在り」
とある。

 また、江戸初期頃から、ゴズテンノウを祀る社として牛頭天王社(天文10年・1541資料)・天王社(慶応4年・1868資料)・祇園社・祇園牛頭天王社などと呼ばれていたが、幕末頃の福山藩の式内社調査(慶応4年・1868)によって、
 「天王社 此度取吟式内の神社に相違無之に付 神号相改め素盞鳴神社と被仰出候、立石致すべく候」
として、天王社と呼ばれていた当社を式内・須佐能袁能神社と認定し、社名を天王社から素盞鳴神社と改められたという。
 ただ、社名変更をおこなった慶応4年の3月末(9月に明治と改元)には、明治新政府から神仏分離令が布告され、ゴズテンノウが排斥・排除されているから、天王社から素盞鳴神社への社名変更は、この神仏分離令をうけた(あるいは先取りした)ものとも解される。

◎論社について
 今、当社をもって式内・須佐能袁能神社(旧疫隅国社)の後継社とするのが有力だが、問題がないわけではない。
 当社を式内社とするのは、当社の鎮座地の旧地名・戸毛村江熊(エノクマ)が風土記にいう疫隅国社の疫隅(エノクマ)と一致することを根拠のひとつとするが、その戸毛村が属する古代の郡名が品治郡(ホンヂのコホリ)であり、風土記にいう深津郡ではない、との疑義が呈されている。

 この疑義に対して、戸毛村鎮座素盞鳴神社由緒記(昭和4年1929・真田鶴松編)によれば、
 ・当社が所蔵する磬(ケイ、寺院で使う仏具・打楽器の一種)の銘文(天文10年・1541)に、
 「深津郡江熊牛頭天王社再興之事・・・干時天文10年(1541)八月朔日 長岡五良衛門正重」
とある。天文10年当時の領主・尼子氏の代官・長岡が、深津郡でないところへ故なくして深津郡と書くはずはなく、天文の頃、戸毛村江熊の辺りは深津郡であったに疑いない。

 ・備陽六郡志(18世紀後半)
 「此辺を疫隅といひけれども、いつの比(頃)よりか戸毛・相方・福田などに別れり。・・・往古此辺まで深津郡なりし」、とある。

 ・西備名区(文化3年・1806)によれば、
 「古は神辺より西新市までを岩成といひて、一郷にて深津郡に属せり。福島領の時二十ケ村に分かちて、品治郡安那郡に附せらるる。其内上・中・下・戸毛・江熊市・天王市五村を合せて戸毛一村となりしは水野侯の時なり。以前祇園社深津郡岩成に属せし故、延喜式神名帳に、深津郡須佐能袁能神社とあるなり。当村祇園社是なり」、とある。

 以上の古文書記事を挙げて、古く、戸毛の辺りは深津郡に属していた、という。ただ当由緒記は、当社の県社昇格を目途に記されたもののようで(昭和5年、それまでの郷社から県社となっている)、上記内容も現在の検証に耐えうるものかどうかは不詳。

 これに対して、古資料では“式内・須佐能袁能神社の所在地は不明”とするものが多く、広島県史(昭和59年・1984)には、
 「延喜式にいう深津郡の須佐能袁能神社を、戸毛村の素盞鳴神社に擬するものがあるが、地理上より考へて然らざるに似たり」(大意)
として、式内社とすることを否定している、という。“地理上から考えて”というのは、当社の辺りが深津郡ではなかったことを指すと思われるが、実見していないので詳細不詳。

 上記の新市町戸毛説に対して、論社とされるものに3社があり、各社それぞれに資料をあげて、式内・須佐能袁能神社の後継社としているが、いずれも確証はなく後継社として比定できかねる(各社の論拠については別記)

 以上、当社に関する古資料などを勘案して、風土記にいう社名・疫隅が、地名・江熊を神社名としたものと解されること(逆もあり得る)、疫隅の“隅”(クマ→スミ)は“清”(スミ)に通じ病を祓い清めることを意味し、武塔天神=ゴズテンノウ=スサノヲがもつ防疫神としての神格に通じること、また、当社に蘇民将来伝承をうけた茅の輪神事が伝わっていることなどから、新市町戸毛の素盞鳴神社を以て式内・須佐能袁能神社とするのが妥当だろうというが(式内社調査報告)、確証はない。

 これらからみると、疫隅国社すなわち式内・須佐能袁能神社の後継社は未確定とするのが妥当と解される。

◎処容説話
 古く、朝鮮半島には、わが国の“茅の輪信仰”(護符信仰)とよく似た“処容説話”(伝承)とよばれる話があった。
 三国遺事(1270~80年代に、高麗の高僧・一然によって編纂された私撰史書)・新羅憲康王(在位875--86)の条に、次の話が載っている(大意)
 「憲康王に仕え国政を補佐していた東海の龍王の息子・処容には、王から与えられた美しい妻がいた。ある時、家に帰った処容は、妻が別の男と寝ているのを見つけた。その男とは、処容の妻の美しさを慕って人の姿に化してやってきた疫病神であったが、これを見た処容は、
 『月が美しいので夜更けまで遊んで家に帰ったら、わが臥所に足が4本見える。2本は確かに妻の足だが、残る2本は誰のものか。我が妻だけど、よその人にかすめ取られてしまった。せんないことだ』
と歌って立ち去ろうとした。
 その時、疫病神が本来の姿をあらわし、『私は、公の奥さんを慕う余り、過ちを犯してしまいました』と詫び、
 「これからは、公の姿かたちの画が描かれてあるのを見かけたら、遠慮して、その家には入らないでおきます」
と誓った。
 この為、国中の人達は、処容の絵姿などを門口に貼って、辟邪進慶(鬼は外、福は内)を願うようになった」

 三国遺事考証(1979、三品彰英)によれば、処容の人形や画像を門に貼って辟邪進慶を願う習俗は、長く朝鮮社会で継承され、李朝時代(1390--1910)の書・書永編(18世紀末頃)には、「正月十四日、藁草で人形を作り、その中に若干の銭を納めたり、子供の衣服に付けたりする。人形を処容といい、これを以て厄除けの法とする」(漢文意訳)とあるという。100年ほど前までは生きていた習俗のようだが、今、どうなっているかは不明。

 この説話全般は蘇民将来伝承とは似ても似つかない話しだが、敷衍すれば、処容は蘇民将来にいう疫病神・武塔神に相当する。特に末尾の“疫病神は、処容の絵姿の画が門口に貼ってあったら、その家には入らない”と誓ったのは、わが国で武塔神が“茅の輪を付けた人は免れる”と告げたことと同じである。

 このように、朝鮮半島に同種の話しがあることから、蘇民将来伝承は半島から伝来したとする説がある。しかし、半島からの渡来人が持ち来たったと思われる処容説話をそのまま受容したのではなく、末尾の辟邪習俗をベースにわが国の伝承・習俗などをからませて作られたのが蘇民将来伝承ということもできる。


※祭神
 栞には、
  本殿  素盞鳴尊(牛頭天王、天道神)
       奇稻田姫命-クシイナダヒメ(歳徳神、素盞鳴尊の后神)
       八王子命(五男三女の御子神)
とあるが、こられは明治初年の神仏分離令によって変更されたもので、それ以前、天王社と呼ばれていたときの祭神は、ゴズテンノウとその后・婆利采女(ハリサイジョ、風土記にいう龍王の娘)及び御子の八王子で、それらが本来の祭神だったと思われる。

 また、各祭神の説明として
 ・素盞鳴尊--暦においては“天道神”と称され、吉方、凶方のすべてを支配する神で、祈れば一切の方位は、諸願が成就する大吉の方位とされます
 ・奇稻田姫命--暦においては“歳徳神”とされます。また八王子の母神であり、何事にも神秘的な作用をあらわし、この神のいる方角は福が集まる“恵方”とされます。
 ・八王子命-スサノオとクシイナダヒメとの間に生まれた八人の皇子で、またの名を“八将軍・八将神”ともいう。主に凶司る神とされ、この凶方をもちいなければならない時、この神に祈れば守護ありて、吉方位に転じて幸いをもたらします。
とある。

 ここでいう天道神・歳徳神(トシトクシン)および八将神とは、陰陽道で吉凶禍福の一切を司るとされる方位の神・暦神で、安部清明著とされる簠簋内伝(ホキナイデン)のなかで、江戸期までの祭神・ゴズテンノウ・后の頗梨采女(ハリサイジョ)・御子の八王子を陰陽道の暦神に当てはめたもので、本来の祭神とは無関係。

 また、八王子について、祭神の項では“五男三女の御子神”とあり、その説明では“スサノオとクシイナダヒメとの御子”と異なっている。
 これを前者(五男三女)とすれば、それは天安川の畔でおこなわれたアマテラスとスサノオとの誓約(ウケヒ)によって生まれた御子たちで、5人の男神は天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)以下の皇統譜に連なる神々で、三女とは宗像の三女神(タゴリヒメ・タギツヒメ・イチキシマヒメ)を指し、これらを以て当社の祭神とすることはできない。
 また後者とすれば、クシイナダヒメは八岐大蛇説話でスサノオに助けられてその后となったとはあるものの、8人もの御子を生んだとはなく、架空のものといえる。
 結局、この八王子とは、蘇民将来説話にいうゴズテンノウとハリサイジョの間にうまれた“8柱の子供”であって、明治初年、祭神がスサノオと変更された時点で、五男三女あるいはスサノオの御子神へと変更されたものといえる。
 なお、簠簋内伝では各御子神には太歳神(ダイサイシン)以下の八将神(ハツショウシン)が充てられている。

 当社が式内・須佐能袁神社であるとすれば、その原点は風土記にいう疫隅の国社であり、創建当時の祭神は武塔神(或いは蘇民将来)であったとも考えられ、とすれば、当社の祭神は武塔神→牛頭天王→素戔鳴と変遷したことになる。ただ武塔神から牛頭天王へ変わった時期は不明。史書などによれば牛頭天王が登場するのは12世紀頃というから、その頃かもしれない。

※社殿等
 十数本の巨木が聳える境内には、東面して随神門・舞殿・拝殿・本殿が並び、本殿の左に蘇民・疱瘡神社相祀殿が、右手前に本地堂が建つのみで、広々としている。かつては神社社殿とともに神宮寺の甍が並んでいたと思われるが、今、その面影はない。

素盞鳴神社/大鳥居
素盞鳴神社・大鳥居
素盞鳴神社/随神門
同・随神門
素盞鳴神社/舞殿
同・舞殿
素盞鳴神社/拝殿
同・拝殿
素盞鳴神社/本殿
同・本殿

◎神面
 拝殿内陣の長押の上に、神面2面が奉納されている。いずれも昭和になって奉納されたもので、その相貌は異なるものの、いずれもスサノヲと思われる。

素盞鳴神社/拝殿内の神面
拝殿に掲げられた神面
素盞鳴神社/拝殿内陣
素盞鳴神社・拝殿内陣
(長押の上・左右に神面あり)
素盞鳴神社/拝殿の神面
同・神面

※蘇民神社
 本殿の左に、『蘇民神社・疱瘡神社相祀殿』がある。殿舎の中には各々の小祠が納まり、疱瘡社のそれは赤く塗られている。創建時期は不明だが、古くからのものらしい。

 蘇民神社の祭神は蘇民将来で、当社が蘇民将来伝承に係わる神社であることを示す。今は摂社となっているが、ここに祀られる蘇民将来が当社本来の祭神だった可能性もある。
 また、この蘇民社の存在をもって、当素盞鳴神社が疫隅国社であることの有力な証というが、祇園社に蘇民将来を祀った事例は他にもみられ(八坂神社にもある)、疑問もある。


蘇民社・疱瘡社相祀殿
(左:蘇民社  右:疱瘡社)
 疱瘡神社の祭神は、比比羅木其花麻豆美神(ヒヒラギ ソノハナマヅミノカミ)とある。古事記・大国主神統譜では、オオクニヌシ5代の孫・タヒリキシマルミの妻・イクタマサキタマヒメの父神とある。
 この神の詳細は不明だが、神名のヒヒラギは植物の柊(ヒイラギ)に由来するともいう。
 ヒイラギは、その葉の縁にある棘(トゲ)に触れると痛いため、節分や大晦日あるいはコト八日などに訪れる鬼や疫神(その代表が疱瘡神)などを、家の門口に刺したヒイラギの小枝をもって遮るという風習があった(小枝に焼いた鰯の頭を添えることもあった)。  そこから鬼や疫神特に疱瘡神の来訪を遮る神として、ヒイラギに因む神を当小祠に祀っているのだろうが、神名と植物・ヒイラギの発音上での類似をもって、この神を除疱瘡神とするのは後世の俗信であろう。

 ただ、蘇民将来とヒイラギの神が相殿に祀られることは、この相祀殿が、魔除け・疫病除けという共通の神格をもっていることによるのであろう。

※茅の輪と蘇民将来の護符
 当社周辺の町並みを歩くと、家の門口に、藁で作った小さな“茅の輪”(径15cm前後)が吊され、“蘇民将来子孫之家”と記した護符が貼られているのを、あちこちで見かける。
 いずれも、武塔の神が「疫病が流行ったとき、蘇民将来の子孫といって、茅の輪を腰につけた人は免れるであろう」といったという、疫病除け・悪霊除けの護符(呪符)だが、それが今もって続いているのは貴重な風習といえる(再訪時にはほとんど見かけず、この風習がなくなりかかっていることが痛感された)

 茅の輪のみ飾る家・蘇民将来の護符のみの家・両者を併せ飾る家などがある。地元の人の話では、茅の輪神事(旧暦6月30日)での茅の輪くぐりが終わった後、神社から氏子の家に配られるというが、茅の輪の細工が家毎に異なることからみると、祭りが終わった後、壊された茅の輪の藁を貰ってきて家毎に作るのかもしれない。

 蘇民将来の護符といえば、長岡京遺跡(784--94の都)発掘調査時に、路端の側溝跡から、小さな木札(L=2.7cm ・w=1.3cm)の両面に『蘇民将来之子孫者』と墨書したものが発見されている(2001.4)。上端に小さな穴があり、中央部に釘(木釘か)が打たれた痕があることから、穴に紐を通してお守りとして肌身に着けたか、木釘で門口に固定されていたのではないか、と推測されるという。
 これまでにも、蘇民将来之子孫と記す護符は各地で出土しているが、早いもので平安初期、大半は中世から近世にかけてのもので、平安京遷都以前の長岡京から発見された8世紀末の護符がわが国最古とされ、それは、8世紀後半には蘇民将来信仰が広まっていたことを示している。

 蘇民将来の名を記した疫病除けの護符は、わが国独自のものでなく、かつての朝鮮半島にもあったという。昭和初年にまとめられた民俗史・“朝鮮の鬼神”(昭和4年・1929)に、
 「諸病除には『蘇民将来之子孫海州后入』の文字を縦三寸横一寸の赤紙に書き、門口に貼る」
との記録があり、現北朝鮮の平壌南部で採集された習俗という。“海州后入”とは、“わが家には蘇民将来の子孫である海州出身の女性が嫁に来ている”の意とか。
 この書には、何故、蘇民将来の子孫が疫病除けになるのかは記していないが、疫病除けとして蘇民将来の名を記した護符を門口に貼ることではわが国のそれと同じといえる。
 また上述の処容説話をうけて、“処容の顔を描いた札を門口に貼ってある家には、疫神が入らない”とする風習があったともいう。処容とは蘇民将来で、疫神とは武塔の神(ゴズテンノウ)に相当する。

 これらの伝承・風俗がほとんど同じであることから、風土記にいう蘇民将来伝承や護符風俗は朝鮮半島からの伝来ともいうが、今の韓国には、蘇民将来や処容に係わる伝承や護符などは、ほとんど残っていないという。


茅の輪

護符

茅の輪と護符

※本地堂(天満宮)
 境内北側に建つ社殿。社殿右前の石標には『戸毛天満宮』とある。
 今は“天満宮”と称するが、元々は“戸毛祇園社”(早苗山天龍寺天王寺)の本地堂として建立された建物で、今の建物は延享5年(1748)に再建されたものという。
 神仏習合の時代、神社内に建てられた神宮寺のひとつで、神社の本殿にスサノヲが、当堂に本地仏・聖観音菩薩(脇侍:毘沙門天・不動明王)として祀られ、神社と寺院が一体となって“祇園社”と呼ばれていた。
 当堂舎は、明治の神仏分離令によって取り壊されるはずのものが、菅原道真を祭神とする“天満宮”に変更して存続したという(内部にあった仏像・仏具は取り払われ、神殿に改造されているという)。現存する本地堂は、全国でも20例ほどしかなく(祇園社では当社のみ)、広島県内でも2例しかないという。
 平成10年に全面修復され、再建時の姿に復元している。(社頭・由緒などより)
素盞鳴神社/本地堂
本地堂(天満宮)

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