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素盞鳴神社(天王宮)
広島県福山市神辺町上御領
祭神−−素盞鳴命
                                                               2009.09.21参詣

 延喜式神名帳(927撰上)にある『備後国深津郡一座 須佐能袁能神社』の論社の一つとされる古社だが、鳥居の神額には『天王宮』とある。
 古く牛頭天王を祀っていた頃からの古称(俗称)であろう。なお、市販の地図には“天王神社”と表記されている。

 しかし、参道入口の石燈籠前に立つ石標には『延喜式内 多祁伊奈太岐佐那布都神社』(タケノイナタキサヤフツ)とある(右には「御領八丈岩登山口」との石標あり)
 この神社は、延喜式神名帳に『備後国安那郡 多祁伊奈太岐佐那布都神社』とある式内社で、福山市北部の山野町山野字上原谷に鎮座する通称・“岩穴宮”(祭神:下道国造兄彦命)が後継社で、当社はその論社だというという。

 とすれば、当社は二つの式内社の論社というややこしい神社だが、いずれもスサノヲを祀る(岩穴宮では合祀神)ことかららしいが、当社に関する資料がほとんど見当たらず、また、境内に案内板などなく、詳細不詳。
素盞鳴神社(天王宮)/入口石燈籠
参道入口の石燈籠
(前面左−式内社石標)
素盞鳴神社(天王宮)/鳥居神額
鳥居・神額「天王宮」

 JR福山駅から分岐する塩福線・神辺駅で3セク・井原鉄道の乗り換え、二つ目の御領駅下車。鉄道に沿う国道313号線を東へ約500m、国道北側の参道入口に石燈籠が立つ。

 参道突き当たりの御領山山麓に鳥居が立ち、石段を登った奥、一段と高くなった境内に拝殿・本殿が建つ。社殿はそう古くは見えないが、お詣りする人も少ないようで、境内は大分荒れている。
 社殿左手の広場に小社殿が、その左に元弘勤皇家顕彰碑が立つ。小社殿の社名は不明だが、荒神社らしい。
 その横に“地神”と刻した小さい石碑及び“古墳遺跡”との小石柱がある。地神とはジガミあるいはジジンと呼び、、その地域を開拓した者を、土地の守護神として祀ったもので、祠などではなく、自然石に“地神”と彫りこんだものがほとんどだという(広島県史)
 また古墳遺跡というが、その詳細は不明。当社は古墳上に建造された神社かもしれないが、周りに古墳の面影はない。

 ネット資料によれば、
 「天平年中(750--49)、備後国司・小治田諸人の創建と伝えられる古社。古くは備後国内の大社の一つであったが、応仁年中(1467頃)社殿大破に及び、氏子らが小社を建てて、旧蹟を守ったという。
 永禄年中(1558--70)、毛利元就により再建を命ぜらる。水野記によると、杉原盛重が社領三貫を寄進したが、福島正則に没収されたという」
とある。備後国司創建とすれば、ゴズテンノウを祀るとしても(創建時の祭神は異なると思われる)、式内・須佐能袁能神社とはみなしがたい。

 当社を式内・須佐能袁能神社の論社とするのは、昭和27年に、神社本庁に対して「当社が式内社の須佐能袁能神社である」との明細書が提出されたことからと思われるが、その根拠を示す資料がなく詳細不明。
 当社の俗称を天王社と称し、西備名区(天文5年・1804)に「祇園牛頭天王社 安那郡上御領村」とあることからみて、江戸時代まではゴズテンノウを祀っていたのが、明治初年の神仏分離によって祭神をスサノヲに変更し、そのことから、戦後、式内社と主張したのかもしれず、上記明細書のみを以て式内・須佐能袁能神社とするのは疑問であろう。

素盞鳴神社(天王宮)/鳥居
素盞鳴神社(天王宮)・鳥居
素盞鳴神社(天王宮)/拝殿
同・拝殿
素盞鳴神社(天王宮)/本殿
同・本殿

同・末社(荒神社か)

地神の石碑

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