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八 坂 神 社
京都市東山区祇園町
祭神--素戔鳴尊・櫛稲田姫命・八柱御子神

 全国祇園社の総本社とされる八坂神社は、京都・東山の山麓、都心部を東西に走る四条通の東端に鎮座する。

 阪急電鉄・河原町駅、京阪電鉄・祇園四条駅から四条通を東進、その突き当たりの石段上に朱塗りの豪壮な西楼門(重要文化財)が聳える。

※由緒
 当社の創祀については諸説がありはっきりしないが、当社公式ホームページ(以下HPという)には、
 「当社は慶応4年(1868)5月30日付けの神祇官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。

 創祀については諸説があるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(イリシ)が、新羅国の牛頭山に座した素戔鳴尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。

 また一説には、貞観18年(876)南都の僧・圓如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、その年6月14日に天神(祇園神)が東山の麓・祇園林に垂迹したことに始まるという」
とある。

 HP前段にいう慶応4年(1868・9月に明治と改元)の神祇官達とは、一般に「神仏分離令」と呼ばれるもので、そこには
 ・中古以来、某権現或は牛頭天王の類、其外仏語を以て神号に相称え候神社は少なからず候。何れも其神社の由緒を詳細に書き付け、早々に申し出給ふべく候事
 ・仏像を以て神体と致し候ふ神社は、以来相改め申すべく候事
 ・符 本地杯(仏の誤記か)と唱え仏像を社前に掛け、或は鰐口・梵鐘・仏具等置き候分は、早々に取り除き申すべき事
として、神仏習合によって神と仏とが一体として祀られていた神社から、全ての仏教色を排除することを命じている。

 これは、神仏習合の世相をうけて神社の中に混淆していた仏教・道教といった宗教色を一掃しようとする国学者達の主導でおこなわれたもので、記紀神話に一度も登場しない牛頭天王は、記紀神話を金科玉条とする国学者たちにとっては、淫祠邪教の象徴的存在であるとして、これの排斥が全国的に行われ、その中で当社は、祭神・牛頭天王を素戔鳴に変更し、併せて社名を地名の八坂と改称したという。
 HPは社名を感神院から八坂神社に変更したとはいうものの、その理由は記しておらず、また、本来の祭神が牛頭天王であったことは一切隠されている。

 HP中段の斉明2年に来朝した伊利之云々とは、八坂神社旧記集録(1870)に所収する「八坂郷鎮座大神之紀」(1079年?)が記す
 「斉明天皇即位2年丙辰(656)8月、韓国の調進副使・伊利之使主(イリシオミ)が再来した時、新羅の牛頭山に座す須佐之雄尊の御神霊を斎きまつり、我が国にお遷しした。そして我が国で始めて須佐之雄尊を祭った。
 その時、朝廷より愛宕郡の八坂郷の地と、八坂造(ヤサカコミヤツコ)の姓(カバネ)を賜った、
 11年後の天智天皇6年丁卯(667)、社号を感神院として宮殿を造営された。牛頭山に坐すこの大神を牛頭天王と称して、祭祀を執り行うようになった」
との伝承によるもの。

 これは、当社創祀を、書紀・斉明天皇2年秋8月8日条の
 「高麗は達沙(タツサ)らを遣わして調を奉った。大使達沙・副使伊利之、総員81名」
にいう副使・伊利之に付会したものだが、伊利之が当社創建に関与したことを証する史料はない。
 また、八坂神社編の書・八坂神社(1997、以下《八坂神社》という)は、新撰姓氏録(815)に記す
 「山城国諸蕃(高麗) 八坂造 狛(高麗)国人の留川麻乃意利佐(ルカマノオリシ)より出る也」
を承けて、
 「ここでいう意利佐が伊利之に他ならず、その裔孫が八坂の地に住していたと察せられる」
として、八坂臣が当社の祭祀にかかわっていたことから、その祖・伊利之が当社を創建したとするものであろう。

 ただ、当社の創建は高麗人・伊利之によるというが、高麗人が、半島にある牛頭山に坐す神(牛頭天王)を勧請したというのなら理解できるが、日本の神・スサノオを勧請したとするのは疑問で、この由緒は、スサノオのソシモリ降臨という神話を承知している日本人による創作(すり替え)と思われる。

 HP下段にいう貞観18年南都の僧・圓如が(堂舎を)建立云々とは、二十二社註式(1469・室町時代)にいう
 「昔常住寺十禅師圓如大法師が、託宣により、第56代清和天皇貞観18年に、山城国愛宕郡八坂郷の樹下に移し奉る
 託宣に曰 我は天竺の祇園精舎の守護神也 故に祇園社と号す
 其後 藤原昭宣公(基経・836--91) 威験に感じ 台宇を壊し運んで精舎を建立す 今の社壇是也」
との伝承によるもので、ここで圓如が建立した堂舎とは、同じ二十二社註式に
 「人皇61代朱雀院承平5年(935)6月13日官府に云、観慶寺を以て定額寺と為す字祇園、山城国愛宕郡八坂郷地一町に在り」
とある観慶寺(別名・祇園寺)と思われ、そこには薬師如来などの仏像を奉安する仏殿堂舎の他に
 「神殿(本殿)五間桧皮葺一宇 (祭神)天神・婆利女・八王子 五間桧皮葺禮殿(拝殿)一宇」
との鎮守社があったとあり、この鎮守社が現八坂神社の前身である感神院(祇園社)と思われる。


 HPは当社の創建を高麗人・伊利之あるいは仏僧・圓如の何れかに求めているが、二十二社註式には
 「祇園社
 午頭天皇(牛頭天王) 初播磨国明石浦に垂迹し 広峯に移る。其の後北白川の東光寺に移り 其の後人皇57代陽成院元慶年中 感神院に移る。
 (託宣曰 吾天竺祇園精舎守護神云々 故祇園社と号す)
  西間 本御前 奇稲田媛垂迹 一名婆利采女 一名少将井 脚麻乳手麻乳女
  中間 午頭天皇 大政所と号す 進雄尊垂迹
  東間 虵(蛇)毒気神 (沙竭羅)龍王女 今御前也
とあり、
 備後国(福山市)にある素戔鳴神社(疫隈の国の社)に伝わる社伝には
 「吉備真備が牛頭天王を備後国から広峯に勧請した」
とあるという。
 これらによれば、祇園社の主祭神・午頭天王は、まず備後の鞆の浦(牛頭天王を祀った沼名前神社がある)から内陸部に入って疫隈の国の社(現素戔鳴神社)に鎮座し、そこから播磨の明石浦を経て同国広峯(現広峯神社・姫路市広峰)に移り、その後、京都北白川の東光寺の鎮守・東天王社(現岡崎神社・京都)に遷座、次いで元慶年中(877--85)に感神院(祇園社 現八坂神社)に遷座したとなる。

 これに対して《八坂神社》は
 ・播磨国広峯社を祇園の本社とする説は、「鎌倉時代に広峯社が祇園執行(社務を執り行う組織の長)の知行するところ(所領地)となったのちに、広峯社側が主張しはじめたもの」として否定している

 ・しかし広峯神社は、天平5年(733)吉備真備が神託をうけ牛頭天王を主祭神として創建したとされ、
 ・三代実録・貞観8年(866)7月13日条に、「播磨国無位速素戔鳴神に従五位下を授く」とあるのが広峯社への神階授叙記録とされることから
 ・天平5年吉備真備創建は信をおけないとしても、平安時代前期に広峯神社があったのは確かといえよう
 ・また同・貞観11年(869)6月26日条に、「左右京職をして道殣(行き倒れ)を収め葬りて、骼(ホネ)を掩(オホ)ひ肉を埋めしめよ」とあり
 ・播磨国勝地実録(時期不明)に、「貞観11年、京洛内外中疫気大流行し鎮止せず。この時に当り、清和天皇詔勅を下し、因りて広峯を分祭す」とあることから、
 京洛内外で流行する疫病の鎮圧のために、広峯社から牛頭天王を勧請したのはあり得ることで、二十二社註式がいう東光寺(東天王社)への勧請が是にあたると思われる。

 この東光寺について、《八坂神社》は
 ・北白川の東光寺は、清和天皇の女御・藤原高子の御願によって、元慶2年(878)に建立されたものであるから、元慶2年以前に祇園の神が東光寺に鎮座されていたとは言えない
 ・これは、東光寺の鎮守として東天王町に牛頭天王社(東天王社・現岡崎神社)があるため、これと混同したのであろう
という。

 ・しかし、東天王社の後継という岡崎神社の由緒には、
 「延暦13年(794)桓武天皇の平安京遷都の祭に、王城守護のため、平城京の四方に建てられた大将軍社の一つといわれ、都の東方に鎮座することから東天王社と称した。
  清和天皇・貞観11年(869)勅命により社殿を造営し、播磨国広峯より改めて牛頭天王等を迎え祀り、悪疫の治まりを祈願した」
とあり、東天王社が元慶2年以前から東光寺の鎮守であったことから、二十二社註式は広峯より東光寺(実は東天王社)に遷座と記すもので、東光寺の鎮守・東天王社から感神院に遷座したとの説を無碍に否定することはできない。

 当社の創建年次を確定する資料はないが、清和天皇・貞観年代(859-76)末近くに僧・圓如が京都北白川の東天王社から牛頭天王を勧請したのが感神院の創祀で、続く陽成天皇・元慶年間(877-84)の初頭に藤原経基によって社殿が拡張整備されたと思われる。

※祭神
 今、当社では素戔鳴尊以下13座の神々を祀るという。
 ・中御座 素戔鳴尊(スサノオ)
 ・東御座 櫛稲田姫命(クシイナダヒメ)--素戔鳴尊の正妃
   同座 神大市比売命(カムオオイチヒメ)・佐美良比売命(サミラヒメ)--素戔鳴尊の妃(ただ記紀に佐美良比売の名はない)
 ・西御座 八柱御子神
         八島篠見神(ヤシマジヌミ)・五十猛神(イタケル)・大屋比売神(オオヤヒメ)・抓津比売神(ツマツヒメ)--櫛稲田姫との御子
         ・大年神(オオトシ)・宇迦之御魂神(ウカノミタマ)--神大市比売との御子
         ・大屋毘古神(オオヤヒコ)・須勢理毘女命(スセリヒメ)--佐美良比売との御子
   脇座 稲田宮主須賀之八耳神(イナダノミヤヌシ スガノヤツミミ)--櫛稲田姫の父神

 この祭神は、スサノオ一家によって占められているが、江戸時代まではゴズテンノウを主祭神としていたことは周知のことで、《八坂神社》には、
 「祇園の神は日本の神話に語られている素戔鳴尊であるが、平安時代以来、神仏習合によって『牛頭天王』とも呼ばれていた。
 神仏習合による祭神は
  中の座  牛頭天王
  東の座  婆竭羅龍王(シャカラリュウオウ)
            --竜宮の大王(龍王)、法華経・堤婆達多品に、女人でありながら法華経の功徳で成仏した龍女の父として出ている

  西の座  頗梨采女(ハリサイジョ、婆梨采女とも)--龍王の第三女で牛頭天王の正妃
とされていたものである」
とあり、江戸時代まではゴズテンノウの名で祀られていたことは認めている。

 しかし、感神院時代の祭神は、通常
  中の座  牛頭天王
  東の座  八王子(牛頭天王の御子神8座)--八王子の末子・蛇毒気神とするものもある
  西の座  婆梨采女
とされている。
 ただ、《八坂神社》がいう婆竭羅龍王が西座祭神・婆梨采女の父とされることから、東座に祀られてもおかしくはないが、現在の祭神からみて八王子とするのが順当であろう。

◎スサノオ
 ・書紀8段・一書4に
 「(乱暴な行為のために高天原を追われた素戔鳴尊は)その子・五十猛神を率いて新羅国に降られて、曽尸茂梨(ソシモリ)のところにおいでになった。
 しかし、『私はこの地には居たくない』といわれて、土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲国の簸川の上流にある鳥上の山に着かれた(以下、八岐大蛇退治へと続く)
とあり、高天原を追われたスサノオは新羅国のソシモリに天降ったが、この地に居るのは嫌だとして、舟を造って出雲に帰ったという。

 従来の説では、書紀にいうソシモリを牛頭山に充て、《八坂神社》は
 「スサノオがおられたという“ソシモリ”は“ソシマリ”または“ソモリ”ともいい、韓国語の牛〈ソ・ソシ〉頭〈モリ〉にあたり、“牛頭”または“牛首”を意味する。
 韓国には江原道春山に牛頭山があり、そこには熱病に効果のある栴檀を産することから、この山の名を冠した神が信仰されてきた」
として、スサノオが降った新羅のソシモリとは牛頭山であって、そこから、牛頭山に坐す神(牛頭天王)はスサノオだという。

 これに対して、韓国の学者から、
 ・ソシモリ・ソモリのソ・ソシは高く上がるとか、杜(モリ)の意味があり、モリ・マリは単に頂上を意味する言葉で、
 ・牛の字は単にソ・ソシの音に牛の字を充てただけで、
 ・魏志・韓伝にある「蘇塗」(ソト・聖地に立てられた高木で、逃亡者が此の地に逃げ込んだら追求されなかったというアジールの一種)に通じるのではないか
との異論があること挙げ、
 ・してみると、従来の牛頭天王観はことごとく否定されることになり、祇園の神を牛頭天王として文字通り牛の頭を祀ったと解したのは、文字に拘泥したもので
 ・韓国の牛頭山も蘇塗を立てた聖地であろう。すなわち、高い柱を立てて神を迎え祭をおこなったのであり、わが国でも太古以来の祭祀の様式であり、そこに迎えた神にスサノオがあった。
として、牛頭山とは蘇塗が立てられている聖地・アジールであって、ゴズテンノウとは無関係という。

 ソシモリがアジールであるとすれば、高天原の秩序を乱す乱暴な神として追放されたスサノオが、一旦アジールであった新羅のソシモリに身を潜め、ほとぼりが冷めてから改めて出雲国に帰ったというのも筋は通るが、牛頭山がアジールであった確証はない。

◎祇園社の本縁
 今、当社の主祭神はスサノオとなっているが、それは、備後国風土記逸文(釈日本紀-1274--1301の間・鎌倉末期-に引用)・疫隅の国社(エノクマノクニツヤシロ)条によるもので、そこには
 ・北の国の武塔(ムトウ)の神が、南の海の神の娘への求婚(ヨバイ)の旅に出かけた
 ・途中で日が暮れたので、富み栄えていた弟の蘇民将来(ソミンショウライ、祇園牛頭天王御縁起などでは「古単将来」・コタンショウライ)に宿を借ろうとされたが、弟は惜しんで貸さなかった
 ・そこで兄の蘇民将来に宿を頼んだら、よろこんで宿をお貸しし、貧しいなか心を尽くして饗応した
 ・翌朝、武塔神は機嫌良く南海に出立され、数年たって、八柱の子供を連れて帰ってこられた。
 ・そして、兄の蘇民将来の家に立ち寄られ、「私は(自分を粗略にあしらった弟の)将来にお返しをしよう。お前の子孫はこの家に居るか」と問われた
 ・兄の蘇民将来は「私の娘とこの妻がおります」と答えた
 ・そこで神は「茅の輪を腰に着けさせよ」と仰せになったので、仰せのままに茅の輪を腰に着けさせた
 ・その夜、蘇民の娘と妻を残して、(弟の蘇民将来の)全員をことごとく殺し尽くし一家を滅ぼしてしまわれた
 ・そこで兄の蘇民将来に、「吾は速須佐雄(ハヤスサノオ)の神である。後の世に疫病が流行ったら、蘇民将来の子孫だといって、茅の輪を腰に着けた人は免れるであろう」と仰せられた
 ・先師云 是即ち祇園社の本縁也
とあり(東洋文庫版)、その最後に、武塔神が「吾はハヤスサノオである」と名乗ったことによる。

 ただ、ここでスサノオと名乗ったのは武塔神であって、牛頭天王ではなく、又この名乗りは、釈日本紀の編者(卜部兼方)による“私意的な加筆”とする説が有力という。
 風土記の文脈からみて、この名乗りは唐突との感は強く、それに続く蘇民将来の子孫云々との部分は、名乗りがなくとも意味は通じ、文脈としては、むしろない方が自然かと思われる。

 祇園社関係史料で武塔神の名が登場するのは風土記のみで、その後の資料には、扶桑略記(1097頃)・延久2年(1070)条に、
 「10月14日、感神院大回廊・舞殿・鐘楼皆悉く焼亡す。但し天神御躰之を取り出し奉る・・・
  11月18日 官使を以て感神院八王子四躰、ならびに蛇毒気大将軍御躰焼失の実否を検録す」
とあるように“天神”と記されているものが多く、11世紀頃までは天神とされていたという。
 ただ、同じ火災記録を記す本朝世紀(1147)延久2年条には“牛頭天王御足焼損”とあり、牛頭天王が登場するのは12世紀(平安末期)以降という。

 牛頭天王と武塔神との関係について、 
 *牛頭天王を武塔天王の別名とするもの
  ・祇園大明神事--抑も祇園大明神は世人天王の宮と申す。即ち牛頭天王是なり。牛頭天王は武答天神等の部類の神なり。天刑星(テンギョウセイ)とも武答天神とも牛頭天王とも崇る。
  ・伊呂波字類抄--天竺より北方に国あり、その名を九相と云。その中に園あり、名を吉祥と云。その園に城あり、その城に王あり、牛頭天王、又の名を武答天神と云
 *牛頭天王を武塔天王の御子神とするもの
  ・祇園牛頭天王御縁起--須弥山の半復に国あり。豊饒国(フニュウコク)とゆふ。其国の王を名づけて武答天皇と申す。一人太子御座。七歳にして身の丈七尺五寸あり、頂に三尺の牛頭あり・・・天皇、奇代の生き物かなと思ひ給ひて、大王の位を去りて太子に譲り給ふ。其御名を牛頭天王と号し奉る
  ・牛頭天王祭文--武塔天神の息子の牛頭天王には、后が決まらなかった
  ・牛頭天王島渡--それ須弥の半復に豊饒国と申す国あり、此国に王一人御まします、御名をとうむ天王(武塔天王)と申す、・・・その後、王子一人御誕生なし給ふ、御名をば牛頭天王と申す
などがあり、武塔・牛頭の両天王は同体もしくは親子関係にあるという。

 一般に御子神は父神の神格を継承するとされることから、御子神としての牛頭天王を武塔天王と同一神としてもおかしくはなく、そこから
 ・武塔天王=素戔鳴尊
 ・武塔天王=牛頭天王  即ち 牛頭天王=素戔鳴尊
という理解がうまれたと思われる。
 (神仏分離令での取り壊しを逃れるために、ほぼ同じ神格をもつ素戔鳴命を持ち込んだともいう)

 当社は、スサノオが始めからの祭神であると主張し、牛頭天王を極力無視しようとしているが、当社関連の古史料などに出てくる祭神は牛頭天王であってスサノオではない。

 なお、武塔神(牛頭天王)とスサノオを同体とする由縁は、スサノオが朝鮮半島のソシモリに降臨したとの神話によるのではなく、スサノオが持つ、
 「長い顎髭が胸元な届くようになるまで、長い間泣きわめいて、海川の水をすっかり泣き乾してしまうほどであった。その為、禍をおこす悪神の騒ぐ声が夏の蝉のように充満し、あらゆる悪霊の禍が一斉にわき起こった」(古事記)
という禍をもたらす疫神的な神格が、武塔の神がもつ古単将来一家を一挙に皆殺しする疫神としての神格と類似することによると思われる。

◎牛頭天王
 通常、牛頭天王はインド祇園精舎の守護神といわれ、これを採用する資料は多い。
 しかし、牛頭天王について記す経典(義浄三蔵訳・仏説武塔天神王秘密心点如意陀尼経など)は、何れもわが国で作られた偽経といわれ、これらの経典を根拠に、牛頭天王が祇園精舎の守護神というのは疑問という(インドには牛頭天王を祀る風習はないともいう)

 牛頭天王と祇園精舎との関係が疑問視されるとはいえ、西方で生まれた牛頭天王信仰は、イ中国・朝鮮半島を経由してわが国に至る間に、道教・密教・陰陽道・宿曜道などと習合したといわれ、特に陰陽道の影響が強いという。

 牛頭天王は、一義的には行疫神(疫神・疫病神)とされるが、辟邪絵(ヘキジャエ、12世紀後半・鎌倉前期頃)に描かれている天刑星(テンギョウセイ・テンケイセイ、悪鬼・邪鬼の類を退治する星神)との絵の詞書きに
 「かみに天刑星と名づくる星います。牛頭天王およびその部類ならびに諸々の疫鬼をとりて、酢にさしてこれを食す」
とあり、この絵は、蓬髪の天刑星が四臂のそれぞれに、牛頭天王をはじめとする疫神を掴んで食わんとしている様を描いたものという。
 ここでの牛頭天王は、天刑星に退治される行疫神の類いであって、仏教寺院で四天王の足下に踏みつけられている邪鬼の類いとされている。

 その退治される側(行疫神)の牛頭天王が、疫神の跋扈を防ぎこれを鎮圧する側(辟邪神)に転化したのは、陰陽道の大家・安倍清明の著と伝承される簠簋内伝(ホキナイデン、鎌倉末期に祇園社の社家・晴明が清明に仮託して書いたという)で、そこには
 「時に北天竺摩訶陀国、霊鷲山の艮、波尸那城の西、吉祥天の源の王舎城の大王を、名づけて商貴帝(ショウキテイ)と号す。嘗て帝釈天に仕へて善現天に居まし、三界の内に遊戯して諸星の探題を蒙り、名を天刑星(テンギョウセイ・テンケイセイ)と号す。信敬の志深きによりて、今娑婆世界に下生して、改めて牛頭天王と号す」
とあり、ここでの牛頭天王は敵対していたはずの天刑星と習合して、自らが邪鬼や悪疫神を捕らえて食べる荒々しい神へと変身している。 

 三代実録によれば、貞観11年・同14年の京洛の地に疫病が流行し、多くの人々が亡くなったとあり、それら疫神の跋扈を押さえるために創祀されたのが感神院であることから、その祭神としては、行疫神の頭領として、諸々の疫神を鎮圧する力を持つ牛頭天王の他にはなかったといえよう。


牛頭天王像
(朱智神社蔵
・国重要文化財)

牛頭天王像
(資料転写)
 
辟邪絵・天刑星
(資料転写)


◎婆梨采女(ハリサイジョ)
 南海の龍王の三女で牛頭天王(風土記では武塔天王)の正妃で、感神院・西座の祭神(今は櫛稲田姫として東座に鎮座)。頗梨采女・波利采女とも記す。
 南海の龍王とは、法華経堤婆達多品で女人でありながら(一旦男子に変性して)成仏したといわれる龍女の父・沙竭羅龍王(シャカラリュウオウ)とされ、そこから婆梨采女は成仏した龍女ともいう(龍女は長女で、婆梨采女は三女だから違うともいう)

 当社に龍王の娘が祀られることは、当社と龍神信仰(水神信仰)との関わりをうかがわせるもので、続古事談(1219)には
 「祇園の宝殿の中には、龍穴ありとなん云ふ。延久の焼亡の時、梨本の座主その深さを測らんとせられければ、五十丈に及びて、なお底なし、とぞ。・・・」
とあり、その龍穴は神泉苑の神池まで続いているとの伝承があるという。
 今、龍穴の有無の確認はできないが、宮司の話では、本殿の床下に井戸あるいは池のようなものがあったという。

 婆梨采女は別名を少将井ともいう。
 少将井とは、現中京区少将井町・少将井御旅町付近にあった名泉の名で、この井戸の脇に建てられた祠が御幸祭における西座神輿の御旅所となったことから、西座の祭神・婆梨采女を少将井と呼ぶようになったという。
 なお少将井は、枕草子(161段、1000年頃)に「井は ほりかねの井 玉の井・・・少将井・・・」とある古くからの名泉の一で、11世紀の初め頃、大原から出てきた歌人の尼(続拾遺和歌集-1086に歌2首が載る)が住み、少将井尼と呼ばれたという。 

◎八王子
 牛頭天王と婆梨采女の間に生まれた8柱の御子神をいう。
 八王子神の神名は縁起・祭文などによって異なり、主なものとして次のようなものがある(天王を省く)

資料名    ①   ②  ③  ④  ⑤  ⑥  ⑦  ⑧
祇園縁起  相光  魔王  倶魔羅  徳達  羅持  達尼漢  侍神相  宅相神せう 
簠簋内伝  惣光
(ソウコウ) 
魔王
(マオウ) 
倶魔羅
(クマラ)
得達
(トクタツ) 
良持
(リョウジ) 
持神相
(ジシンソウ)
宅神天
(タクシンテン)
蛇毒気神
(ジャドクキシン) 
牛頭天王祭文  生広
(ショウコウ) 
魔王  倶魔羅  達你迦
(タツニカ) 
蘭子
(ランシ) 
徳達
(トクタツ) 
神形
(ジンギョウ) 
三頭
(サンズ) 
 八将軍神
(参考)
大歳神
(タイサイ) 
 大将軍
(ダイショウグン)
太陰神
(タイイン) 
 歳刑神
(サイギョウ)
 歳破神
(サイハ)
 歳殺神
(サイサツ)
 黄幡神
(オウバク)
 豹尾神
(ヒョウオ)

 これら八王子神名の由来は不明だが、陰陽道独特の摩訶不思議な神名が並ぶ。

 古くは、陰陽道で各方位を守る守護神とされる八将軍神(八将神・方位神ともいう)に充てられることが多い(最下段参照)
 八将軍(方位神)とは、東西南北の各方位に坐して吉凶を司るとされ、人々が何らかの行為をおこなうとき、その方角に坐す神が吉神であれば吉事を、凶神であれば凶事(禍)をもたらすとされる神で、平安から中近世に亘って人々の行為にいろんな制約を及ぼしたという(今も方違え・カタチガヘの風俗としてわずかに残っている)

 八将軍神が如何なる神かはよくわからないが、陰陽道の大家・安倍清明編と付託される簠簋内伝(南北朝頃)の解説書・簠簋内伝図解(1912・明45)によれば、
 *天道神方
   天道神は牛頭天王なり、此方に向ひ万事大吉、胞を蔵め、鞍置始め其の他一切求むる所成就の地なり(以下、各月毎に、どの方角に居るかを記す、以下同じ)
 *歳徳神方(トシトクシン)
   歳徳神は婆梨采女なり、稲田姫なり、以上三名一体、南海の龍女なり、京都に於て祇園の本社内陣の西脇なり、世人之を崇めて少将井の神社と云ふ 歳徳の方は一年の間有徳の方なり(歳徳神の居る方角を恵方と呼ぶ)
 *八将神方
   八将神は牛頭天王の八王子にして、春夏秋冬の四土用に行疫の神なり、京都に於て祇園の本社内陣の東脇なり、
 蓋し牛頭天王とは天道神なり、武塔天神なり、又素戔鳴尊なり、以上四名一体にして万事大吉、大歳神の方はその歳その支(エト)の方なり、此一神を以て余の七神の方を知るべし
  ・大歳神  惣光天王 本地薬師如来
    此方に向ひて造作・薬を求むるなど諸事大吉・・・此神は牛頭天王第一の王子なり
    ・・・・・
  ・豹尾神(ヒョウビシン) 蛇毒気神 本地三宝大荒神
    此方に向ひて大小便するは凶、宜しく六畜を収めざるべし・・・此神は牛頭天王第八の王子なり
として、天道神を牛頭天王に、歳徳神を婆梨采女、八将神を八王子に充て、つづけて
 *天徳神方 
   天徳神は蘇民将来の方なり、或は武答天神と云ふ、此方に向へば病を避くべし、・・・八万四千の行疫神出行するとも此方を犯さず、故に大吉方と知るべし
 *金神(コンシン)七殺方
   金神は古単大王(古単将来)の精魂なり、七魂遊行して諸衆生を殺戮す、故に尤も厭ふべし、
とある。

 通常、八王子を以て東座の祭神というが、二十二社註式は蛇毒気神を以て東座の祭神とし、沙竭羅龍王女 今御前也と注記している。
 ここで、蛇毒気神が龍王の娘ということは婆梨采女の姉妹ということで、註式が婆梨采女を本御前、蛇毒気神を今御前ということは、婆梨采女が牛頭天王の正妻で、蛇毒気神は第二后であることを示唆し、それは蛇毒気神が八王子という範疇から離れて独立した神であるともとれる。

 蛇毒気神が八王子の範疇から離れていることは、その出自からもいえることで、津島天王社(愛知県津島市)に伝わる祭文・牛頭天王島渡りによれば、
 ・この王子は、婆梨采女が七人の御子を生んだときの胞衣(エナ)と月水がチサンの池に捨てられ、それらが集まって生まれたという異常な出生譚をもつ神で
 ・牛頭天王が七王子を連れてわが国に帰ろうとしたとき、蛇と化して舟を追いかけて、「吾も又子なり。何ぞ捨て給うや」と名乗った
 ・牛頭天王は「我が子にあらず」と否定したが、婆梨采女が乳を搾り出すと、その乳が七王子と同じく蛇毒気神の口にも入ったので、王子であることが認められ、一緒に帰朝した(大略)
という。

 このような出自から、蛇毒気神は龍神としての性格を最も濃厚に引き継いでいるといわれ、そこから八大龍王の子孫として、他の兄弟とは違った独立神としての神格を有するようになったともいう。

※社殿等
 今、四条通りの突き当たりに建つ朱塗りの美麗な西楼門(国指定重要文化財)が正門のようになっているが、本来の正門は、南に回り込んだ処に建つ南楼門で、祇園祭の神輿渡御もこの門から出発する。

 西楼門は重層八脚楼門で八坂神社の象徴的建物となっているが、応仁の乱(1467-77)で焼失したあと明応6年(1497)に桧皮葺きで再建、永禄年間(1558--70)瓦葺きに替え、明治45年(1912)解体修理、大正2年(1913)四条通りの拡張に伴い東へ6m・北へ3mほど移動したという。


八坂神社・西楼門 
 
同・南楼門 

 南楼門を入った境内中央に、軒下に多くの提灯を下げた舞殿(入母屋造・銅板葺)があり、その奥に朱塗りの本殿(三間向拝付き入母屋造・桧皮葺、国指定重要文化財)が鎮座する。

 現在の本殿は、拝殿と本殿とを一棟の建物内に収めたもので(右下・模式図)、祇園造(ギオンツクリ、八坂造ともいう)という。
 しかし、嘗ては本殿・拝殿それぞれが別棟だったようで、二十二社註式に引用する承平5年(935・平安前期末)6月15日付けの太政官符には
  神殿  五間桧皮葺一宇 天神・婆利女・八王子
       五間桧皮葺礼堂(拝殿)一宇 
として、本殿・拝殿2棟の社殿があったと記す。
 ただ、寛和2年(986・平安中期)の古地図には、現在と同じく一棟の社殿が描かれていることから、承平5年から寛和2年の間(平安中期)に現在のようになったと推測される。

 現在の本殿は、正保3年(1646)に焼失したものを承応3年(1654)に再建したもので(4代将軍家綱)、その後幾度かの修理を経たというが、基本的には承応年間の様式を継承しているという。

 
舞 殿

本 殿 

本殿模式図

※攝末社

当社には攝末社が多く、本殿の周りに摂社2社・末社25社(社殿数:12宇)を数える。
 (以下、西楼門の正面に鎮座する疫神社から逆時計回りに記す、括弧内は祭神)

[西楼門内]
*疫神社(エキガミシャ・蘇民将来)--摂社
  西楼門を入って正面にある小祠(西面)
  祭神の蘇民将来とは、貧しいながら、宿に困っていた武頭神(牛頭天王)をもてなしたことから、疫病除けの呪符(蘇民将来之子孫の符)を授けられたとの伝承をもつ人物で(蘇民将来伝承)、ここでは疫病除けの神として祀られたのであろう。
 蘇民将来が摂社の神として祀られていることは、八坂神社の祭神が牛頭天王であったことの証ともいえる。
 1月19日・7月31日には当社鳥居に茅の輪を掛け、粟餅を供えて祭が行われるというが、これも蘇民将来伝承によるものといえる

境内社殿配置図
*太田社(猿田彦命・天宇受女命)
  疫神社の右(南側)に鎮座する小祠(西面)
  祭神及び鎮座位置からみて、道案内・道中安全の神として祀られたのであろう  
 
摂社・疫神社
 
末社・太田社 

[本殿南側]
*蛭子社(事代主命)--国指定重要文化財
  疫神社前の参道を南に突き当たった処に北面して鎮座するエビス社(末社)、北面蛭子社ともいう
  《八坂神社》には、「もと千本の西、蛸薬師の南、夷森にあり西宮と称した。中世本殿境内、西楼門内南方に移した」とある
*大国主社(大国主命・事代主命・少彦名命)
  南参道の社務所の反対側に南面して鎮座する末社(太田社の斜め後ろに当たる)
*玉光稲荷社(宇伽之御魂神)
  境内南東隅・円山公園への出口の南に西面して鎮座するイナリ社(末社)
  なお、当イナリ社の東・石垣の上に命婦稲荷社があるが、八坂神社との関係は不明。  


末社・蛭子社 
 
末社・大国主社
 
末社・玉光稲荷社

[本殿東側]
 本殿東側に攝末社3社が南北に並ぶ。南より
*大神宮社(天照大神・豊受大神)
  鳥居を持つ境内奥の左右に2宇が鎮座する。伊勢神宮の内宮・外宮に対応する
*悪王子社(スサノオの荒魂)--摂社
  悪王子の悪とは、悪いという意味ではなく、強い・荒々しいといった意味で、その意味でスサノオの荒魂(アラタマ)として祀られたものであろう(神は荒魂と和魂-ニギタマの2種類を合わせ持つという)
*美御前社(ウツクシゴゼンシャ、多岐理比売命・多岐津比売命・市杵島比売命)
  アマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)に際し、アマテラスがスサノオの佩いていた剣を噛み砕いて吹き出した霧のなかから成り出たという三女神で、スサノオの剣を物実(モノザネ)とすることからスサノオの御子とされる(古事記)。宗像の三女神を指す。
  《八坂神社》は、容姿端麗であったとの言い伝えから、美容の神として祇園の舞妓や若い女性らのお参りが多いというが、この三女神は海洋航行の守護神としての神格が強く、美容の神というのは後世の付会であろう。

 
末社・大神宮社
 
摂社・悪王子社
 
末社・美御前社

[本殿北側]
 本殿の背後(北側)東寄りに鎮座する4社、東より
*日吉社(大山咋神・大物主神)
  比叡山麓の坂本に鎮座する日吉大社からの勧請だろうが、大社での祭神は大山咋神・大己貴神という
*刃物神社(天目一箇神)
  天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)とは鍛冶の神・タタラ製鉄の神
*五社合祀社--下記
*厳島社(市杵島比売命)
  宮島の厳島神社からの勧請だろうが、市杵島比売は弁財天と習合していることから、福の神として祀られたのかもしれない


末社・日吉社 

末社・刃物神社 
 
末社・五社合祀殿

[本殿西側]
*十社合祀社--明治10年合祀、合祀社名下記
*大年社(大年神・巷社神-チマタヤシロノカミ)
  大年神はスサノオの御子(古事記)で一般に穀神・農耕神というが、巷社神は出自神格ともに不明

 
末社・十社合祀殿
 
末社・大年社 

*五社合祀社
  ・八幡社(応神天皇) ・毒龍社(奥津比古神・奥津比売神) ・風神社(天御柱命・国御柱命)
  ・天神社(少彦名命) ・水神社(高龗神-タカオカミ・罔象女神-ミツハノメ)
*十社合祀社
  ・多賀社(伊邪那技命) ・熊野社(伊邪那美命) ・白山社(白山比売命) ・愛宕社(伊邪那美命・火産霊命)
  ・金峰社(金山比古命・磐長比売命) ・春日社(武甕槌命・斎主神・天児屋根命・比売神) ・香取社(経津主命)
  ・諏訪社(建御名方神) ・松尾社(大山咋命) ・阿蘇社(健磐龍命・阿蘇津比古命・速甕玉命)

 これら27社のなかで、当社に関係の深い神社は摂社の疫神社・悪王子社の2社で、他の小祠はその時々の地元民の要請あるいは明治末期の神社整理政策によって中小神社を集めたものと思われるが、その経緯は不明。

※祇園祭
 今、祇園祭といえば7月17日(及びその前後)におこなわれる山鉾巡行を指すが、これは八坂神社の氏子ら(町衆)によっておこなわれる祭礼であって、八坂神社主催のそれではない。
 八坂神社主催の祭礼で一般に拝観できるものは、神輿渡御(御幸:7月14日、還幸:同24日)とその前後におこなわれる神輿洗(7月10日・28日)である。

 祇園祭の始まりについて、祇園社本縁録に
 「貞観11年(869)、天下大疫之時 宝詐隆水 人民安全 疫病消滅鎮護の為 卜部日良麻呂 勅を奉じ 6月7日 66本の矛を建て 同14日 洛中男女及び郊外百姓を率いて 神輿を神泉苑に送りて祭るなり 是を祇園御霊会と号す」
とあり、この祇園御霊会を引き継いだのが現在の祇園祭だという。
 これからみると、平安の昔、疫病鎮圧の為におこなわれた感神院から神泉苑までの神輿渡御が祇園祭の原点で(今も中座神輿-素戔鳴尊が神泉苑まで巡行する)、それは牛頭天王(武塔天王)の漂泊の旅を再現したものだともいう。
 (今の神泉苑は、中京区御池通りと押小路通りに挟まれた狭い区画となっているが、桓武天皇による造営時-794の範囲は三条通から北は大内裏に至る広い区画だったといわれ、神池の中に善女龍王が祀られている--別稿・神泉苑参照)

◎四条御旅所
 下京区四条通寺町東入御旅宮本町
 四条河原町交差点を少し西へ行った四条通りの南側に2社並んで鎮座する。
 天正19年(1591)、豊臣秀吉が大政所御旅所と少将井御旅所を四条京極の北側(大政所)・南側(少将井)に移設したが、文久3年(1863)に焼失・再建、明治44年(1911)の四条通拡張により現在地に移設されたという。
 繁華街の中にあるため、通常は立ち止まる人もないが、7月17日の御幸祭では、夕刻、八坂神社を出た3基の神輿が、所定の経路を巡幸したのち当御旅所に集結して祭礼が行われ、還幸祭が行われる24日まで当所に安置されて賑わう。

*西社
  旧大政所御旅所の後継。
  大政所御旅所は、円融天皇・天延2年(974・平安中期)5月晦日、高辻東洞院に住む秦助正に御幸の夢想あり、後園の堺塚から蜘蛛の糸が八坂神社までつながっているのでこれを朝廷に奏上、宣旨によってその家を御旅所とし、感神院政所又は大政所と称したという《八坂神社》
  当御旅所には、中座(素戔鳴)と西座(八王子)の神輿が逗留する。

*東社
  旧少将井御旅所の後継。
  少将井御旅所は、昔、烏丸東洞院の辺りに少将尼という歌人がいて、長和2年(1013)神託により櫛稲田比売の神輿を後園の井の上に安置したことに始まるという《八坂神社》
  当御旅所には、東座(櫛稲田姫)の神輿が逗留する。

 
四条通御旅所・標柱
 
御旅所・東社
 
同・社殿

御旅所・西社 
   
同・社殿

*冠者殿社(カンジャデン)
 祭神--素戔鳴尊荒魂
       アマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)の時の気を祀るというが《八坂神社》、その意味は不明。
 冠者(元服したての若者)との社名からみると、ウケヒの時、スサノオがアマテラスの物実を噛み砕いて吹き出した霧のなかから生まれた5柱の男神とみることもできる
 四条御旅所・西社右側の路地の奥に祀られる小祠

 案内によれば、
  「嘗ては烏丸通高辻の大政所御旅所にあったが、天正19年に御旅所が現在の場所に移設された際、万寿院高倉の現官社殿町に移され、慶長の初め頃(1865頃、文久3年-1863ともいう)に現在の場所に移設された」
という。

 当社には、古く、誓文祓い(セイモンハライ)・無言詣りといった風習があったといわれ、資料によれば、
 「もと京都の商人が、商売の駆け引き上で嘘をついた罪を祓い清めてもらうため、陰暦10月20日に当社にお参りし、これを誓文祓いといった。この時、罪滅ぼしのために呉服屋が安売りをしたものである。
 また、遊女らは、馴染みの客に偽りの恋文や起請文を書いたり、嘘をついたりしたことを清めるための参詣をおこなうようになり、これを無言詣りといった」
という。
 誓文払いとは、日ごろ商売上の駆け引きで嘘をついた罰を祓い、神罰の赦免を願っての行事をいうが(広辞苑)、両神の誓約=契約にあやかって、日頃の駆け引きを償い正直な商売を誓う行事でもあるという(年中大売り出し・セールがなされている今の世で誓文祓いといっても通じないであろう)

 
冠者殿社・鳥居
 
同・社殿 

*御供社(ゴクウシャ、又旅社-マタタビシャともいう)
 中京区御供町(オントモチョウ)
 祭神--素戔鳴尊・櫛稲田姫命・八王子

 中京区・堀川三条交差点の東、三条商店街内北側に鎮座する境外末社
 商店にはさまれて朱塗りの鳥居が立ち、その奥に入母屋造の社殿が南面して鎮座する。

 社頭に掲げる案内によれば、
 「貞観11年(869)都に疫病が流行したとき、平安京の広大な庭園であった神泉苑に66本の矛を立て、祇園社の神輿を迎えて祇園御霊会がおこなわれた。
 当社は、往古の神泉苑の南端にあたり、祇園御霊会祭日である6月14日(現在は7月24日)には斎場が設けられ、祇園社の神輿3基を奉安し、神饌をお供えする。社名・町名はこれに因むものである。
 明治6年村社に列し、明治39年には村社を廃し八坂神社の境外末社となる。
 四条御旅所に対して、又旅所といわれている」
という。
 なお、神事に際して、社前に水辺を表す芝生が敷かれ、そこに神の依り代である御幣3本(オハケという)が立てられることから、嘗ての当社が神泉苑の池の畔にあったことがうかがわれるという。

 7月24日の還幸祭に際し、夕刻、四条御旅所を発した3基の神輿は、それぞれ所定のルートを巡幸して当社前に集結、神事の後、八坂神社への帰路につくという。
 
御旅所・御供社鳥居
 
同・社殿
 
蘇民将来の護符

*蘇民将来の護符
 御供社脇の民家の門に「蘇民将来子孫之門」と墨書した護符が貼られていた。
 この護符は、古くから伝わる疫病除けの護符で、風土記・疫隈国社条(エノクマノクニツヤシロ)にいう
 「(弟の古単将来一家を皆殺しにした武塔神が、兄の蘇民将来に)後の世に疫病が流行ったら、蘇民将来の子孫だといって、茅の輪を腰につけた人は免れるであろうといった」
ことから、この護符を身につけ、あるいは門口に張っておけば、疫病から免れることができるという信仰によるもので、
 2001年、長岡京(784--94)の発掘調査現場で、蘇民将来之子孫者と墨書した木札が出土し、この信仰が8世紀頃には各地に広まっていたことが証されるという(この木札には穴が開いていたことから、紐で首に掛けるか門口に打ち付けていたものと推測されるという)

 なお、嘗ての朝鮮半島にも同様の信仰があったようで、歴史民俗朝鮮漫談(1928・昭和初頭)との資料に、
 「平安南道で迷信調査をやったとき、『蘇民将来之子孫海州后人』と書いた赤色紙を門戸に貼って、病を防ぐ呪符とすることがおこなわれていることを見つけた」
とあり(今はなくなっているという)、呪符・蘇民将来之子孫の起源が朝鮮半島にあったことは確かだろうという。

*御旅所旧跡
 四条御旅所に移転する前の御旅所の跡という場所が残っている。
 ・大政所御旅所旧跡
  下京区大政所町
    四条烏丸交差点を南下、二つ目の辻を越えた東側、ビルに挟まれて鎮座する小祠
    豊臣秀吉が大政所御旅所を現在地に移したとき、旧社地に建てた小祠という
  四条京極に御旅所が移設される以前、大政所神輿(素戔鳴尊)と八王子神輿を安置したといわれ
  今も、嘗ての由緒にもとづき、神輿を一時安置しての祭祀があるという

*少将井御旅所旧跡(少将井神社)
  上京区京都御苑内の宗像神社境内に鎮座する小祠。
  四条京極に御旅所が移設される以前、地下鉄丸太町駅の南にある少将井町・少将井御旅町の辺りに、西座(婆梨采女)の神輿を安置する御旅所があったという(烏丸通り東側・京都新聞社屋の辺りという)
  少将井とは平安時代、この辺りにあった藤原実資(957--1046)の邸宅内にあった名泉・少将井に因むもので、
  その頃、大原から都に出てきた歌人である尼が、この地に寄寓して少将井の尼と呼ばれていたが、
  祇園祭の神輿渡御が近づいたある日、夢に神託を受け、西座の神輿を少将井の上に安置したのが、当御旅所の始まりという。
  井桁の上に神輿を安置するのは、疫病を免れるための霊水信仰にもとづくもので、婆梨采女は水を司る竜神の娘であることから、井戸の上に水神を祀り疫病を防御するという信仰が祇園信仰と習合したのであろうという。

 こうした経緯から、何時の頃かに井戸の辺に少将井社なる小祠が建てられ、御旅所移転の後、京都御苑内の宗像神社境内に移されている。
 7月24日の還幸祭では、神主が出かけて奉幣神事がおこなわれるという。

 
大政所御旅所・旧跡
(下京区大政所町)
 
少将井神社
(京都御苑・宗像神社境内)

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