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八幡信仰/藤崎八旛宮(熊本市)
熊本市井川渕町
祭神−−応神天皇(八幡大神)・住吉大神・神功皇后
                                                                 2008.10.09参詣

 藤崎八旛宮は、熊本城の北東約1.3qの住宅地内に鎮座する。国道3号線に面する大鳥居からつづく参道を進むと二の鳥居があり境内に入る。
 朱塗りの楼門と透塀で囲まれた神域には拝殿・申殿・本殿が縦に並び、境内の裏には白川が流れる。

※創建由緒
 当社所蔵の藤崎宮文書に残る古文書および社伝などを参照すれば、
  「承平5年(935、平安中期)に関東で起こった平将門(タイラノマサカド)の乱、同6年の九州・瀬戸内を中心とする藤原純友(フジハラスミトモ)の乱に際し、朝敵追討・九州鎮護を祈願するために石清水八幡宮から勧請された九州五社別宮の第三」
という。
 因みに九州五社別宮とは、筑前大分宮(ダイブ−現福岡県京都郡みやこ町)・筑紫千栗宮(チクリ−現佐賀県三養基郡北茂安町)・肥後藤崎宮・薩摩新田宮(現鹿児島県黒川郡大和町)・大隅正八幡宮(鹿児島神社・現鹿児島県霧島市)の五社を指す。

 明治10年(1877)の西南戦争までは、熊本城が建つ茶臼山からつづく西方約500mの藤坂台にあったが、西南の役で社殿が灰燼に帰し、また社地も熊本鎮台用地となったため、現在地に遷座、翌11年に仮殿造営、同17年に本殿造営をみたという。 

 社名・藤崎の由来について、縁起では
  「当社鎮座の日、勅使の持つ藤の鞭を三つに折り三ヶ所に挿して、奇瑞によって神宮の感応を求めたところ、此処に挿した鞭に枝葉が生じたので藤崎と名づけて宮居を定めた」
とある。
 しかし、旧社地が和名抄にいう“宮前郷”にあること、古墳の上にあったことなどから、藤崎宮勧請以前から宮(神名不明の地主神)があったと思われ、事実、古図によれば本殿の右側に「御崎殿」との社名が記されているという。
 なお、現藤崎宮社殿の脇にも「御崎社」があり、地主神を祀ると説明されている。

なお、当社は八幡の“幡”に「旛」の字を用いるが、天文11年(1542)後奈良天皇から、ご宸筆の「藤崎八旛宮」との勅額が下賜されたことによる。

 今、当社は神社となっているが、元々は“宮寺”という特殊形態をもって創建された神社で、正平12年(1357)の古文書(八旛藤崎宮造営注文)には「藤崎宮寺」とあり、その神宮寺とみられる「弥勒寺・勝成寺・妙楽寺」との三ヶ寺が記されているという。
 宮寺あるいは宮寺制とは、神仏習合思想から神社と併設された寺院(神宮寺)が一体となったもので、貞観年(860、平安初期)創建の石清水八幡宮護国寺に始まるという。
 宮寺神社にあっては、神社社前で仏典読経が奉献されるなどの仏教供養がおこなわれ、寺院組織に準じた職制をもち、妻帯・世襲を公認された社僧が社務を掌握し、在俗の神職は社僧の下位に置かれるなど、神社といっても実態は寺院と変わらなかったという。
 この宮寺制は、明治の神仏分離によって廃止され、多くの神宮寺(別当寺)は廃寺となり、社僧は還俗するなどして、宮寺神社は独立した神社となった。

◎祭神について
 今の祭神は、中央・第一殿に応神天皇(八幡神)、右・第二殿に住吉大神、左・第三殿に神功皇后を祀っている。50年前には、第二殿には仲哀天皇を祀っていたように思うが、記憶間違いかもしれない(筆者は昔、氏子であった)

 各地の八幡宮で、宇佐八幡で比売大神を祀る第二殿の祭神を仲哀天皇とする宮は見かけるが、住吉大神とは珍しい。住吉大神は神功皇后の朝鮮出兵の折に顕現しているから応神・神功と無関係とはいえないが、あるいは文永・弘安の役(1274・1281)で異国調伏を祈願したときに祀られたのかもしれない。


※社殿
 現在の社殿は、明治17年の遷座によるものだが、戦後、本殿以下の社殿の腐朽化が進んだため、昭和60年の鎮座千五十年式年大祭を目途に修復が進められ、逐次竣工したもので、朱色が青空に映えて美麗である。
 ただ、社殿様式は三殿が並列する八幡造ではなく、一殿の中に祭神三座を合祀したものとなっている。
藤崎八旛宮・二の鳥居
藤崎八旛宮・二の鳥居
藤崎八旛宮・楼門
同・楼門
藤崎八旛宮・拝殿
同・拝殿
藤崎八旛宮・本殿
同・本殿(左の社は申殿−資料転写)

※末社
 
神域左右の境内には末社9社(10座)が並んでいる。各社頭の案内を略記する

藤崎八旛宮・藤井垣社
◎藤井垣社
 当社鎮座の折、勅使が持つ藤の鞭が根付いたという伝承にもとづくもの
 明治17年の本宮遷座に伴い、その芽を移植したという
藤崎八旛宮・先師社
◎先師社
 旧武道会・熊本支部の敷地内にあったものを、昭和23年、同会の解散に
より、当地に移転したもの。当社祭神が武神としての色彩が強いことからのことであろう。
藤崎八旛宮・武内社・六所宮合祀殿
◎武内社・六所宮合祀殿
・武内社−−古代、景行・成務・仲哀(神功)・応神・仁徳に仕えたという伝説上  の忠臣・武内宿禰を祀る
・六所宮−−寛永9年(1632)豊前から肥後に移封された国主・細川忠利が、
  長子・光尚の産土神である豊前国中津の六社宮(加茂大神・春日大神・
   松尾大神・稲荷大神・八坂大神・貴船大神)
を勧請鎮斎したもの
藤崎八旛宮・御崎社
◎御崎社
 旧社地に祀られていた地主神(藤崎宮鎮座以前から旧社地にいた神)を、移転に伴い 遷座したもの
藤坂八幡宮・荒人社
◎荒人社
 本宮創祀のとき、御輿を奉じ総官として下向、そのまま神官に任ぜられ、
 社家の長官だった左中将・橘能員を祀る
藤崎八旛宮・菅原社
◎菅原社
 文政7年(1824)、和田満助なる者が土中から掘り出した石厨子状の物を
 祀ったとの伝承がある。明治10年、寺原町より当地に移転したもの
 菅原社という由緒不明
藤崎八旛宮・三光社
◎三光社
 オオナムチ・スクナヒコナを祀る祠
藤崎八旛宮・日田社 ◎日田社
 豊後日田の郡司であった日田永季(鬼太夫永季)を主神とし、その遠祖・先祖
 4柱を合祀した祠
 永季は11世紀初め頃の御前相撲で、生涯15回も優勝した勇者で、後世・
 相撲の神様と崇敬されたという
 なお参道脇に、永らく相撲の宗家とされ、横綱免許を出していた“吉田司家” があったことも、当社に関係するかもしれない
藤崎八旛宮・灰塚社
◎灰塚社
 本宮の毎日の供儀から出る灰を納めた処で、火の神・カグツチを祀る

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