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筥 崎 宮
福岡市東区箱崎1丁目
祭神−−応神天皇(八幡大神)・神功皇后・玉依姫命
                                                         2010.10.06参詣

 延喜式神名帳に、『筑前国那珂郡 八幡大菩薩筥崎宮一座 名神大』とある式内社で、宇佐・石清水両八幡宮と共に日本三大八幡宮の一に数えられる古社。正式には“ヤハタダイボサツ ハコサキグウ”と訓むが、通称“筥崎八幡宮”ともいう。

 福岡市地下鉄箱崎線・箱崎宮前駅1号出入口を出た、すぐ横にある参道を右に行けば本宮に至る。

※創建由緒
 当社参詣の栞には、
 「創建時期については諸説があり断定できないが、古禄によれば、延喜21年(921・平安中期)、醍醐天皇は神勅により『敵国降伏』の宸筆を下賜、この地に壮麗な社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分宮(ダイブ・穂波宮ともいう)より遷座した、となっている」
とある。
 創建年ま延長元年(923)は、延喜式編纂(927)の直前であることから、古く、当社の創建を“天平宝宇3年”(759・奈良時代)とみる説もある。
 しかし延喜式は、それ以前の弘仁式(820)・貞観式(871)をひきついだもので、そこに当社の元宮である大分宮が記載されていたものを、延喜式では大分宮から遷座した筥崎宮と差し替えたものと考えられ、当社の創建・延長元年は実年として認められるのではないか、という。
 因みに大分八幡宮は、現飯塚市(旧筑前国穂波郡)の山中に鎮座する古社で、祭神は当社と同じ応神天皇・神功皇后・玉依姫。神護3年(726)創建という。

 当社創建由緒にいう“神勅”とは、筥崎宮縁起(成立年代不明、筥崎八幡宮縁起と同じとすれば寛文12年-1672・江戸前期)によれば、
 「筑前穂浪の大分宮では三悪あり。三悪とは、
 @節会に参来する府官人ら暗愚の輩が、行路に御座ある伯母竈門宮(カマドグウ)に不敬をなす。
 A太宰府から大分宮に至る官道は険阻な山越えのため、饗膳にたずさわる郡司百姓等が苦しんでいる。
 B放生は海上で行うことゆえ、山間の大分宮では海から遠く不適当である。
 これらの三悪があることから、放生会の頓宮があった筥崎に新宮を営むよう、太宰少貳真材(サネキ)に告げられた」(大意)
というもので、これをうけて太宰府大貳藤原雅幹らが官符をうけて筥崎宮を創建したという。

 一方、当社の大分宮からの遷座には、
 @当時の太宰府官道(その経路に大分宮あり)利用の相対的な低下。
 A博多湾沿岸における新羅来寇に対する宗教的防御−−この要素が大きかった。
 B外賓通接の中心地としての博多湾の重要性の増大
といった政治的要素があったという(式内社調査報告・1978)

 醍醐天皇の御代(897--930)は、摂関職を置かず天皇親政に近かったことから、後世、“延喜の治”と呼ばれる理想的な治世とされるが、その実、菅原道真の太宰府配流(901)に象徴される宮廷内の権力抗争、疫病の流行、天災・凶作の続発など多難な時代だったともいう。
 一方海外では、中国での唐王朝の滅亡(907)・朝鮮半島の3分と新羅の滅亡(935)といった混乱が続き、その余波が交易・海賊といった硬軟取り混ぜた形で九州西岸に及んだという。
 そういった海外情勢の変化と混乱に対処し我が国を外敵から守るために、護国鎮護の神として最有力視された八幡大菩薩を、対外交流の最前線である博多湾頭に勧請したのが当社といえる。

◎竈門宮(カマドグウ)
 竈門宮とは、今、太宰府市の宝満山山麓にある竈門神社を指すが、カマド神社は延喜式で名神大社に格付けされる古社で、天智3年(664)の太宰府設置の時、鬼門に当たる宝満山麓で鬼門除けの祭祀をおこない、白鳳4年(673)に社殿を造営したという。
 祭神は玉依姫を主神とし応神天皇・神功皇后を配祀する。宝満宮とも呼ばれる。

 カマド社の祭神を伯母神とするのについて、筑紫国続風土記(貝原益軒編・1709・江戸中期)には、竈門宮について
 「八幡大神、竈門山明神を、我伯母とのたまふは、是を親みたまふ事、伯母のごとしと也。女を尊びてオバと称するは、我国のならはし也。其実は、竈門山の神は玉依姫なれば、伯母にてはおはしまさず」
と注記している。
 伯母神(タマヨリヒメ)に対する不敬は、吾(八幡大神)に対する不敬だから遷座したい、というのだろうが、末尾にいうように八幡大神とタマヨリヒメとの直接的な係わりはない。


◎敵国降伏
 筥崎宮は、八幡宮の中でも特に敵国降伏の祈願所として知られ、創建由緒にも“醍醐天皇のご宸筆が下賜され・・・”とある。
 これについて続風土記には、
 「末代に至り、異国より我国をうかがう事あらば、我其敵を防去べし。故に敵国降伏の字を書て礎の西、吾座の下におくべしと、新たに託宣有ければ、・・・敵国降伏の四字をば、延喜帝の勅筆にて37枚にあそばし、御宮柱の下に敷かせたまひしとかや」
とあり、
 当社栞には
 「敵国降伏の御宸筆は本宮に伝存する第一の神宝で、紺紙に金泥で書かれているもの(17.5×18.3cm)が、全部で37葉ある」
とある。この37葉の神宝とは、醍醐帝のご宸筆とされるものであろう。

楼門に掲げられる敵国降伏の神額
 敵国降伏といえば、13世紀後半の2度(1274・1281)にわたる蒙古襲来(元寇)時の祈願がある。年表等によれば、対蒙古折衝が難航していた文久8年(1271)、勅使を伊勢に派遣し敵国降伏を祈願しているから、来寇時の最前線と目される筥崎宮にも祈願がなされたと思われ、
 栞には、
 「(醍醐天皇)以後の天皇も納められた記録があるが、特に文永11年(1274)の蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり、亀山上皇が納められた事蹟は有名です」
とある。

 今、当社楼門に掲げる敵国降伏の額は、“文禄年間(1592--96)、筑前領主・小早川隆景が楼門を造営したとき、亀山上皇のご宸筆を謹写拡大したもの”という。

※祭神
 第一戸(右殿)−−応神天皇
 第二戸(中殿)−−神功皇后
 第三戸(左殿)−−玉依姫

 当社の祭神三座と八幡宮の総本社・宇佐のそれと比べたとき、応神天皇(所謂・応神八幡)神功皇后は同じだが、残る一座・宇佐の比売大神が当社では玉依姫命となっている。また、宇佐の比売大神は第二殿に祀られ、当社では第三殿という違いもある。

 宇佐八幡宮の比売大神については、
 「八幡神顕現以前から崇敬されていた地主神で、御許山に降臨した三女神が原点」
というが諸説もあり、その中には玉依姫とする説もある。
 玉依姫とは、“玉(神霊)が依り付く女性(巫女)”を意味する一般名称で、神の降臨を待って御子を生む“神の妻”(ミコ神)を指す場合が多く、記紀などには、海神の娘でウガヤフキアヘズと結ばれ神武天皇を生んだ玉依姫を初めとして、幾人かの玉依姫が神妻として登場している。

 当社栞には、
 「玉依姫命−−海の神、神武天皇の母君」
とあるが、神武帝の母君としての玉依姫と八幡大神との直接的な関係はみあたらず、神武の母神とする理由は不可解。
 玉依姫を八幡神と結びつけるため、竈門宮由緒では、
 「伯母神=神功皇后(応神の母)の姉君」
ともいうが、神功皇后に姉君があったとする系図も見えず、いずれも、八幡大神と関係づけるための牽強付会的色彩が強い。

 それよりも、宇佐地方の地主神である比売大神を一般化・普遍化して玉依姫と称したのもので、特定の神名を求める要はないのかもしれない。

 また、今の祭神は応神天皇以下三座となっているが、延喜式には一座とあり、最初は応神天皇(八幡大神)のみだった可能性もある。
 資料によれば、延久3年(1071)の筥崎宮神宝を列記した記録には、「神宝御装束御帳三脚」以下ほとんどが3の倍数となっており、このことから、延久3年以前に三座となったとみられるという。
 ただ、三座となったのが創建以後100年余の間とすれば、既に三座を祀っていたと思われる大分宮からの遷座とする創建由緒と平仄があわない。三座を一体として八幡大菩薩とみたのかもしれない。


※筥崎鳥居
 博多湾の海岸(潮井浜・朱色鳥居あり)から東へ延びる長い参道には、国道3号線脇に大鳥居(脇に高燈籠あり)が、地下鉄出入口近くに二の鳥居が、境内入口に一の鳥居(1609藩主・黒田長政建立、国指定重文)が立つ。
 当社の鳥居は、基本は明神型鳥居だが、柱が上下3段に切れ、下ふくれの状態で、笠木の両端が反り上がる、という特異なもので、“筥崎鳥居”とも呼ばれる。柱が太いことから、全体としてズングリした印象をうける。

国道脇の大鳥居
国道脇の大鳥居
筥崎宮/一の鳥居
一の鳥居

※社殿等
 創建時の様相について、筥崎宮縁起に「西面中門楼左右二棟廊 南北脇門以西者同二棟 脇門以東者単廊可造」と記すというが、よくわからない。
 その後、文永11年(1274)・弘安3年(1280・いずれも元寇に役による焼失)以下3度の焼失を経て、現在の本殿・拝殿は平安中期の再建。

 境内に掲げる室町時代の古図をみると、本殿域は現在とほぼ同じだが、楼門右前に多宝塔が、社殿背後に本地堂などの仏教堂舎がみえ、江戸時代には神宮寺(4寺ほどあったらしい)があったことを示している。

 八幡宮は、宇佐がそうであったように神仏習合の色彩が強い神社で、神宮寺があるのは当然だが、明治の神仏分離で神宮寺が分離され、今、その面影は皆無となっている。

 また、境内右手に末社らしいものが数棟見える。今は2棟に合祀されている末社も、古くは別々の独立社だったらしい。
筥崎宮/室町時代古図
筥崎宮古図・室町時代

◎楼門(国指定重文)
 境内正面に壮大な入母屋造の大屋根を頂く楼門が聳える。
   楼門−−三間一戸入母屋造・檜皮葺、建坪12坪の上に83坪といわれる大屋根が被っている。
 楼門正面には神社名が挙がるのが普通だが、当社の楼門には敵国降伏の金文字が輝いている。前述したように亀山上皇のご宸筆を拡大したものという。
 現在の建物は、文禄3年(1594・安土桃山期)、筑前領主小早川隆景の建立という。

筥崎宮/楼門・正面
楼門・正面
筥崎宮/楼門・近写
楼門・近写

◎本殿・拝殿(国指定重文)
 楼門のすぐ奥に拝殿、その奥に本殿が建つが、高い回廊に囲まれよく見えず、楼門正面・脇門から覗くのみ。
  本殿−−九間社流破風造・漆塗・檜皮葺 間口九間奥行四軒 左右に神が出入りする車寄せあり 建坪46坪 
        檜皮葺の大屋根の下に板葺の屋根をもつ二重構造という。
  拝殿−−流破風切妻造・檜皮葺 間口四軒奥行一間 
 いずれも天文15年(995・平安中期)、太宰大貳藤原有国の造営。

筥崎宮/本殿・正面
本殿・正面
筥崎宮/本殿・左側
本殿・左側
筥崎宮/本殿・右側
本殿・右側(栞より転写)

※ご神木『筥松』
 楼門の右前・朱の玉垣に囲まれた中に、数本の松が植わっている。
 
 参詣の栞によれば、
 「“筥松”または“しるしの松”と呼ばれるご神木で、応神天皇がお生まれになったときの“御胞衣”(エナ)を箱に入れ、この地に納めた標として植えられた松です。・・・この箱が納められたことで、“箱崎”と呼ぶようになった」
とあり、当所には応神天皇のエナを納めた箱が埋まっているといわれ、
 「応神天皇は12月14日に降誕され、大晦日の夜を徹してエナを埋められた」
との伝承に基づいて、毎年の大晦日に“御胞衣祭”(ゴホウイサイ)がおこなわれている。
筥崎宮/ご神木・筥松

 これに対して筥崎宮縁起には、八幡大菩薩の託宣として
 「昔我が天下国土を鎮護し始めた時、戒定慧の筥を彼の松原の地に埋め置いた所也。是により其の名を箱崎と号する也」
とあり、応神のエナの筥ではなく、八幡大菩薩が(修行の証として)戒定慧の箱を埋めたという。

 これらの伝承は、筥松の由来を語るとともに、箱崎(筥崎)の地名説話となっているが、その成立時期は不明。
 エナの筥伝承が古くからのものならば、北九州に多い神功皇后伝承の一つとして風土記(713)にあってもおかしくないのに、それがないことは、この伝承が後世の創作であることを示しているという。
 また戒定慧とは、仏教でいう戒律・禅定・智慧を指すが、応神の頃には仏教は知られておらず、この伝承は、早くても八幡神が仏教と習合した八幡大菩薩が定着した8世紀末以降に作られたものであろう。

 因みに、胞衣(エナ)とは胎児を包んでいる胎盤のことで、後産によって母親の胎内から出たエナは、古く、民俗社会では呪術的存在とされ、多くの人に踏まれるところ、あるいは逆に人に踏まれない所に埋めるのが良いとして、家の床下や玄関の敷居の下・墓地あるいは恵方の方など特定の場所に埋められ、その場所は多くの場合安産祈願・子育て祈願などの対象となったという。

※末社
 社殿背後の左右、東西2棟の末社殿に末社5社ずつ計10社が祀られている。各末社の勧請時期・由緒など不明。
 社務所で、各社の祭神及びご利益を記した栞をいただいたが、祭神の神格とご利益とが違和感なく結びつくものは少なく(例えば、池島殿では、海洋航海の守護神とされる宗像三神を、手足の守護神とする。旅に関係するからか)、半分は由緒不明の俗信社といわざるをえない。

 東末社殿
   池島殿(宗像三女神他、手足の守護神)・武内社(タケウチスクネ、不老長寿・健康の神)・乙子殿(ウジノワキイラツコ、子育ての神)
   住吉殿(住吉三神他、海上交通の守護神)・稲荷社(ウガノミタマ・ハニヤスヒメ、商売繁昌の神・田畑の守護神)
 西末社殿
   竜王社(ワタツミ神、海と空の守護神)・若宮殿(仁徳天皇他、芸能文化の守護神)・仲哀殿(仲哀天皇他、八幡の親神)
   厳島殿(イチキシマヒメ他、旅行安全の神)・民潤社(ミンジュン、ハニヤス神他、火除けの守護神)

筥崎宮/東末社合祀殿
東末社殿
筥崎宮/西末社合祀殿
西末社殿
筥崎殿/末社・池島殿
東末社殿の一・池島殿
筥崎宮/池島殿・奉納草履
池島殿は“手足の守り神”とされ
社頭に、草履が奉納されている

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