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日尾八幡神社
愛媛県松山市久米
祭神--品陀和気命(応神天皇)・帯仲日子命(仲哀天皇)・大帯姫命(神功皇后)
                                                              2015.10.17参詣

 松山市中心部の東南方、私鉄・伊予鉄道横河原線・久米駅の北東約200m、日王山中腹に鎮座する。
 駅北を平行する国道40号線(小松街道)を東へ、久米神社前交差点の北側に朱塗りの大鳥居が立ち、北へ参道(石段)が延びる。

※由緒
 境内に置かれていた「日尾八幡神社縁起」(以下、縁起という)には、
  「抑日尾八幡神社は、松山市大字南久米に鎮座ましまし、その草創は遠く奈良朝の昔にはじまり、現今、松山市久米地区並びに温泉郡小野村一円及び石井村一部の氏宮として、又、八社八幡の一として広く世に知られ、その御神徳はいよいよ高くあまねく世人の深く崇敬し奉るところである。

 当社は、今を去ること凡そ千二百余年前、天平勝宝4年(752)に宇佐より勧請し久米八幡宮と称し奉る。
 人皇第46代孝謙天皇(746-58)の勅願所であって、社伝に、天皇は当国の僧・瑟明に勅して社廟を修造せしめられ、天平神護元年(765)に工を起し同2年に完成し、大神朝臣久米麿(三輪田の祖)及び高市古麿(武智の祖)を斎主とせられしとある。(この時神護寺別当浄土寺を置かれ、僧・慧明は社僧となるという)

 その後、称徳天皇(764-70、幸謙天皇重祚)の神護景雲3年(766)2月には、勅使をもって神衣を奉納せしめられ、又、光仁天皇宝亀7年(776)8月及び同9年(778)3月の両度幣帛を奉らしめ給うなど、皇室の御崇信のきわめて厚かったことがうかがわれる。
    ・・・(中略)・・・
 当八幡宮は、その後、文治年中(1185--89)右大将源頼朝によって再興せられ、更に承久の頃(1219--24)河野通信により社殿の改築がなされたが、応永年中(1394--1427)炎上して建造物はもとより社宝旧記の類悉く烏有に帰したことは惜しみてもなおあまりあることである。
 これらのことは、別当寺・浄土寺に伝わる刑部大輔の簡板等によっても知ることができる。
  久米八幡同浄土寺者
  孝謙天皇勅願所再興兵衛佐朝頼以来御判形並四郎通信代々判形有り之 然所応永年中八幡宮炎焼畢其時彼重書等悉紛失云々 此条無偽旨宗徒以罰文申条為后亀注置者也
   以下略
  文明十三年(1481・室町末期)七月十日    刑部大輔(判)

 更に永享年中(1429--40)河野氏によって再び社殿が修復されたが、天正13年(1585)河野氏滅亡に伴い当社も一時大いに荒廃した。

 しかしながら、慶長8年(1603)加藤嘉明公勝山に御引き移りの節、新たに築かれた城の固めとして城山の四方にあたる近郷の八幡宮八社を選び定められ、各社に武運長久を祈願せられて以来、世にこれを八社八幡と称するようになった。
 而して当社もその中の一社(第3番)に数えられ歴代藩主をはじめ、広く世の人々の崇敬するところとなった。殊に久松定行公以来治封二百有余年にわたる松山藩歴代の藩主がいかに当社を深く崇敬せられたかは、今社家に残る当時の藩主の数々の祈願文等によってうかがい知ることができる。

 当社、往古は久米八幡宮と号し、中古は日王八幡宮といい、後に日尾八幡宮と改称した。 以下略」
とある。

 この縁起によれば、当社の創建は
 ・天平勝宝4年、宇佐八幡宮より勧請し(孝謙朝)、久米八幡宮と称した(以降・日王→日尾と改称)
 ・46代幸謙天皇の勅願所である
 ・勧請の14年後・神護景雲元年に社殿建設を初め、翌2年に竣工した(称徳朝)
というが、これを証する資料はない(空也谷を挟んで隣接する当社の別当寺・浄土寺の住職の話では「古資料焼失のため縁起等不明」という)

 縁起がいう天平勝宝4年とは東大寺大仏の開眼供養(東大寺創建)の年にあたり、この大仏鋳造に際して宇佐の八幡神は、天平12年(740)
  「神である吾は、天神地祇を率い誘って、必ず造仏を成就させよう。それは格別なことではなく、銅(アカガネ)の湯を水となし、わが身を草木土に交えて、支障が起こることなく無事に完成させよう」
と託宣(天平勝宝元年12月27日条)、以降全面的に協力したといわれ、為に、大仏鋳造が成った天平勝宝元年(749)12月には、八幡神が上洛し上皇(聖武)・天皇(孝謙)と共に大仏を礼拝したという(続日本紀)

 これ以降、八幡神は国家鎮護・仏教護法の神として朝廷から特別の崇拝をうけるようになるが、東大寺に隣接して手向山八幡宮がその鎮守として創建されるものの(天平勝宝元年)未だ全国展開には至っておらず、縁起がいう天平勝宝4年の勧請というのには疑問がある(八幡神の全国展開は石清水八幡宮創建-860以降というのが一般の理解)

 ただ、八幡神の大仏拝礼5年後の天平勝宝6年(754)薬師寺の僧・行信と宇佐八幡宮神職・大神朝臣多麻呂のふたりがおこした厭魅事件(人を呪い殺そうとした事件というが詳細不明)により、翌7年、八幡神は託宣して、それまでに朝廷から下賜された封戸・田畑を返還したとあり(続日本紀)、その時、
  「汝等、穢らわしくして過有り、神吾、今より帰らず」
と託宣して、海を渡り、伊予国宇和嶋(現愛媛県矢幡浜市)に遷って12年間鎮座し、神職団が刷新された(辛島氏・宇佐氏系神職団)天平宝宇7年(763)に宇佐に帰ったという伝承がある(宇佐宮承和縁起・1009頃成立)

 縁起にいう天平神護2年(766)とは八幡神宇佐復帰の直後であり、当社は八幡神の残された分霊を祀ったといえなくもないが、それを証する史料はない。
 よしんば、そうであったとしても、その鎮座の地に宇和嶋から遠く離れた(約50km)当地が選ばれた由縁は不明で、無関係とみるのが妥当であろう。

 また縁起は、光仁天皇宝亀7年及び9年に幣帛を奉られたというが、これは続日本紀・光仁天皇段に
 ・宝亀7年8月1日 使者を遣わして全国の諸神に幣帛を奉納した
 ・ 同 9年3月27日 天皇は大祓を行われた。使者を遣わして、幣帛を伊勢神宮と天下の諸神に奉幣した
とあるのを承けたものだろうが、天下の諸神の中に当社が含まれていたとの確証はない。

 これらからみて、当社の創建は、国家鎮護の神としての八幡神信仰が拡がった石清水八幡宮創建(貞観2年-860)以降と思われ、幸謙天皇勅願所という高い社格を有するにもかかわらず(疑義あり、別項・浄土寺参照)、貞観元年(859)の神階綬叙記録(三代実録・267社に授叙)、あるいは延喜式神名帳(2861社列記・927)にも列していないことから、確かなことは不明ながら、早くても10世紀以降の創建とみるのが順当であろう。

※祭神
 祭神(縁起による)
  ・西玉殿  品陀和気命(ホムタワケ・応神天皇)・帯仲日子命(タラシナカツヒコ・仲哀天皇)
  ・中玉殿  多紀理毘売命(タギリヒメ)・狭依毘売命(サヨリヒメ)・多紀都毘売命(タギツヒメ)
  ・東玉殿  大帯姫命(オオタラシヒメ・神功皇后)
  ・西玉殿側玉殿  建内宿祢命(タケウチスクネ)
  ・中玉殿  伊予比売命(イヨヒメ)・饒速日命(ニギハヤヒ)・天道日女命・若干柱命
  ・東玉殿側玉殿  猿田毘古大神(サルタヒコ)・伊予十城別小千王命

 西・中・東玉殿という社殿構成は宇佐八幡宮のそれと同じだが、その祭神については些少の違いがある。
 ・西玉殿--当社の主祭神・応神八幡神を祀るのは宇佐と同じだが、宇佐では仲哀天皇は祀られていない。

 ・中玉殿--タギリヒメ以下の3女神は所謂・宗像3女神と呼ばれる女神だが、宇佐では単に比咩神とあって特定の神名で呼ばれてはいない。
 宇佐の比咩神については諸説があり、主にものとして
  ・在地の3女神説--太古の昔、宇佐八幡宮背後の御許山に降臨したと伝える3女神で(御許山上には女神が降臨したという磐座がある)、宇佐の地主神としての比咩神であった蓋然性は高い。
  ・玉依姫説(タマヨリヒメ)--タマヨリヒメとは玉(魂・神霊)が依り付く巫女を指す一般的神名だが、宇佐託宣集などでは神武天皇の母・玉依姫(海神の娘)というが根拠不詳。
  ・宗像3女神説--アマテラスとスサノオによるウケヒによって誕生した3柱の女神で、書紀(6段)本文には「これが筑紫の胸肩君らがまつる神」とあり、今、福岡の宗像神社に祀られている。
  ただ一書3に、「三柱の女神を葦原中国の宇佐嶋に降らせられた」とあり、この宇佐嶋を豊前宇佐の地として、そこに降った3女神を宇佐八幡の比咩神とする説で、この説を採る神社は多い。
  当社が宗像三女神とする根拠は不明だが、この説は、江戸時代の学者等が主張しともいわれ、とすれば、当社本来の祭神は宗像3女神ではなく、宇佐に倣った比咩神だったと思われる。

 ・東玉殿--神功皇后を祀るのは宇佐と同じだが、宇佐八幡宮に神功皇后が祀られた(大帯姫廟神社)のは弘仁14年(822)といわれ、当社が創建当初から神功皇后を祀っていた(3社体制)のであれば、縁起にいう天平勝宝4年(749)勧請というのは有り得ないこととなる。

 ・西玉殿側玉殿--タケウチスクネとは12代景行天皇から16代仁徳天皇まで5代の天皇に仕えたという伝説的な人物で、特に神功皇后との関係が深いことから、各地の八幡宮に祀られている祭神。
 ただ、神功皇后との関係からいえば東玉殿側にあるのか相応しいと思われるが・・・。

 ・中玉殿に合祀されているとおぼしき伊予比売命について、縁起には
  「中玉殿に奉齊する伊予比売神は、往古伊予比古神と申す神とともに伊予国の地神として、又、部族久米部の祖神として久米郡神戸郷古矢野神山(今の平井町小屋峠)に奉祀されてあったが(この二柱の神はご夫婦の神という)、中古洪水あり社殿崩壊流失のことがあって、神霊を同村平井谷明神ケ鼻に遷座し奉ったが、その後(延喜17年とも云う)再び出水のため両神御神体ともに漂流し、伊予比売命の御神霊は日瀬里(今の久米窪田町 )の龍神淵にて引きあげ奉り、これを久米八幡宮に合祀するに至ったものである。
 因みに、伊予比古命の御神体は石井村天山の縦淵に留まり、そこより居合村に遷座し奉り伊予村大神と崇め祀ると。今の伊予豆比古神社である」
とある(今、松山市居相の式内・伊予豆比古神社は伊予比古・伊予比売2柱を祭神としている)
 ただ、ニギハヤヒ・天道日女命(読み不明)を合祀する由緒等は不明。

 ・東玉殿側玉殿--サルタヒコは天孫ニニギの降臨のとき、天と地の境界に顕れニニギの降臨を案内したということから、塞神(サイノカミ)・道祖神と習合し境界の神・道中安全の神とされる。
 当地が四国八十八ヶ所巡礼の道中にあることから、道ばたにあった道祖神をサルタヒコとして合祀さしたのであろう。
 合祀されている伊予十城別小千王命の出自・由緒等は不明

※社殿等
 久米八幡神社交差点の北側、低い石段の上に朱塗りの大鳥居が立ち(傍らに県社日尾八幡神社との石碑あり)、更なる長い石段の上に重層の楼門(入母屋造・瓦葺)が南面して建つ。
 楼門を入り、長いい石段を登った上が境内で、正面に拝殿(入母屋造・唐破風付き向拝あり)が、その奥、板塀に囲まれた中が神域で、大屋根の聳える本殿(流造・銅板葺)が南面して鎮座する。
 塀が高く、且つ近寄れないため本殿の詳細は実見不能。


日尾八幡神社・大鳥居 
 
同・楼門
 
同 左
 
同・拝殿

同 左 

同・内陣
 
同・本殿
 
同 左

◎境内末社
 神域内、本殿の左に春日神社(一間社流造・瓦葺)、右に五十鈴社(一間社流造・瓦葺)の小祠が南面して鎮座する。
 ・春日神社--祭神:建御賀豆智命・伊波比主命・天之子八根命
 ・五十鈴社--祭神:天照皇大神・八意思兼神・萬幡豊秋津媛神
   五十鈴社の柱には天照皇大神とある。
 いずれも鎮座由緒・時期等は不明。

 
末社・春日神社
 
末社・五十鈴社

 社殿域の右側の山麓高所に天満神社・東道後神社が南面して並ぶ。
 ・天満神社--祭神:菅原道真
   元、正面石段の途中東側にあったものを、氏子の希望により現在地に遷したものといわれ(昭和61年)、本来は天つ神を祀る祠だったが、平安時代に菅原道真に変わったという。
 ・東道後神社--祭神:天御中主大神・天照皇大神・月夜見大神
   傍らの案内には、
  「右祭神三柱の大神の御神徳を日・月・星の三光になぞらえ御社号を“三光神社”と申しあげ、古きより脳の守護神とし、殊に神経痛や中風除の神として崇敬されております。
 この度、神社の改築を期に併せて日尾神社氏子内の温泉守護神社として、社号を東道後神社の御改称申しあげ、云々
                                                            昭和49年3月吉日」
とある。
 アマテラスを日の守護神、ツキヨミを月の守護神というのは理解できるが、天地開闢に際して最初に成り出たアメノミナカヌシを星の守護神というのは解せない。
 あるいは、妙見信仰(北極星・北斗七星信仰)が明治の神仏分離によって、神社となった妙見社がアメノミナカヌシを祭神とすることによるのかもしれない(仏教では北辰妙見菩薩と称する)

 ・生目神社--祭神:品陀和気命(応神天皇)・藤原景道公
   石段下の左に鎮座する小祠。
  久米郷土誌(1992)によれば、
  「眼病に霊験ありと崇められる。宮崎市大字生目亀井川の生目神社から招来されたものという。
 宮崎市の生目神社は、元は生目八幡神社といわれた。創建は不詳だが今から約850年ほど前には既にあったといわれ、明治維新頃生目神社と改称し、目の神様として崇められている」
とあるが、勧請由緒・時期等は不明。

 
末社・天満神社

末社・東道後神社
 
末社・生目神社

 なお、縁起には境内末社として“黒田霊社”(祭神:黒田九兵衛霊)がある。
 久米郷土誌によれば、正面石段の途中西側にある小祠・奈良原神社(末社、牛馬の神)に合祀されているというが、気付かなかった。
 黒田霊社とは、関ヶ原の戦いの時、東軍に属した松山藩主・加藤嘉明が出兵した留守を狙って攻め寄せた西軍・毛利軍との戦いで奮戦戦死した松山藩士・黒田九兵衛の霊を慰めるための祠で、戦死した場所(日尾八幡社と横河原線の中間辺り)にあったものを当社内に移したものという。

 また久米郷土誌によれば、上記以外に杉谷金刀比羅社・愛宕神社があるというが、境内にそれらしき祠は見受けなかった。

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