トップページへ戻る

原八幡神/香春神社・古宮八幡宮
香春神社--福岡県田川郡香春町香春
祭神--辛国息長大姫大目命・忍骨命・豊比咩命
古宮八幡宮--福岡県田川郡香春町採銅所
祭神--豊比咩命

  八幡神は、自ら「吾、辛国の城に八流の幡を天降し、日本国の神として顕れ」というように、わが国古来からの神ではなく、外から入ってきた神だが、その原姿は新羅から渡来した神という。

※新羅の神
 豊前国風土記(天平5年733頃成立)・逸文に
 「田河郡・鹿春郷(カハル)。この郷の中に川があり、年魚(アユ)がいる。この河の瀬は清いので、清河原(キヨカハラ)の村と名づけた。いま鹿春の郷というのは訛ったのである。
 昔、新羅の国の神が自ら海を渡って来着し、この河原に住んだ。郷の北に峰がある。頂上に沼がある。黄楊樹(ツゲ)が生えている。また竜骨がある。第二の峰には銅と黄楊、竜骨などがある。第三の峰には竜骨がある」
との一文がある。竜骨とは獣骨の化石のことで、古くは“竜の骨”と称し、道教では不老不死の仙薬とされた。

 鹿春郷は、その後“香春郷”と転じ、今の福岡県田川郡香春町一帯を指す。香春はカワラと読み、河原からの転とも、朝鮮語で“金の村”を意味するカグポルからくるともいう。
 南から一・二・三の峰の並ぶ香春岳は石灰岩からなる山で、特に三の峰は銅を産出することで知られ、今も、三の峰麓には“採銅所”なる地名が残っている(風土記で銅を出すのは二の峰とあるが、三の峰の誤りか、という)

 第一峯:元は約500m近くあったが、昭和初期からの石灰石採鉱により頂上部が削られ、今は約300m、第二峰:470m、第三峰:511m。
 因みに、炭坑節で“ひと山、ふた山、み山越え”と唄われたのが、この香春3峰という。

 風土記にいう“新羅の神が来着し”とは、その神を祀る新羅の人が渡来してきたことを意味し、彼らは秦氏系といわれる(異論もある)
 秦氏とは、応神14年に百済から百二十県の民を率いて渡来した弓月王の後裔というが(日本書紀)、その出自については諸説があり、加羅あるいは新羅から来たとの説が有力。

 彼らは土木・養蚕・機織り・採鉱冶金といった先進技術をもって各地に展開したといわれ、風土記の記述は、新羅からの渡来人・秦氏が、香春岳の麓に居住して銅鉱の採鉱・精錬・鋳造に従事していたことを示している。

 これら渡来人が奉じていた新羅の神とは、わが国の素朴な自然信仰を許とする農業神的神格とは違って、新羅の古来信仰に仏教・儒教・道教などが複雑に混淆した特異な神だったという。特に香春に渡来した新羅の神は、渡来人のもつ鍛冶技術ともあいまって鍛冶の神という神格が強く、それにたずさわる鍛冶工人は、岩石から銅を取り出すという人智の及ばない呪力を持つシャーマンでもあったという。

※香春神社と古宮八幡宮
 『香春神社』は延喜式神名帳(927成立)に、
 「豊前国田川郡三座 並小
       辛国息長大姫大目命神社(カラクニ オキナガ オオヒメ オオメ、以下「息長比咩」という)
        忍骨命神社(オシホ)
        豊比咩命神社(トヨヒメ)
とある式内社を一社の中に合祀したもので、今、香春一の峰南麓に鎮座する。

 『古宮八幡宮』(元宮八幡ともいう。式内社ではない)
は三の峰麓に鎮座する。

 この両社に係わって幾つかの縁起・伝承が残っている。
① 香春神社縁起(成立年代不明)
 「元明天皇・和銅2年(709)第一岳麓に社殿建立。三社の神(現祭神と同じ)を併せ祀り奉り『新宮』という」
 なお、「息長大姫尊は神代に唐国(韓国・新羅)経営に渡らせ給い、崇神天皇の御宇、本郷に帰り給い第一岳に鎮まり給う。忍骨命は天津日大御神(アマテラス)の御子で、荒魂(アラタマ)は南山に和魂(ニギタマ)は第二岳に鎮まり給う。豊比咩命は第三岳に鎮まり給う。三神3峰に鎮座し“香春三所大明神”と崇め奉る」(大意)との注記がある。
② 続日本後記(869成立)・承和4年(837)
 「太宰府曰く、豊前国田河郡香春神は辛国息長火姫大日命、忍骨命、豊比咩命の是三社である。元々この山は石山であって草木がなかったが、延暦22年(803)、最澄が入唐するにあたってこの山に登り、渡海の平安を願って麓に寺を建てて祈祷したところ、石山に草木が繁茂するという神験があった。水旱疾疫の災いがある毎に郡司百姓が祈祷し、官社に列することを望んだので、之を許した」(大意)
③ 香春神社解文(弘安10年1287成立)
 「日置絢子が採銅所内にある阿曽隈を崇拝し奉る。降って元明天皇御宇・和銅2年、『新宮』に勧請し奉る。是香春也。本新両社と号す」
④ 三代実録(901年成立)・貞観7年(864)
 「豊前国従五位下辛国息長比咩神・忍骨神に従四位上を叙す」
⑤ 香春神社古縁起(太宰管内志所載、成立年代不明)
 「第一殿は大目命、第二殿は忍骨命、第三殿は空殿なり」
 第三殿空殿の理由として、「第三殿は豊比咩命の御殿だが、豊比咩命は祭の時のみ新宮に留まり、祭が終わると採銅所に帰られるから“空殿”という」との注記あり。

 ①の縁起と注記は、“古く3峰に別れて祀られていた息長比咩以下の三柱の神を、和銅2年に創建した『新宮』に合祀した”というもので、新たに創祀された新宮が今の香春神社に当たる。現香春神社の創建時期を示すものだが、当縁起の成立時期は、注記に“三所大明神”とあることからみて神仏混淆が進んだ平安以降であろう。

 ②の続日本後記で、3神を祀るというのは①と同じだが、息長比咩の名が“姫大命”となっている。火・日は誤写ともとれるが、あえて“火”を用いたともいう(後述)
 この記述によれば、香春社が朝廷からの幣帛をうける官社に列したのは、9世紀初頭頃ともとれる。8世紀初頭(和銅2年)に社殿造営し約百年たっての官社化ということになるが、新宮創建とされる和銅年間にも多くの古社が官社化したというから、どちらともいえない。
 なお最澄云々は、“叡山大師伝”などにも同様の記述があるというから、最澄の香春社参籠は事実だろうが、草木が生えたというのは後世の仮託である。

 ③は①とほぼ同意だが、③を読む限り、新宮合祀以前の神々は3峰別々に祀られていたのではなく、三の峰の採銅所内に祀られる“阿曽隈”一社のみともとれ、この阿曽隈社が、今の『古宮八幡宮』の前身と思われる。なお、同社社伝によりば、
 「古く採銅所邑岩本にあったが、永禄の頃(1688--1704)に現在地に遷った」
という(今も“古宮の森”との旧蹟があるらしい)
 ただ、阿曽隈の意は不明。新羅の神が最初に鎮座した地名ともとれるが、神名とも解される。
 阿曽隈をアソクマと読むとすれば、クマとは朝鮮語で“カミ”を意味し、アソとは“卵”を意味する“アル”と同意かと思われる。アル(卵)は神の御子とその母が籠もる容器を指すから、アソクマとは容器に入って渡来した母子神ということになる(朝鮮半島には、卵などの密閉容器から神の御子-始祖神を含む-が生まれたとの伝承が多い)
 それは、空船(カラブネ)に乗せられて漂着し、神として祀られたという大隅正八幡宮(鹿児島)の伝承とも連なる。

 ④の三代実録によれば、貞観7年に叙位された神は息長比咩と忍骨のみであって、豊比咩は省かれているが、その理由は不明。息長比咩と豊比咩が同体とみなされたのか、豊比咩は新羅の神の神格が強いとして省かれたのかもしれない。

 ⑤の古縁起および注記によれば、新宮の神は息長比咩と忍骨の二座で、豊比咩は阿曽隈=古宮の神と解され、新宮からみれば、豊比咩とは社殿はあるものの常住していない客神だったのかもしれない。また、この縁起は“古縁起”というだけで成立年代は不明。あえて推測すれば、①の縁起より古いものかもしれない。

※祭神について
◎辛国息長大姫大目命
 現香春神社の主祭神で、名前に冠する“辛国”に新羅=韓国(カラクニ)から渡来したというルーツが含まれているが、“息長”とは応神天皇の母・息長帯比売(オキナガタラシヒメ、神功皇后)を連想させる。朝鮮半島情勢が緊迫していた欽明から敏達朝(6世紀中頃)にかけて半島情勢を有利に導いたという伝承をもつ神功皇后が、北部九州を中心に数多く祀られているから、これを意識して作られた神名ともとれる。

 また、息長帯比売の母方をたどると新羅の王子・日鉾に連なるとの伝承があり、新羅とは無関係ではなく、また豊前国風土記・逸文に、
 「田川郡・鏡山。昔、息長足姫命が此の山に登られ、新羅征討の成功を祈って鏡を安置された。その鏡が化して石となり現に山の中にある。それで鏡山という」
との一文があり、神功皇后は当地と無関係ではない(北部九州には、神功皇后に係わる伝承が各地に残っており、これもそのひとつである)

 風土記にいう新羅の神は、その祭祀集団の生業からみて鍛冶神的神格をもつといえる。
 それに関係するかどうかは不明だが、②の続日本後記では、息長比咩のことを「辛国息長姫大命」とあり、“火”は“大”の、“日”は“目”の誤写ともいう。目→日はあきらかな誤写としても、火は鍛冶・精錬に必要不可欠なものであり、新羅神がもつ鍛冶神の神格を表すともとれる。また大目とは、そんな鍛冶神に仕える女性シャーマンがもつ呪的な目であろう。

◎忍骨命
 上記①縁起の注記にいうように、この神はアマテラスの御子・天忍穂耳命と同体とされる。とすれば天つ神であって新羅とは関係なく、ここの祀られる由緒はない。
 ただ、渡来した新羅の神が母子神とすれば、豊比咩(あるいは息長比咩)とともに母子神として祀られたともとれる。 
 また天つ神だとしても、日の神・アマテラスの御子は当然に日の神であるわけで、日=火と強弁すれば鍛冶の神と無関係ではない。

◎豊比咩命
 現香春神社の案内には、
 「第三座豊比咩命は、神武天皇の外祖母、住吉大神の御母にして、第三の峰に鎮座」
とあるという。
 神武の外祖母とは父・ウガヤフキアヘズを生んだ海神の娘・豊玉姫を指すのだろうが、単なる名前の類似からくる付会であって、トヨタマヒメとトヨヒメを結ぶものはない。また住吉大神の母というのも、住吉三神は黄泉国から帰ったイザナギが筑紫のアワギ浜で禊ぎしたとき生まれたとする出自(記紀神話)からみて、いかに神話伝承の世界とはいえ疑問がある。

 豊比咩とは、字面からみれば“豊国の比売神”を指意味する一般名称であり、それは豊国の地主神”ともいえる。ただ古代の豊国には、渡来人特に新羅系秦氏が盤踞していたから、豊国の地主神を新羅系とみてもおかしくはない(豊国--福岡県東部から大分県一帯を指す古い国名)

 これらのことからみると、風土記にいう新羅の神の後嗣は、今、古宮八幡宮に常座する豊比咩であって、香春神社の主神・息長比咩はその分身とも解される。このことは、宇佐八幡宮の重要行事のひとつ放生会に際して、八幡神のご正躰として奉納される銅鏡が、香春神社ではなく、古宮八幡宮で鋳造されることに表れている(放生会に香春神社は無関係という)

 また、香春神社が新宮として創祀された和銅年間とは、古社の多くが官社に列した時代だったという。
 旧香春社(阿曽隈社)も、そんな時代の風潮にのって官社に列すべく、息長帯姫(神功皇后)やアマテラスの御子(忍骨命)といった記紀神話の神々に似た神を新たに作り、本来の神である豊比咩に神武の祖母との出自を付会して、これらを香春岳3峰に祀る神々として一社に合祀したとも解される。
 ただ、②続日本後記によれば、香春社の官社化は9世紀初頭ともとれ、はっきりしない。

 香春社縁起によると、
 「新羅神は比売許曽(ヒメコソ)の神(赤留比売・アカルヒメ)の垂迹で、摂津国東生り郡・比売許曽神社と同体也」
とある。アカルヒメとは日光に感じて成り出でた赤玉から生まれ、新羅の王子・天日鉾(アメノヒホコ)の妻となるが、日鉾の横暴から逃れて渡来し、一旦筑紫に留まり、最終的に難波に祀られたという。筑紫に留まった新羅出身の女神ということからの比定であろう。
 因みに、アカルヒメの最初の鎮座地は国東半島沖合にある姫島とされている。

トップページへ戻る