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阿 宗 神 社
兵庫県たつの市誉田町広山
祭神--応神天皇・神功皇后・玉依姫命
相殿--息長日子王
                                                      2016.04.05参詣

 延喜式神名帳に、『播磨国揖保郡 阿宗神社』とある式内社。社名は“アソ”と読み、阿曾と記す資料もある。

 JR姫新線・本竜野駅の南南東約1.8km。駅西から国道179号線(出雲街道)へ出て南東方へ、広山交差点を直進(三叉路・国道は左に折れる)、最初の辻を左に回り込んだ所に神門が建つ(駅から徒歩約40~50分)

※由緒
 境内に掲げる由緒書によれば、
  「欽明天皇の御代に、当国司大伴狭手彦勅を奉じ筑紫国宇佐八幡宮を岡ノ峯に勧請す。
  後、文治5年(1189)内山城主塩津新左衛門尉義経広山村に遷す。
  延喜式神名帳・揖保郡七座の一つなり」
という。

 また、頂いた“阿宗神社略年表”には
 ・古墳時代 欽明天皇32(571)、当播磨国司大伴狭手彦、勅を奉じ筑紫国宇佐八幡宮を岡ノ峯(現太子町立岡)に勧請し、岡ノ宮八幡宮と称す
 ・奈良時代 天平宝宇8年(764)、藤原貞国、新羅軍追討の祈願を行う。
 ・平安時代 延長5(927)、延喜式神名帳・揖保郡7座の内に阿宗神社として小社に列す。
         文治5(1189・平安末)、地頭職の内山城主・塩津新左衛門尉義経、岡ノ峯八幡神社を広山の地(現鎮座地)に遷し、弘山八幡宮と称す。 
       (以下、現代に至るまでの略年記が続くが省略)

とある。

 この由緒書・年表は八幡宮としてのそれであって、阿宗神社については延喜式内社に列すとはいうだけで、その由緒については記していない。

 由緒書は、欽明天皇32年(4月天皇崩御)大伴狭手彦が勅を奉じて筑紫の宇佐八幡宮を勧請というが、正史上での八幡社の初見は桓武天皇・天平9年(737、4月1日「使者を遣わして八幡社に幣帛を奉った」とある)で、6世紀末の欽明朝には未だ知られておらず、この勧請由緒は八幡信仰が一般に広まった後年になって作られたものであろう。

 宇佐八幡宮由緒および宇佐に残る伝承(814・815)で、八幡神は欽明天皇32年に顕現したとあることから、当社への勧請も欽明32年としたとも思われるが、欽明32年とは八幡神顕現であって未だ社殿はなく、その後曲折を経て、現宇佐の地への鎮座は聖武天皇・神亀2年(725)という(別稿・宇佐八幡宮・参詣記他参照)

 宇佐八幡宮を勧請した大伴狭手彦とは、
 継体朝において国政に携わった大伴金村大連(オオムラジ)の子で、欽明紀23年(562)9月条に
 「天皇は、大将軍・大伴連狭手彦を遣わし、数万の兵をもって高麗を討たせた。狭手彦は百済の計を用いて高麗を撃破した」
とある人物だが、その狭手彦が播磨国司だったという史料はない。
 (古代の地方行政機関の長官である国司は、大化改新-646-後に設置された官職であって、欽明朝には未だ設置されていない)

 また、藤原貞国については、峯相記(1343頃、南北朝時代)に“天平宝宇8年、播磨灘に侵攻してきた異賊を破った”とあることから(未確認)、“新羅軍追討祈願云々”というのだろうが、続日本紀・天平宝宇8年条(その前後を含む)にそのような異賊侵攻の記録はない。

 阿宗神社の創建由緒・年代等は不明だが、当社関連の古資料として
 *播磨鑑(1762)
   阿曾神社 広山郷阿宗村にあり、
          古老曰、今の広山八幡是なり、上代立岡山にあり 祭神阿宗親王と伝ふ
 *播磨古跡考(江戸後期か?)
   阿宗社  延喜式に揖保郡阿宗神社と云々、広山庄阿宗村に有り、祭神阿宗親王也
 *神社覈録(1870・明治3)
   祭神:息長日子王歟  揖東郡広山郷広山村に座す 今八幡宮と称す
   比保古に阿蘇都彦・阿蘇都姫也と云るは例の杜撰也。考証・古跡便覧・播磨鑑、共に阿宗村にありといへり。
   式社考に、往古は阿宗庄にありしを、広山村に合せ祭る、古跡今も形許りの祠ありて、阿宗の一宮といふと云り、是ぞ正しかるべし。
 *神祇志料(1871)
   今揖東郡広山荘広山村に在り、蓋し針間阿宗君の祖・息長日子王を祭る。此は開化天皇四世孫・息長宿弥王の子也
 *特選神名牒(1876)
   祭神:息長宿弥王
    按に、明細帳祭神神功皇后・応神天皇・玉依姫命とあれど、神功皇后の御名・息長足姫命と申し奉ると、息長日子王と御名の似たるより誤れるなるべし。
    古事記開化段 息長宿弥王が葛城高額比売を娶りて生みし子・息長帯比売命云々、次の息長日子王は針間阿宗君の祖とある。是確証にれば祭神息長宿弥王なること明けし。
    且つ古老の説に阿宗親王を祭る由云い伝えたるも息長宿弥王の事を云るものとみえたり。
    さて息長帯比売命も御兄弟の御所縁によりて祭られたるも知るへからず
   所在 広山庄広山村
 *播磨国式内神社考(明治末頃か?)
   阿曾神社  今八幡宮と唱ふ、揖東郡広山村にあり。往古は阿宗の庄(太子町立岡)にありしを、ここに合せ祀るといへり。
           往古の跡、今に形ばかりの小社ありて、阿宗の一宮と云ひ伝る由なり。
などがある。

 これらの古資料にも当社創建由緒は見えないが、諸資料をまとめると、
 ・阿宗神社は、現太子町立岡にある立岡山(H=104m)にあったが、その創建由緒・時期等は不明
 ・同社に宇佐八幡宮を勧請合祀、岡ノ峯八幡宮と称し(時期不明。欽明朝というが、八幡信仰が拡がった後世の勧請であろう)
 ・文治5年(1189・平安末期)に、誉田町内山の内山城主・塩津義経が自領内の現在地(広山)に遷座、弘山八幡宮と称した(阿宗神社八幡大神宮ともいう)
とおもわれ、また、
 ・夫木集(1310頃・鎌倉末期)に、「昔より名高き神の二柱 ながくも祈る阿曽の神垣」
とあることから、広山の現鎮座地には、古くは弘山八幡神社と阿宗神社の2社が祀られていたかもしれない。

 今、当社は阿宗神社と称してはいるものの、祭神からみてその実態は八幡宮であって阿宗神社の影はない。
 本来の阿宗神社は、今、本殿背後に祀られている末社7社の一・元宮社(祭神:阿蘇親王)がそれであろう(新来の著名神によって本来の神が脇に追いやられた例は多い)

 当社の旧鎮座地という立岡山は、当社の南東約2.5kmにある独立した小山で(太子町役場の南に当たる)、播磨国風土記・揖保郡条に
  「枚方里 御立阜(ミタチオカ) 品太天皇(応神天皇)がこの丘に留まって国見をされた、故に御立阜といふ」
とある御立阜に比定されている。
 今、その山腹を山陽新幹線が貫通し、そのトンネルの東側入口の真上(立岡山の東側山腹)にある立岡天満宮(不参詣)との小祠が旧鎮座地の跡ではないかというが、宮司さんの話では、「天満宮よりもっと上の方にあったと伝わるが、その場所は不明」という。

 ただ日本の神々2(1984)
 ・式内・阿宗神社そのものは、立岡山から早い時期に低地の何処かに遷ったらしい
 ・“太子町史跡文化財ひとめぐり”によれば、国道2号線の南・旧国道(県道725号線か)の阿宗神社の道標の南あたりが旧地という
 ・この旧地から見て立岡山は冬至の日昇方向(南約30度)にあたり、その位置関係からみて
 ・阿宗神社は立岡山から旧地へ単に遷ったというのではなく、立岡山と旧地は奥宮と遙拝所(里宮)のような関係にあった可能性がある
 ・現阿宗神社(弘山八幡宮)が領主などの崇敬を受けて発展するとともに、旧阿宗村の阿宗神社は衰退・消滅したと思われる
として、式内・阿宗神社は、立岡山から直接現在地へ遷ったのではなく、その途中に里宮の時代があったのではないかというが、それを証する資料はない。

※祭神
  主祭神--応神天皇・神功皇后・玉依姫命
  相殿神--息長日子王(オキナガヒコノキミ・針間阿宗君の祖)
     社頭の由緒書には、「元宮祭神 阿蘇親王」とあるが、息長日子王の別称であろう。

 応神天皇以下の3座は八幡宮の祭神だが、宇佐神宮の祭神は応神天皇・神功皇后・比売神であって玉依姫という神名はみえない。
 当社が比売神に代えて玉依姫命とするのについて、社記続編との古資料には
  「往古は当社祭神も宇佐神宮と同一なりしを、中古誤りて玉依姫と書上けしより自然元祭神と相違を来せしもの乎」
とあるという(式内社調査報告)

 相殿神として祀られている息長日子王とは、開化天皇の皇子・彦坐王(ヒコニイマス)の後裔(彦坐王--大筒木真若王--迦邇米雷王--息長宿祢王--息長日子王)で、開化記には
  「息長宿祢王、葛城の高額比売を娶りて生みし子・息長帯比売命、次に息長日子王。この王は針間の阿宗君の祖なり」
とあり、神功皇后(息長帯比売)の同母弟という。

 阿宗君の名は新撰姓氏録にみえずその詳細は不明だが、旧地名・阿宗(阿曾)からみて当地を根拠としていたと思われ、その一族が祖先を祀ったのが阿宗神社ということであろう。

 当社祭神については、古資料いずれも息長日子王とするが、特選神名牒(1876)だけは、
  「息長日子王は針間国阿宗君の祖とある、是確証なれば祭神・息長宿祢王なる事明けし、古老の説に阿宗親王を祀る由云伝へたるも、息長宿祢王の事を云へるものとみえたり」
として、息長日子王の父・息長宿祢王としているが、いずれにしても阿宗君の祖先であることでは違いはない。

 なお古資料には、祭神・阿宗親王(当社表記では阿蘇親王で読みは同じ)とあるが、式内社調査報告(1980)には、
 「現在は応神天皇・神功皇后・玉依姫の三座を祀るが、元々は一座で阿宗親王であろう。
 おそらく、古代この地方を開拓した部族の先祖を祀ったのが、氏神信仰が発展して一つの神社の確立をみたものと考えられる」
とあり、阿宗親王とは、当地を根拠としたと思われる阿宗君の祖神・息長日子命とみてもおかしくはなく、命が天皇の後裔に当たることから親王の尊称を以て呼ぶのであろう。

 この阿宗親王に関連して、日本の神々2は
 「播磨国風土記にある揖保郡の麻打山が阿宗山=立岡山とすれば、むかし但馬国・伊頭志君麻良比(イヅシノキミ マラヒ)がこの地にいたことになり、彼がこの地を同族の息長日子王に譲ったものと考えられる。
 その子孫の阿宗君が開拓した土地が阿宗村であり、自分たちの祖として息長日子王を阿宗親王として祭ったのが、おそらく当社の始まりであろう」
として、阿宗親王と息長日子王とは同一人という。

 風土記がいう麻打山が何処かは不詳だが、当社鎮座地(誉田町広山)の東・林田川の対岸(当社の北東方)に誉田町内山との地名があり、この地名・内山が麻打の転訛とすれば、麻打山とはその東にある笹山(H=154m、通称・女神山と呼ぶらしい)かと思われる(阿宗山は位置不明、笹山のことかもしれない)
 その笹山の南に近接する小山が立岡山であることから、風土記にいう広山の里(下記)の範囲を広くみれば、麻打山=立岡山としてもおかしくはなく、伊頭志君麻良比は当地と何らかの関係があったかと思われる。

 なお、風土記にいう揖保郡・麻打山条には、
 「広山の里  麻打山  昔、但馬国の人・伊頭志君麻良比がこの山に家をつくって住んでいた。その二人の娘が夜になって麻を打つと、そのまま麻を自分の胸に置いて死んでいた。・・・」
とあり、注記によれば
 ・伊頭志君麻良比は、但馬の出石の君で天日槍の後裔族で(とすれば、阿宗君一族とは別氏族となり、日本の神々が「この地を同族の息長日子王に譲った」というのはおかしいとになる)
 ・この話は、満月の夜に忌みごもりして労働を休むという風習に反したので、月読神の怒りを受けて若死にしたという伝承であろう、という。

※社殿等
 道路の北側に立つ神門(四脚門・瓦葺)を入った所か境内。鳥居は道をはさんで神門の南に立つ。
 この神門は、神仏習合時の神宮寺の山門であったと思われる。


阿宗神社・鳥居 
 
同・神門

同・社頭 

 神門を入った正面、〆鳥居の先に千鳥破風・唐破風を有する拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、玉垣に囲まれた中に本殿(三間社流造・銅板葺)が南面して鎮座する。


同・拝殿 
 
同・本殿(西面)

同・本殿(東面)

◎攝末社

 本殿の背後に小祠(一間社流造・銅板葺)8宇が並ぶ。左より
  ・稲荷社(保食神・ウケモチ) ・元宮社(阿蘇親王) ・建速神社(素戔鳴尊) 
  ・金刀比羅神社(大物主命) ・高良神社(摂社、武内宿弥) ・春日神社(天児屋根命)  
  ・伊勢皇大神宮(天照皇大神) ・天満宮(菅原道真)

 このうち、右から4宇目に位置する高良神社のみが摂社で、他は末社。
 武内宿弥を祭る高良神社を摂社とすることは、当社の実態が八幡宮であることを示唆している。

 なお、左から2宇目(右写真の左端)にある元宮社が本来の式内・阿宗神社で、末社へおとしめられて形ばかりが残ったものと思われる。
 
攝末社殿
(左端が元宮社、その左に稲荷社あり)

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