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祝 田 神 社
A:姫路市林田町上構
祭神--罔象女命・高靇神
B:たつの市揖西町清水
祭神--石龍比古命・石龍比売命・稲倉魂命

 延喜式神名帳に、『播磨国揖保郡 祝田神社』とある式内社で、今、同じ祝田神社を称する上記2社が論社となっている。
 社名は“ハフリタ”と読む。以下、A社を林田社、B社を清水社と略記する。

 林田社--JR姫新線・東觜崎駅の北東約2km強、駅の北を東西に走る県道724号線を東へ、上構内西交差点を北へ(左)、道なりに進んで次の信号の北二つ目の角を西へ入った右手(北側)に鎮座する。
 清水社--JR姫新線・本竜野駅の西南西約2.7km、国道5号線・景雲寺交差点を南へ入った先に朱塗りの鳥居が立ち、その北西の角地に鎮座する。

※由緒
【祝田神社】(林田社)
 社頭案内
  「10世紀に成立した延喜式神名帳揖保郡七座のうちの『祝田神社』である。
 創建年代は不詳だが、社伝では、景行天皇以前と伝え、林田の地名も祝田から転訛したものといわれる。
 祭神は罔象女命(ミズハノメ)と高靇神(タカオカミ)
 高靇神は貴船神ともいい、寛治7年(1093)に当地が京都の賀茂別雷神社領の林田庄になった際に勧請されたという。それにより貴船社と称されたという。
 祭神にちなんで神社背後の山を貴船山(吉船山とも記す)、谷を美津波女谷(ミツハノメノタニ)と名づけられている。
 明治16年、社号を古代に復して祝田神社と称し、同23年に社殿を再建した」

 当社の創建由緒は不明。
 主祭神を水神・罔象女命とすることからみて、当地一帯の人々が背後の山の神を豊穣をもたらす水神として祀ったのが始まりと思われるが、確証はない。
 案内は、当社創建を景行天皇以前という。景行天皇とは古墳時代前期(4世紀後期)の天皇といわれ、この時代、何らかの神マツリはおこなわれていたとしても、恒常的な神社があったとは思えず、これは当社を古くみせんがために景行天皇に仮託した伝承であろう。

【祝田神社】(清水社)
 拝殿内に掲げる“式内祝田神社縁起”
 「式内祝田神社は延喜制小社に列する揖保郡七座の一にして、大己貴神の御子・玉帯志比古大稲男神・玉帯志比売豊稲女神の二柱を祀る。
 案ずるに、大己貴神国を占むる時、二神水無川の水を競ひ、大稲男神は北方越部に流さんと欲し、豊稲女神は南方泉村(出水村)に流さんと欲す。時に男神は山岑を踰(コ)へて越部村に流したれば、女神之を見て理に非ずとし、指櫛を以て其の流水を塞ぎ、岑辺より溝を闢(ヒラ)きて泉村に流したまひぬ。男神また流を奪ひて西方桑原村に流したれば、女神遂に之を許さず密樋を作りて泉村の田頭(田のホトリ)に流す。

 是に於て里人五穀の神として泉村の田頭に社殿を営み祀りき。これ当祝田神社なり。
 抑も泉村の田頭たるや、往古の出雲往還に当り、水無川の平野が揖保川の平野に下る傾斜地にして、水無川の豊富なる伏流は各所に湧出して田圃を潤す。播磨十水・小神の清水と称するも亦この地にあり。
 此の如く当社は由緒ある地に鎮座し勧請年極めて古し。不幸にして中古社殿荒廃、当初の景観を存せずと雖も古来ホタノ森(ホタ・ホウタ、ホウタは祝田・ハフリタの転訛)の社として、神威あらたかに人々の尊信厚く、遠近人の参拝絶ゆる事なし。昭和10年10月」

 この縁起前段は、風土記揖保郡・美奈志川(水無川)条説話(下記)の祭神名を変えたもので(風土記では、石龍比古・石龍比売とある)、祭神が水神と思われることから、在地の人々が豊穣を願って奉祀したのが当社の始まりであろう。
 ただ、当社創建時期を推測できる記述・史料はない。


◎論社について
 この由緒をみるかぎり、由緒・祭神ともに異なり、林田社・清水社のいずれが式内・祝田神社かは判断できないが、近世以降の古資料でも同じで、
*播磨鑑(1762)
  清水村田地の内に小社有り、延喜式七座の一つ也。土人ホウダが森と云

*神名帳考証(1813)
  今揖東郡大田村
  林田大宮司云、今林田社と云ふて山中にあり。
  倭建命西の国征伐の御帰るさ、当国吉美(キビ)の沖にて難風に逢ひ給ひし時、御願にて御造建ありしと云ひ伝ふ。
  当社口殿奥殿とてあり、口殿を吉船山(キフネヤマ)祝田宮と申して、式なる祝田神社これ也。
  祭神三座、中・猿田彦大神、左・高靇神、右・水波女神(ミズハノメ)也。
  奥殿を武籏八幡宮と申す。祭神五座也、中・素戔鳴尊、左・大己貴神、右・事代主神、又左・応神天皇、右・日本武尊なり

*神社覈録(1870)
  祭神・玉帯志比古大稲男(タマタラシヒコオオイナオ)・玉帯志比女豊稲女(タマタラシヒメトヨイナメ) 所在分明ならず
  播磨国風土記に云、美嚢郡(ミナギノコホリ)高野里(タカヌノサト) 
     祝田社に坐す神は玉帯志比古大稲男・玉帯比売豊稲女である[こは本社なるべし]
  式社記云、揖東郡沢田村にあり、今八幡宮と称す。古跡便覧云、其の地しれず。
  播磨鑑云、揖西郡清水村田地の中に小社あり、土人ホウダが森といふ。
  また或人云、揖東郡林田に林社(林田社)といへるが山中にあり、此社口殿奥殿とてあり、口殿を吉船山祝田宮と称して、式内祝田神社是也といふ。
  孰れが是なるをしらず、暫く諸説を挙て後勘を俟のみ。

*神祇志料(1871)
  今揖東郡林田村吉船山に在り、祝田宮といふ。
  伊和大神の子・玉帯比古大稲女神(大稲女は大稲男なるべし)・玉帯比古豊稲女神を祀る[播磨国風土記、按本書に玉足日子・玉足日女命は大神の子にして、大石命の御祖神なり、と云るは即ち此神ぞ]

*特選神名牒(1876)
  祭神 玉帯志比古大稲女神・玉帯志比女豊稲女神
   按ずるに、社伝祭神高靇神・美豆波能女の二神とあり、されど、こは玉帯志比古大稲女・玉帯志比女豊稲女の二神を誤り伝へたるなるべし。
  されば、播磨国美嚢郡高野里の祝田社に坐す神は玉帯志比古大稲女・玉帯志比女豊稲女とある、其の明証なればなり。さて、大稲女は大稲男などの誤ならんか。
  所在 揖保郡林田村大字上構
   按に、注進状に揖東郡上構村とあれど、神社覈録に播磨鑑に云揖西郡清水村田地の中に小社あり、土人ほうだが森と云、又或人云揖東郡林田に林社と云るが山中にあり、此社口殿奥殿とてあり口殿を吉船山祝田宮と称して、式内祝田神社是也とある、由ありて聞ゆれば猶よく考ふべし。
など緒論があるが([ ]内は原注)、神祇志料は林田社とし、播磨鑑は清水社とするものの、他は、両社を併記し後考を待つという。

 また、近年の資料・式内社調査報告(1980)は、林田社を式内・祝田神社としたうえで、
 「龍野市揖西町清水にも同名の祝田神社があるが、これを式内・祝田神社とするのは播磨鑑の記載に頼るのみで、他に確固たる証左は何もない。
 播磨鑑の記事に全幅の信頼がおけるならまだしも、著者(平野康修)が各地の友人知己から資料を採集して記したもので、著者自身の実地踏査とは考えられず、祭神からも揖西町清水の祝田神社が式内社とはいえない。
 林田町の祝田神社が、あらゆる資料などから正しいと思われる」(大意)
という。

※祭神
 林田社--罔象女命(ミズハノメ)・高靇神(タカオカミ)
 清水社--石龍比古命(イワタツヒコ)・石龍比売命(イワタツヒメ)・稲倉魂命(ウカノミタマ)

 このうち稲倉魂命を除く4座はともに水に関係のある神で、
*罔象女命--火の神・カグツチを生んだために火傷を負い病臥したイザナミが生んだ神々の一で、古事記には
  「次に尿(ユマリ)に成りし神の名は弥都波能売神(ミツハノメ)
とあり、水神という。

*高靇神--書紀5段一書7に、イザナミがカグツチを生んたのを怒ったイザナギが、
  「剣を抜いてカグツチを斬って三つに断たれた。その一つが雷神、一つが大山祇神が、一つが高靇になった」
とある神で、靇(オカミ)とは龍の古語といわれ、“雨の下に龍”と書くように、“水を司る龍”を意味する。
 なお資料によれば、この神は寛治7年(1093・鎌倉初年)に京都・賀茂別雷神社の摂社・貴布祢神社の祭神を勧請・合祀したもので、当社本来の祭神はミズハノメ命一座という。

*石龍比古・石龍比売については、播磨国風土記・揖保郡条に
 ・出水の里  この村に冷たい水が出る。故にその泉によって名とした。
 ・美奈志川(ミナシ) 美奈志川と呼ぶわけは、伊和大神の御子・石龍比古命と妻の妹・石龍比売命と二人の神が、川の水を互いに争って、石龍比古命(夫の神)は北方の越部の村に流したいと思い、石龍比売命(妹の神)は南方の泉(出水)の村に流したいと思われた。
 その時、夫の神は山の頂を踏みつけて[越部の村の方に]流したもうた。妹の神はこれを見て無茶なことだと思い、ただちに挿櫛(サシグシ)をもってその流れる水を堰きとめて、頂上のあたりから溝を切り開いて泉の村に流して、お互いに争った。
 そこで夫の神は出水村の川下に来て川の流れを奪い、西の方の桑原の村に流そうとした。
 ここにおいて、妹の神はついに許さず、密樋(シタビ・地下水路)を作って泉村の田の頭(ホトリ)に流し出した。これによって川の水は絶えて流れない。故に无水川(ミナシカワ)と呼ぶ。
とある。

 この神の神格は不詳だが、風土記(東洋文庫版・1969)注では、
  「石龍比古命 石立彦または岩戸彦の夫婦神。(説話では)夫は山の神、妻は水の神として扱っている。おそらくは、これも古墳説話の変種で、古墳の周囲を水で囲むことから出た話であろう」
と、石龍比古を山の神・比売を水の神としているが、両神で水を流す先を争ったことから両神ともに水神とみてもいいだろう(山の神は水神でもある)

 祭神からみて、式内・祝田神社は、林田社・清水社のいずれも、在地の人々が、水神を祀ることで五穀豊穣即ち豊かな生活を祈願した神社を前身とするといえよう。


 なお清水社縁起・神社覈録に、玉帯志比古大稲男神(タマタラシヒコオオイナオ)・玉帯志比女豊稲女神(タマタラシヒメトヨイナメ)との神の名があり、大己貴命の御子というが、記紀等にいう大己貴の御子の中にその名はない。
 ただ、播磨国風土記・美嚢郡条に
  「高野の里 祝田の社に鎮座する神は、玉帯志比古大稲男神・玉帯志比女豊稲女神である」
とあり、その神格について、風土記注に
  「玉を垂らした大稲男・大稲女と擬人化されているが、祝(神主)の奉仕する田に降臨する稲霊(イナタマ)の依り代(ヨリシロ)となる男女をいったものであろう」
とある(玉は魂であり、玉帯比古・比売とは稲魂が依り付く巫覡を指す)

 この美嚢郡の祝田の社の後継社と思われるのが、三木市にある「播州三木大宮八幡宮」(本町2丁目)だが、
 ネットでみた由緒には
  「創建は定かでないが、古代より山上(現八畳敷)に磐座があり、孝謙天皇の御代には既に山上に社祠が建立されており、美嚢郡高野里の祝田社と称して祀られていた」
とあるが(祭神:応神天皇以下9座)、式内・祝田神社は揖保郡にあり美嚢郡ではない。

※社殿等
【林田社】                                                                                                                                        2016.04.25参詣
 細い道路の北側に立つ朱塗りの鳥居(傍らに「式内祝田神社」の石碑あり)を入り、石段を上った上が境内。
 神門(切妻造・瓦葺・貴船社との扁額あり)をくぐり、再び上った石段の上に千鳥破風を有する拝殿(入母屋造・瓦葺、祝田社との扁額あり)が、その奥、弊殿に続いて本殿(入母屋造・桧皮葺)が南面して鎮座する。

 資料によれば、昭和16年焼失、同23年10月再建という。
 また、本殿裏の山裾に小祠(一間社流造・瓦葺)があり、傍らの石碑には「祝田社旧殿」とある。焼失時に残った旧社殿であろうが資料なく詳細不明。


祝田神社(林田社)・鳥居 

同・参道石段 

同・神門 

同・拝殿 
 
同・本殿

同・旧社殿 
 拝殿前の両側に一対の“鉾”が立っているが、その由緒は不明。
 鉾とは古代の武器の一つだが、常陸国風土記・行方郡の条に
 「継体天皇の御代、箭括の麻多智という人が芦原の地を開墾して田を作ろうとした時、多くの矢刀の神(蛇)がやってきて田作りを妨害した。
 怒った麻田智は、鎧甲で身を固め、鉾をとって矢刀の神々を打ち殺し追い払い、山の登り口に鉾を立てて、『ここから上は神の土地とする、下は人の田の土地ぞ』と宣言し、社を作って祭りをした」
との伝承があるように、鉾(あるいは杖)は境界を画定する標であるとともに、邪神の侵入を遮る呪具でもあったという。

 拝殿前に立つ一対の鉾は、神域を画する標であり、神域への悪霊・邪神の侵入を遮り、神域の清浄を保持する呪具として立てられたとも推察される。
 

拝殿前に立つ鉾

◎境内社
 ・末社合祀殿
   左より聖社・三嶋社・粟嶋社・稲荷社・天満宮・松尾社
 ・金刀比羅神社
 ・霊社--左:志霊社、右:祖霊社
 また、金刀比羅社背後の石垣上に片手をかざして遠望する若い武将像が立ち、日本武尊像という。
 社伝によれば、景行天皇の御代、日本武尊の熊襲征伐の時、播磨灘で台風に遭い、当社に祈り波が治まったとの伝承に関係するかと思われるが(ネット資料)、出典先不明。


末社合祀殿
 
金刀比羅社
 
霊社(左:志霊社・右:祖霊社)
 
日本武尊像

【清水社】                                                        
                                                                  2016.04.05参詣
 JR姫新線・本竜野駅の西南西約2.7km。
 駅西口から龍野橋を渡って国道5号線を西へ、景雲寺交差点を左(南)へ折れ、二股路の東側の小路を南下した先に道をまたいで朱塗りの大鳥居が立ち、その北西角に連なる朱塗りの鳥居列の奥、小さな鎮守の森の中に鎮座する。
 周囲は田畑のため見通しよく、遠くからでも朱塗りの大鳥居が見える。

 鳥居列入口の左右に“式内祝田神社”との石柱と、“王子八幡宮”と刻した自然石があるように、今、祝田神社と八幡宮の2社が並んで鎮座している。

 祝田神社・拝殿前に「祝田神社 祭神:石龍比古命・石龍比売命・稲倉魂命」との案内が立つ。

 社頭の朱塗鳥居列が目立つが、これは合祀された稲倉魂命(ウカノミタマ・稲荷神)によるもので、水神信仰というより稲荷神として崇敬されているようにみえる。
 ただ、水神は農耕神でもあることから、同じ神格を持つ稲荷神が合祀されていても違和感はない。

 王子八幡宮拝殿前には「王子八幡宮 祭神:誉田別大神」との案内が立つのみで、何時頃・如何なる由緒で創祀されたかは不明。


祝田神社(清水社)・鳥居 
 
同・社頭

 樹木で覆われた境内には二つの社殿が鎮座し、右側(東側)が祝田神社で左が王子八幡宮。

 社殿構成は両社ともほぼ同じで、前面(南側)に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、弊殿に続いて本殿(一間社流造・銅板葺)が南面して鎮座するが、拝殿・弊殿・本殿が連なり、本殿側面が板壁で囲われていて屋根と背後の結構が見えるのみで詳細不明。


祝田神社・拝殿 

同・本殿(背面より)
 
同・拝殿内陣
 
王子八幡宮・拝殿
 同・本殿(背面より)
同・拝殿内陣 

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