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林 神 社
明石市宮ノ上
祭神--少童海神他4座
                                               2016.03.16参詣

 延喜式神名帳に、『播磨国明石郡 林神社』とある式内社。

 山陽電鉄・林崎松江海岸駅の東約400m、駅北側の道を東へ、約200m弱行った先から北東へ、突き当たりを右(東)に進んだ、住宅に囲まれた小高い丘の上に鎮座する。

※由緒
 拝殿前に掲げる石碑には、
 「祭神  少童海神(ワタツミ)・彦火火出見命(ヒコホホデミ)・豊玉姫命(トヨタマヒメ)
       ・葺不合尊(フキアヘズ)・玉依姫命(タマヨリヒメ)・御崎大神(ミサキオオカミ)
 由緒  古へ少童海命当所海浜の赤岩の上に現れ給う。其の石成務天皇8年8月波の為海に没す。翌9年元旦に社を建て同神を祀る。
 延喜22年(922)夏、雨乞いに験あり、之より雨乞社と称す。
 寛弘2年、彦火火出見命他3神を合祀し上宮と称す。江戸時代上宮五社大明神と仰ぎ、明治維新新林神社と復称す。
 同14年2月県社に列す。昭和20年戦災にて全焼、同年船上御崎神社を合祭」
とある。

 近世以降の資料には
*神名帳考証(1813)
  [姓氏]林宿祢大伴宿祢同祖 今林村に在り、上村宮と称す
*神社覈録(1870)
  祭神 林氏祖神歟  林村に存す、今上宮大明神と称す
*神祇志料(1871)
  今林崎荘林村に在り、上宮と云ふ
*特選神名牒(1876)
  祭神 大綿津見神
  今按、社伝に祭神大綿津見神・彦火々出見命・置玉媛命・葺不合尊・玉依媛命とあるは、いづれも綿津見神の御所縁の神にませど、林神のいかなる由にてかかる神を祭ると云ふ拠をしらず。
 されど、かく伝ふるは故あるべし。故今姑(シバラ)く大綿津見神と記して後考を俟つ
 所在 林村(明石郡林寄村大字林)
などがあり、江戸時代には“上宮大明神”あるいは“上宮”と呼ばれていたが、明治以降本来の社名・林神社に戻ったという。

 当社は今、海岸から700m程離れた住宅地の中に鎮座しているが、昔は海岸近くの小高い丘にあったといわれ(当社が上宮と呼ばれていた由来ともいう)、付近は集落が点在する典型的な漁村だったという。
 そこから、当社の原姿は、当地の漁労民等が崇敬した豊漁の神・航海の守護神を祀る神マツリの場ではなかったかと推測され、神威の浸透・信仰圏の拡大とともに、それらしき由緒が作られ、海神・少童海神(ワタツミ・綿津見神とも記す)を祀ったのではないかと思われる。

 ただ、社名を林神社(ハヤシ)と称することから、神名帳考証・神社覈録がいうように、林氏(林宿祢)の関与が推測される。
 林氏(林宿祢)とは、新撰姓氏録に
 ・河内国神別(天神) 林宿祢 大伴宿祢同祖 室屋大連公男御物宿祢之後也
   (大伴宿祢 左京神別 高皇産霊尊五世孫天忍日命之後也)
とあるように、軍事特に天皇に近侍する近衛兵的な役割を担った古代の豪族・大伴氏に連なる氏族であって、海神信仰・ワタツミ信仰との関係はみえない(大阪府藤井寺市にある大伴氏系の伴林氏神社は、大伴氏の祖神である高御産霊神・天押日命・道臣命を祀っている)
 特選神名牒が綿津見神以下5座を祀ることに疑問を呈しているのは、これを指すものと思われる。
 
 因みに、姓氏録がいう室屋大連とは、雄略朝(5世紀末)で物部氏とともに大連(オオムラジ)として天皇に仕えたという人物で、大伴氏の中で実在がほぼ確実視される最初の人物という。

 上記由緒は、当社社殿の造営を成務天皇9年というが、4世紀末頃と推測される成務朝に恒常的な神社があったとは思えず、これは後世の創作であろ
 また、当社に対する神封付与・神階綬叙の記録等はなく、公的記録からの創建年代の推測はできない。

 ただ、資料によれば
 ・允恭天皇14年9月に、刺海士・男狭磁(オサシ)、珠玉をかざして死んだため合せて祀る
 ・同31年3月、社殿再建
とあるという(式内社調査報告)
 これは、允恭紀14年秋9月12日条に、
  「天皇が淡路に狩りをされた。山野に獲物が充ち満ちているのに一匹も捕れなかった。占うと、島の神(イザナギという)が祟ったもので、『明石の海底にある真珠を供えたら、獲物が捕れるであろう』と告げた。
 そこで海人を集めて真珠を求めたが、海が深くて誰も底まで潜ることができなかったが、
 ただ一人・男狭磯(オサシ)という海人が60尋の海底から大きな鮑を抱いて上がってきて、海上で息絶えて死んだ。
 鮑を割くと桃の実ほどの大きさの真珠があり、これを神に供え祭をすると沢山の獲物が捕れた。
 天皇は、オサシが死んだことを悲しんで、墓を造り厚く葬られた」(大意)
とあり、そのオサシを合祀したことをいうと思われ(今、末社に男左磁社がある)、また允恭31年に社殿再興とあることからみると、、允恭朝(5世紀中葉・古墳時代中期)の頃にはあったことになり、由緒がいう成務9年社殿造営の傍証ともいえるが、刺海士・男狭磯は允恭記による後年の合祀であろう。

※祭神
  ・少童海命(ワタツミ) ・彦火火出見命(ヒコホホデミ・天孫ニニギの子、別名:ホオリ命・山幸彦) ・豊玉姫命(ヒコホホデミの后) 
  ・葺不合尊(フキアヘズ・ヒコホホデミの子) ・玉依姫命(フキアヘズの后) ・御崎大神

 延喜式に祭神一座とあることから、本来の祭神は少童海命一座であろう。
 少童海命とは海を司る神(海神)で、古事記に
  イザナギ・イザナミ2神の神生みにより生まれた海神で、「大綿津見神と称す」
 とあり、書紀には
  黄泉国から帰ったイザナギが、
  「いと汚き処にいってきたので、体の汚れを洗い流そうといって日向の橘の阿波岐原で禊祓いをされたとき、水の底に潜って濯いだとき生まれた神を底津少童命(ソコツワタツミ)、潮の中に潜って濯いだとき生まれた神を中津少童命(ナカツワタツミ)、潮の上で濯いだとき生まれた神を表津少童命(ウワツナカツミ)という」
とある。

 彦火火出見命以下の4神について、資料によれば
 ・寛弘2年(1006・平安中期)9月 彦火火出見命・豊玉姫命・葺不合尊・玉依姫命の四座を勧請合祀し上宮五社大明神と云ふ
とある。
 その勧請由緒は不詳だが、この4神のうち豊玉姫と玉依姫は海神・ワタツミの娘であり、それぞれ彦火火出見命・葺不合尊の后ということから(書紀・神代紀9段)、父神・ワタツミに併せて合祀したものであろう。

 御崎大神については、案内に
 ・明治初年(明治20年ともいう)、境外末社・御崎神社の御崎大神を合祀(現明石市船上町-下記)
とあり、
 この神社は、古くは山王権現と称し、例祭日の前日、沖を通る荷積船から山王権現に供える初穂を乞うたと伝わり、明治になって御崎神社と改称したというが(式内社調査報告)、詳細は不明。

 当社が明石浦一帯の漁民等が奉齊する神社とすれば、海神・ワタツミを祀るのは順当だろうが、当社が大伴氏系の神社であるとすれば、大伴氏の祖神のうちの誰かとも推測される。
 因みに、大伴氏系譜によれば
  高皇産霊神(タカミムスヒ)--天忍日命(アメノオシヒ)--道臣(ミチノオミ・日臣ヒノオミともいう)--武時-室屋-御物 →林氏
とあり、これによれば天忍日命または道臣、あるいは直接の先祖・御物とみるのが順当かと思われる。
 ・アメノオシヒ--書紀・天孫降臨の段(9段一書4)に、タカミムスヒが天孫・ホノニニギを天降らしたとき、
   「大伴連の遠祖・アメノオシヒ命が完全武装し、久目部の遠祖らを率いて、天孫を先導して日向の高千穂の峰に降った」
 ・ミチオミ(ヒノオミ)--神武天皇即位前紀に、神武が紀州・熊野から大和へ出ようとしたとき、
   「大伴氏の先祖・ヒノオミ命が、大久目部ら軍勢を率いて、山を越え路を踏み分けて、宇陀までの道を開いた。
    この功により、天皇から道臣(ミチノオミ)の名を賜った」(いずれも大意)

※社殿等
 道の角地に立つ鳥居をくぐり、緩い石段を登った上が境内。
 境内正面に唐破風をもつ拝殿(入母屋造・瓦葺)、その奥、塀の中に本殿(一間社流造・銅板葺)が鎮座する。


林神社・鳥居

同・拝殿 
 
同・本殿

◎末社
 境内左手に末社3宇(小祠)が鎮座する。
 左から、龍田風社(天御柱神)・男左磁社(オサシ・海人命)・猿田彦社(猿田彦命)
  中央の男左磁社の祭神とは、上記允恭紀で海底から大真珠を抱いて上がってきたという海人・男狭磁であろう。

 また、境内左隅(西南隅)に小祠・貴船社(水神)と三笠稲荷社(稲倉魂命)がある(石段の途中から左に上がった上に当たる)

 
末社・龍田社

末社・男左磁社 
 
末社・猿田彦社
 

末社・貴船社
(右の小祠は社名不明)
 
三笠稲荷社

◎御崎神社
 案内は、境外末社・御崎大神は明治初年当社に合祀というが、今、当社の南東約1.7km、当社の南・県道718号線へ出て東(左)へ、明石警察署前交差点を南(右)へ、突き当たり手前の東北角にある寺院(密蔵院)の東隣に「御崎神社」(船上町にあることから船上御崎神社ともいう)と称する小社が鎮座する。
 境内に案内等なく詳細不明だが、社殿等新しいから近年になって復帰したのであろう。


御崎神社・鳥居 
 
同・社殿 

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