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日岡坐天伊佐佐比古神社
現社名--日岡神社
兵庫県加古川市加古川町大野
祭神--天伊佐佐比古命
配祀--鵜草葺不合命・豊玉比売命・天照皇大御神・市杵島比売命
                                                            2016.04.25参詣

 延喜式神名帳に、『播磨国賀古郡 日岡坐伊佐々比古神社』とある式内社だが、明治以降日岡神社と称している。

 JR加古川線・日岡駅の北東約400m、駅東の小橋を渡った先の五叉路に立つ案内矢印に沿って左折した先に境内への入口・御門が建つ。

※由緒
 境内の案内には、
  「日岡神社  正一位日向大明神ともいい、天平2年の創立と伝えられる。
 主神は、天伊佐佐彦命(アメノイササヒコ)で、社有地は約4万坪を有し、安産の神様としてしられ、広く播磨一円からおまいりする人が絶えない。また近くには、歴史に名高い日本武尊(ヤマトタケル)の母君である景行天皇の皇后・稲日大郎姫(イナヒオオイラツメ)の墓である日岡御陵がある」

 頂いた参詣の栞には、
  「日岡神社と伝説
 第12代景行天皇の皇后・稲日大郞姫命が御懐妊なされ、皇子・櫛角別王(クシノワケノミコト)をお産みになられた時、非常にお苦しみになられたので、次に御懐妊なされた時、天伊佐佐比古命が七日七晩、ご安産をひたすら祖神に御祈願なされたところ(加古の亥巳籠も)、無事美乃利の地でご安産なされました。
 御子はまるまると元気な大碓命(オオウス)と小碓命(コウス)の双子の皇子でした。後に小碓命(ヤマトタケル)は倭健命と称しました。
 また皇后・稲日大郎姫命は神社東の日岡御陵に祀られています」
とある。

 案内は、当社の創建を天平2年(730)というが、これを証する史料なく、また当社に対する神階綬叙記録等もみえず、創建年次を推定する史料はない。

 当社は、伝説にいうヤマトタケルの誕生譚から『安産の神様・日岡神社』と称しているが、そこに出てくる景行天皇の皇后・稲日大郞姫とは、古事記(景行記)
 「この天皇、吉備臣等の祖・若建吉備津日子(ワカタケキビツヒコ)の女、名は針間之伊那毘能大郞女(ハリマノイナツビノオオイラツメ)を娶りて生みし御子、櫛角別王(クシツノワケ)、次に大碓命(オオウス)、次に小碓命(コウス)亦の名は倭男具那命(ヤマトオグナ・ヤマトタケルの別名)・・」
とあり、書紀(景行紀)
 「景行天皇2年春3月3日、播磨稲日大郎姫を皇后とされた。后は二人の男子・大碓皇子・小碓尊を生まれた。そのお二人は一日に同じ胞(エナ)に双生児として生まれた。天皇はこれをいぶかって、碓(臼)に向かって叫び声をあげられた。そこで二人を名付けて大碓・小碓といった。小碓尊はは亦の名を日本童男または日本武尊という」(大意)
とあり、5世紀頃、播磨西部から吉備にかけて勢力を張ったとされる吉備氏(所謂・吉備王国)の出身という。

 この姫は、播磨国風土記・賀古郡段に、景行天皇(4世紀後半)が妻問い(ツマトイ・求婚)された相手・印南(イナミ)の別嬢(ワキイラツメ)として登場し、
 「印南の別嬢は天皇が来ると聞いて驚き畏れかしこんで南毗都麻(ナビツマ)の島に逃げた。天皇は姫の行方を捜され、姫が飼っている白い犬の導きで小島に渡って姫にお逢いになった。
 お二人は印南の六継の村にお帰りになり秘事(ムツビゴト)をなされ、また、南の高宮に遷られ婚姻の儀を挙げられた。・・・
 年を経て、別嬢は高宮に薨じられた。そこでその墓を日岡に作った。そこに葬ろうとして、遺骸を奉じて印南川(イナミカワ・現加古川)を渡るとき、旋風が起こって遺骸を川の中に巻きこんでしまった。探しても得られず、わずかに櫛箱と褶(ヒレ・薄い肩掛け)を見つけたので、これを墓に葬った。故に褶墓(ヒレハカ)と呼ぶ」(大意)
とあり、この褶墓は、当社東の日岡山にある稲日大郎姫命日岡陵に比定されている(前方後円墳、L=85.5m・H≒8m、4世紀代の前期古墳、元々は円墳ではないかともいう。明治16年-1883稲日大郎姫命陵に治定)

 このように、当地が景行皇后・稲日大郞姫命との関係が深いことから、“皇后の出産時に云々”という説話が作られたものと思われる。
 因みに、地名・日岡について、同・賀古郡段に
 「天皇が狩りをされたとき、一匹の鹿がきて、この丘に走り登って、比々(ヒヒ)と鳴いた。故に日岡という[おいでになる神は大御津歯命(オオミツハ)の御子・伊波都比古命(イハツヒコ)である]
とある。


 当社創建由緒は不明だが、式内社調査報告(1983)によれば、
 「社記に曰く、
 ・神武天皇が高嶋の行宮から摂津国に進まれたとき、国中の荒ぶる神が天皇に背いて悪行を催し、風雨を激しくして天皇を悩ました。
 ・その時、当地の国つ神・伊佐々邊神が顕れ、荒神を滅ぼす謀(ハカリゴト)を申しあげた。
 ・天皇はその言を入れ、河原に石の釜を据えて食膳を炊き、祖神である玉依姫(母神)・葺不合命(父神)に祈りを捧げられた。
 ・すると不思議なことに雨風が止み、日の光が山の峰に輝き、祖神が顕れて荒神退治のお告げがあった。
 ・そこで、日ノ岡日向ふ山と祝い給ひて伊佐々邊を大将となされ、荒神を退治給うた。
 ・是により、天皇は祖神の恵みに感謝し、此処に宮を建てて祖神を勧請し奉り、日岡大明神として崇め給い、7日間に亘って祭祀をおこなわれた。
 ・時に、伊佐々邊命が戦場での労が出て此処で亡くなったので、天皇はその死を惜しみ、伊佐々邊命を配して三神として祀られた」
との伝承があるという(長文のため要点列記)

 この伝承は、当社創建を神武東征神話に付託して語られた無稽なものだが、そこに日岡大明神とあることから、神仏習合が進んだ10世紀以降に作られたものと思われる(10世紀に大明神の神号が使われていたのは確かという)

※祭神
  主祭神--天伊佐佐比古命(アメノイササヒコ)
  配 祀--鵜草葺不合命(ウガヤフキアヘズ)・豊玉比売命(トヨタマヒメ)
         ・天照皇大御神(アマテラスオオミカミ)・市杵島比売命(イチキシマヒメ)

 主祭神・天伊佐佐比古命は、記紀はもちろん播磨国風土記にもみえない神だが、
 ・神名に“日岡に坐”と冠すること、
 ・当地に残る伝承にのみ出てくること
から“在地の神”と推測はできるものの、その出自等は不明。

 当社の祭神について、近世の古資料には
*神名帳考証(1813)
  「峯相記に少彦命(イササヒコ)とあり」
*神社覈録(1870)
  「按ずるに、伊佐々比古は伊波都比古の別名なるべし。
 しかおもふ由は、風土記に、賀古郡日岡に坐す神・大御津歯命の子伊波都比古命ともあれど(上記)、此神社見えず。かつ伊波都比売は二所まで見ゆるに(明石郡と赤穂郡にある)、此彦神を祭る処なくてはかなはず、故暫く別名とす。猶考ふべし」
*神祇志料(1871)
  「日岡大明神と云ふ。天伊佐々比古神を祭る。[風土記に云、日岡に比礼墓あり。坐す神大津歯命の子伊波都比古命とあり、峯相記に少彦命に作る。伊佐々比古・伊波津比古、音稍近し。或は同神歟・・・]
とあり、風土記にいう日岡に坐す神・伊波都比古(イハツヒコ)ではないかという。

 たしかに、日岡に坐す神で読みが類似しているからみれば、伊佐佐比古・伊波都比古は同じ神ともとれるが、伊波都比古の出自もはっきりせず、同神と断定はできない(風土記がいう父神・大御津歯命の出自も不明、伊和大神ともいうがはっきりしない)

 なお参詣の栞には、
 「天伊佐佐比古命は吉備津彦命のことか
  第10代崇神天皇の御代、天皇は勢力を広げるために皇族の御方を派遣しました。北陸・東海・西道・丹波がそれで、世に四道将軍と呼ばれています。
 西道である山陽道には第7代孝霊天皇の皇子・彦五十狭芹命(吉備津彦命)と弟の若建吉備津彦命を派遣しました。彼らは無事大任を果たし、その後この地にとどまりました。
 この吉備津彦命が天伊佐佐比古命であると言われています。また、この吉備津彦命の活躍は桃太郎伝説のモデルとも言われています」
として、吉備津神社(岡山市)の祭神・吉備津彦命ではないかという。

 吉備津彦(キビツヒコ)・若建吉備津彦(ワカタケキビツヒコ)とは、第7代・孝霊天皇の皇子で(異母兄弟)、古事記(孝霊記)には
 「大吉備津比古と若建吉備津比古の二柱は相副ひて、針間の氷河の前(ヒカワノサキ)に忌瓷(イハヒヘ)を据えて、針間を道の口として吉備国を言向(コトム)け和(ヤハ)したまひき。
 吉備津彦命は吉備の上道臣(カミツミチノオミ)の祖なり。若建吉備津彦は吉備の下道臣(シモツミチノオミ)の祖なり」
とあり、注記(講談社学術文庫版)に、
 「氷河の前は加古川市大野にある丘を氷丘(ヒノオカ・日岡)といい、丘の下を流れる加古川を氷河と呼んだ」
とあり、当地での出来事という。

 古代の戦いは、それぞれが奉する神と神との戦いであったといわれ、孝霊記にいう“播磨の氷川に忌瓷を据えて云々”とは、ヤマトの将軍・吉備津彦が、ヤマト勢力と吉備勢力が接する境界であった氷川(現加古川)の河原に忌瓷(祭具)を据えて、吉備の荒ぶる神々を調伏するための神マツリをとりおこない、その後吉備国に侵攻したことを指す。

 このように、当地と吉備津彦との関係が深いことから、伊佐佐比古を吉備津彦とみるのも一つの見方だが、両命を以て吉備の上道臣・下道臣の祖というのは、命らが吉備国に留まったことを意味し、栞が「(吉備津彦は)当地にとどまった」というのは、命を当地に関係つけるための伝承とみるべきであろう(別稿・吉備津神社参照)


 配祀4座のうち“鵜草不合命”は、天孫・ニニギ尊の孫(神武天皇の父)にあたる神で、荒ぶる神に悩まされた神武に神託を下して助けたという上記伝承による奉祀とおもわれる。

 次の豊玉比売命は、海神・綿津見大神(ワタツミ)の娘で鵜草不合命の母だから、母子併せて祀ったともいえるが、上記伝承で鵜草不合命と共に顕れ神武を助けたのは、命の妃(神武の母)である玉依姫(海神の娘で豊玉姫の妹)であることから、玉依姫を祀るのが順当かと思われる。
 資料によれば、中世までは鵜草不合命と玉依姫・天伊佐々比古命の三座が祀られていたといわれ、この組み合わせが本来の祭神であって、何時の頃かに、玉依姫が同じ海神の娘である姉神・豊玉姫に変わったのであろう。

 次の天照皇大御神は、後世になって、皇室の祖神ということでの合祀だろうが、その時期等は不明。

 最後の市杵島比売命は、アマテラスとスサノオのウケヒによって成りでた宗像三女神の一だが、当社との直接の関係はなく、古老に言によれば、嘗て、当社の西を流れていた御手洗川の中之島に祀られていたのを、境内拡張の際に遷し祀ったという(式内社調査報告)。市杵島比売は弁才天と習合しているから、福の神・弁天さんとしての勧請かもしれない。


※社殿等
 御門(入母屋造・瓦葺)を入り、広い境内を進んだ正面が式内・日岡坐天伊佐佐比古神社本宮で、御門すぐの右手に境内社・居屋河原日岡神社が鎮座する

 境内正面一段高くなった処に横長の堂々たる拝殿(コンクリート入母屋造・銅板葺)が、その奥に、内拝殿・祝詞殿・本殿と続く壮大な社殿(コンクリート権現造・銅板葺)が南面して鎮座する。
 これら御門を除く社殿群は、昭和44年焼失のものを同46年7月に再建したもので、御門を除く社殿がコンクリート造であることから、古社の面影はない。


日岡神社・御門 
 
同・拝殿
 
同 左
 
同・内拝殿
 
同・本殿

◎境内社
 境内には以下の小祠が点在する。
 ・住吉神社(上筒男命・中筒男命・底筒男命) ・熊野神社(伊邪那伎命・伊邪那美命)
 ・天満神社(少名毘古那命・菅原道真)  ・恵美酒神社(蛭子神)  ・稲荷神社(保食命)
 資料によれば、これ以外に高御位神(大己貴命・事代主命)があるというが、気づかず。

 
左:住吉神社・右熊野神社

左:天満神社・右:恵美酒神社 
 
稲荷神社

◎居屋河原日岡神社
 御門を入ったすぐの右手にある境内社。
 祭神  天伊佐佐比古命
 社頭の案内には、
  「居屋河原日岡神社  通称:大鳥居神社
 このお宮は、昭和46年7月に加古川市加古川町寺家町字居屋河原(現播磨信用金庫加古川支店所在地)より移転しました」
とあり、玉垣に囲まれた境内の正面に拝殿・本殿が南面して鎮座する。
 日岡神社と称することから、本社と何らかの関係がある社であろうが、旧社地への鎮座由緒・年代等は不明。

 
居屋河原日岡神社・鳥居

同・拝殿 
 
同・本殿

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