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粒坐天照神社
兵庫県たつの市龍野町日山
祭神--天照国照彦火明命
[論 社]
伊勢神社
姫路市林田町上伊勢
梛神社

姫路市林田町下伊勢
梛八幡神社
たつの市神岡町沢田
井関三神社
たつの市揖西町中垣内
                                                        2016.04.05参詣

 延喜式神名帳に、『播磨国揖保郡 粒坐天照神社 名神大』とある式内社だが、論社として上記4社がある。
 今、当社では“イイボニマス アマテラス”とするが、祭神からみて“イイボニマス アマテル”と読むべきであろう。

 JR姫新線・本竜野駅の西約1.4km 、駅西より西進、龍野橋を渡り道なりに進んで、突き当たりを左へ進んだ右手(北側)、民家にはさまれて一の鳥居が立つ。

※由緒
 一の鳥居脇に掲げる案内によれば、
 「延喜式に揖保郡7座の一つと記載され、宍粟郡一宮町の伊和神社・垂水の海神社とともに播磨3大社の一つです。
 神社縁起によると、推古天皇2年(594)、当地の有力者が神託を受け、的場山(H=394m)の頂きに祠を建て農業の守護神・天照国照火明命(アマテルクニテルホアカリノミコト)を祀ったのが始まりです。
 その時、一粒の稲の種と水田を授かり、これを耕作したところ大豊作となり、一粒万倍したという。以後、この地はイイボ(粒・揖保・飯穂)の郷と呼ばれる穀倉地帯となりました。
 室町時代の嘉吉の乱(1441)の兵火で社殿が焼失、揖西町小神に遷座しました。
 天正9年(1581)、龍野城主となった蜂須賀小六正勝が、日山(当時は樋山と呼んだ)の現在地へ遷座、続いて城主となった福島正則が社殿を造営しました(以下略)
という。

 案内がいう神社縁起には、
 「人皇第32代崇峻天皇、第33代推古天皇の御代(587--628)、播磨国現在の龍野市(現たつの市)に伊福部連駁田彦(イフクベノムラジ フジタヒコ)という長者があり、人格者で近くの住民に篤く信頼されていた。
 この駁田彦の邸の裏によく茂った杜(モリ)があって、推古天皇2年正月1日に、この杜の上(的場山頂)に異様に輝くものが現れた。
 駁田彦がこれを見つめていると、忽然として容貌端麗な童子の姿となって顕れ、曰く、『我は天照国照火明命の使いである。天火明命の幸御魂はこの地に鎮まり、この土地と人々を守り給うて既に千年を超ゆ。
 今、汝の正直・誠実なるに感じ給い天降りまして神勅を授けようとされている。神勅を奉戴し新しい神社を造営し奉祀せよ。
 今ここに稲穂を授け給う。これを耕作すれば、汝の田のみならず此の里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄えゆくであろう』と。
 ここで使者の童子は忽ちにして昇天して去り、あとに稲穂が残されていた。駁田彦がこの神勅を尊み奉斎することを誓うと、駁田彦の田のみならず近くに一夜にして千頂もの水田ができた。
 駁田彦が中心となって神社を建立奉齊し、またこの水田に授かった種稲を耕作すれば大豊作となり一粒万倍したという。
 以後、この土地は米粒を意味するイイボの郡と呼ばれ播磨の穀倉地帯となった。駁田彦をはじめ人々は喜び感謝し、この神社を粒坐天照神社と称し氏神と崇め今日に至っている」
とあり、これが郡名・イイボの起こりという。

 神あるいはその使者が童子と化して顕れ神託を下すという説話は、宇佐八幡宮を初めとして各地に残っており、当社もその一つだが、その創建が推古朝であったとの確証はない。

 当社創建以来の沿革として
 ・推古2年、的場山(H=394m・当社の北北西約1.3km)山頂に社殿造営(推古2年との確証はない)
 ・応永の乱(1399)の兵火、嘉吉乱(1441)の兵火に罹り小神の地(現揖西町小神・現古宮神社)に遷座。元社地(的場山)の焼跡に祠を造り天津津見神社(アマツツミ)と称す
 ・文明4年(1471)社殿炎上、樋山村(現たつの市日山)に遷座
 ・同6年(1473)、火災により焼失、旧宮地(小神の地)の寺院一山に仮寓
 ・天正9年(1581)、龍野城主・蜂須賀小六正勝が現在の地に再建・遷座 小神の社を古宮神社と称す
 ・天正13年(1585)、龍野城主・福島正則が社殿造営、本殿に熊野権現・八幡宮・春日神社を祀って三所大権現と称し、当社を境内末社とす
   以降、幾度かの火災に被災・再建を繰りかえす
 ・寛永3年(1626)~元禄12年(1699)、本殿・拝殿・舞殿など悉く再建
 ・明治7年(1874)、粒坐大神を本殿に復座、神仏分離により神宮寺(普光寺)を分離
 ・同12年(1879)、社号・粒坐天照神社に復帰
という。

 当社社名に冠する粒(イイボ・イヒボ)は“揖保”とも記す古くから地名で、播磨国風土記・揖保郡揖保の条には、
 「粒と称するわけは、この里が粒山(イヒボヤマ)に寄り添っているからで、山によって里の名とする。
 粒丘(イヒボオカ)ととよぶわけは、天日槍命(アメノヒホコ)が韓国が渡ってきて宇頭川(現揖保川に比定)の川口に着き、葦原志挙乎命(アシハラシコオ)に宿所を乞うたので、志挙乎は海上に居ることを許した。
 そこで客神(マレビトカミ・天日槍)は剣をもって海水を搔きまわしてこれに宿った。
 志挙乎は、この神の猛々しく盛んな行為に畏れて、客神よりも先に国を占めようと思い、巡り上って粒丘まで来て急いで食事をした。
 すると口から粒(飯粒)が落ちた。だから粒丘と呼ぶ」(大意)
との説話があり、地名の起源説話とされているが、その実は葦原志挙乎を戴く在地豪族と天日槍を奉じてやってきた渡来人との土地争いを語った説話であろうという
 (垂仁紀に「天日槍は船に乗ってきて播磨国の宍粟邑に居た」とあり、播磨国風土記には天日槍と葦原志挙乎あるいは伊和大神とが争ったという説話が幾つも残っている)

 当社を創建したという伊福部連駁田彦(フジタヒコ)とは、新撰姓氏録(815)
 ・左京神別(天孫)   伊福部宿祢  尾張連同祖  火明命之後也
 ・山城国神別(天孫) 伊福部     火明命之後也
 ・大和国神別(天孫) 伊福部宿祢   天火明命子天香山命之後也
 ・  同          伊福部連     伊福部宿祢同祖
とあるうちの、大和の伊福部連に連なる人物と思われ、姓氏類別大観にみる尾張氏系図によれば、天火明命(アメノホアカリ)9代の孫・若都保命(ワカツホ)が五百木部氏(イホキベ)の祖とある。
 この天火明命(古事記)の別名が天照国照彦火明命(書紀9段一書8、天照国照彦火明命は尾張氏の遠祖とある)であることから、当社は伊福部氏がその遠祖・天火明命を祀った神社となろう。

 伊福部のイフク(イフキとも)とは、息を吹く、もしくは風を吹く意味の“息吹き”(イブキ)で、谷川健一氏は、因幡の伊福部氏(因幡国名神大社・宇部神社社家)に伝わる古系図の20代・若子臣(ワクゴノオミ)の注記に、
 「禱祈(トウキ)を以て息を飄風(ツムジカゼ)に変化す。これを書(シル)して姓(カバネ)を気吹部臣(イフクベノオミ)と賜ふ。これ若子宿祢(ワカコスクネ)にはじまるなり」
とあることに注目して、
 「これはいうまでもなく、タタラまたはフイゴをもって強い風を炉におくるありさまを示したものである。伊福部氏が産銅もしくは産鉄に関係をもつ氏族であることは、これによって推測される」
として、伊福部氏(五百木部・伊福吉部とも記す)はフイゴを用いての金属精錬(タタラ製銅・製鉄)に携わった古代氏族という(青銅の神の足跡・1989)

 また、大和岩雄氏は
 「稲種の一粒を万粒にするための治水・開田・農耕の道具は、鍛冶職等によって作られる。現代の先端技術者が畏敬の目で見られるように、彼らも農耕民から畏敬の目でみられたであろう。
 だが、現代では科学とみられる技術も、当時は神威または霊力とみられていた。だからイフクは、たとえそれがタタラの風であろうとも、生命の風であり、タタラの風は、石(鉱石)をまったく別のものに変える再生・化身の霊力であった」
という(神社と古代王権祭祀・2009)

  これらからみて当地には、石塊から治水・開田・農耕に必要な銅鉄製道具を取りだすという神秘的な霊力をもつタタラ職人が存在し、伊福部氏は、これら配下の職人が作った当時の先端道具を駆使して治水を図り田畑を拡げたのであろう。

 揖保郡に伊福部氏が居たことは、三代実録・貞観4年(862)6月15日条に
 「播磨国揖保郡の人・雅楽寮(ウタリョウ)の笛笙生(テキショウセイ)・無位・伊福貞俊(イホキノサダトシ)を、本姓・五百木部連に復しき」
とあることからも証される。
 笛笙生とは雅楽で笛を担当する人のことだが、大和氏は、
 「笛を吹くことは、単に音楽を奏でることではなく、生命の風を与えるイフクに通じるもので、伊福部氏が平安時代に笛を吹く職についているのも、“吹”が“イフク”であることの名残であろう」
という。

 当社に対する公的記録としては、三代実録に
 貞観元年(859)正月27日 播磨国従五位下勲八等粒坐天照神に従四位下を授く
とあり、9世紀に実在したことは確かだが、その後の昇階記録はない。
 なお、社頭案内に「文徳天皇嘉祥4年(851)に神階従五位下を賜り」とある。文徳実録同年条にそれらしき記録は見えないが、貞観元年の記録に従五位下とあることから、貞観以前に賜っていたのは史実であろう。

※祭神  
  天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリ)

 この神は、書紀9段一書8に、
 「天照大神の御子・正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)は、高皇産霊尊(タカミムスヒ)の娘・天万杵幡千幡姫(アメノヨロズタクハタチハタヒメ)を娶り子を生み、天照国照彦火明命と名付けた。これは尾張連らの遠祖である」
とある神で、葦原中国に天降った天孫・ホノニニギの兄という。
 これと同じ皇統譜を語る古事記および書紀一書6には、天火明命(アメノホアカリ)とあり(母神の名は異なるが、いずれもタカミムスヒの娘とする)、いずれもホノニニギの兄ということから、天照国照彦火明命と天火明命とは同じ神という(以下、天火明命という)

 火明命とはその名からみて太陽神とみられるが(火は日、但しアマテラスとは別系統の古い太陽神-天照御魂神という)、火明の火(ホ)は穂(ホ)と通じることから、火明とは“稲穂が熟して赤らむ意”(穂赤)ともいわれ、一粒万粒をもたらす神・豊穣神的神格を併せもつと見ることができる。

 この神は、書紀一書6・8に尾張氏の遠祖とあることから(古事記には見えない)、尾張氏に連なる伊福部氏が祖神として祀ったのであろう。

 なお、物部氏系史書である先代旧事本紀(天孫本紀、9世紀前半)には、
 「天照孁貴(アマテラスヒルメムチ=アマテラス)の太子・天押穂耳命は、タカミムスヒの娘を后として天照国照彦天火明命櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアマノホアカリミコト クシタマ ニギハヤヒノミコト)をお生みになった。亦の名を天火明命・天照国照彦火明尊・饒速日命という」(大意)
とあり、天火明命とは饒速日尊の別名という(旧事本紀にはホノニニギ命の名はなく、葦原中国に天降ったのはニギハヤヒだという)

 そのニギハヤヒが、天上においでのときに生んだ御子・天香語山命(アメノカゴヤマ)の4世の孫・瀛津世襲命(オキツヨソミ)が尾張氏の祖で、9世の孫・若都保命(ワカツホ)が五百木部連の祖とある。
 (天降った後に生んだ御子・宇麻志麻治命-ウマシマジが物部氏の始祖であることから、尾張連と物部連の遠祖を同じくする氏族という)

 ただ、旧事本紀がいうニギハヤヒ・アメノホアカリ同体説について、本居宣長は、
 ・アメノホアカリ命とニギハヤヒを一つの神とし、尾張連と物部連とをこの神の後というのは偽りの説なり
 ・ニギハヤヒとアメノホアカリとは本より別神であって、尾張連はアメノホアカリの後、物部連はニギハヤヒの後であって同祖ではない
 ・これは、物部連の人が己の始祖を尊くする為に、ニギハヤヒをアメノホアカリと偽り造った家の記録を、そのままに記したものである
として否定している(古事記伝15巻・1798、大意)

 また、播磨国風土記では、火明命は大汝命(大己貴命=大国主命)の御子とされ、飾磨郡伊和里の条に
 「大汝命の子の火明命は強情で行状も猛々しかったので、父神は思い悩んで捨てて逃れようとした。すなわち因達の神山まで来て、その子を水汲みにやって、帰ってこないうちに船を出して逃げ去った。
 水を汲んで帰ってきた火明命は、それを見て怒り、風波を巻きおこして船を追いかけた。為に、父神の船は前に進むことができなくて、ついに打ち壊された。・・・その時、大汝命が妻の弩都比売に『性の悪い子から逃げようとして、却って風波に遇っていたくたしなめられたことだよ』といった」(大意)
とあり、是によってか、当社祭神・天火明命は大己貴命の御子とする資料が散見される。

 しかし、ここでいう火明命には豊穣神・農業神らしき性格はみえず、天つ神である天火明命(天照国照彦火明命)と国つ神である大己貴命の御子・火明命とは別神とみるのが順当であろう。
 また、記紀にみる大己貴(大国主)の後裔に火明命の名はなく、風土記が火明命を大汝命の御子とする由縁は不明。

※社殿等
 道路北側の一の鳥居をくぐり、参道を進んだ途中に二の鳥居(神額には粒坐社とある)が立つ。
 社殿は、山腹を切り開いた階段状の境内に配置され、石段を上った2段目に随神門が、3段目に絵馬殿(中央が参道)が建つ。

 
粒坐天照神社・一の鳥居
 
同・二ノ鳥居(神額には粒坐社とある)
 
同・社頭景観(最下段広場)
 
同・2段目への石段
(上の建物は随神門)

同・3段目への石段
(上の建物は絵馬殿)
 

同・絵馬殿 

 絵馬殿を入り石段を上った4段目に大きな唐破風を有する拝殿(入母屋造・銅板葺)が、その奥、塀の中に弊殿(入母屋造・銅板葺)に続いて本殿(入母屋造・銅板葺)がいずれも南面して鎮座する。


同・拝殿正面 
 
同・本殿
 
同・社殿配列(拝殿・弊殿・本殿)

◎境内社
 境内、本殿域の左右に境内社数社が鎮座する。
*本殿域の右(東側)
  左から
  ・東三社--稲荷社2社・薬司社(祭神不明)
  ・大神宮--天照大神・品陀別尊・天津児屋根命
  ・天満宮--菅原道真(拝殿・本殿あり)
 天満宮右手の石垣の上
  ・瑜伽神社(ユウガ)--祭神の表示はないが手置帆負命(タオキホオイノミコト・下記)であろう。


東三社 
 
大神宮

天満宮・拝殿 
 
同左・本殿

瑜伽社への石段 

瑜伽社・拝殿 
 
瑜伽社・本殿

*本殿域の左(西側)
 本殿域右側には低い石垣2段が築かれ、
 下段--厳島神社(市杵島姫命)
 上段--西二社--琴平社(大物主命)・瑜伽神社(手置帆負命)
       西五社--稲荷社(倉稲魂神)・秋葉神社(火伽具土命)・恵美須神社(事代主命)
               ・愛宕神社(火産霊神)・住吉神社(住吉三神)
が鎮座する。

 瑜伽神社の祭神・手置帆負命(タオキホオイ)とは、
 ・書紀9段・一書2--紀国の忌部の遠祖である手置帆負命を笠作りの役目とされた
 ・古語拾遺(日神の石窟幽居段)--(アマテラスが天岩屋に隠れられたとき)手置帆負・彦狭知の二柱の神をして天御量(アマツミハカリ)を以て材を伐りて瑞殿(ミズノアラカ・宮殿)を造り、また御笠・矛・楯を造らしむ
とある神で、建築・工匠などの守護神という。

 
厳島神社(下段)
 
上段への入口
 
境内社2社(上段)
 
西二社・拝殿
 
西二社・本殿
 
西五社


【古宮神社】

  たつの市揖西町小神
 粒坐天照神社(本社)が、創建時の的場山から小神の地に遷り、更に現在地に遷座するまでの間鎮座していた古社地。

 本社前の道を西へ約800mほどいった角(550mほどの右手にある池を過ぎて二つ目)を右へ折れ、道なりに進んだ右手・石垣の上に鎮座する。
 正面入口は網戸で閉ざされているが、開いて入ることができる。

 高い石垣の上が境内で、正面石段の上に鳥居が立ち、広い境内中央に拝殿(入母屋造・瓦葺)・本殿(一間社流造・銅板葺)が鎮座するのみの古社で、拝殿に掲げる神額も摩耗していて社名表示も見えない。

 社殿右手の山裾に、注連縄を巻いた小さな磐座(イワクラ、H=1mほど)がある。
 一見して古いものだが、人の手が加わっているのは歴然で、何時の頃からのものかは不明。
 ここに磐座があることは、本社が遷座してくる前から、この地で何らかの神マツリが行われていたかとも推測され、そういう聖域であることから、的場山の粒坐天照神社を遷したとも推測できる。


古宮神社・社頭 
 
同・鳥居

同・拝殿 
 
同・本殿

同・磐座 

【天津津見神社】
  粒坐天照神社創建当時の古社地で、的場山山頂近くの山腹(ネット資料によれば、的場山アンテナ鉄塔へ至る管理用道路の途中に表示があるという)に石祠が残っているらしいが、時間なく不参詣。

※論社                                                         2016.04.25参詣
 式内・粒坐天照神社について、明治初年の古資料には
*神名帳考証(1813・江戸末)
   今揖東郡井関村に伊勢宮有り、此か
*神社覈録(1870・明治3)
   揖東郡岡野郷上伊勢村に存す。今伊勢宮と称す。祭神:伊勢都比古命か
   式社記に云 下伊勢村八幡宮也 一説に上伊勢村伊勢宮といふ
   播磨鑑には、伊勢村の地に社跡あり、大門の跡存すと云り 今廃亡と聞こえたり
*神祇志料(1871・明治4)
   今揖東郡上伊勢村に在り 伊勢宮といふ 天照国照天火明命を祀る、五百木連の祖神也
*特選神名牒(1876・明治9)
   (神社覈録にいう説を列記して、上伊勢村の伊勢宮とするのは)「思ふに村名伊勢と云より天照神に付会したるなるべく、確証なし」と断じ、「粒坐天照大神神社上揖保庄樋山村(日山村)にありとする、従ふべし」
とある。
 これらをみると、現鎮座地・龍野町日山とするのは特選神名牒のみで、他は揖東郡上伊勢村(現姫路市林田町上伊勢)にある伊勢宮を充てるものが多い。

【伊勢神社】(多賀八幡宮ともいう)
  姫路市林田町上伊勢
   JR姫新線・東觜崎(ヒガシハシサキ)駅の北東約6km。駅の東約4kmを南北に走る県道413号線と東西の県道519号線の交差点(T字路)の東に鎮座する。
  祭神--品陀和気命(応神天皇)・豊受大神

※由緒
 社頭に掲げる伊勢神社(多賀八幡神社)の案内には、
  「上伊勢と多賀八幡神社
 上伊勢は播磨国風土記にみえる揖保郡林田里の伊勢野に比定される。延享4年(1747)の“林田庄八ヶ村と上岡郷上伊勢村の荘郷境界論裁許状”から、10世紀前半の和名抄に“上岡郷”を継承する地に属していたことがわかる。・・・

 上伊勢には、湯屋谷に豊受大神を祀る多賀神社と、ここ追谷山麓に品陀和気命を祀る八幡神社があったが、明治7年(1874)八幡神社が村社となり、明治39年(1906)に八幡神社に多賀神社を合祀した。

 延喜式にみえる粒坐天照神社は龍野町の粒坐天照神社に比定されるが、播磨名所巡覧図会(1803・江戸後期)は伊勢村にあるとする説を載せる。
 北東の山頂に神座の窟という天然の岩屋があり、その北には“岩屋赤松遠見ノ城跡”ともいう空木(ウトロギ)城跡がある」
とあるが、多賀神社・八幡神社それぞれの創建由緒・年代は不明。

 この神社を式内社に比定するのは、
  ・式内社の社名“天照”を天照大神と解し、伊勢の地にあることから、天照→天照大神→伊勢と繋いで
  ・伊勢を社名とする上伊勢村の伊勢神社に充てた
のではないかと思わるが根拠薄弱で、特選神名牒に「村名伊勢と云うより天照神に付会したるなるべし」とあるように、当社を式内社とするには無理がある。

 上記案内は、「上伊勢は風土記揖保郡林田里の伊勢野に比定される」というが、伊勢野については下記・梛神社に記す。

※社殿
 南側に立つ小ぶりな鳥居を入り、参道奥の石段を上った上が境内で、山麓の石垣上の狭い境内に社殿が南面して鎮座する。なお、境内西側の道路脇にも鳥居が立ち、緩やかな坂を登ると境内西側に至る(鳥居には「伊勢神社」の神額が、傍らに「多賀八幡神社」との標柱が立つ)

 境内正面の石垣下に下拝殿(舞殿かもしれない)が、石垣の直上に唐破風向拝を有する上拝殿(切妻造・瓦葺)が、その奥、弊殿に連なって覆屋があり、中に古びた本殿(流造らしい)が鎮座するが、近寄れず本殿の詳細は不詳。


伊勢神社・鳥居(南側) 
 
同・社殿全景
 
同・下拝殿
 
同・上拝殿
 
同・本殿覆屋
(中に古い本殿が納まる-右写真)
 


【梛神社】(ナギ)
 姫路市林田町下伊勢町下伊勢字上ノ段
   JR姫新線・東觜崎駅の東約4.5km。駅北を東西に走る県道724号線を東進、合流する国道29号線が南に曲がってすぐの下伊勢信号から、北へ上る小道を入った東側に鳥居が立つ。
 祭神--天照大神

 鳥居脇の案内には、
  「垂仁天皇26年に、天から12の幡が降り、その地に石碑を建てた。その一つが八町四方に繁茂する社地の梛の大木に掛かり、天照大神が現れたといわれている。
 梛の元には県主・葦原飯照が居住していた。飯照18代目・飯粒が良田四十町を安閑天皇に献じ、勅を奉じて石碑の地に天神七代地神五を祀る。
 この時、梛の大木を切り倒した跡に、天照大神を祀り梛神社と名付けられた。・・・」

 絵馬殿内に掲げる略縁起には、
  「抑も当国天坐の御座の始と申し奉るは、人皇11代垂仁天皇御宇26年丁巳10月、東天より光明赫奕として紫雲は七五三嶽(シメガタケ)より窟山(イワヤセン)へたなびき、両峯一度に光明を放ち、天照大神顕れ給う。
  その時、御幡12旒天より降り(七五三嶽に2旒、麓に3旒、窟山に2旒、梛の大木有り、枝葉八町四方に繁茂せしが、この梛に3旒、北渓口の清岩に2旒)天照大神梛の大木に移らせ給う。
  即ち県主・葦原飯照この事を天皇に奏聞し、12流の降りし各地へ碑を建て之を表せしが、18世の後胤・葦原飯粒に至り、大伴大連金村の問いを受け良田四十町を27代安閑天皇に献じ(書紀巻18に記載)、勅を奉じて石立碑の地に就て十二宇を構え、天神七代地神五代の十二神を奉崇す。即ち梛の大木を伐り、その跡に天照大神を祀る。是今の梛神社の事なり。

  播磨古蹟考(江戸後期頃か)に、伊勢神明、伊勢村に有り、延喜式に記す揖保(粒)座す天照神社とは是なりと有り」
とあるが、この由緒にみるかぎり、当社と式内・粒坐天照神社の接点はなく(社名・天照をアマテラスと解したともとれる)、播磨古蹟考が当社を式内社としている根拠も不明(日本の神々2は式外社とし、論社とはしていない)

 なお、良田40町を安閑天皇に献じたというのは、安閑紀・元年閏12月4日条(6世紀中葉頃か)に、
 「天皇が三島(大阪府三島郡)に行幸された。天皇は供の大伴金村を遣わして、良田を県主の飯粒(イイボ)に問われた。飯粒は喜び誠心を尽くしてお答えし、三野・桑原など竹生の土地合計40町を献上した」(大意)
とあることを指す。

 ただ、ここで天皇が行幸した三島の地とは摂津国三島郡(現大阪府茨木市・吹田市・高槻市の一帯)に比定されており、とすれば属する国が異なり、これが当社由緒に記される理由は不明。

 なお、当地名・伊勢にかかわって、風土記揖保郡段に
 「伊勢野  伊勢野と名づけるわけは、この野に人家ができると、その度に安らかに暮らすことができなくなる。
 そこで、衣縫猪手(キヌヌヒノイテ)・漢人刀良(アラビトノトラ)らの祖は、そこに住むこととして社を山麓に建てて斎き祭った。
 山の峰においでになる神は、伊和大神の御子の伊勢都比古命・伊勢都比売命であった。
 これから以降は家々は静かに安らぎ、ついに里ができるようになった。そこで伊勢と呼ぶ」
という伝承がある。

 この伝承について、日本の神々2は、
 ・従来、伊和大神の子・伊勢津比古・比売を山麓に祀り、伊勢明神と呼んだと解釈されているが
 ・ここで山麓と山峰の神が対比されていることから、龍野市史は、渡来人の猪手・刀良が新しく社を山麓に建てて自分らの神を祭り、元々この地に坐した伊勢津比古・比売の二神は山頂に追いやられたとしている。
 ・この山麓の新しい神がどのような神かは不明だが
 ・衣縫(猪手)については、新撰姓氏録に「和泉国諸蕃(百済) 衣縫 百済国神露命の後也」とあり、漢人(刀良)も百済からの渡来人と考えられ
 ・この新しい神は、当地に入って開拓を進めた渡来人の祖神とみられる
という。

 ただ、この伊勢野にかかわって、播磨国風土記新考(1931)
 「今伊勢村に村社・梛神社あり、昔は伊勢明神と云ひき。是伊勢津比古・比売神のまします社か。・・・
 考ふるに、伊勢津比古命は即火明命にて、もとより伊勢村にましますを、後に龍野に分霊せしが、処がら分社の方が栄えしを・・・」
として、本来は現梛神社が式内・粒坐天照神社であって、今の龍野町日山の粒坐天照神社は当社から分霊されたもので、その祭神・火明命は伊勢津比古命のことという。

 これによると、当社は式内・粒坐天照神社の論社というより、式内社そのものとなるが、この風土記新考の信憑性がどの点どのものかは不明で、当社が本来の式内社であるかどうかは判断できない。
 ただ当地には、古く、このような伝承があったことが示唆される。

 伊勢野にある山が何処の山かは不詳だが、風土記で伊勢津の次に記す
 「稲種山  大汝命と少日子根命の二柱の神が、神前郡の堲岡里(ハニオカ)の生野の峰にいて、この山を見て、『あの山には稲種を置くことにしよう』と仰せられ、直ちに稲種をやってこの山に積んだ。山の形も稲積に似ている。だから稲種山という」
とある稲種山かと思われる。
 この稲種山は、当社の東北東に位置する峰相山(H=244m)に比定されているが、その南西に続く一峰で当社の南東約500mの風早山(トンガリ山、H=256m)ともいわれ、その山頂近くに亀岩と称する大岩があり、岩に穴があり水をたたえ、崇神天皇の御代4本の稲が生え、この稲を種として諸国へ稲作を広めたという伝承があるという(粒坐社の由緒と似ている)

 当社の祭神は天照大神というが、これについて風土記新考は、
 ・村の名を伊勢ということ
 ・社の旧称を伊勢明神ということ
 ・神名を天照国彦火明命ということ
 ・粒坐天照神社の末社に天照大神神社があること(粒坐天照神社の末社・大神社を指す)
などから、「本社とは別に末社として大御神を祭ることとなりしならむ」として、これは当社本来の祭神を伊勢津比古命であったが、末社の祭神・アマテラスを本社に遷したというが、よくわからない。

 なお、日本の神々2は
 「社殿が西向きで、東の山頂に向かって遙拝する形になることは、太陽神信仰との関係が考えられる(峰相山は当社からみて夏至の日の出方向に位置する)。当社が元々日神祭祀の性格をもっていたとすれば、それが伊勢という地名と相まって天照大神と結びつくのは容易なことである」
という。

※社殿等
 道路脇の一の鳥居(傍らに梛神社の石標あり)を入り直進した先に二の鳥居が立ち、更に参道を進み石段を登った上が境内。

 境内正面に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、これに続いて弊殿・本殿(流造・銅板葺)が西面して鎮座する。


梛神社・一の鳥居 

同・二の鳥居
 
同・境内への石段
 
同・拝殿
   同・本殿

◎境内社
 社殿背後の高所に小祠3宇が鎮座する。
 ・末社合祀殿--右:大歳社、左:貴船社
 ・末社--荒神社
 ・末社--木ノ神社(祭神等不明)


同・末社合祀殿
(左:大歳社・右:貴船社) 

同・荒神社 
 
同・木ノ神社


【梛八幡神社】(ナギハチマン)
 兵庫県たつの市神岡町沢田
  JR姫新線・東觜崎駅の南東約800m、田畑に囲まれた小丘の南麓に鎮座する。
 祭神--品陀和気命(応神天皇)・足仲彦命(仲哀天皇)・息長足姫命(神功皇后)

※由緒
 社頭の案内には、
  「当神社の創立は不詳であるが、いまから凡そ1200年前の天平宝宇7年に新羅の軍が我が国に攻め来て家島に布陣したとき、播磨の国司・藤原朝臣貞国が朝廷より追討の命をうけ出陣に当り、当梛八幡宮外五社六寺に先勝祈願をして出陣し大勝を得る。
 貞国神威を深く感謝し、長く幣帛を奉献する、と、古書・峯相記(1343頃)に記載されており、又、千年前の延喜の式内社の制定にあたり大社に列せられ、代々領主の信仰厚く・・・

 この神岡の里は、神代の昔、出雲の阿菩大神(阿保大神、出雲のいうことから大己貴命を指すか)が畝火・香山・耳梨の争いを諫めるため大和に向かう途中、この梛山に来たとき争いが止むと聞き、乗ってきた船をこの山に覆して、御在所とされたところから神の阜(神岡)と名づけられ、
 後年、御祭神の品陀和気命(応神天皇)が播磨国を巡幸の砌、紫雲たなびく神霊地を感受され、導主命(ミチヌシ)をして尋ねしめ給う時、どこからともなく獅子が現れ先導し、榊の茂る中に生える霊木・白檀の木の下へ案内されたところから、以後、梛の大神の御神威を畏み神恩に報いる為、秋祭りには獅子舞を奉納することとなり・・・」(以下略)
とある。

 ここで、天平宝宇7年(763)新羅軍来寇云々というが、続日本紀・天平宝宇7年条前後にそのような記録はない(峯相記は地元の伝承等をまとめたもので、その信憑性は低いという)

 案内は“延喜式制定にあたり大社に列せられ”という。この大社とは式内・粒坐天照神社を意味するのだろうが、その根拠は示されておらず、上記由緒からみて粒坐天照神社との接点はない。
 また、八幡宮で式内社に列しているのは、宇佐の八幡大菩薩宇佐宮(現宇佐神宮)と筑紫の八幡大菩薩筥崎宮(現筥崎宮)の2社のみで、それ以外にはみえず、当社が創建当初から八幡宮であれば式内社に列したとは思えない。

※社殿等
 道路脇の一の鳥居を入り、参道を進んだ先に二の鳥居が立ち、石段を登った上が境内。
 石段直上に絵馬殿(入母屋造・銅板葺)が、その奥に唐破風向拝を有する拝殿(入母屋造・銅板葺)が、玉垣に囲まれた中、弊殿に続いて本殿(入母屋造・銅板葺)が南面して鎮座する。


梛八幡神社・一の鳥居 

同・二ノ鳥居 
 
同・絵馬殿

同・拝殿 
 
同・本殿
 
同・絵馬殿内陣

◎境内社
 社頭の案内によれば、
 *摂社
  ・淡島神社(豊玉姫命)  ・厄神社(武内宿弥)
 *末社
  ・松尾神社(大山咋命)  ・金比羅神社(大物主命)  ・梛山稲荷神社(宇賀魂命)
  ・合祀殿--阿菩神社(阿菩大神)・辻の木若宮神社(句々廼馳命、別名:木神)・地神社(大地主神)
という。


摂社・淡嶋神社 
   
同・厄神社

末社・松尾神社 
 
同・金比羅神社

同・合祀殿 
◎御神木
 拝殿の右(東)前に巨木があり「御神木」という。
 傍らの案内「御神木の社伝」には
 「梛八幡宮の元宮と称える。
 社伝によると、神宮皇后播磨巡幸の砌、北方に紫雲がたなびき、霊香のただようを感ぜられ神霊地なりとおぼしめされ、道主命に命じ尋ねしめ給う。
 この時、何処ともなく獅子が現れ、この那祇山白檀の木の下に案内する。
 この霊木より霊香を発しており、山には榊の木が繁茂しており、これこそ神霊地であると奏上す。
 依ってこの白檀の霊木を御神木と称え元宮と崇拝し斎き祭る。これ当社創立の始めである」
とある(当社案内では応神天皇の御代のこととしている)
 

御神木 

同左・幹部


【井関三神社】(イゼキサン)
 兵庫県たつの市揖西町中垣内
 祭神--天照国照彦火明命櫛玉饒速日命・武甕槌命・瀬織津比売命・建御名方命(諸説あり)
※由緒
  当社の創建は、今から凡そ2000有余年の悠久の昔にさかのぼる。
  社伝によれば、人皇10代・崇神天皇2年播磨国揖保郡亀の山(当社の北約2.3km・新宮町馬立の亀山H=458mか)に、天照国照彦火明命櫛玉饒速日命が勅命により鎮座されたのが創りである。
  その後、時代の推移により、本社が亀の山より今の井関の地に遷座された年代と経緯については諸説があり判明しない。
  他方、亀の山の社地には当時より武甕槌命を祀り、奥宮神社と称し、殊に足利時代には亀山城(城山城・木山城ともいう)築城の赤松領主の篤い崇敬を受け、その後幾多の歳月をして現在に及んでいる。
  瀬織津比咩命は中垣内の庄屋・八瀬氏により、弘治元年山城国京都より勧請合祀。
  寛文12年脇坂安政公が龍野城主として入場の折、信州飯田の諏訪神社より勧請合祀。
  これより井関三神社と称し、前記三神と奥宮神社の一神を斎祀して幾星霜、・・・・・」
とあるが、そこに式内・粒坐天照神社の影はない。

 当社を論社とするのは、先代旧事本紀で祭神・天照国照彦火明命櫛玉饒速日命(ニギハヤヒ命)を粒坐天照神社の祭神・火明命と同体とすることから、ニギハヤヒ命=ホアカリ命として式内社に比定したのかもしれないが、この同体説は本居宣長他によって否定されていることから(上記)、当社を式内社とするには疑問がある。

 当社はJR姫新線・本竜野駅の北西約3.6km、的場山西方の谷間に鎮座するが、足の便がなく不参詣。

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