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射楯兵主神社
A:射楯兵主神社
姫路市総社本町
B:行矢射楯兵主神社
姫路市辻井5丁目
祭神--射楯大神・兵主大神
                                                        2016.03.23参詣

 延喜式神名帳に、『播磨国飾磨郡 射楯兵主神社二座』とある式内社だが、上記2社が論社となっている。
 社名は“イタテヒョウズ”と読む。

 往古、射楯神社・兵主神社の二社だったが、延喜式に射楯兵主とあることから、10世紀初頭に一社となっていたのは確かと(社伝では891年という)
 また、養老元年(1181)に播磨国内の大小明神を合祀したことから、射楯兵主神社というより“総社”の名で知られたようで、鳥居や神門に掲げる神額にも「播磨国総社」とある(射楯兵主神社の表示は鳥居脇に立つ石柱のみで境内にはほとんど見えない)
 なお、広峯神社(姫路市広峯山)を式内・射楯兵主神社に比定する説もあるが、この神社は素盞鳴命(元牛頭天王)を祭神とし、祇園社の元宮ともいわれることから採れない。

 A:射楯兵主神社--JR東海道線・姫路駅の北約1km。姫路城へ向か大通りを北へ、大手前交差点を右(東・国道2号線)へ進んだ先・神社南交差点の北側に鳥居が立つ。
 B:行矢射楯兵主神社--A社の北西約2km。A社北側(姫路城内堀沿いの道)を道なりに西へ、辻井交差点を直進し次の辻井5丁目交差点を右(東)へ、入ってすぐの小道を左折(北へ)した突き当たりに鎮座する。

※由緒
【射楯兵主神社】
 社務所でいただいた参詣の栞には
 「当社は、欽明天皇25年(564)6月11日に飾磨郡伊和里水尾山に兵主大神をお祀りしてから、1400年余りの歴史があります。
 また射楯大神は、奈良時代(七百年代)より飾磨郡因達里にお祀りされていたことが播磨国風土記からうかがえます。
 延喜式神名帳に『射楯兵主神社二座』とあり、平安時代(八百年代後半)には二柱の神さまが一緒に祀られていたようです」
と簡単にある。

 また、公式HPには、
 「欽明天皇25年(564)6月11日に影向があり、飾磨郡伊和里水尾山に大己貴命を祀ると伝えられています。
 また、播磨国風土記(713)に、
  『因達(イダテ)と称するは、息長帯比売命(神功皇后)が韓国を平定せんと渡りましし時、御船前(先導する神)に坐しし伊太氐(イダテ)の神、此処に在しき。故に、神の御名に因りて里の名と為す』
と記されていることから、8世紀以前には、射楯の神が飾磨郡因達里に祀られていたことがわかります。

 二社が何時合座したかについては、明確な資料が存在しませんが、927年に編纂された延喜式神名帳に『射楯兵主神社二座』とあり、式内社として少なくとも9世紀後半には合座されていました。

 その後、安徳天皇養和元年(1181)には、播磨国内の大小明神174座の神々を合わせ祀って『播磨国総社』と称し、三日潮『播磨国総鎮守の神』として広く知られるようになりました。(以下略)
とあり、
 続けて
 年表
 ・大和時代  射楯大神が飾磨郡因達里(現姫路市新在家本町・八丈岩山付近、当社北西約2km)に鎮座
 ・欽明天皇25年(564)  兵主大神(大己貴命)が影向、飾磨郡伊和里の水尾山(現姫路市山野井町・男山、当社の北西約1km)に鎮座
 ・延暦6年(787)  坂上田村麻呂が勅命により兵主大神を国衙荘小野江の梛本(現姫路市本町付近、当社北約500m)に遷す 
 ・寛平3年(891)  兵主神社に射楯神を合祀、射楯兵主神社と号す(年次不明とする資料あり)
 ・延長5年(927)  延喜式内社に列す
 ・養和元年(1181) 播磨国16郡の名高い174座の大小明神を合祀、総社と号す
 ・天正3年(1581)  羽柴秀吉が姫路城築城のため現在地に遷す
とある(鎮座・遷座項目のみ)

 これによれば、元々は兵主社・射楯社と称する別々の神社であったが、9世紀末に兵主社に射楯社を合祀して射楯兵主神社と称し、10世紀初頭延喜式内社に列したとなる。

 射楯神について、風土記では「神功皇后が朝鮮渡海の時、先導したイタテ神が当地に坐すから云々」というが、神功皇后紀には「荒魂を招きよせて軍の先鋒とし、和魂を請うじて船の守り神とした」とあるだけで、特定の神名は記しておらず、この記事は風土記のみの伝承であって、これを射楯神社の創建由緒とはみれない。
 なお、風土記がいう飾磨郡因達の里とは、当社が鎮座する姫路市中心部の北部にあたり、射楯の神が坐す所は、当社北西約2kmにあって神が坐す神奈備と崇敬された八丈岩山に比定されている。

 また、欽明天皇25年の兵主神鎮座由緒、寛平3年の射楯社合祀の由緒は不明。

 今の当社は射楯兵主神社というより播磨国総社(総社・惣社)の呼称で知られているが、総社とは、新任の国司が着任早々に行うべしと定められた任国内の神社巡拝を、国府近くに設けられた一社への参詣で済ますために創祀された神社をいう(播磨国国府は、当社西に接する現姫路郵便局付近にあったという本町遺跡が有力)

※社殿等

 2号線北側に立つ鳥居を入り、長めの参道を進んだ突き当たりに建つ唐破風をもつ神門(四足門・銅板葺)が正門で、その奥が境内。

 神門前の東西道路(大手前公園の南側道路)を西に行った次の角、当社境内の西端に朱塗り重層の堂々たる西門があり、八重垣門と称している。

 境内には、右案内図にみるように、拝殿・本殿をはじめとして多くの社殿・建物が密集しており、雑然とした印象を受ける。

  

境内案内図

射楯兵主神社・鳥居 
 
同・神門(南正門)
 
同・西門(八重垣門)

 境内西より、神門正面に千鳥破風・2間向拝を有する拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥白壁に囲まれた中に千鳥破風2ヶ所を有する本殿(二間社流造・銅板葺)が南面して鎮座する。

 資料によれば、本殿内陣は三つに区画され、中殿は空で、東殿に射楯神(五十猛命)、西殿に兵主神(大己貴命)を祀り、祭祀は西殿から東殿へという順に行われるが、これは兵主神に射楯神を合祀したという伝承に従ったものであろうという(日本の神々)
 なお、西殿には九所御霊と称する客人神9座を配祀しているというが(式内社調査報告)詳細不詳。

 
同・拝殿

同・本殿 
 
同・本殿(側面)

◎摂末社
 恵美酒社(摂社、蛭児神)  神門を入った左にある神社 
    配祀--住吉神社(住吉四神)

 
恵美酒社・拝殿
 
同・本殿 

 本殿裏に近接して横長の社殿3棟が建つ。
 中央--十二社合殿(末社、切妻造・瓦葺)
   一ノ宮(兵主神荒魂)・二ノ宮(射楯神新魂)・日岡社(天之伊佐々比古命)・角社(級長津彦命・級長津姫命)
   ・手置帆負社(手置帆負命)・彦狭知社(彦狭知命)・秋葉社(迦具槌神)・羽黒社(倉稲魂神)
   ・道祖社(岐神)・鞍屋社(保食神)・柿本社(柿本人麿朝臣)・東照宮(徳川家康公)
   当社に関連する神々を祀る社と思われるが、勧請由緒など不明。
 右--東播磨総神殿(末社、朱塗切妻造・瓦葺)
 左--西播磨総神殿(末社、朱塗切妻造・瓦葺)
   所謂・播磨国総社と呼ばれる社殿で、社殿前の案内には
   「西播磨総神殿  播磨国内鎮座の大小明神174座のうち、西播磨の御祭神をこの社に合祀しております」
とある(東播磨総神殿は西が東になっているだけで同文)

 
西播磨総神殿
 
十二社合殿
 
東播磨総神殿

 境内北側、東播磨総神殿右側の裏土塀に接した疎林の中に小祠10社が並ぶ。左より
  琴平社(大物主神) ・鹿島社(建御雷之神) ・神明社(天照大神・豊受大神) ・戸隠社(手力雄神) 
  ・稲荷社(総社稲荷大神・千早稲荷大神・藤井稲荷大神) ・案内社八幡宮(摂社、猿田彦神・誉田別大神、社頭の扁額には疫神社とある) 
  ・粟島社(少彦名神) ・長壁社(摂社、姫路刑部大神-お城のある姫山の守護神、富姫神-当地の地主神)
  ・姫道天神社(菅原道真) ・祖霊社(明治維新の志士12柱・日清戦争以降の戦死者121柱)


琴平社 
 
鹿島社

神明社 

戸隠社 

稲荷社 

案内社八幡宮 
 
粟島社

長壁社 

姫道天神社 

 境内の右手・長生殿の東、弁天池の中に、厳島社(市杵島姫命)が、
 稲荷社朱鳥居列南端の左、玉垣に囲まれた中に、鬼石がある。
 鬼石傍らの案内には
  「昔、源頼光が大江山の鬼賊を討伐した折、その首を持ち帰り、案内社八幡宮傍らに埋めて標石としたもの」
とあり、石の上には、願い事を記した赤白の幣帛が数多く奉られていた。


厳島社 
   
鬼 石


【行矢射楯兵主神社】(イクヤイタテヒョウズ、以下「行矢社」という)
 社頭に掲げる案内によれば、
 「行矢神社は、昔八丈岩山の南麓矢落村にあった。
 神功皇后が韓国出兵のとき、麻生山から射た矢の落ちた所で、八丈岩山と秩父山の間である。
 祭神は、八丈岩山に祀られた位達神(射楯神)と、秩父山に祀られた大汝命(兵主神)である。
 射楯神は、スサノオの子・五十猛命で、韓国出兵のとき水軍を指揮し、農耕の振興に努め、兵主神(伊和大神)は、この土地の開拓に努めた。
 土地の人々はこの二神を行矢社に祀り、落ちた矢を社宝とした。その後矢落の人々は、神社と共に現在地に移った。

 射楯兵主神社は、平安時代延喜式神名帳に記載された格式の高い神社で、多くの古書に辻井村行矢社と書いてある。
 明治3年神社の社格調査をしたとき、行矢神社が射楯兵主神社と決定したが、異論が出た。再審議の結果、射楯兵主神社は播磨国総社と決定、この社は行矢社射楯兵主神社となる」
という。

 また、拝殿の壁に掲げる由緒には、
 「当社は射楯大神と兵主大神を奉斎し、古来朝廷の尊崇極めて篤く、歴代の国司領主を始め地方の衆広く崇信の誠を捧げた国内屈指の古名社である。
 射楯大神は又五十猛神とも申し素戔鳴尊の御子で、父尊と共に新羅国に天降りまして多くの樹種をその地に植え、更に筑紫より始めて大八洲国全土に植樹された開発創業の有効の神である。
 又兵主大神は大己貴神とも申し大国主神のことで、国土経営産業創始神威無双の神である。

 抑も当社御鎮座の起源は遠く神功皇后が三韓征伐の御首途に、飾磨郡麻生山より事始めの神矢を射させられた時、その矢の落ちし所に御乗船守護の射楯大神と武運必勝の兵主大神を奉祀し、行矢大明神と尊称して戦捷を祈願せられたと伝えられる。因みに、当社では現にその時の神矢を秘宝として奉安されている」
とある。

 当社もその由緒を神功皇后に求めているが、祭祀者が呪具を投げて、その落ちた処に社を構えて神を祀ったという説話は各地にみられ、当社の由緒もその一つといえる。

 今、姫路市内に矢落との地名はなく当社の旧所在地は不明だが、案内がいうように八丈岩山と秩父山の間とすれば、現鎮座地・辻井を含む何処かと思われる。
 因みに、皇后が矢を射た麻生山は、姫路駅の南東約3.5kmの小冨士山(H=173m・四郷町)と思われ、写真(ネット資料)をみれば三角錐形の美しい山で、古くは神奈備山として崇敬されたと思われる。
 また、八丈岩山(H=172m)は当社の北東約1km(新在家町)にあり、秩父山は当社の西南西約1.7kmの秩父山公園(H=60m・下手野町)と思われるから、皇后は麻生山から北西に向けて矢を射たことになる。

※社殿
 鳥居を入り参道を進んだ先、境内正面に2本の石柱が立ち、その奥、広い境内の中央に色あせた朱塗柱の拝殿と、高床式の本殿が連なって鎮座する。社殿はいずれもコンクリート造。他には何もない。

 なお、鳥居に掲げる神額には「生矢神社」、拝殿の扁額には「行矢社 射楯兵主神社」とある。
 生矢神社とは、当社が射楯兵主神社とされる以前(江戸時代)の呼称という。

 
行矢射楯兵主神社・鳥居

同・拝殿 

同・本殿

※論社について
 式内・射楯兵主神社論社2社のいずれが式内社かについては、古来、諸説があったようで、近世以降の資料には、
*神名帳考証(1813)
  今広峯か 広峯山上に坐・・・
  社司芝国忠主作・英賀筆記に、射楯兵主神社の事を、正応年中(1288--93)当社追号宣命文に云、大己貴神は軍師照八隅頭将也。一条院の御宇(986--1011)、丹州大江の賊徒追戦の祈願有り、平定後、正暦2年(991)6月勅して正一位を授く
*神社覈録(1870)
  飾西郡安村郷辻江村に在す。今生屋明神と称す
  式社記に云、一説に飾東郡広峯天王也といふ。按ずるに、此天王廿二社の中なる祇園の本社なる事、諸社根元記・廿二社注式等に見えたれば、恐らくは兵主社にてはあるべからず、近世、式内社を崇むるより、社司等付会していへる也。
*神祇志料(1871)
  旧飾西郡安宝(室の誤記か)郷矢落村に在り、後之を辻井村に移す。行屋明神と云ふ。
  蓋し五十猛命・大己貴命を祀る。
  按に社説に射楯神は五十猛命にまし、兵主神は大己貴命にて、其神号を唱へ神饌を献る時は、先ず一宮・兵主神次に二宮・射楯神と申すとあるを考ふるに、其の主と祭らるるは射楯神なれど、其の社にて神饌を献るには、父子の順序を以て称奉る古よりの例なりしなるべし
 伊大代之神(イタテノカミ)を祀る、昔息長帯比売命、韓国を伐けに渡坐時、御船の前に坐す伊大代之神即ち是なり。
*特選神名牒(1876)
  祭神 大己貴命・五十猛命
  今按に・・・(神祇志料と同文)
  所在 飾磨郡安室郷大名町(姫路市本町)
*大日本地名辞書(1907)
  今姫路城の郭内・東南に在り。中世以降国府惣社と混同し、相伝へて軍八頭惣社大明神(グンハットウソウシャ)と云ふ。
  風土記に印達里に伊太代之神ましますと云ふは本社とす。延喜式に本社二座並小と為し、神社記にも飾東郡兵主神とありて、大社の例にあらず。
 近世に惣社と混同したるなり、国府の大祝と為る、然れども之に因りて旧説を失ひ、数々の錯乱を招ける如し

 これら資料をみると、広峯山の広峯社とするもの1書、辻井の行矢社とするもの2書、総社本町の射楯兵主社とするもの2書と分かれるが、明治初年までは行矢射楯兵主神社を以て式内社とする見解が有力だったかと思われ(考証にいう広峯社説は祭神が牛頭天王であることからみて射楯兵主社とはみれない。別項・広峯神社参照)、 
 資料によれば、
 「維新後、明治2年姫路藩式内社調査の際、辻井の生矢神社(現行矢射楯兵主神社)を式内社となした。
 これに対して、時の総社神官国学者上月為彦は“射楯兵主神社考”を著し(明治3年)、藩の国学者庭山武正(後の射楯兵主神社社司)、春山弟彦調査副申の結果、式内射楯兵主神社は再び元に返された」(式内社調査報告)
とあり、一旦は行矢社を以て式内社とされたが異論が出て再審議により覆されたというが、射楯社を以て式内社とした根拠は不明。

※祭神
 射楯兵主神社     射楯大神(五十猛命)・兵主大神(大己貴命)
 行矢射楯兵主神社  射楯神(五十猛命)・兵主神(大汝命=大己貴命)

◎射楯神
 射楯神の出自・神格は不明だが、播磨国風土記(東洋文庫版)の注には、
 ・伊太氐(イタテ)の神  
   因達の神とも書く。海人族の祭った神とする説(松岡静雄)、射立ての意で山の狩猟者の行為と関係のある神名とする説(松村武雄)など数説あるが、簡単に斎楯(イタテ)の神として水軍の祭った神と見たほうがよい。
 神名帳にみえる同名数社は、紀伊・播磨・伊豆・陸奥などの水軍の要地にある。それを御船前(先導神)とした具象的な絵は福岡県珍敷塚古墳(メズラシツカ・浮羽郡吉井町)の壁画に見ることができるかとおもう。
とある。
 珍敷塚古墳(6世紀後半)の装飾壁画には、現世から来世に至る船(喪船)の船首の上に大きな楯を持った人物が描かれており、その楯を持つ姿・立つ位置から、この人物が先導神としての伊太氐の神とみれる。

 
珍敷塚古墳・復元壁画
 
同・右上部拡大

 これに対して、日本の神々7(韓国伊太氐神社について・石塚尊俊、1985)は、大略
 ・韓国伊太氐(カラクニイタテ)を名のる神社は、延喜式神名帳の出雲国のみに6座がある。
 ・韓国伊太氐の意味については、千家俊信は出雲国式社考(1843・江戸末期)のなかで、「伊太氐の神は五十猛命である」として、イタテはイタケルの転で、書紀一書にあるように、この神が韓国と往来されたことから、頭に韓国という語を冠するようになったと説いている。
 ・播磨国飾磨郡の射楯兵主神社の祭神・射楯神も、播磨国風土記・因達里の条に載る由来譚に、神功皇后が韓国への渡海の時云々というように韓国が絡んでおり、このイタテの神も、やはり韓国がかかわっている。
 ・古来、中国・朝鮮半島の神を迎えた例として、宮廷に祀られる韓神(カラカミ)・曾富理神(ソホリカミ)などの例があるが、ソホリの原義は、神霊の来臨する聖域を意味し、これらの神々は渡来人が将来した“今来の神”(イマキノカミ・新しく来た神)である。
 ・こう考えると、出雲の韓国伊太氐神社も、この今来の神信仰と無縁のものとは思えない。
 ・つまり“韓国”とは文字通り韓国そのものを意味し、これを冠する伊太氐神の原義は、八幡神が八流の幡によって降臨されたように、“射立の神”すなわち矢となって降臨された神ではなかろうか。
として、伊太氐の神は朝鮮半島からの渡来神だろうという。

 当社では、上記のように江戸後期には「イタテ即ちイタケル」とみられていたのを引き継いで、射楯神は五十猛命(イタケル)だという。

 五十猛命とはスサノオの御子神で、高天原を追われた父神とともに韓地(カラクニ)に降ったが、持っていった樹の種子を播かずに持ち帰り、大八洲の国の中に播き増やして全てを青山にしたとあり、一義的には樹木の神という(書紀8段一書4・5)

 この五十猛命の事蹟・神格からすれば、五十猛命と伊太氐の神との接点はなく、また、播磨国風土記にも五十猛命の名はなく、当社に五十猛命が祀られる由縁はみえない、
 ただ、伊太氐神と五十猛命とが共に渡来神的神格が強いことから同体というのだろうが、牽強付会の感が強い。
 (イタテ神が風土記注にいうように先導神だとすれば、イタケルとの関係は皆無となる)
◎兵主神
 延喜式神名帳のなかで兵主を名のる神社は、大和(桜井市)の穴師坐兵主神社(名神大)を筆頭に中部地方以西で19社・21座を数え、播磨国には2社・3座がある(当社と多可郡兵主神社)

 兵主神とは古代中国の神で、史記・封禅書に、「泰山における封禅の儀を終えた秦の始皇帝が東へ進み、道すがら名山・大川および八神を祀った。八神とは、天主・地主・兵主・陰主・陽主・月主・日主・四時主をいう」とある伝説上の神で、戦国時代(BC403--BC221)には山東地方の斉国(BC386--221)で篤く信仰されたという。

 兵主神は別名・蚩尤(シユウ)ともいわれ、漢の高祖が兵を挙げたとき(BC200頃)蚩尤を祀って勝利を祈ったというように、戦いの神・武神だという。

 その蚩尤について、貝塚茂樹氏は
 ・蚩尤は、獣の身体で人の言葉を解するという半獣半人の怪物兄弟の一人で、両鬢は逆立って剣の切っ先のように鋭く、頭の真ん中には角が生えていた
 ・その食べ物は人とは異なり砂と石であって、ある説では鉄石を食べたという
 ・砂を食べていたということは、砂鉄から兵器を鍛造することを擬人化したもので、そのような仕事に従事した部族を指す
 ・中国の古書・世本になかに『蚩尤は兵つまり武器を製造した』とあり、新鋭の武器を製造し、その武力によって中国を制覇しようとしたが、伝説上の帝王・黄帝と戦って敗れたともいう
 ・さらに風を支配したことから、青銅器製作に必要なフイゴ技術の発明者ともいわれ、青銅兵器を製作する部族の代表者であり、古代において神秘的な業とされたフイゴの用法、青銅器製造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれた
という。

 このように、武神であり戦いに必要な兵器生産の神・鍛冶の神でもある兵主神が、当地で祀られた由緒は不明だが、垂仁紀3年条に、
 「新羅の王子・天日槍は、初め播磨国に居たが、天皇の許しを得て近江国・若狭国を経て但馬国に至り居所を定めた」
とあり、風土記にも、アメノヒホコとアシハラシコオとの土地争いなど幾つかの説話があることから、このアメノヒホコに象徴される渡来人等が祀っていたのが、鍛冶の神としての兵主神ではなかったかと推測される(ただ、当社付近での古代鍛冶業の有無は不明)

 また当社では、兵主神を大己貴命(大国主命)だというが、兵主神と大己貴命との接点もない。
 あえて求めれば、大己貴命の別名・八千矛命(ヤチホコ)を、多くの矛という意味での武神とみて、兵主神=八千矛命すなわち大己貴命と結びつけたのかもしれないが、記紀にみる八千矛命は艶福の神として登場し(矛=男根の意だろう)、武神の面影はない。

 当社に射楯神と兵主神2座を祀るのは、両神がもつ渡来神という共通性からだろうが、それを五十猛命・大己貴命とする由縁はすっきりしない。

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