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伊和津比売神社
A:稲爪神社境内社・伊和津比売神社
明石市大蔵本町
祭神--伊和津比売命
B:伊弉冊神社
明石市岬町
祭神--伊弉冊大神他3座
C:岩屋神社
明石市材木町
祭神--伊弉諾尊・伊弉冊命他3座
                                                   2016.03.16参詣

 延喜式神名帳に、『播磨国明石郡 伊和津比売神社』とある式内社だが、今、旧明石郡内に伊和津比売と称する神社はなく(旧赤穂郡内には同名の神社があるが、当社とは別)、上記3社が論社となっている。

 伊和津比売神社所在地については古くから諸説あったようで、管見した古資料には、
*神名帳考証(1813)--今明石中庄海辺に岩屋明神有り
*神社覈録(1870)--大蔵谷中庄村に存す、今岩屋明神と称す
*神祇志料(1871)--今当津庄中庄村にあり、岩屋明神といふ
*特選神名牒(1876)--当津庄中庄村
   今按に神社覈録大蔵谷中庄村にあり岩屋明神と称す是なり。
   然るを古跡便覧に比売社其の所しれずと云ひ、岩屋明神を牛頭天王と云ひ、
   名所図会に弥賀多々神社ありと云る従いがたしとみえたるは当れる説なり
などがある。

 一見して鎮座地を中庄村・岩屋明神とするのが多いが、こ中庄村が何処にあったかは不詳、神社覈録が大蔵谷中庄村ということから両村は近接していたともとれるが、当津庄中庄村は岬町の古地名との説もあり、式内・伊和津比売神社の鎮座地は江戸時代には既に不明となっていたことを示唆し、地名から伊和津比売神社を特定することはできない。
 以下、A:稲爪境内社、B:伊弉冊社、C:岩屋社と記す。

【稲爪神社境内社・伊和津比売神社】
  山陽電鉄・人丸駅の東南東約200m、駅南から国道2号線・人丸交差点を左(東)へ、少し行った右側に境内へ入る〆鳥居が立つ。

※由緒
  社務所でいただいた稲爪神社略誌には伊和津比売神社についての記述はなく、境内社とはいうものの境内に社はない。

  その経緯について、式内社調査報告(1980)によれば、
  「創立年代は詳らかでないが、慶應4年(1868)6月、稲爪神社大宮司梅本壱岐守の書いた“奉仕四社書上”によると、
 『(末社)伊和津比売社
 但、延喜式内の神社にして、伊和津比売の社地へ宮山に鎮座の稲爪大明神を中古遷座仕り、伊和津比売神社地主の故本社の左に並び鎮座の旨申し伝え候
 稲爪大明神は祭神・大山祇命を最初宮山に勧請し・・・
 稲爪社勧請以前は此の伊和津比売神社は当駅(大蔵谷駅)氏神の由に候得共、・・・
 旧社記は天正6年に兵火にて焼亡に及び不詳に候得共・・・』(省略あり)
とあって、現稲爪神社の現社地は、もと式内伊和津比売神社の鎮座地であったが、中古に稲爪神社を此処に遷座したため、地主神として本殿の左に並べて鎮座したという」
という。

 この古文書には伊和津比売神社と稲爪神社の関係は記すものの、伊和津比売神社の創建由緒・年代等について記述なく、伊和津比売神社がどのような神社かは不明。

 お逢いした宮司さんは、
 ・当社地に伊和津比売神社があったとの口伝があり、伊和津比売神社が鎮座していたのは確からしいが
 ・そこへ愛媛・大三島神社の祭神・大山祇神を奉ずる河野一族が進出し、庇を貸して母屋を取られた形で、伊和津比売神社は末社へとおとしめられ
 ・その社も何時の頃かになくなり、今は本殿に合祀している
 ・その鎮座場所ははっきりしないが、社殿左奥の一画との言い伝えがあり今榊で囲ってあるが、大きくなって他との区別がつかなくなった
といわれていた。

 伊和津比売神社の旧鎮座地と伝わる場所は、玉垣に囲まれた社殿域の北西角の榊の木で囲まれた一画という。
 ただ、榊が大きくなり(2m近くになっている)周囲の樹木と混然一体となっているため、特別に区画されているようには見えず、云われてみればそうかなと思える程度で、はっきりとはわからなくなっている。

 
伝・伊和津比売神社旧鎮座地・内部
 
同・北側よりの景観 


◎稲爪神社
 いただいた稲爪神社略誌によれば、
  「当社は、推古天皇の御代(在位593--628)の時代に三韓の軍勢が来寇し、九州勢これに立ち向かうも三韓の軍勢不死身の鉄人を大将とし不敵を誇り退治すること能わず。
 伊豫の国の国司・小千益躬(オチノマスミ)勅命により、征伐を企て一族の守護神・三嶋大明神に戦勝祈願をなす。
 守護神枕元に現れ、鉄人の弱みを足の裏としめし、これを矢で射よと命ず。益躬、御瑞験を信じ、必勝の決意し、降参の降りにて朝廷へ向かう鉄人の先導役となる。
 ちょうど明石の浜辺に到着の折、鉄人白砂青松を誇る明石の浜に心奪われ休息を命ずが運の尽き、おりしも天空俄にかき曇り大雷光おこりて、鉄人落馬となり足の裏を見せる失態を犯す。
 益躬すかさず神の御瑞験に従い弓矢にて足裏を射貫き、鉄人滅ぶ。この矢を[鬼ざしの矢]と称す。
 不死身の大将を失う軍勢、雲散霧消の如く滅ぶ。益躬は神の現れたこの地へ一社を創建し、守護神・三嶋大明神を勧請し崇め奉る。稲妻神社と称するも、後世稲爪神社と改まる。
 稲爪神社の東方800mに鎮座する元小千(越智)神社(現八幡神社)に創健者益躬は祀られる。
 稲爪神社は、瀬戸内海に権勢を誇りし河野・越智・村上水軍の守護神・大三島に鎮座の大山祇神社の分霊とされ、同族の東の守り要なる存在として崇められるとされる」
とあり、なんとも荒唐無稽な伝承だが、愛媛県今治の地にも鉄人伝承として同じ話が伝わっている(細部はやや異なる)

 ここで活躍する小千益躬(越智益躬とも)とは、源平時代、壇ノ浦合戦で水軍を率いて源氏(義経)に与力し勝利に導いた伊豫国(愛媛県)の豪族・河野氏(河野水軍)の祖という人物で、その遠祖は、孝霊天皇(第7代)の皇子・彦狭島命に出るという。
 水軍を率いて瀬戸内一帯に覇を唱えた河野氏が当地へも進出し、その奉斎する大山祇神社(式内社・名神大社、今治市大三島町)の祭神・大山祇神を当社に持ち込んだものであろう。

 なお、稲爪神社は式内・宇留神社の論社ともされるが、詳細は不明。

※祭神
 神社略誌には、
 ・大山祇(オオヤマツミ)の神--天照皇大神の兄神で、繁栄・知恵・生命健康を授け、災厄を祓い給う神
 ・面足(オモタル)の神--美を授け、物事の完成を授け給う神
 ・惶根(カシコネ)の神--美麗と英知を授け給う神
 ・伊和津比売の神--伊和津比売神社(延喜式内社)は、古くは現本殿の西側に鎮座されたと伝わるが、今は本殿に合祀
とある。

 大山祇神
 ・古事記--イザナギ・イザナミの神生みで成りでた神で、『次に山の神・大山津見神を生み』
 ・書紀(五段一書7)--イザナギが火の神・カグツチを3っに斬ったとき、『その一つが大山祇神となった』
と異なった出自を記しているが、“ヤマツミ”とは“山を持ち坐す”の意で、大山祇とは“山を司る神”即ち山の神という。
 略誌は、オオヤマツミはアマテラスの兄神という。
 確かに古事記ではオオヤマツミはアマテラスの前に成り出ているから兄神といえるが、書紀五段本文ではアマテラスが先に生まれており、兄弟の順が逆となっている。
 アマテラスとそれ以外の神とは神格が異なることから、兄だ弟だというのはおかしい。

 面足・惶根神
  天地開闢の時、高天原に成り出た神世七代の神々のうち、六代目に成り出た神で、オモダルは男神カシコネは女神。
  その神格は不詳だが、
  ・本居宣長は「面と足と云うは、手足など不足なく具わったとの意」というが、
  ・大地あるいは国土が整った意、
  ・対偶神を相互に賛美する意ともいわれ(神道事典・1999)
  ・人体の完備と意識の発生の神格か(岩波版古事記注記・1991)
などがあり、定説となるものはない。

 伊和津比売神の出自は不詳。
 明治初年の古資料には
*神社覈録(1870)
  播磨国風土記に云、賀古郡日岡に比礼墓有り[祭神・大御津歯命-オオミツハ-の子・伊波津比古命-イハツヒコ]云々、是に依て考ふれば、此命の妃神なるべし
*神祇資料(1871)
  播磨風土記賀古郡日岡の比礼墓に坐す大御津歯命の子・伊波津比古命の姫神にや。伊和と伊波と仮字違るか如くなれど、恐らくは転音也。姑附して考に備ふ
*特選神名牒(1876)
  今按、社伝に祭神伊弉冉尊と云るは疑はしければとらず。
  播磨国風土記・賀古郡に“日岡に坐す神は大御津歯命の御子・伊波津比古命”とある。伊波と伊和と異なれど、伊波津比古命と伊和津比売命と並びたる御名ならん歟(カ)
  又は伊和坐大名持神(伊和大神=大名持命=大国主命)の姫神にて伊和津比売神と称え奉るにてもあるべし。明証を得ざれば今決めがたし
などがあり、オオミツハ神(伊和大神)の御子・イハツヒコの妃神あるいは妹姫ではないかという。

 これに対して、伊和津比売神社祭神考(明治時代らしいが発刊年不明)なる古資料によれば
 ・播磨国一ノ宮は、宍粟郡伊和村にある式内・伊和坐大名持命魂神社で、風土記には伊和大神と称す
 ・風土記託賀郡黒田里条に、昔、宗形の大神・奥津島比売命が伊和大神の御子を孕みになり、この山まで来て「我が子を生むべき時がきた」と仰せられた、とあり
 ・古事記にも、大国主神が胸形奥津宮に坐す神・多紀理比売命を娶りて阿遲鉏高日子根神を生む云々とある
 ・然れば、御産所は播磨国也。此の時大国主神は播磨に坐ししなり
 ・この奥津島比売神は別名・多紀理比売命で、伊和大神の后神なるが故に伊和津比売命は多紀理比売命なり・・・
として、伊和津比売命は伊和大神(大国主命)の后神で、宗像三女神の一・奥津島姫命即ち多紀理姫命(宗像大社・沖津宮の祭神)のことであるという。

 播磨国筆頭の大神は伊和大神で、播磨国風土記には伊和大神関連の伝承説話は多く、黒田里に残る説話もその一つ
 伊和大神の出自は不明だが、風土記に「伊和大神が国を作り堅め了えられてから・・・」(宍禾郡)とあることから国作りの神として崇敬されたと思われるが、出雲族の播磨進出にともなって出雲の大神(オオナムチ)と習合したという。
 多紀理比売命(別名:奥津島比売・田心姫ともいう)とは、アマテラスとスサノオのウケヒによって成りでた三女神の一で、筑紫の宗像氏が奉齊する神とされ(宗像大社・沖津宮の祭神)、古代海人族の雄・宗像氏の当地(瀬戸内)進出にともない、伊和大神の后とされたかと思われる。
 ただ、伊和大神の后・多紀理比売が当社祭神の伊和津比売とするのは、風土記など何処にも記されておらず、牽強付会の感が強い。

※社殿等
 稲爪神社の正面は境内南側で、国道2号線から南に回り込んだ処に単層の楼門が建ち、北側国道沿いには〆鳥居が立っている(境内西側に入る)

 境内正面に、唐破風・千鳥破風を有する堂々たる朱塗りの拝殿(流造・銅板葺)が建ち、その奥、塀に囲まれた中に、弊殿に連なって朱塗りの本殿(流造・銅板葺)が南面して鎮座する。

 
稲爪神社・南楼門
 
同・北〆鳥居 
 
同・拝殿
 
同 左
 
同・本殿

◎攝末社
 ・稲爪浜恵比須神社--本殿東側にある社殿(入母屋造・瓦葺)、左前に恵比須神の石像あり
 境内に入った右手に小祠4宇が並ぶ、
  左(奥)より、白玉稲荷・高倉稲荷合祀社、八将社、猿田彦社、庚申社
   八将社・庚申社の社格は不明。

 
摂社・稲爪浜恵比須神社

末社・稲荷社・八将神社 
 
末社・猿田彦社・庚申社

【伊弉冊神社】
  JR山陽本線・山陽電鉄・明石駅の南西約1km、明石駅より南へ、国道2号線を超え県道718号線を左(西)へ、本町2丁目交差点を右(南)へ、突き当たりを左(西)へ2ブロックほど進んだ南側に鎮座する。

※由緒
 社務所でいただいた参詣の栞によれば、
  「当社は延喜式神名帳にいう明石郡九座の一つ伊和津比売神社にて、人皇10代崇神天皇御宇6年9月10日勧請せられた式内社であり、人皇49代光仁天皇御宇・宝亀2年境内地四丁四方赦免地となり、降りて別所氏三木城主たる時崇敬厚く社領50石を寄進祭典営繕に当たったと云われ、其後天正年間減地となるも、東城に小祠を建て御旅所と名づく(元の祇園さん)西域にも小祠を建て(賀神社)旧境内東西の境界の遺跡とする。
 この頃の境内地域は東西に連なる松林にて『さなぎの森』と呼ばれた。
 嘉吉年間赤松氏の和坂ノ戦、天文年中町野入道の放火、天文年間羽柴氏三木城攻め等しばしの兵火に罹り、社殿・旧記をことごとく焼失すると伝う。
 明治12年7月2日県社に列せられる(明石郡にては最初なり)
とあり、
 沿革の項には
  「瀬戸内淡路島を真向いにする当社は、淡路海人部の斎き奉った祭神を主神とし、瀬戸内に点在する賀茂系の神人が当社を創建、縁起を形成する上で関係があると思われます」
とあるが、当社が伊和津比売神社とは記していない。

 ただ、明石市史資料には
 「当社は人皇第十代崇神天皇の御宇鎮座にして延喜式内伊和津比売神社也。
 伊弉冊神を伊和都比咩と称え奉るは、御子を御孕み玉ふ時を称へ奉る御名にして、御降誕の御子を素戔鳴命と称し奉る。尊んで彌賀多々神(ミカタタ)と申す、武大神(タケオオカミか?)なり。相殿に祀り奉りて伊弉冊神社と申す。
 西境の小祠(賀-ヨロコビ-の社と号す。孕石を神体とす)俗に伊弉諾社といふ。其の中央に武大神を鎮座す。之を彌賀多太神社と称す」
とある(大略・式内社調査報告)

 両資料とも、当社創建を崇神天皇の御世としているが、これは、崇神紀7年11月13日条に
  「(オオモノヌシ神・オオクニタマ神とは別に)八十万の群神を祀った。よって天社・国社・神地・神戸をきめた」
とある天つ社・国つ社の中に当社が含まれるとしたものと思われるが、これは御肇国天皇とされる崇神帝に神マツリの始まりを当てようとする書紀編纂者の恣意によるもので、古墳時代前期とされる崇神朝時代に恒常的な神社があったとは思えない(ただ、必要に応じて、神籬等を設けての神マツリはあったかもしれないが)

 当社が伊和津比売神社である根拠について、参詣の栞は何も記しておらず不明だが、明石市史資料は 
 ・イワツヒメとはイザナミが御子を孕んだときの御名で、
として、イワツヒメはイザナミの別名とし、
 ・その時お生まれになった神がスサノオで、これを彌賀多多神と称す
として、スサノオがミカタタ神だという。

 スサノオの生誕については記紀で異なっており、
 ・古事記--黄泉国から帰ったイザナギが日向の橘の阿波岐原で禊ぎをしたとき、最後に三貴神(天照大神・月読命・建速須佐之男命)が生まれたとあり、そこにはイザナミの名はない
 ・書紀(5段本文)--国生みを終えたイザナギ・イザナミが、次に“天下の主者(アルジタルモノ)を生もう”と語り合って、大日孁貴(日の神・アマテラス)を生み、次に月の神を、つぎに蛭子を、次に素戔鳴尊を生んだ
とあり、イザナミがオオヒルメ以下の神4座を生んだとされる。

 明石市史資料の記述は書紀によるものらしいが、御子を孕んだから神名が変わったというのもおかしな話で、如何に神話上での話とはいえ、上記由緒がいうイザナミ=イハツヒメ説は賢しら人が作りだした荒唐無稽な話としかいいようがない。

 また、ここで生まれたスサノオをミカタタ神と称することから、当社を以て式内・彌賀多々神社の論社とするのかと思われるが(当社は式内・彌賀多々神社の論社の一という)、スサノオの別名をミカタタ神とする由縁は不明。
 なお、彌賀多多神は当社の西約300mにある伊弉諾神社(不参詣)の祭神ともいうが、詳細不明。

※祭神
   伊弉冊神・佐奈岐大神(サナギ)・素盞鳴大神(スサノオ)・屋船豊受大神(ヤフネトヨウケ)

 由緒からみて、当社がイザナミとスサノオ(ミカカタ神)を祀るのに異論はないが、イワツヒメの名がないのはイワツヒメ=イザナミ説によるからであろう。
 残る2座
 ・佐奈岐大神
  参詣の栞によれば、古く境内地を東西に連なる松林を「サナギの森」と呼び、当社を通称「佐奈岐さん」と呼んだというから(式内社調査報告)、これを神格化したとも思われるが、
  サナギとは、一般には昆虫変態の一段階・蛹(卵→幼虫→蛹→成虫)をいうことから、御子を孕んだイザナミを蛹に例えたとも推測されるが、穿ちすぎか。
  また、古代には鉄製の鐸(鉄鐸)をサナギと称していることから、これを指すとも思われるが、鉄鐸と当社との関係は不明。
 ・屋船豊受大神
  伊勢外宮の祭神・豊受皇大神の別名で食物の神とされ、大殿祭祝詞には「屋船豊宇気姫命 是稲霊也、俗に宇賀能美多麻(ウカノミタマ)と謂う・・・」とあり、土地の人が豊穣の神・穀神として祭ったと思われるが、「屋船の屋は屋根の義で、船は“ヘネ”の転で容器の総称で、屋船とは住居を意味する」ともいわれる(延喜式祝詞教本・1959)

※社殿等
 社頭の〆鳥居を入った先に拝殿(入母屋造・銅板葺)が、その奥、弊殿に連なって本殿(流造・銅板葺)が南面して鎮座する。


伊弉冊神社・〆鳥居 

同・拝殿 
 
同 ・本殿

 拝殿左に「式内社 伊弉冊神社」と刻した大きな石碑が立つが、播磨国に伊弉冊神社と称する式内社はない。
 当社主祭神・伊弉冊神を伊和津比売神とみての建立だろうが、牽強付会すぎる。

 拝殿の左、朱塗りの柵内に末社・福徳三宝荒神神社が、その右に末社2宇がいずれも東面して鎮座する。
 参詣の栞には、末社2宇は大地主神社・猿田彦神社とあるが、社名表示なく、どちらがどの神社かは不明。

 
福徳三宝荒神社
 
末社2宇 

【岩屋神社】
 JR山陽本線・山陽電鉄の明石駅の南南西約650m。伊弉冊神社前の道を東へ約500mに鎮座する(県道・本町2丁目交差点を南下し突き当たった東側)

※由緒
 社務所でいただいた参詣の栞には
  「成務天皇13年6月15日、勅令により淡路島岩屋より御遷になり、東播の古大社として古くより崇敬厚く、明石城主の産土神として尊ばれ、例年藩主自らが参拝、社領12石5斗を賜わる。(中略)
  明治7年2月郷社に列し、同12年7月県社に昇格、亦当社は式内・伊和都比売神社に比定される」

 同・「おしゃたか舟神事」の項には、
  「起源は、成務天皇13年6月15日の勅令により(一説には、当地の子に神懸かり、そのお告げに従ったという伝承もある)、当地の名主(前浜六人衆)が新舟を造り、一族郎党を引き連れて淡路島に渡った。
  御祭神を舟に遷し帰路についたところ、途中、明石海峡の潮の流れが速いため、舟をこの浜(前浜・明石浦)に着けることができず、西方の松江海岸沖の赤石(明石の起源)の所で一夜を過ごした。・・・
  明朝、波風もおさまり、無事に現在の地に鎮座された」
とある。

 また、明石名勝記(1898)には、
  「当社伝記に曰、人皇13代成務天皇13年夏6月、大神童子にかかりて言覚詔く(コトサトシノリタマハク)、我は淡路にます神楽(カシラ)也。今此国に住まんと思ひて磐楠船に乗りて渡り来る。はやく此地に宮を造りて吾霊を以て斎き祭らば、長く此国の栄を守り、もはら蒼生(アオヒトクサ)をめぐまん。
 ときに人皆驚きうづくまりていかなる神にて在すと申しければ、大神ら各々六柱の御名をのり賜ひ、また吾が在所はただに西の方をさして求めよと教へ給ひおへて、童子又元のごとくにして夢のさめたるが如し。
 故、ここをもて小舟三艘に乗りて神のこわし給へるまにまに西をさして求め行きける。是は林崎の荘岸崎といへる処にて、あやしき神船六艘を見奉り、御舟のうちにはくさくさの麗しき御鏡御玉など多数(サワ)にありき。[中略]
 時に追風忽ちおこり、御船汐にしたがひければ程なく当社の浦に着ぬ。[中略]
 故に、此地に鎮め祭りて彌賀多多神社とたたへ奉る」
との、やや詳しい伝承を記している(式内社調査報告)

 これら資料によれば、当社は成務天皇の御代、淡路島の石屋神社を勧請したとあり、当社と伊和津比売神社(栞)あるいは彌賀多多神社(名勝記)との接点はみえず、当社をこの式内2社の論社とする根拠は不明。

 また、当社の勧請元である淡路の石屋神社(式内社)の由緒には、
  「創立年月不詳なれども、伝へいう崇神天皇の御代三対山に鎮座せられ絵島明神といい、垂仁天皇の御代石屋明神という・・・・・」
とあり、伊和津比売・彌賀多多との接点はない。

 なお、ネット資料(淡路国の聖域、石屋神社の由来・・・)によれば、淡路島から当地に遷座したのは、
  「淡路の石屋神社が波の浸食で海中に没しようとしていたので、淡路まで迎えに来て勧請した」
という。
 確かに、淡路の石屋神社は海岸に近いところに鎮座しており、曾てはもっと海が近かったと思われることから、波の浸食によって消滅しそうだから、対岸の当地に勧請したというのも一理はあるが、これも一つの伝承であろう。

※祭神
  伊弉諾命(イザナギ)・伊弉冊命(イザナミ)・大日孁命(オオヒルメ)・月読命(ツクヨミ)・素盞鳴命(素戔鳴)・蛭子命(ヒルコ)

 これらの神々は、書紀5段本文にいうイザナギ・イザナミが生んだ御子を列記したもので、そこには
 「イザナギ・イザナミが相談して、『我はもう大八洲国や山川草木を生んだ。どうして天下の主者(アルジタルモノ)を生まないことでよかろうかと。そこで一緒に大日孁貴(日の神・アマテラス)を生み、次に月の神を、つぎに蛭子を、次に素戔鳴尊を生んだ」
とある。

 当社の勧請元である淡路の岩屋神社の祭神が、国常立尊(クニノトコタチ)・伊弉諾尊・伊弉冉尊であることから、そこからイザナギ・イザナミを勧請して主祭神とし、その御子神を配したものと思われる。
 ただ、オオヒルメ・ツクヨミ・スサノオは天下の主者たるに相応しいが(古事記には三貴神とある)、ヒルコは3年経っても足が立たなかったので天の磐櫲樟船にのせて流したとあることから(ここから、ヒルコはエビス神と習合している)、他の3神とはニュアンスが異なる。

※社殿等
 社頭の〆鳥居を入った正面に唐破風を有する拝殿(入母屋造・銅板葺)が、その奥、塀に囲まれた中に本殿(流造・銅板葺)が南面して鎮座する。
 ただ、塀及び樹木に遮られて本殿の全貌は見えない。

 
岩屋神社・〆鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿

 広い境内の左手に末社が点在するが、いずれも勧請由緒など不明。
 ・末社合祀殿(6社)--随神社(豊磐間戸命・櫛磐間戸命)・水分神社(水分神他10神)・粟島神社(少彦名命)
               ・弓州恵神社(武甕槌命)・住吉神社(少童海神)・猿田彦神社(猿田彦命)
 ・大黒社
 ・八幡社(誉田別尊)
 ・稲荷社(稲倉魂神)

 
末社合祀殿
 
大黒社

稲荷社・八幡社 

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